Archive for 9月, 2011

Date: 9月 18th, 2011
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(その15)

中高域にコンデンサー型ユニットを採用し、低音域だけをコーン型ユニットに受け持たせた、
いわゆるハイブリッド型と呼ばれることの多いスピーカーシステムのすべてを見て聴いているわけではない。
だから、もしかすると私がこれから書くことと違う構成のものが存在していたかもしれないが、
すくなくとも大きな傾向として、このハイブリッド型スピーカーシステムのウーファーは、
比較的小口径のコーン型が採用されている。

なぜかといえば大口径のコーン型のウーファーの、いわゆる音の重さを嫌ってのことだろう。
コンデンサー型ユニットの軽やかさに追従するためには、コーン型ウーファーも、
小口径、中口径のもののなかから選び、振動板の面積が不足するのであれば、複数使用する──。

もっともらしい理屈のように思えるが、
実はこれが、うまくいかなかった、大きな理由ではないだろうか、と私は考える。

たとえば、中高域が無指向性ユニットならばウーファーも無指向性にしたほうがいい。
そのためにウーファーをエンクロージュアの正面にとりつけずに、
エンクロージュアの底面にとりつけ床に向けて放射して無指向性にする──、
これと似たような発想に思えてしまう。

なぜ低音域に関しては、スーパートゥイーターにあった発想の自由度がこうも失われてしまうのか。
むしろスーパートゥイーターに関してよりも、
スーパーウーファーに関してのほうが自由度がなければうまくいかないのではないだろうか。

この問題について考えると、この項の(その14)に書いた、
「コーン型ウーファーをつけ足す」という発想そのものが、じつは間違いの元、
スーパーウーファーは難しい、ということに生み出している、としか思えない。

スーパートゥイーターはつけ足す、という感覚でとらえてもいいが、
スーパーウーファーはつけ足す、という感覚ではうまくいかない。
なぜなら、低音域こそが土台・基本であるからだ。
つけ足す、のではなく、そこに築いていくものであるからだ。

Date: 9月 18th, 2011
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(その14)

振動板といっても、コーン型ユニットとコンデンサー型ユニットでは、
前者が振動板であれば後者は振動膜である。
さらに前者にはボイスコイルとボイスコイルボビンがそこにぶらさがり実効質量が大きくなりがちなのに対し、
後者の振動膜にはボイスコイルもボイスコイルボビンもいらない。

それに駆動力のかかりかたも大きく違う。
コーン型ではボイスコイルが振動板の駆動源となるが、コンデンサー型では振動膜全面に駆動力がかかっている。

その駆動力を生み出している原理の違いもあるから、どちらがどうとは一概にはいえないところはあるけれど、
コンデンサー型スピーカーは、やはり軽やかな音を出すものが多い。
鈍い、なにかをひきずったような、悪い意味での重さにつながるような音は出さない。

そういうコンデンサー型スピーカーシステムの低音域の再現能力をより充実させようと思ったときに、
安易にコーン型ウーファーをつけ足してもうまくいかない──、
そんなふうに、これまでいわれてきた。

確かにメーカー製の、コンデンサー型ユニットにコーン型ウーファーを足したスピーカーシステムで、
うまくいった例はあるのだろうか。
私が聴いた範囲内では、残念ながら成功例といえるものには出合えなかった。

そういった製品ばかりが続いていると、なにか原理的にうまくいかないのではないか、
とつい考えてしまいがちになるが、ほんとうにそうなのだろうか。
コンデンサー型スピーカーの低音域を拡充するには、
同じコンデンサー型の大型ユニットをもってこないとだめなのか。

スーパートゥイーターに関しては、ユニットの動作原理・振動板の形状について比較的自由であったのに、
なぜかスーパーウーファーに関しては、その自由度を、自ら手放してしまっているように感じることがある。

Date: 9月 18th, 2011
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(その13)

スーパートゥイーターとスーパーウーファー、
このふたつは、ワイドレンジ再生にとって有効な手法でありながらも、
実際に取り組まれている方の意識、といおうか、自由度といおうか、
それがスーパートゥイーターとスーパーウーファーとでは捉え方に差異がある、とみえる。

