Archive for 11月, 2020

Date: 11月 18th, 2020
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その5)

半年ほど前、ソニークラシカルから1994年ごろに発売になっていたCDボックスを買った。
中古である。

CDボックスといっても、単売されていたCDを五枚をまとめたものだから、
ボックスには、五枚分のCDケースが入っている。
しかもそれぞれのディスクがパッケージされている。

二十数年前のCDボックスにも関らず、
開封されていたのは一枚だけだった。
残り四枚は封が切られてなかった。

このカザルスのCDボックスを最初に購入した人は、どういう聴き方をしていたのだろうか。
五枚すべてを、買った当初は聴くつもりだったはずだ。
けれど、一枚だけで終ってしまっている。

人にはいろんな事情があるから、あれこれ詮索したところで、
ほんとうのところが、まったく見知らぬ人についてわかるわけなどない。

私としては、新品同様に近いカザルスのCDボックスが格安で買えたわけで、
前の所有者が封も切らなかったことを喜んでもいいわけだ。

これはそんなに珍しいことではない。
クラシックのCDボックスを購入した人には、わりとあることのはずだ。
しかも、いまのCDボックスは、もっと枚数が多い。

しかも価格も安い。一度に複数のCDボックスを購入することもある。
昔は店に行って買っていたから、荷物になるから、と控えることもあっただろうが、
インターネットの通信販売を利用すれば、そんなことを気にする必要はない。

一度に複数のCDボックスを注文したことのある人は、けっこう多いと思う。
それだけの枚数のCDが届けば、それなりの満足(満腹)感が得られるだろう。

どんなに空腹であっても、目の前に一度では食べきれない量の料理を出されたら──。
いまだ封すら切っていないCDボックスが、目の前に積み上げられていく。

その人は、ディスクの購入者ではある。
けれど音楽を聴く権利を行使しないままでいるということは、
どこまでいっても、ディスクの購入者(所有者)でしかなく、
音楽の聴き手とはいえない。

Date: 11月 18th, 2020
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その4)

オーディオマニアのなかには、パッケージメディア、
つまりアナログディスク、CD、ミュージックテープなどといった購入したメディアでのみ、
音楽を聴くことにこだわる人がいる。

そういう人は、パソコンやiPhoneなどで音楽を聴くことは視界にすら入っていないのだろう。
趣味の世界ととらえれば、それはそれでいい。

けれど、これだけネットワークが普及して、
音楽を聴くために必要なことがずいぶん変化してきた時代において思うのは、
ここで何度も引用していることである。

黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」のなかの
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話だ。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
レコード(録音物)でも本でもいいのだが、
それを購入した人は、ディスクというモノ、紙の本というモノを所有していることになる。
けれど、それらを聴かず読まずであれば、どうだろうか。

そのディスクにおさめられている音楽、その本におさめられている小説、論文などを、
自分のものにした、とはいえない。

つまりディスクや本を買ったということは、そのディスク、本におさられている内容を、
聴いたり読んだりする権利を買ったわけで、その権利を行使するかのか、
それとも買っただけで、いわゆるツンドクのままにしておくのか。

そんなふうに考えていくと、レコード会社も出版社も、
ディスクや本といった物を売る会社ではなく、聴いたり読んだりする権利を売る会社といえる。

もっといえば、聴いたり読んだりする機会を売る会社でもある。

クラシックでは、CDボックスが、どのレコード会社からも毎月のように発売になる。
それらの多くは、CD一枚あたり数百円か、それ以下の価格で売られる。

なので、つい購入する。
購入すれば、一度十枚、二十枚、それ以上のCDが手元に来る。
一度にそれだけのCDが届いたからといって、それらをすべて聴くとはかぎらない。

Date: 11月 17th, 2020
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その1)

MQAのエヴァンジェリストを名乗るのであれば、TIDALを無視できない。
TIDALについては、オーディオマニアならばどこかできいたりみたりしているだろうし、
すでに始めている人もいる。検索すれば、いくつもの記事が表示される。
説明はばっさり省く。

