「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その4)
いまではtwitterは見ることはほとんどなくなった。
一時期はこまめに読んで、書き込みもしていたのに、
一年以上前から距離をとるようになってきた。
いまでは月に一回アクセスするかどうかであり、
過去のタイムラインもどこまで遡るかというと、半日分くらいでしかない。
昨晩、たまたまアクセスした。
それもfacebookでのコメントへの返信を書くために必要だったためであり、
それがなければアクセスしなかった、と思う。
この件についても書く予定でいるが、
謝罪ということで目についたのが、今日インターネットではニュースになっている件である。
RADWIMPSの「HINOMARU」の曲に関することである。
twitterでも話題になっていた。
私はRADWIMPSも知らないし、「HINOMARU」も聴いていない。
なぜ、こんなに一部の人たちとはいえ、熱心に書き込んでいるのか、
その理由がすぐにはわからなかった。
久しぶりにタイムラインを遡っていた。
なんとなく見えてきた。
そうしたら、RADWIMPSの人が謝罪したことがニュースになっていた。
その謝罪文は読んだ。
それでも「HINOMARU」は聴いていない。
「HINOMARU」を聴いて不愉快になった人がいるのは事実だろう。
でもすべての人が不愉快にならないことなんて、世の中にあるのか(あったのか)。
顔の見えない不特定多数(もしくは少数)が不愉快になったからといって、
謝罪することなのか、とまず思う。
そして謝罪させたい、と強く思っている誰かがいる。
そのことへの、いいようのない気持悪さを感じもする。
(その2)で書いている知人の話。
誰かを不愉快にしたのは事実だから……、と謝罪している。
(その2)を読んでもらえばわかるが、知人は欲しいスピーカーを購入して、
そのことを自身のサイトで書いただけである。
それでも不愉快になる人がいる。
自分が買えないスピーカーを買って喜んでいるヤツがいる、不愉快だ、と。