Archive for 8月, 2015

Date: 8月 6th, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)

死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。

Date: 8月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その1)

このブログをお読みになっている方で、私よりも若い世代だと、
もしかすると、昔はそんなによかったのか、いまはそれほどでもないのか、
そんなふうに受けとめられているようにも思っている。

私は、私が体験してきた昔がよかった、
だからいまは昔よりももっとよくあるべきだと思っている。

オーディオ機器に関しては、悪くなっているところもあるし、そうでないところある。
よくなっているところもある。

だから、オーディオの行く末に絶望はしてはいないし、希望ももっている。
けれど、オーディオジャーナリズムに関してはそうとはいえない。

短期的にみれば悪くなったり良くなったりする。
でも長期的にみればよくなっている──、
そうであってほしいと願っているのだが、確実にひどくなっていると断言できる。

オーディオジャーリズムに携わっている人たちは、そんなことはない、というであろう。
それでも断言しておく、ひどくなっている、と。

ステレオサウンドは194号の特集で、黄金の組合せを行なっている。
194号は春号ということもあってだろう、誌面を刷新している。
そういうなかでの特集なのだから、編集部も力が入っているとみていいだろう。

しかも「黄金の組合せ」である。
少しは期待していた。
けれど期待はやはり裏切られた。

ひどい特集とまではいわない。
けれど間違っている編集である、といっておこう。

194号の特集を見て、ステレオサウンド編集部、そしてオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
組合せをどう考えているのか、そして組合せの試聴をどう捉えているのか。
そのことについて考えてしまった。

同時に編集部も組合せの捉え方が、私が面白いと感じながら読んでいたころの組合せの記事の時代とは、
あきらかに違ってしまっている。

違っていることは必ずしも悪くなっていることとはいえない。
けれど、ステレオサウンド 194号の「黄金の組合せ」を見ると、間違っているといえるし、
組合せという試聴と、いわゆる一般的な試聴との違いも編集部ははっきりと把握していない。
残念ながらそうとしか思えない記事づくりであった。

いままでオーディオジャーリズムについて書く時、
意識的にぼかしていたところがある。
何がどう悪くなったのか、なぜ悪くなったのか、
ではどうすればいいのか。そういったことはぼかしていた。

それはオーディオジャーリズムに携わっている人たちが自ら気づくべきことであって、
他から指摘されたところで改善はしない、という考えからであった。

でも194号の「黄金の組合せ」を見て、少しははっきりとさせていこうと考えを改めた。
それはひどいからではなく、間違っているからである。

Date: 8月 5th, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その5)

高能率のスピーカー(ラッパ)と直熱三極管のシングルアンプ。
これを「あがり」と若いころから予感しているのであれば、
あれこれ他のことをやらずに、最初からこの「あがり」を目指していけば、
無駄がない、と考える人もいるように思う。

実際、伊藤先生の300Bシングルアンプをつくろうとしたら、
いまよりも30年ほど前のほうが、ずっと容易であった。

出力トランス、電源トランスの調達もそうだし、
真空管の調達に関して、あのころのほうが容易だった。

310A(メッシュ仕様)、300B、274A、
これらの真空管をストック分含めて、いま入手しようとすると、どれだけの金額が必要となるか。
時間もかかる。

トランス、真空管などの主要部品だけでもあのころから計画して集めていれば、
無駄な出費をすることなく、最短で伊藤アンプを模倣することができてよかったのではないか……。

実はそうは思っていない。

ちょうどそのころ伊藤先生からいわれたことがある。
そのころの私はウェスターン・エレクトリックの真空管でも、349Aという、
いわゆるラジオ球でアンプをつくろうとしていた。

伊藤先生は、349Aはいい球だよ、といわれた。
それからいきなり300Bにいくことよりも、始めるべきところを示唆してくださった。

もしあのとき、伊藤先生がいわんとされたことを理解せずに、
300Bシングルアンプに向っていたら、たぶん300Bシングルアンプをつくりあげていただろう。

けれど、いきなり300Bシングルアンプにいってしまった者は、
それをシンプルと捉えることしかできないように思う。

簡潔な300Bシングルアンプを自分のモノとすることはできなかったように思う。

Date: 8月 4th, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その4)

高能率のスピーカー(たいては2ウェイでナロウレンジである)、
それを駆動するのは直熱三極管のシングルアンプ。
となるとコントロールアンプも真空管ということになる。

