「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その5)
ランボルギーニのカウンタックは、いまもスーパーカーだな、と思うし、
ディアブロ、ムルシエラゴにはそれほど惹かれなかったけれど、
アヴェンタドールは、おぉっ、と思ってしまう。
免許も持っていないのに、カウンタックとアヴェンタドールは欲しいな、と、
思わせるだけの魅力を感じさせてくれる。
免許をもっていたとしても買えないんだけれど、
だからといって街を歩いていて、
カウンタックやアヴェンタドールが走っているのを見て、
不愉快だ、と一度も思ったことはない。
そんなことは当り前のことじゃないか、といわれそうだが、
知人がスピーカーを買い換えて、それを自身のサイトに書いただけで不愉快だ、
そう感じる人ならば、欲しいけれど買えないクルマが走っているのを見たら、
きっと不愉快だと思うはずだ。
あいつは、オレが買えないクルマを買ったからといって、見せびらかしている──、
そんなふうに受けとるのではないのか。
買えない人すべてが嫉みをもつわけではない。
東京に住んでいても、なかなかお目にかかれない、これらのクルマを見かけると、
私などは単純に、やっぱりかっこいいな、と思うし、
今日はいいことがあったな、ぐらいに受けとめている。
知人のスピーカーの件に関しての「不愉快だ」は嫉みでしかない。
その嫉みに対して、なぜ謝罪するのか。
その謝罪が何を生むのか。
和解とは思わない。
嫉みの心をより歪ませただけではないのか。
(その3)で書いているように、
知人と知人を不愉快だと叩いていた人との年齢差は、二十近くある。
知人がそれだけ年上なのだから、むしろ諭すべきだった。