atmosphere design(その2)
「空なる実装空間」
川崎先生のコメントには、そう書いてあった。
「空なる実装空間」
川崎先生のコメントには、そう書いてあった。
昨夜、audio sharing例会でステレオサウンド 194号をじっくり見た(読んだとはあえて書かない)。
194号の特集が「黄金の組合せ」だと知り、
私だったら、こんなふうにする、と勝手に想っていた。
「黄金の組合せ」という表現を、いまあえて使い、
ステレオサウンドがどういう記事にするのか、非常に興味があった。
なにも私が想像していた通りでなければダメだとはまったく思っていない。
とにかくどういう内容で、どういう誌面構成にしたのかに興味があった。
特集の内容については、あえて書かない。
194号を見ながら考えていたのは、なぜ、この内容の特集に「黄金の組合せ」を使ったのか、である。
しかも「黄金の組合せ2015」となっている。
ということは、今回の特集の評判がよければ、来年の春号では「黄金の組合せ2016」をやるのだろうか。
冬号では、毎年恒例のステレオサウンド・グランプリとベストバイ、
春号は「黄金の組合せ」ということになれば……、
もうなんといったらいいのだろうか、言葉に迷ってしまう。
それとも来年秋の50周年記念号以降は、隔月刊にでもするのだろうか。
そのための布石としての「黄金の組合せ2015」だったのか、と、ちょっと思ったけれど、
隔月刊化は可能性としては低い。
そんなことよりも、なぜステレオサウンド編集部は、194号の特集に「黄金の組合せ」とつけたのか。
私は、ここに、なにがしかの「オーディオの想像力」を感じとることはできなかった。
ならば「耳」の想像力とは、いったいなんなのか。
以前、組合せはオーディオの想像力、と書いた。
これはいまもそう思っている。
オーディオの想像力が、「耳」の想像力でもあるのだろうか。
私が熱心にステレオサウンドを読んでいたころも、
私がステレオサウンドで働いていたころも、
日本のオーディオ機器には個性がない、とか、オリジナリティがない、とか、
海外オーディオのモノマネの域を脱していない、などよくいわれていた。
そういう面がまったくなかったとはいわない。
これらを言っていたのは、確かな人たちであり、なぜいわれるのかも納得はしていた。
けれど、ふり返ってみれば、その時代の国産MCカートリッジに関しては、
それらのことはあてはまらない、とはっきりいえる。
1970年代後半にMC型カートリッジのブームがおきた。
それまでMC型カートリッジに積極的でなかったメーカーも製品を出しはじめた。
これらのカートリッジの詳細と図解は、ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 2を参照してほしい。
長島先生による本である。
この本こそ、ステレオサウンドは電子書籍化して、
これから先何十年経っても読めるようにしてほしいと思う。
HIGH-TECHNIC SERIES 2の図解をみていけば、誰もが気付く。
国産MC型カートリッジの構造のオリジナリティに、である。
鉄芯巻枠を使った、いわゆるオルトフォンタイプのMC型もあるが、
ここから完全に脱却した各社独自のMC型カートリッジがいくつもの登場している。
川崎先生の3月4日のブログ『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』にある、
《それはスケッチがアナログであろうがデジタルであろうが、
「手」の想像力を訓練する一番の方法だと思っているからです。》と。
オーディオにおけるスケッチとは、「耳」の想像力を訓練する一番の方法ということになる。
ケイト・ブッシュが1989年に”THE SENSUAL WORLD”を出した。
センシュアルワールドであって、決してセクシュアルワールド(sexual world)ではなかった。
センシュアルとセクシュアル。
似てはいるけれど、まったく同じ意味の言葉ではないからこそ、どちらも存在しているわけである。
このときは「あぁ、オーディオはセンシュアルワールドだな」と思った。
26歳の時にそう思っていた。
いまちょうど倍の年齢になっている。
やはりセンシュアルワールドだな、と思いつつも、
セクシュアルワールドではない、とはっきりと言い切れるのか、となると、
いま考え込んでいる。
それは歳とともに増していく、己の執拗さに気づいているからだ。
金は最も安定した金属だといわれている。
輝きを失わないのが金である。
ならば黄金の組合せも、そういう組合せであるべきではないのか。
10年経っても20年経っても、輝きを失わない組合せを、
人は意図的につくり出せるのだろうか。
黄金の組合せは、どこか発見するものような気がする。
オーディオのデザイン、オーディオとデザインについて考えていると、
オーディオ機器のデザインだけにとどまらず、
もうそろそろ空気のデザインということを考えていく時期に来ているように感じてしまう。
空気のデザイン、
つまりはリスニングルーム内の空気、
特定の空気であるから、アトモスフィア(atmosphere)のデザインとなる。
それはリスニングルームに、音響パネル、その類のモノを置くことも含まれはするが、
それだけのことにとどまらず、
リスニングルーム内の空気をどうデザインするかの領域を含んでの考えである。
テクニクスのリニアフォースドライブスピーカーも、ビクターと同じように専用アンプ込みの技術である。
テクニクスは、スピーカーの歪の発生メカニズムを、Bl歪と電流歪の二つにわけられることとして、
この二つの歪の発生原因を専用アンプによる電子制御で除去しようとするものである。
Bl歪とは、ボイスコイルがギャップから離れたり、
ボイスコイル電流がギャップの磁束密度を変調させたりすることに起因する歪とある。
電流歪はボイスコイルが、ヒステリシスをもつ材質、
つまりポールピースや磁気プレートに囲まれているために発生する、
ボイスコイルのインピーダンスの非直線歪とある。