TIDALのサービスは、日本では始まっていない。
いつ始まるのかのアナウンスすらない。

「TIDAL 日本」で検索すれば、日本からでもサービスを利用する方法がわかる。
けれど、Windowsでのやり方のみである。

Macの場合、Apple IDとの関係で難しい、とある。
TIDALを使いたい、けれどWindowsは持っていない。

どうするか。
MacのBootCamp機能を使ってWindowsで起動するか。
それにはWindows OSを入手しなければならない。
もしくは格安のWindows機を購入してやるか。

あとはWindowsを使っている友人に頼むか。

けれど、Macだけでやれそうな気がした。
さっき試したら、すんなりできた。
あっけなかった。

もちろん、そのままだったらTIDALに拒否される。
VPNを使うこと、それからSafariでユーザエージェント機能を使うことである。

どちらも無料でできる。
手間もかからない。拍子抜けするほどだった。

Date: 11月 17th, 2020
Cate: アクセサリー

D/Dコンバーターという存在(その11)

X-SPDIF2は昨晩注文したばかりなので、まだ手元には届いていない。
数日から一週間ほどかかるそうだ。

中国からの購入、ということで、ここでも躊躇う人はいよう。
支払いはPayPalで行った。
PayPalの登録を含めて、すべてiPhoneから行った。特に難しいことはなく、すんなりできた。

まだ使っていない、つまり実物を見ていないけれど、
写真どおりのモノであれば、文句はない。

X-SPDIF2を三万円ほどで購入できたということは、
先日ヤフオク!で落札したMac mini(Late 2014)も、ほぼ同じくらいだったし、
その前に購入したネットギアのNighthawk Pro Gaming SX10もそうだ。

十万円ほどで、いわばトランスポートに相当するモノを集められた。
Mac mini(Late 2014)+Nighthawk Pro Gaming SX10+X-SPDIF2で構成する
デジタルトランスポート。

価格的にもサイズ的にも、メリディアンの218とのバランスがとれている、と思っている。
実験として、218と不釣合いな高価格のトランスポートをもってきて、
218の実力の限界は、どのあたりなのかを試してみるのは興味があるし、面白いとは思う。

けれど自分の環境において、それをやる気はない。
あくまでも218との組合せを、バランス良く構築したいのであって、
そのルール(制約)のなかで、あれこれ楽しみたいのである。

X-SPDIF2は、間に合えば12月のaudio wednesdayに持っていくつもりだ。

Date: 11月 17th, 2020
Cate: アクセサリー

D/Dコンバーターという存在(その10)

中国製というだけで、使うのを躊躇う人は、いまでもけっこういるであろう。

十年くらい前だったか、
ある人が中国製の格安のUSBメモリーを購入した。
パソコンに接続しても認識しない。
どうやってもダメで、格安だったこともあって、バラしてみたら、中はカラッポだった。
そんなことをtwitterで見たことがある。

同じくらいの時期に、中国のオーディオメーカーのアンプで、
真空管を使っているものがあった。
けれど、この真空管は単なる飾りで、ヒーターを点火しているだけだった。

それ以外の配線はまったくなされていない。
増幅はOPアンプで行っている、というシロモノだった。

そのころは、私も中国製のオーディオ機器に、いい印象は持っていなかった。
けれど、ここ数年、そのころとは大きく変ってきた、という印象をもつようになった。

AliExpressを眺めていると、
アメリカ、ヨーロッパのオーディオメーカーのアンプやスピーカーを模倣したものが、
こんな値段で? と驚くほど格安で並んでいる。

でもそれだけでなく、いくつかのオーディオメーカーを見つけることもでき、
値段の安さもあって、使ってみようか、と思わせるモノが確実に増えてきている。

昨年、初めて中国のオーディオメーカーの製品を買ってみた。
FX-AUDIOのFX-D03J+である。

四千円ほどの安価なD/Dコンバーター。
けれど手を加えていくと、あなどれない。

四千円で、これだけのモノが買えるのか、という事実に、
いい時代になったぁ、と素直に喜んでいいのか、と悩むところもある。

今回、購入したMatrix AudioのX-SPDIF2は、四万円前後で入手できる。
メーカーから直接購入できるし、
日本のamazonからでも購入できる。
AliExpressからでも買える。

amazonで買おうかな、と思ったが、
検索してみると、SHENZHENAUDIOでも購入できる。
なぜだか、Matrix Audioから購入するよりも安い。

二週間ほどの特別価格のようだ。
33,048円で購入できた。しかも送料無料である。

Date: 11月 16th, 2020
Cate: アクセサリー

D/Dコンバーターという存在(その9)