この組合せは、日本のオーディオにおいて、ひとつのあがりといえるものである。
私が10代だったころ、オーディオ雑誌に登場するマニアの中には、こういう人が多かった。

だからなんとなく、齢をかさねたら、私もこういうシステムに落着くのだろうか、とも思った。

私が10代のころ、オーディオ雑誌で見た、そういうマニアの中でもっとも印象に残っているのは、
ステレオサウンド 54号のスーパーマニアに登場された長谷川氏だった。

シーメンスのオイロダインに、伊藤先生のアンプ(もちろん300Bシングル)とEMTの927Dst。
まさしく「あがり」だと思った。

いやいや「あがり」ならば、スピーカーは励磁型だろう、という人がいる。
パーマネント型のスピーカーなど……、という。

励磁型の凄さは、多少なりとも私だって知っている。
だがここでの「あがり」のスタイルとして励磁型はない、と私は思う。

たしかにオイロダインは2m×2m四方の平面バッフルに取りつけられている。
これだけのスピーカーをいれるには、それだけの空間の部屋が必要であり、
誰もが同じことをできるわけではない。

けれど、これは大がかりなシステムとは思えない。
927Dstは大きい。オイロダインに匹敵するほどの風格をもっているアナログプレーヤーである。
それでも複雑な仕組みをもつモノではない。

オイロダインも往年のドイツ製といえるつくりをしているけれど、
コーン型ウーファーとホーン型トゥイーターの2ウェイという、いわば基本型といえるモノ。

伊藤先生のアンプにも、奇を衒ったところはまったく存在しない。

これらの組合せ(システム)を、若いころはシンプルだと捉えていた。
だが、ステレオサウンド 54号の長谷川氏のシステムは簡潔なのだ。

Date: 8月 4th, 2015
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その1)

1970年代のマークレビンソンの登場に匹敵するのは、
1990年代のワディアの登場のようにも思う。

ワディアの最初のモデルWadia 2000はアメリカで1988年夏に登場した。
日本に輸入されるようになったのは翌年からだった。

マークレビンソンのLNP2の成功は、多くの電子工学のエンジニアを刺戟した。
もちろんマークレビンソン以前にもガレージメーカーと呼ばれる規模のメーカーはあった。
それでもマークレビンソンの成功は、それ以前とそれ以降でのメーカーの数にはっきりと表れている。

CDは1988年秋に登場した。
最初はすべて一体型のCDプレーヤーばかりだった。
世界初のセパレート型CDプレーヤーはソニーとLo-Dから登場した。
つまり、この時、単体のD/Aコンバーターが登場した。

とはいうもののセパレートアンプとセパレートCDプレーヤーとでは、
組合せにおいて同じとは言い難かった。

セパレートアンプでは同じメーカー同士の組合せもあれば、
異るメーカーのコントロールアンプとパワーアンプもある。
自由な組合せが可能だったし、多くの人がそういった組合せを楽しんでいた。

けれどセパレートCDプレーヤーとなると、必ずしも同じではなかった。
その後もセパレートCDプレーヤーは登場した。
けれどアンプのような自由な組合せを楽しむという感じではなかった。

あくまでも同じメーカー同士のトランスポートD/Aコンバーターの組合せが聴くのが多かった。
というよりもほとんどすべてそうだった、といえる。

そういう状況をがらりと変えてしまったのが、ワディアの登場だった。
ワディア以前にも、単体のD/Aコンバーターを出しているメーカーはあった。
ワディアと同じアメリカのセータがそうだった。

1980年代、セータのD/Aコンバーターは、
アナログ用カートリッジの特性をシミュレーションできることを謳い文句にしていたこともあって、
少しばかりキワモノ的に見られていたのか、すぐには輸入元が表れなかった。

もっともセータがあのころ輸入されていたとしても、
ワディアほど話題にはならなかったし、その後に与えた影響もそれほどではなかったと思う。

ワディアの登場・成功によって、単体のD/Aコンバーターを出すメーカーがあらわれてきた。

Date: 8月 3rd, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その3)

同時代に同じことを考えている人は三人いると思え──、ということは、
少なくとも三人はいるということであって、
同時代に三人の人が同じデザイン・似ているデザイン(なにもデザインに限らない)を考えている。