たとえばタンノイのキングダムはスーパートゥイーターにドーム型ユニットを採用している。
システムの中核となる同軸型はコーン型とホーン型は複合形ゆえに、
これまでのスピーカーシステムの構成的にはスーパートゥイーターにはホーン型ユニットとなることが多いし、
それを自然なことだと受けとめられることだろう。
ホーン型でなければリボン型ユニットとなるだろう。
そこをあえてタンノイは、そのどちらでもなくドーム型をもってきたところに、
タンノイ初の4ウェイ・システムのキングダムがうまくいった要因のひとつが感じられる。

スピーカーを、自分でユニットを組み合わせて構築されている方でも、
中域にホーン型ユニットを採用し、それに惚れ込みながらも、
スーパートゥイーターに関してはリボン型ユニットという方も少ないないと思う。
なにもそれは中域がホーン型ユニットの場合にかぎらない。
ドーム型ユニットの中域の上にリボン型という人もおられるだろう。

中域・高域がホーン型ならばスーパートゥイーターもホーン型、
中域・高域がドーム型ならばスーパートゥイーターもドーム型、
このことにとらわれている方はあまりおられないと思えるし、
メーカーのスピーカーシステムをみても同じ方式のユニットで必ずしも統一しているわけではない。

つまりスーパートゥイーターの選択に関しては、自由度を感じられる。
なのにスーパーウーファーに関しては、どうだろうか。

よくいわれている、つまり昔からいわれていることがある。
コンデンサー型のスピーカーにスーパーウーファーをつけ足すのは、うまくいかない、ということがある。

Date: 9月 17th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その4)

オーディオマニアにとっての「純度」といえば、まず音の純度、ということになるだろう。
その音の純度を高めるために、音の純度を少しでも損なう要素を再生系からとり除いていく……。

その項の(その1)にも書いたように、接点がまずそう。
使い勝手は無視してでもとり除ける接点はすべて無くしていこう。そうすることで純度の劣化を最小限に抑える。
中にはヒューズをとりさってしまう人もいるだろう。
自分で使う機器であれば、けっしておすすめはしないが、そういう改造もできる。
ヒューズをとり除いてしまうような人だと、電源スイッチもなくしてしまうかも……。

そうやって接点をひとつでも多くとり除く。
音の純度のためには、さらには信号系から音を濁す原因となりやすい磁性体をなくしていくこともある。
直接電気信号(電源を含めて)がとおるところはもちろん、その近くにある磁性体も音に影響する。
これらも注意深くとり除いていくということは、
以前、ソニー(エスプリ)の広告について書いたところでふれている。

これら以外にもいくつも手法がある。
そしてそれらを根気よくひとつひとつ実行していくことで、音の純度の劣化はすこしずつ減っていく。
音の純度は高くなっていく。高くなれば、以前は気にならなかったところによる音の純度の劣化でも気になってくる。

そうやって、ひとつのアンプができ上ったとする。
これは妥協なきアンプと、はたしていえるだろうか。

アマチュアがあくまでも自分のために、そして自分の環境でのみ使用するアンプであれば、
そういえなくもない、という気はするけれど(それでも抵抗感はある)、
これがプロの作る、つまり製品としてのアンプだったら、妥協の産物、といえることになる。

ここが、アマチュアの立場とプロフェッショナルの立場の根本的に異るところであり、
これを自覚せずに、妥協を排した的なことを謳うメーカーの製品をどううけとるかによって、
その人のオーディオマニアとしての「純度」がはっきりとしてくる。

Date: 9月 16th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その22)

瀬川先生の「ずいぶんきつくて耐えられなかった」ということを、
オーディオの一般的な「きつい音」ということで捉えていては、なかなか理解できないことだと思う。

ダブルスタックとはいえQUADのESLから、いわゆる「きつい音」が出るとは思えない。
そう考えられる方は多いと思う。

私も、「ステレオのすべて ’81」を読んだときには、
「ずいぶんきつくて耐えられなかった」の真の意味を理解できなかった。
これに関しては、オーディオのキャリアが長いだけでは理解しにくい面をもつ。
私がこれから書くことを理解できたのは、ステレオサウンドで働いてきたおかげである。