218を使っているのだから、
D/Dコンバーターの第一候補として考えているのは、
やはり同じメリディアンの210 Streamerである。

なのだが、いまだ輸入されていない。
発表になって一年以上経つが、輸入元がオンキヨーになってしまったことが禍して、だ。

210に関しては、実際に使ってみて確認したいことが、いくつかある。
私の英語の読解力が足りないせいもあるのだが、
メリディアンのサイトで、210のページを読んでも、
私が確認したいことができるのかどうかに、いまひとつはっきりしない。

なので210に関しては、保留という態度である。

そうなると、218の相棒としてのD/Dコンバーターを、なんとかしたい。
いま使っているのは、すでに書いているようにFX-AUDIOのFX-D03J+。

これも書いていることなのだが、コネクター部にガタがきている。
それにD/Dコンバーターも、グレードアップしたい、という気持も強くなってきた。

私が求めるD/Dコンバーターの条件の一つに、iOSで使えることがある。
これが意外に少ない。

いろんなD/Dコンバーターの製品説明をみてきたが、
Androidのスマートフォンには対応を謳っていても、
iOSに関しては何の記述もない製品が多い。

試してみれば動作するのかもしれないが、はっきりしたことはわからない。
iOS対応を謳っていて、手頃な価格で、218と組み合わせて大きさもバランスがとれるモノ。

結局、何を選んだかというと、
Matrix AudioのX-SPDIF2である。

中国のメーカーのD/Dコンバーターである。

Date: 11月 16th, 2020
Cate: atmosphere design

atmosphere design(その9)

コンサートホールは、音楽が生まれる場である。
もっといえば音楽が生まれる現場である。

録音スタジオもそうである。

コンサートホール、録音スタジオで生まれた音楽をマイクロフォンがとらえ、
なんらかの媒体に記録(録音)される。

その音楽を、聴き手は自分の部屋で、自分のシステムで再生する。
ということは、リスニングルームは音楽を再生する場なのか、と思うのだが、
生まれたものはすべて死んでいくのだから、
リスニングルームは、音楽が死んでいく場である。

コンサートホールでも、録音スタジオでも、そこで生まれた音楽は、
そのままそこに残っているわけではない。
自然と消えてゆく。

それは音楽の死ととらえるか、ただ消えていった、ととらえるか。
リスニングルームでの音楽も消えてゆくだけではないか。

そうとらえてもかまわない。
けれど、私はリスニングルームは、音楽が死んでゆく場、
死んでゆく現場だととらえる。

Date: 11月 15th, 2020
Cate: 映画

TENET(補足)

一ヵ月ほど前に、映画「テネット」の音について書いた。

こんな記事があるのを見つけた。
クリストファーノーラン、音がうるさすぎてセリフが聞こえないと文句を言われショックを受ける

ノーラン監督がショックをうけたのは、
《人々がサウンドに関してはこんなにも保守的なのかということに気付いて》である。

「テネット」のサウンドに関しては、《急進的なミックス》ともいっている。
この記事を公開しているシネマトゥデイのサイトで、
「テネット」の音に関しての記事が、もう一本あった。

『TENET テネット』音楽にノーラン監督の呼吸音を使用

「テネット」の音楽を手がけているのは、ルートヴィッヒ・ヨーランソン。
シネマトゥデイの記事では、
「今回のスコアの大部分は、何の音かいまいちわからないギター音や周囲音だったりする。人の呼吸音なども使っているんだ。これはクリストファー(・ノーラン監督)が考えついた案で、クリストファーが自らマイクに吹き込んでくれた呼吸音を細工して、不快な音に仕上げているよ」
とある。

結果として仕上がった音に、ノーラン監督は、
《音色そのものが映画のDNAに織り込まれているかのよう》と語っている。

音色とあるが、私が映画館で体験できたのは、音触といいたいものだった。

Date: 11月 15th, 2020
Cate: 1年の終りに……

2020年をふりかえって(その3)

