Date: 9月 1st, 2011
Cate: 音楽性
Tags:

AAとGGに通底するもの(その18)

音のみを純粋に追求しているのであれば、
そこで鳴ってくる音に対して、肉体を感じることこそ理屈に合わないことでおかしなこととなろう。

だが、演奏者──ここではグールドであったりアリス・アデールであったりするわけだが──の肉体を、
つまりは息吹を感じさせない音が、作曲者の息吹を伝えてくれるとは到底思えない。

この項の(その12)、(その13)にも書いているように、演奏者は作曲者の息吹を伝えてくれる。
だから、音を音楽の息吹として感じとり、その音をよりよい音で鳴らそうと、われわれはしているわけだ。

なのに、肉体を拒否し息吹も拒否した音を、聴きたいとは、私は思わない。
もちろん、スピーカーから鳴ってくる音に対して求めるものは各人各様だから、
そういう肉体という存在を不純物のように受けとる人がいても不思議ではないし、
そういう音しか鳴らせないスピーカーシステムが、一部では高く評価されているのは知っている。

だが、そういう音が、「ベートーヴェン(動的平衡・その3)」でふれた音の構築物を、
私の眼前に再現してくれようはずがない。

思い出すのは、アンドレ・シャルランが、ある日本人の録音エンジニアに言ったといわれることだ。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]