コンデンサー型、リボン型といった駆動方式には関係なく、
ある面積をもつ平面振動板のスピーカーシステムの音は、聴く人によっては「きつい音」である。
それは鳴らし方が悪くてそういう「きつい音」が出てしまう、ということではなく、
振動板が平面であること、そしてある一定の面積をもっていることによって生じる「きつい音」なのだが、
これがやっかいなことに同じ場所で同じ時に、同じ音を聴いても「きつい音」と感じる人もいれば、
まったく気にされない方もいるということだ。

そして、一定の面積と書いたが、これも絶対値があるわけではない。
部屋の容積との関係があって、
容積が小さければ振動板の面積はそれほど大きくなくても「きつい音」を感じさせてしまうし、
かなり振動板の面積が大きくとも、部屋の容積が、広さも天井高も十分確保されている環境であれば、
「きつい音」と感じさせないこともある。

瀬川先生に直接「ずいぶんきつくて耐えられなかった」音が
どういうものか訊ねたわけではないから断言こそできないが、
おそらくこの「きつい音」は鼓膜を圧迫するような音のことのはずである。

私がそのことに気づけたのは、井上先生の試聴のときだった。

Date: 9月 16th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その21)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」の巻末には、
「新西洋音響事情」というタイトルのインタヴュー記事が載っている。
「全日本オーディオフェアに来日の、オーディオ評論家、メーカー首脳に聞く」という副題がついているとおり、
レオナルド・フェルドマン(アメリカ・オーディオ評論家)、エド・メイ(マランツ副社長)、
レイモンド・E・クック(KEF社長)、コリン・J・アルドリッジ(ローラ・セレッション社長)、
ピーター・D・ガスカース(ローラ・セレッション マーケティング・ディレクター)、
ウィリアム・J・コックス(B&Oエクスポートマネージャー)、S・K・プラマニック(B&Oチーフエンジニア)、
マルコ・ヴィフィアン(ルボックス エクスポートマネージャー)、エド・ウェナーストランド(ADC社長)、
そしてQUAD(この時代は正式にはThe Acoustical Manufacturing Co.Ltd.,社長)のロス・ウォーカーらが、
山中敬三、長島達夫、両氏のインタヴュー、編集部のインタヴューに答えている。

ロス・ウォーカーのインタヴュアーは、長島・山中の両氏。
ここにダブル・クォードについて、たずねられている。
ロス・ウォーカーの答えはつぎのとおりだ。
     *
ダブルにしますと、音は大きくなるけれども、ミュージックのインフォメーションに関しては一台と変わらないはずです。ほとんどの人にとってはシングルに使っていただいて十分なパワーがあります。二台にすると、4.5dB音圧が増えます。そしてベースがよく鳴る感じはします。ただ、チェンバー・ミュージックとか、ソロを聴く場合には、少しリアリスティックな感じが落ちる感じがします。ですから、大編成のオーケストラを聴く場合にはダブルにして、小さい感じのミュージックを聴く場合には、シングルにした方がよろしいのではないかと思います。世の中のたくさんの方がダブルにして使って喜んでいらっしゃるのをよく存じていますし、感謝していますけれども、私どもの会社の中におきましては二台使っている人間は誰もおりません。いずれにしても、それは個人のチョイスによるものだと思いますから、わたくしがどうこう申しあげることはできない気がします。
     *
「ステレオのすべて ’81」の特集には「誰もできなかったオーケストラ再生」とつけられているし、
「コンポーネントステレオの世界 ’78」の読者の方の要望もオーケストラ再生について、であった。

オーケストラ再生への山中先生の回答が、ESLのダブルスタックであることは、
この時代(1970年代後半から80年にかけて)の現役のスピーカーシステムからの選択としては、
他に候補はなかなか思い浮ばない。