大塚久美子氏の経営手腕については、
かなりの人がさまざまなことを書いている。

すべてを読んでいるわけではない。
検索してまで、すべてを読むようなことはしていない。

目に入ってきた記事だけを読んできたわけだが、
それらのなかには、大塚久美子氏が家具が好きではないことに触れていた記事は一本もなかった。

そういうことは、経営について記事を書く人にとってはどうでもいいことなのだろうか。

私は経営の専門家ではないから、大塚久美子氏が家具が好きではないことが気になっていた。
すべての会社のトップが、その会社が扱っているものを好きなわけではないはずだ。

経営手腕が優れていれば、会社のトップとしてやっていけるものだろう。
それでも業種によっては、扱っているものへの感情は無視できないのかもしれない。

五年前、近くにいた大塚家具の社員の数人は、みな家具好きのようだった。
当時の大塚家具の社員みなが家具好きなのかどうかまではわからない。

けれど現場に出向いて仕事をしている社員の人たちは、家具好きなようである。
彼らはその後、どうしたのかは知らない。

大塚勝久氏があらたに創業した会社に移ったのかもしれない。
それとも別の会社に転職したかもしれない。
少なくとも、あのまま大塚家具で仕事をしているとは考えにくい。

大塚久美子氏が家具好きな人であったら、大塚家具の現状は大きく違っていたのか。
経営手腕が同じならば、そうかもしれないと思うし、
それでもダメだったのかもしれないが、どうなっていたであろうか。

大塚家具をみていると、オーディオの会社はどうだろう、とやはり思ってしまう。
今年は、特にそう思っていた。

Date: 11月 14th, 2020
Cate: 1年の終りに……

2020年をふりかえって(その2)

すこし前に、大塚家具の大塚久美子社長が辞任する、というニュースがあった。

五年前の3月、大塚家具の株主総会があった日に、
たまたまなのだが、大塚家具の社員数人が近くにいた。

彼らは仕事中でも、携帯電話をしきりにみていた。
株主総会の行方が気になってのことだった。

結果が出て、彼らはみな驚いていた。
彼らは大塚勝久氏が勝つものだと信じていたようだった。

なので、これからどうなるんだろうか……、と不安顔でもあったし、
次の言葉が印象に残っている。

「久美ちゃん、家具、好きじゃないからなぁ……」
そう言っていた大塚家具の社員は、みた感じ30代ぐらいの女性だった。

大塚久美子氏は、五年前の時点では、社員から久美ちゃんと呼ばれていたようだ。
家具が好きじゃない人が、家具会社の社長になる。

このことを、ある人に話したところ、
その人は、
「大塚久美子氏は一橋大学を出て、MBAも持っている。これからの大塚家具は、だから伸びていく」、
自信満々で、私にそう言った。

そういうものだろうか、と思いながらきいていたけれど、
反論する気はなかった。
その人は、自分が正しい、といわんばかりだった。

その人の予想が外れたことはどうでもいいことであって、
家具が好きでない人が会社のトップに就く。

このことがあったから、五年前から、大塚家具のゆくえが気になっていた。

Date: 11月 14th, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(「三島由紀夫の死」から50年)

昨晩『「三島由紀夫の死」から50年』を公開したあとで、
気づいたことがある。

いまごろなのか、と自分でも呆れ気味ではあったが、
それでも気づいたことがある。

マンガもそうだった。
私がマンガに夢中になっていたころ第一線で活躍していたマンガ家たち、
手塚治虫を筆頭に、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、水島新司、
ここで名を挙げた人たちはみな戦争を体験している。

戦後生れのマンガ家ももちろん大勢いて、活躍していた。
戦前生れのマンガ家も第一線にいた、というより、
この人たちがまさしく第一線だった。

オーディオ評論家も、私にとってはそうである。
私がオーディオ評論に夢中になっていたころ第一線で活躍していたオーディオ評論家たち、
みな戦争を体験している。

いまのオーディオ評論家はどうだろう。
柳沢功力氏は戦前の生れなのだが、ほかの人たちとなると、
みな戦後の生れである。

読み手側はどうだろうか。
ステレオサウンドの読者は高齢化していることは、
ステレオサウンドが発表している資料からもわかる。

今年(2020年)は、戦後75年。
75歳以上の読者となると、高齢化しているとはいえそう多くはないはず。
ステレオサウンドの読者ですら、戦後生れが大半となっている。