テクニクスの、この二つの歪解消のため、プッシュプル磁気回路を採用。
マグネットの両側にプレートがあり、ボイスコイルは二組ある。
そしてプレート間には制御コイルがあり、
ボイスコイルの両端にある磁気検出コイルからの信号により、
制御コイルに対して専用アンプが磁束フィードバックをかけている。
電流歪に対しては定電流駆動アンプを用いている。
磁束フィードバック用のアンプも定電流アンプである。
テクニクスもビクターも、理想といえるスピーカーシステムの開発には、
スピーカーだけでの技術ではなく、専用アンプ込みの技術をとっている共通点がある。
しかも汎用性の高い定電圧駆動のアンプではなく、定電流アンプを採用していることに注目したい。
ソニーのマイクロフォンの広告からエレクトロボイスのことを思いだし、
エレクトロボイスといえば、フェノール系のダイアフラムのことを私は連想する。
アルテックにしろJBLにしろ、
ウェスターン・エレクトリック系のコンプレッションドライバーのダイアフラムは金属である。
JBLのドライバーにも、フェノール系のダイアフラムのモノはあった。
2470、2482などがそうである。
だがこれらのドライバーはPA用に使われることが多く、
スタジオモニター、家庭用のスピーカーでは使われていなかったし、
JBLのコンシューマー用ドライバーにはフェノール系のダイアフラムのモノはない。
そのため、どうしても金属系のダイアフラムの方が音のクォリティは上で、
フェノール系は下にみられることもある。
それにコンプレッションドライバーのダイアフラムとして使われ、
ピストニックモーションの範囲内でしか使わないのであれば、
ダイアフラムの材質固有の音はしない、という意見もある。
そう主張する人たちは、フェノール系よりも金属系のほうがピストニックモーション領域が広い、
なのでフェノール系のダイアフラムを使う意味はない、ということになるらしい。
だが、そう言い切っていいのだろうか。
ほんとうにピストニックモーションの帯域においては、
ダイアフラムの材質固有の音はしない、と言い切れるのか。
マイクロフォンがオーディオの原器だと仮定して考えていけば、
エレクトロボイスは、
マイクロフォンとスピーカー、両方において積極的であったメーカーだったことに気づく。
アルテックのマイクロフォンもある。
鉄仮面と呼ばれている639が有名だが、他にどれだけのマイクロフォンがあっただろうか。
JBLは手がけてなかった。
タンノイはどうだったろうか。
マイクロフォンもスピーカーも、動作こそ対照的ではあるが音と電気の変換器である。
1977年のソニーの広告に、原器の文字がある。
マイクロフォンの広告だった。ステレオサウンド 45号に載っている。
こうあった。
*
「オーディオの原器。」
考えてみてください。
レコード、テープ、放送……どのオーディオをとってみても、
オーディオの出発点にマイクロホンが存在することを。
*
たしかにそのとおりである。
ソニーはコンシューマー用マイクロフォンだけではなく、プロフェッショナル用マイクロフォンも手がけていた。
広告には、C38Bの写真が大きく使われている。
こういう広告はコンシューマー用オーディオ機器だけでなく、
プロフェッショナル用も手がけていて、
それもマイクロフォンから録音器、プレーヤー、アンプ、スピーカーにいたるまで、
オーディオ機器のすべてを手がけているメーカーだからこそ、自信をもっていえることだと感じられる。
広告には、こうも書いてある。
《マイクロホンの進歩なしにはオーディオ機器全体の進歩は望めないとまでいえる。》と。
もうひとつ思い出していた文章がある。
黒田先生の書かれたものだ。
1978年のユリイカに載った「バッハをきくのはメービウスの輪を旅すること」である。
東京創元社から1984年に出た「レコード・トライアングル」で読める。
*
J・S・バッハの音楽は、ニュートラルな、つまり雌雄別のない音でできているといういい方は、許されるであろうか。音が徹底的に抽象的な音でありつづけ、ただの音であることでとどまるがゆえに、永遠のメタモーフォシスが可能になるとはいえないか。
永遠のメタモーフォシスの可能性を秘めた音楽をきくということは、メービウスの輪の上を旅するのに似ている。どこがはじまりでどこが終わりかがわからない。はじめと終わりがわからぬまま、しかし、自分がつねに途中にいることを意識せざるをえない。
*
黒田先生は、指定楽器のないオープンスコアのフーガの技法について語られている。
とはいえ、ここで語られているのは黒田先生によるバッハ論ではなく、
音楽のききてとしての座標の意識についてである。
私にとって、これまでさけてきていたカラヤンのマタイ受難曲を聴くのは、
そういうことを確かめることなのかもしれないからこそ、
黒田先生の文章を思い出したのかもしれない。
物質の燃焼温度が高くなれば、火の色は変ってくる。
人があたたかみを感じる色は、比較的低い燃焼温度である。
1977年、アルテックは、コンプレッションドライバーの802-8Dのフェイズプラグを、従来の同心円状の形状から、
オレンジを輪切りにしたように、スリットが放射状に並ぶタンジェリン状のものに変更した802-8Gを出した。
このタンジェリン状のフェイズプラグの色はオレンジだった。
タンジェリン(mandarin orange)だから、オレンジ色にしたのであろうが、
この色が、アルテックの音の温度感を表しているともいえる。
フェイズプラグは通常の使い方では目にすることはない。
それでもアルテックは、あえて色をつけている。
アルテックのユニットはトランジスターアンプの普及にあわせて、
インピーダンスをそれまでの16Ωから8Ωへと変更している。
だから604-8G、802-8Gのようにハイフンのあとに続く数時はインピーダンスを表すようになっている。
型番の数字はトランジスターアンプとの組合せを推奨しているようにみえても、
フェイズプラグの色は真空管アンプとの組合せを推しているようでもある。