なぜ、そのESLのダブルスタックの音が瀬川先生にとっては「ずいぶんきつくて耐えられなかった」のか。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その20)

音楽之友社の試聴室がどのくらいの広さなのか、「ステレオのすべて ’81」からは正確にはかわらない。
けれど50畳もあるような広さではないことはわかる。20畳から30畳程度だろうか。
そこに、「ステレオのすべて ’81」の取材では、
瀬川、山中、貝山の三氏プラス読者の方が三名、さらに編集部も三名にカメラマンが一人、計10人が入っている。
そう広くない部屋に、これだけの人が入っていては条件は悪くなる。
そんなこともあってESLのダブルスタックは、本調子が出なかったのか、うまく鳴らなかったことは読み取れる。
けれど瀬川先生にしても山中先生にしても、そこで鳴った音だけで語られるわけではない。
ESLのダブルスタックは、この本の出る3年前にステレオサウンドの「コンポーネントステレオの世界 ’78」にいて、
手応えのある音を出されているわけで、そういったことを踏まえたうえで語られている。

もちろん話されたことすべてが活字になっているわけではない。
ページ数という物理的な制約があるため削られている言葉もある。
まとめる人のいろいろな要素が、こういう座談会のまとめには色濃く出てくる。

つまり「コンポーネントステレオの世界 ’78」では瀬川先生のESLのダブルスタックに対する発言は、
削られてしまっている、とみていいだろう。
なぜ、削られたのか。しかもひと言も活字にはなっていない。
このことと、「ステレオのすべて ’81」の瀬川先生の音の印象を重ねると、
瀬川先生はESLのダブルスタックに対して、ほぼ全面的に肯定されている山中先生とは反対に、
否定的、とまではいわないもの、むしろ、どこか苦手とされているのではないか、と思えてくる。

「ぼくにはずいぶんきつくて耐えられなかった」と語られている、
この部分に、それが読みとれる、ともいえる。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その3)

チェロの第一作は、Audio Palette と名づけられたフリケンシーイコライザーだった。
マーク・レヴィンソン自身も語っているように新しい会社の第一作としては、
それまで手がけてきたコントロールアンプやパワーアンプの製品化のほうが、
会社として軌道にのりやすいということはわかったうえで、あえてAudio Paletteという、
ジャンル分けの難しいモノを製品化している。

マーク・レヴィンソンはMLAS(マーク・レビンソン・オーディオ・システムズ)では、
第一作のLNP2を別にすれば、
コントロールアンプのJC2、そしてML6、パワーアンプのML2にしても、
レヴィンソン自身もいっているように「ピュアな音を追求するために信号経路のシンプル化」を徹底していた。

そういうマーク・レヴィンソンが、新しい会社「チェロ」では、
LNP2のトーンコントロール(3バンド)よりも多い6バンドのイコライザーで、センターチャンネルの出力、
位相切換えスイッチ、40Hz以下の低音のブレンド(モノーラル化)などの機能を併せ持つ。

直前のML6+ML2で目ざしていた世界とは、一見すると180度異るアプローチのように思え、
それまでのマーク・レヴィンソンのアプローチを徹底したピュアリスト的だと受けとめていた人たちにとっては、
チェロでの方針は、ピュアリストであることを放棄したように受けとめられても不思議ではない。
そのことはマーク・レヴィンソン自身がよくわかっていたことなのだろう。
だからこそ、「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」と語ったのだと、私は思っている。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その2)

「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」──、
こう語ったのはチェロを興したばかりのマーク・レヴィンソンだった。

ステレオサウンド 74号にマーク・レヴィンソンのインタヴュー記事が載っている。
この記事は、ほんらいある人に依頼していたものだが〆切ギリギリに、
その人から届いた原稿は分量も依頼したものよりも少なく、内容的にも残念なものだった。
インタヴュアーは、その人だったから、ほんとうだったら、このレヴィンソンの記事には筆者名が入るはずだった。