こういうことを書いている私も戦後生れだ。
ただ戦後生れでも、親が戦後生れなのかどうかは、どこかで関係しているのではないだろうか。

私の父と母は戦前生れだから、戦争を体験している。
私の場合、戦前生れの両親をもち、戦争を体験してきた人たちの書いてきたものを、
熱心に読んでいたわけだ。

戦後生れの両親のもとで、
戦後生れの人たちの書いてきているものをリアルタイムに読んできた世代も、
いまではけっこういるであろう。

世代の分断とは、こういうところが意外なところで関係しているような気がしてきている。

Date: 11月 13th, 2020
Cate: 五味康祐

「三島由紀夫の死」から50年(その1)

今年(2020年)は、ベートーヴェンの生誕250年、
チャーリー・パーカーの生誕100年であるだけでなく、
日本だけでも、デビュー50年を迎える人(ミュージシャン)、グループがある。

なにかのひょうしに、デビュー50年という文字をみて、
この人もそうなんだ、と今年のはじめは何度も思った。

けれどコロナ禍で、予定されていた公演や催し物などは、
多くが中止(延期)になっているはず。

50年といえば、三島由紀夫 没後50年でもある。
50年前は、私はまだ7歳だった。

その日、父と母がニュースを見て、ひじょうに驚いていた記憶があるが、
三島由紀夫の死というニュースに関しては、ぼんやりした記憶しか残っていない。

三島由紀夫の死を強く意識したのは、
五味先生の「三島由紀夫の死」を読んでからだった。

それ以前に、三島由紀夫の小説は、いくつかは読んでいたけれど、
三島事件のことは、まったく頭になかった。

「三島由紀夫の死」を読んで、三島由紀夫の死のことをおもっていた。

2017年1月の「三島由紀夫の死」で、
五味先生の文章の最後のところを引用した。

もう一度、書き写しておこうとおもったが、やめよう。
ほかに書き写したいところがある、
読んでほしいところがある。
     *
五年前、自動車で二人の生命を私は轢いた。その直後に自裁することを私は考えた。「五味は死ぬのではないか?」事故のあと現場検証で、ニュースカメラのフラッシュを浴びながらこの辺でブレーキを踏んだと説明する私を、横で見ていた係り官が言ったそうだ。あのとき私が自殺してもそれほど不自然ではなかったろう。
 その私が死なずに、三島由紀夫は死んだ。彼の割腹を人は意外だというが、五年前に死ななかった私自身も私には意外である。三島君の自殺と、死なない私はその意外性において、少なくとも私の内面では等質だ。むろんこんなことは人には分ってもらえないし、こんなことを誰もわからないほうがいい。でもそれがあるので、三島君の死は、私には二重に衝撃だったのである。
 私の死ななかった理由は自分の口で言うことではないだろう。どう弁解したところで、私はこわくて死ねなかったのである。私は神にすがった。音楽ばかりを聴いた。すぐれた音楽がぼくたちにもたらしてくれる浄化作用に浴さなければ、今のように生き耐えてこられなかったろうと、このことは当時にも書いた。本当に、あの時私を支えてくれたものは文学書ではなく音楽だったから、ブラウン管の三島君を見ていて、どうして音楽を聴いてくれなかったんだろう、きっとそうすれば、今いるようなそんな姿で君は立たずに済んだろうと、私はテレビへ言いつづけていた。
 三島事件そのものに関しては、さまざまな意見や解釈が述べられているが、これについて川端康成先生はどう考えていらっしゃるか、川端先生の発言をみるまでは、ぼくらはこの事件をあげつらうべきではないと私は思っている。文人のこうした節度は今のジャーナリズムには通用しないだろうが、私のこれは気持である。従って三島事件を論じるのではない。私と三島君との心の関わり合いを述べておきたい。
 自動車事故のあと、私の執行猶予を乞う嘆願書が裁判所に出された。その嘆願書に三島君は署名してくれた。そのことがあるので判決のあと彼を訪ねてお礼を言った。今は言ってもいいと思う、この嘆願書は、志賀直哉、川端康成、小林秀雄、井伏鱒二、井上靖、三島由紀夫、柴田錬三郎、水上勉、亀井勝一郎、保田與重郎の諸氏の連署で出されたもので、判決のあと私はお礼を述べて回った。そして詫びを言った。文人として一番いけないことを私はしたからだ。でもこの時の私に或いは晩餐を用意し、或いは他出先からいそいで戻って、対応して下すった方々の私に告げられた言葉の一つ一つを、肝に銘じて忘れない。三島君を訪ねたのは夜になってからだった。三島家にはフランスのカメラマンが何人か来ていて、賑やかに撮影していた。そんな騒ぎから抜け出し三島邸と少し離れた私の車の所まで、彼は送り出してくれた。三島君が礼儀正しい作家であったことは知られている。でもあの時私の置かれている立場へは、どんな対応もできたろう。「死なないで下さいよ」車のそばで三島君はそう言った。三島君とは共通の友人である林富士馬氏の話が出たあとだった。交通事故のあと、訪ねてくれた林君に私は殴りかかったことがある。そういう狂乱に本当は私はいたのだが、そんな私と知って死ぬなと三島君は言ってくれたのだろうか。
     *
「死なないで下さいよ」と言った三島由紀夫、
《三島君のしたことは痛いほど私にはわかった》と書かれている五味先生。

