Archive for category テーマ

Date: 3月 20th, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その4)

ダイヤトーンのDS1000の実力を最初から知ること(聴くこと)ができたのは、
ステレオサウンドで働いていたおかげであり、井上先生が鳴らされるのを最初に聴くことができたからである。

もし自分の手でDS1000を鳴らしていたら、
井上先生が鳴らされたDS1000の音を聴いてなければ、
いまここでDS1000をとりあげることはなかったはずだ。

ヤマハのNS1000M。
このスピーカーシステムが登場したときは最新鋭機であった。
そのNS1000MもDS1000が登場するころには、ロングセラーモデルになっており、
最新鋭機とは呼べなくなっていた。

DS1000もまたダイヤトーンが送り出した最新鋭機ともいえよう。
カタログや技術資料をみれば、スピーカーユニットに投入された技術について知ることができる。
ここでは具体的には触れないが、この価格帯のスピーカーシステムにこれだけの内容を……、と感心する。

とにかくDS1000はそういうスピーカーシステムだったゆえに、
ただ設置して接続して鳴らしたときの音は、うまく鳴ることはまずない。
たいていはひどい音がするはずだ。

DS1000はとにかくいろんなことに敏感に反応してくれた。
ケーブルの交換に対しては勿論のこと、アンプやプレーヤーの設置位置の違いにも、
セッティングをつめていくことで敏感に反応していくのが、手にとるようにわかる。

つまりレスポンスのいいスピーカーシステムであった。
そして、このレスポンスについてが、この項を約一年ほったらかしにしていて、思いついたことでもある。

Date: 3月 19th, 2014
Cate: audio wednesday

第39回audio sharing例会のお知らせ

4月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 19th, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その3)

(その1)を一年前に書いた。
(その1)を書いたとき考えていたのは、ダイヤトーンのDS1000のことを書こう。
つまりは私にとってDS1000がどういう位置づけのスピーカーシステムであったのかについて書いていこう──、
その程度のことを思いついて、忘れないうちにとにかく(その1)を書いておこう、ということだった。

そんな思いつきからの(その1)だったから、
(その2)以降をどう書いていこうか、と少し思案していた。

私の中に、DS1000を一年に一度でいいから鳴らしたい、という気持はある。
これはDS1000がよく鳴っている音を聴きたい、というわけではない。
あくまでも自分の手でDS1000をセッティングして、細かなチューニングをして、
納得のいく音が出るまで鳴らしてみたい、ということである。

いわば腕試しでもあり、自分の鳴らす技術の確認という意味合いも、ここにはある。

では、なぜそんなことを考えるのか。
それはDS1000というスピーカーシステムの性格にあるように感じている。

DS1000をステレオサウンドの筆者で高く評価されていたのは、井上先生だけ、といっていい。
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌では、はっきりとは憶えていないけれど、悪い評価ではなかったはず。
高性能なスピーカーシステムとして、高い評価を得ていたのではなかろうか。

だが、あの当時DS1000を高く評価していた人のどれだけが、
本当のDS1000の音を聴いていたのか、
表現を変えれば、どれだけの人がきちんとDS1000を鳴らしていたのか、
甚だ疑問である。

Date: 3月 18th, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その2)

タイトルに「一年に一度の」とつけてしまったからではないのだが、
その1)を書いたのが昨年の三月。

続き(その2以降)を書こう書こうと思いつつ、すっかり忘れてしまっていて、一年が経ってしまった。
このテーマ自体も「一年に一度」になろうとしている。

私が「一年に一度」のスピーカーシステムとして、
この項で書いていくのはダイヤトーンのDS1000である。

DS1000は型番についている1000という数字があらわしているように、
ダイヤトーンがヤマハのベストセラーモデルNS1000Mのライバル機種として、
世に送り出した(問うた)スピーカーシステムである。

NS1000Mと同じ3ウェイのブックシェルフ型。
ウーファーの前面に保護用の金属製ネットはないし、
エンクロージュアの仕上げもNS1000Mのブラック塗装に対して、木目となっているにもかかわらず、
見た印象は、NS1000Mよりも新しいスピーカーシステムとしての精悍さが、それなりに感じられる。

ダイヤトーンは、DS1000にどれだけ力を入れていたのかは、実機を前にすると伝わってくる。
時代が違うとはいえ、よくこの値段で、これだけのスピーカーシステムをつくれるものだ、と感心する。

いま、DS1000を一から開発するとしたら、どういう価格設定になるのか。
ずいぶん高価なスピーカーシステムになると思う。

そういうDS1000なのだが、決して評価が高いわけではなかった。
スピーカーとしての高性能ぶりは認めるものの……、という評価が少なくなかった。

Date: 3月 17th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その1)

オーディオの世界は豊かになっているのか。

オーディオにのめり込んで30年以上が経つ。
1970年代後半と、世紀が変り2014年となった今とでは、
ずいぶんとオーディオをとりまく状況に変化があるのはわかっている。

1970年代後半に当り前のように身の回りにあったモノのいくつかはいまでは消えてしまっているし、
当時は、こういうモノが登場するのはずっと先──、
そんなふうに思い込んでいたり、想像もしなかったモノが当り前のように身の回りにある。