けれど時間的余裕もないし、書き直しを依頼したところで充分なクォリティの原稿があがってくる保証はない。
だから編集部でまとめて仕上げることになった。
しかもインタヴューを録音したテープからの文字起しは、当時速記会社に依頼していたが、
このときはその人が自分でやるということだったためテープ起しの原稿もなく、
テープに録音されたインタヴューを文字に起すところからやらなくてはならなかった。
そうやってなんとかまにあった記事だけに、印象に残っている。

テープを聞きながら、富士通のワープロ(親指シフトキー仕様)でレヴィンソンのインタヴューを文字にしていく。
その作業中に、個人的に惹かれ、いまでもつよく心に残っているのが、
冒頭に引用した「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」である。

マーク・レヴィンソンはアメリカ人だから当然英語で話しているわけで、
通訳の人が訳したのを、さらにすこし言い回しを変えているわけで、
レヴィンソンが、英語でどういったのかはいまではまったく記憶していないが、
「ピュアリスト・アプローチを忘れたのではない」に、
当時のマーク・レヴィンソンの想いがもっともこめられていたように感じた。

Date: 9月 15th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(続々続45回転のこと)

ハーフ・スピード・カッティングにやや懐疑的な私だが、
それでもハーフ・スピード・カッティングにはこの方式のよさはあるはず、とは思っている。

たとえばプリエコー(ゴーストともいうこともある)の問題がある。
アナログ録音の時代には、録音されたマスターテープは巻いた状態で保存されるわけだが、
テープが重なっている状態では、転写という現象が起こることがある。
重なり合ったテープ同士が干渉し、
ごく低いレベルではあるがテープに記録されている磁気変化が積み重なっている部分にコピーされてしまう。

つまり無音であるところに、続いてはじまる曲が小さな音でコピーされ、それが音として聴こえる。
これから再生しようとするところの音が鳴ってくるところから、プリエコーと呼ばれる。
実際にはプリエコーだけでなくアフターエコーも生じている。

このプリエコーの主な原因はテープ録音に起因するものだから、
ダイレクトカッティングには生じないものと思われている人かもしれない。
だがテープ録音を介在しないダイレクトカッティング盤でも、わずかだがプリエコーが生じているディスクがある。

なぜ、こういう現象が生じるかといえば、
ラッカー盤に音を記録していくとき(カッティングしていくとき)、
振幅の激しい溝がたまたま無音溝と隣接していた場合、
カッティング時の振動によって無音溝をほんのわずかとはいえ変形させてしまうからである。
ラッカー盤がひじょうに硬質な材質であったならば、こういうプリエコーは発生しないだろうが、
実際にはラッカー盤はそうではなく、場合によっては隣接する音溝の影響による変形が生じている。

これはなにも無音溝に対してのみ発生しているわけではなく、
すべての音溝に対しても同じことがいえる。
ただプリエコー(アフターエコー)のレベルが低いため、無音溝でははっきりと聴きとれるが、
通常の音溝のところでは、そこに刻まれている音にマスキングされているだけの可能性もあるわけだ。

カッティング時のプリエコー発生は、あたりまえだがダイレクトカッティング盤だけの問題ではない。
通常のテープ録音をマスターとするレコードでも同じことは起る可能性はある。

そこで思うのは、このカッティング時の隣接する溝の変形は、
ハーフ・スピード・カッティングと通常のスピードでのカッティングではまったく同じなのだろうか。
感覚的にはハーフ・スピード・カッティングのほうが影響の度合いが少ないように思えるのだ。

Date: 9月 14th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その19)

音楽之友社別冊「ステレオのすべて ’81」を書店で手にとってパラパラめくったときは、うれしかった。
ここにもESLのダブルスタックの記事が載っていて、その記事には瀬川先生と山中先生が登場されているからだ。