同時代に三人いるということは、10年、20年……、もっと溯っていけば、
同じデザイン・似ているデザインを考えていた人はもっといるということでもある。

三人と書いたが、必ずしも三人とは限らない。
十人が同じデザイン・似たデザインを考えていることだってあるし、
十人よりももっと多くの人──、
百人、千人が同じデザイン・似ているデザインを考えていることだってありうる。

では千人が考えたデザインと三人が考えたデザインと、どちらが優れているのか。
それは同じデザイン・似たデザインを考えた人の数で判断できることではないはずだ。

同じデザイン・似たデザインから生れてきたデザインであっても、
千人の中のひとりが考えたデザインに対し、
他の999人が何もいえなくなるほど、つまり同じだ、似ているといわれないほど圧倒的であるのが、
デザインと呼べるモノではないのか。

シンプル(単純)と簡潔の違いは、そこだと思う。
簡潔なデザインにあって、シンプルなデザインにないのは、そういう力のはずだ。

Date: 8月 3rd, 2015
Cate: ナロウレンジ

ナロウレンジ考(その16)

アルテックと美空ひばりということで思い出すのことがひとつある。
ステレオサウンド 60号。瀬川先生がアルテックのA4について語られている。
     *
 ぼくは、幸いなことに、もうずいぶん昔のことですが、東京・銀座のヤマハホールで、池田圭先生が解説されて、このA4を聴く会というのがあって、たまたまそれに参加できたんです。
 これも、まったく偶然なんだけれども、それに先だって、池田圭先生がステレオ装置の売場で調整されている現場に行きあわせまして、あの銀座のヤマハの店全体に、朗々と、美空ひばりが突如、ひびきわたって……。たしか15年か20年ちかくまえのことだと思うけれども。
 たまたま中2階の売場に、輸入クラシック・レコードを買いにいってたところですから、ギョッとしたわけですが、しかし、ギョッとしながらも、いまだに耳のなかにあのとき店内いっぱいにひびきわたった、このA4の音というのは、忘れがたく、焼きついているんですよ。
 ぼくの耳のなかでは、やっぱり、突如、鳴った美空ひばりの声が、印象的にのこっているわけですよ。時とともに非常に美化されてのこっている。あれだけリッチな朗々とした、なんとも言えないひびきのいい音というのは、ぼくはあとにも先にも聴いたことがなかった。
     *
瀬川先生にとって美空ひばりは、昔は、《鳥肌の立つほど嫌いな存在》だったと書かれている。
     *
 もう二十年近くも昔、われわれの大先輩の一人である池田圭先生が、さかんに美空ひばりを聴けと言われたことがあった。
「きみ、美空ひばりを聴きたまえ。難しい音楽ばかり聴いていたって音はわからないよ。美空ひばりを聴いた方が、ずっと音のよしあしがよくわかるよ」
 当時の私には、美空ひばりは鳥肌の立つほど嫌いな存在で、音楽の方はバロック以前と現代と、若さのポーズもあってひねったところばかり聴いていた時期だから歌謡曲そのものさえバカにしていて、池田圭氏の言われる真意が汲みとれなかった。池田氏は若いころ、外国の文学や音楽に深く親しんだ方である。その氏が言われる日本の歌謡曲説が、私にもどうやら、いまごろわかりかけてきたようだ。
     *
この文章は「虚構世界の狩人」の「聴感だけを頼りに……」の中に出てくる。
「聴感だけを頼りに……(初出題名「聴感的オーディオ論」) 」は、
ステレオ別冊「ステレオコンポーネントカタログ」に、1976年に掲載されている。
20年近く昔ということは、池田圭氏に美空ひばりを聴けといわれたのは1950年代後半のころなのか。

瀬川先生がアルテックA4で美空ひばりを聴かれたのは、このころなのだろうか。

Date: 8月 3rd, 2015
Cate: audio wednesday

第55回audio sharing例会のお知らせ(組合せのこと)

今月のaudio sharing例会は、5日(水曜日)です。

ステレオサウンド 88号の特集は組合せである。
タイトルは「最新コンポーネントによるサウンドデザイン24」となっている。

特集の巻頭に菅野先生が「オーディオコンポーネントにおけるサウンドデザインとは」を書かれている。
ただし、この文章の中に、サウンドデザインという単語は使われていない。