昭和は遠くなった──、
ほんとうにそうなのだろうか。

Date: 11月 13th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Elgar: Cello Concerto, Op. 85 & Sea Pictures, Op. 37(その1)

2019年夏、
ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲がMQA-CDで出た。
もちろん購入した。

このディスクは、
2011年に行われた96kHz、24ビットのマスターを、
176.4kHZ、24ビットに変換されたものが収録されている。

今年は、バルビローリ没後50年にあたり、
夏に“SIR JOHN BARBIROLLI THE COMPLETE WANER RECORDINGD”が出た。
109枚組である。

いうまでもなくデュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲の指揮者は、バルビローリである。
この全集は、MQA Studioの192kHz、24ビットで、一枚ずつ配信が始まっている。

デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲の、その一枚としての配信である。
なので当然MQA Studioのはずである。

ワーナーミュージックのサイトには,
11月27日に配信されるのは、96kHz、24ビットでの、2020年のマスターとある。

全集CDは、192kHz、24ビットでリマスターされている。
ということは、192kHzで配信されるのか。

96kHzでも192kHzでも、どちらであっても買う。
2011年と2020年のリマスター、大きな差はないように思っているが、
こればかりは聴いてみないことにはわからない。

Date: 11月 12th, 2020
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(ジャズにとって、クラシックにとって・その14)

2016年のaudio wednesdayから音を鳴らすようになった。
2017年10月のaudio wednesdayで、アルテックの2ウェイ+グッドマンのDLM2という構成から、
アルテックの2ウェイ+JBLの075という構成へと変った。

高音域が、そのことによって拡がった(ワイドレンジになった)とはいえないが、
「いろ(ジャズ)」のワイドレンジに向った。

2020年7月のaudio wednesdayから、タンノイのコーネッタを鳴らしている。
ユニットはHPD295Aだから、ワイドレンジとはいえないが、
かといってナロウレンジのユニットでもない。

良質のトゥイーターを、ほんのちょっとだけ、かなり上の帯域でつけ足したい気持もあるが、
どのトゥイーターをもってきたとしても、
コーネッタのエンクロージュアの上において、しっくりおさまるかということになると、
まったく思えない。

音的にはうまくいくだろうが、見た目が……、となることだろう。

コーネッタは、いまの尺度からすれば、もうナロウレンジになるであろう。
それでも「かたち(クラシック)」のワイドレンジということでは、
ナロウレンジではない、とはっきりといえる。

Date: 11月 12th, 2020
Cate: audio wednesday

第118回audio wednesdayのお知らせ(Beethoven 250)

いまのところ12月のaudio wednesdayはやる予定ですが、
新型コロナの感染者数の増加次第では、中止するかもしれません。

いつも小人数で、ほぼ常連の方ばかりなので、
新しい方が来られる、大勢の方でいっぱいになることはないのでしょうが、
これまで来られた方だけに限らせていただくかもしれません。

11月29日に、どうするのか告知します。