じっくり読むのは家に帰ってからの楽しみにとっておきたかったので、ほとんど内容は確認させずに買った。
そして帰宅、読みはじめる。

誌面構成としては、まず貝山さんがレポーター(司会者)となって、瀬川・山中対談がはじまる。
そして囲み記事として、
瀬川先生の組合せ試案(これはロジャースPM510とマークレビンソンのアンプの組合せ)があり、
そのあとにいよいよ山中先生によるESLのダブルスタックの試案が、これも囲み記事で出てくる。
3000文字弱の内容で、瀬川・山中、両氏の対談を中心に、参加されている読者の方の意見も含まれている。

まず、瀬川先生は、
「やっぱり、クォード・ダブルスタックを山中流に料理しちゃってるよ。
これ、完全に山中サウンドですよ、よくも悪くもね。」と発言されている。

このあとに山中先生によるダブルスタックの説明が続く。
そして、ふたたび瀬川先生の発言。
「さっき山中流に料理しちゃったというのは、ぼくがこのスピーカーを鳴らすとこういう音にならないね。具体的にいうと、ほくにはずいぶんきつくて耐えられなかったし、低音の量感が足りない。だからかなわんなと思いながらやっぱり彼が鳴らすと、本当にこういう音に仕上げちゃうんだなと思いながら、すごい山中サウンドだと思って聴いていたの。」

ただ「低音の量感が足りない」と感じられていたのは、山中先生も同じで、
ステレオサウンドでの試聴のことを引き合いに出しながら、「低域がもっと出なくちゃいけない」と言われている。
音楽之友社での試聴では、低域の鳴り方が拡散型の方向に向ってしまい集中してこない、とも指摘されている。
その理由は2枚のESLの角度の調整にあり、
できればESLの前面の空気を抱きかかえるような形にしたい、とも言われている。

山中先生としても、今回のESLのダブルスタックの音は、不満、改善の余地が多いものだった、と読める。

Date: 9月 14th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その1)

なにか書きたいことが浮んできて、このタイトルをつけたわけではなく、
ただ、このタイトルが頭に浮んできたから、タイトルからなにか導かれるものがあるかもしれない……、
そういう気持で、また新しいカテゴリー(テーマ)をつくってしまった。

自分で書いておきながら、なぜ、オーディオマニアの純度、ではなく、オーディオマニアとしての、としたのかも、
すこし不思議に思っている。

たとえばピュアリスト、という言葉がある。
オーディオの世界では、肯定的な意味あいで使われることが多い。
音質追求のために使い勝手は無視する、ことも、ピュアリスト・アプローチとして受けとめられる。

入力切換えのセレクターの接点が音質をわずかとはいえ損なう。
だから接点をひとつで減らしていくために、
いい変えれば音質劣化をきたすところをひとつで減らすために入力切換えはいらない。
入力切換えが必要になるときは、ケーブルの差し替えで対応する。

そう説明されれば、納得できないことではない。
だからといって、それが果して、オーディオマニアとしての純度が高い、
といえるのだろうか、と疑問に思うことがある。

私には、こういう行為は、別項で書いている「複雑な幼稚性」ではないか、
もしくはそれに近いことではないか、と最近思えてきている。

私自身も、以前はそういうふうに考えて、そういうことをやっていたことがある。
音質劣化をきたす、と思われるところをできるだけ排除していく──。
だからというわけでもないが、こういうことを体験することを否定はしない。
積極的にすすめはしないが、やりたいと思ったならば一度徹底的にやってみるのはいいことだと思う。

オーディオは、ときにはそういうバカげたこと、幼稚なことに夢中にやって、
それこそが正しいと思えて、視野が狭くなっていることがあり、
いつかそれに気がつくものだ。

そして、こんな日々の積み重ねがバックボーンとなり、
このバックボーンこそが純度と関係している。
つまり重厚なバックボーンをもつことこそ、オーディオマニアとしての純度が高い、といえよう。

Date: 9月 13th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(その11)

自己表現について考えていく前に、自己顕示について考えてみたい。

自己顕示欲については、ここで触れたように、
自己顕示欲を全否定するわけではない。

ただ……、と思う。
自分の音を誰かに聴かせることになったとする。
そのとき、この自己顕示欲を意識することにならないだろうか。

誰にも聴かせない──、どんな人に頼まれたとしても断わることができさえすれば、
そして家族にさえも聴かせない。
その音を聴くのは、世界に自分ひとりだけという状況をつくり維持していければ、
そこで鳴っている音は、自己顕示欲から解放され、無縁でいられるのかもしれない。