実際の組合せ記事の前に、倉持公一氏によるインタヴューが見開きで載っている。
そこで菅野先生は、サウンドデザインについて語られている。
     *
何と何を組み合わせても不都合がおきることもない……今日の機械そものが、そのようにつくられいてるのだから……。
 機械がそこまで進歩したことによって、「組合せ構成」は機械相互の問題というより、機械とそれをつかう個人の行きかたという問題になってきた。
 まず自分のためにもっとも好ましい装置をデザインする……。それに共感し、それとそっくりのものを他の人が使うようになる……。「サウンドデザイン」という言葉を、ぼくはそのように捉えたい……。
     *
長島先生は、というと……。
     *
 ぼくにとってのオーディオとは自分の世界の内側の延長線上で、自分と一体になった感じのものだと思うんです……。
 一方、デザインという言葉はあまりに手垢にまみれている。なにかというとデザインという言葉がつく。それに対して拒否反応を起こしている。「軽い」と言いたくなってしまう……。
 そんなふうに考えてくると、ぼくのオーディオは、「デザイン」という言葉では言いあらわすには、あまりにも重い……。
     *
88号のときは、まだステレオサウンドの編集者だった。
けれど、このころは、デザイン、さらにサウンドデザインという言葉について深く考えていなかった。

88号を読み返しても、「オーディオコンポーネントにおけるサウンドデザインとは」の答は得られない。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 2nd, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その4)

AKGのK1000は、ステレオサウンド 95号(1990年6月発売)の新製品紹介のページに登場している。
菅野先生が担当されている。
K1000の音について、こう書かれている。
     *
今回のK1000はあえて前置きに長々と書いたように、オーストリア製にふさわしい製品で、その美しい音の質感は、決してスピーカーからは聴くことのできないものだ。特に弦楽器の倍音の独自の自然さとそこからくる独特な艶と輝きをもつ、濡れたような音の感触は、従来の変換器からは聴き得ない生々しさといってよいだろう。こうして聴くと、CDソフトには実に自然な音が入っていることも再認識できるであろう。生の楽器だけが聴かせる艶っぽさを聴くことのできる音響機器は、ヘッドフォンしかない(特に高域において)と思っているが、この製品はさらにその印象を強めるものだった。
     *
いま読み返して、K1000の音が聴きたくなってくるし、
瀬川先生がもしK1000を聴かれたら……、ということも想像してしまう。

K1000はステレオサウンド 97号で、Components of the years賞に選ばれている。
岡先生がこんなことを発言されている。
     *
 実はちょっとおはずかしい話ですが、ぼくは家で椅子に座ってこれを使っていて、そのまま眠ってしまった……。
柳沢 眠ってしまえるほど、装着の違和感がないってことですね。
 それほどヘッドフォンという感じがないんですよ。普通のヘッドフォンだったら眠れないですから。
     *
岡先生はすでに購入されていることがわかる。
どの記事を読んだからなのだろうか、
私にとってAKGのK1000といえば、岡先生が浮んでくる。
そして岡先生とスピーカーということでも、K1000が真っ先に浮んでくる。

たとえば瀬川先生ならば、真っ先にJBLの4343が浮ぶ。
菅野先生ならばマッキントッシュのXRT20だったり、JBLの3ウェイのシステム、
それにジャーマンフィジックスのDDD型ユニットが浮ぶ。
長島先生はジェンセンG610Bだし、その人の名前とともに浮んでくるスピーカーがはっきりとある。

岡先生の場合、私はなぜかK1000をまっさきに思い浮べてしまう。
岡先生のスピーカー遍歴は知っている。
にも関わらず岡先生とスピーカーということになると、K1000なのである。

Date: 8月 1st, 2015
Cate: デザイン

簡潔だから完結するのか(その2)

ひとつのロゴをデザインするために、考え抜く。
考え尽くす。

ひとつのロゴのデザインのために、どれだけのスケッチをし、それらを仕上げていくのか。
十、二十……、そんな数ではなくもっともっと多いかもしれない。

持てるものを出し尽くす。
そうやって出来たモノをすべて破棄する。
完全に破棄する。

つまり己をからっぽにすることで、はじめてうみだせるデザインというものがある、と思う。

1964年東京オリンピックの亀倉雄策氏デザインのロゴがそうやってうみだされてきたのはどうかはわからない。
あの簡潔なデザインをみていると、そうやってうみだされてきたのでは……、
勝手に憶測してしまう。

だから簡潔であることは、潔白でありうるのではないのか。