けれど、そこに誰かが存在することになれば、そうもいかなくなる。
ここで毎日書いている文章も、結局は誰かに読まれている。
つまりは、読んでくださっている方に向けての表現といえるところも当然あって、
そこ(そして底)には自己顕示欲が、どういうかたちにしろ、存在している。

あと何年こうやって文章を書いていくのかは私にもわからないけれど、
ひとつはっきりいえることは、最後まで自己顕示欲から完全に解放されることはない、ということ。

けれど、音の表現に関しては、もしかすると、自己顕示欲からの完全な解放が可能なのかもしれない。
それとも、誰にも聴かせなかったとしても、無理なことなのだろうか。

もうひとつ思うのは、自意識なき自己顕示欲は存在するのか、ということ。

Date: 9月 13th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かのシステムを調整するということ)

親しい間柄の人の音を聴かせてもらっているときに、
ときどき「どう調整したらいいか、どこを調整したらいいか」という話になることがある。

こういうときあれこれ言うことはあっても、原則としてそこにあるシステムの調整に手を出すことは、まずない。
なにもそれは面倒だからではなく、こまかいところまで口を出して手を出さないほうが、
ときに面倒というか、まどろっこしく感じもする。
それでも手は出さない。私が直接やったほうがずっと早く終ることでも、そのシステムの持主にやってもらう。
ときに手本が必要と思われることに関しては、手本を見せるけれども、それでも手は出さない。

それはあくまでも、そこにあるシステムは、その人のものだから、である。
そのシステムは、その人だけが触れて調整すべきもの、と私は思っているからだ。

Date: 9月 12th, 2011
Cate: BBCモニター, LS3/5A, 瀬川冬樹

BBCモニター考(LS3/5Aのこと・その18)

私が知るかぎり、瀬川先生がダブルスタックのESLの音について語られているのは、
音楽之友社からでていた「ステレオのすべて」の’81年版だけである。

この年の「ステレオのすべて」の特集は、
「音楽再生とオーディオ装置 誰もできなかったオーケストラ再生」であり、
瀬川冬樹、山中敬三、両氏を中心に読者の方が3人、それにリポーターとして貝山知弘氏によるもの。

ここでも組合せがつくられている。
瀬川先生による組合せが3つ、山中先生による組合せが2つ、
そして読者の方による組合せがそれぞれつくられ、
それぞれの音について討論がすすめられている、という企画である。

ここで山中先生の組合せに、ダブルスタックのESLが登場している。
アンプはコントロールアンプにマークレビンソンのML7L、パワーアンプにスレッショルドのSTASIS2。
アナログプレーヤーは、トーレンスのTD126MKIIIC、となっている。

ESL用のスタンドは、ステレオサウンドでの試聴のものとは異り、
マークレビンソンのHQDシステムで使われているスタンドと近い形に仕上がっている。
ただしHQDシステムのものよりも背は多少低くなっているけれど、
ステレオサウンドのスタンドと較べると、下側のESLと床の間に空間がある分だけ背は高い。

2枚のESLの角度は、
ステレオサウンドでの試聴では、下側のESLのカーヴと上側のESLのカーヴが連続するようになっているため、
横から見ると、とくに上側のESLが弓なりに後ろにそっている感じになっている。
音楽之友社(ステレオのすべて)の試聴では、
2枚のESLができるだけ垂直になるように配置されている(ように写真では見える)。

実験はしたことないものの、2枚のESLをどう配置するか、
その調整によってダブルスタックのESLの音が想像以上に変化するであろうことは予測できる。

だから同じダブルスタックといっても、ステレオサウンドでのモノと音楽之友社のモノとでは、
かなり違うといえばたしかにそうであろうし、
それでも同じダブルスタックのESLであることに違いはない、ともいえる。