それらのモノ自体の変化もそうだが、モノの値段も昔の価値観ではいまの価格は理解できないところもある。
携帯電話、スマートフォンの価格は、1970年代の人にはそうであろう。

なぜ、こんな値段で買えるのかの理由は知ってはいても、
ほんとうのところを理解しているとはいえないところもある。

それが高度に発達した資本主義なんだよ、といわれても「そうなんですか」としかいえない私は、
結局のところ、資本主義の世の中がよくなるには、
ほんとうにいいモノが増えていくこと以外にないのでは、とも思う。

スティーヴ・ジョブズがAppleに復帰したころだったか、
「世の中が少しだけまともなのはMacがあるからだ」と言っていたのを思い出す。

これは裏を返せば、「世の中がこんなにひどいのは……」ということになるわけだ。

Date: 3月 15th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その10)

「4343よりも4333の方が……」、
こんなことをいう人のスピーカーの鳴らし方はたいてい幅が狭い、とでもいおうか。

4343や4333のところをほかのスピーカーに置き換えてもいい。
とにかくこんな言い方をする人は多くはないけれど、少ないとはいえない。
しかもそういう人に限って、自分はスピーカーの鳴らし手として優れている、と思い込んでいる節がある。

けれど、私に言わせれば、こういう人のスピーカーの鳴らし方は、
少し極端な表現をすれば、ワンパターンである。
だから、幅が狭い、と書いた。

オーディオとは自分の好きな音を出すこと、だと、この手の人はいう。
自分の音を持っていなければ、いい音は出せない、と力説される。

このことを完全否定はしないけれど、はたしてそうだろうか。
彼は「自分の音」という幅の狭い鳴らし方に嵌っているだけのような気がしてならない。

ほんとうに優れたスピーカーの鳴らし手は、決してワンパターンな鳴らし方をしない。
瀬川先生がそうだったし、井上先生もそうだった。

あくまでもそのスピーカーシステムの個性・特性を活かしながら、うまいこと鳴らす。
もちろん、そこには瀬川先生ならではの音があり、井上先生ならではの音があるから、
そのスピーカーらしい、うまい鳴らし方であっても、決して瀬川先生が鳴らした音と井上先生が鳴らした音が、
同じになることはありえない。

私は車の運転はしないけれど、これは車の運転と同じなのではないか、と思う。

Date: 3月 11th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(三年が経ち……)

書くことにつまる日は、それまでにも何度かあった。
それでもなんとか一行目を書ければ、ある程度の量の文章はかけなくもない。

でも、この日だけは違った。
何を書けばいいのたろうか、
それよりも書くべきなのだろうか、とも考えてしまった。

音楽とオーディオに関することしか書いていないブログである。
そういうブログを、こういう日に更新する意味があるのか、
あったとしても、何を書いたらいいのか……。

納得いく答が出せるまで考えていては日付が変ってしまう。

三年前の14時46分以降、ずっとMacの前にはりついていた。
テレビをもっていなから、インターネットとMacによる情報しかなかったからだ。

東京にいても、いままで体験したことのない、しかも恐怖を感じた揺れだった。
とてつもないことが起った、起っている、ということはなんとなく感じてはいても、
Macのディスプレイに表示される映像は、すぐには何が起っているのかわからなかった。

しばらくして何が起っているのかわかった。

時間はあっという間にすぎさっていく。
日付が変るまでそんなに時間がない、というときに、何を書いたらいいのか、わからなくなってしまった。

日付が変り、すぐさまGoogle Analyticsでアクセスログを見た。
東北からのアクセスは、少なかった。
もともと東北からのアクセスは多くはなかった。けれどほんのわずかだった。
おそらく14時46分以前のアクセスだけだったのだろう。

次の日、東北からのアクセスはなかった。
次の日もなかった。三日目もなかった、と記憶している。

四日目か五日目だったか、やっとアクセスがあった。
とても少なかった。

でもアクセスがあったことに、なんといったらいいのだろうか、ほっとした面があった。
次の日も次の日もブログを書いていた。

オーディオのサイトやブログをやっている人の中には、
こういう事態だから、更新していくこと自体が不謹慎だとの理由でしばらく休む人も少なくなかった。

なのに音楽とオーディオのことを、毎日書いていることを、
どう受けとめられるのかについて考えていたからだ。

私は不謹慎だとは思っていなかった。
だが、それはあくまでも私がそう思うだけであって、読み手側がどう感じるかのはわからない。
それを間接的に伝えてくれるのは、Google Analyticsが毎日表示するドライな数字だった。

一週間経つと、もう少し増えた。
それでも以前よりもずっと少ない。
勝手に、以前の数字には戻らないのか、戻るとしても長い時間がかかるのではないか。

どうなるのかはわからなかった。
ただ書いていくだけである。

アクセスは増えていった。
半年ぐらい経ったころだったか、以前のアクセスよりも多くなっていた。

いまでは、東北からのアクセスは、あの日以前の倍以上になっている。
正直、まったく予想できないほどアクセスは増えた。

だから東北が復興したとはおもっていない。
まだオーディオを再開できていない人もおられるとおもう。

はっきりとしたことを何か言えるわけではない。
それでも、少なくともあの日もふくめて、それ以降も毎日書いてきたことが、不謹慎ではなかった、
不謹慎と思われていたわけではなかった。
これだけはいえる。

Date: 3月 11th, 2014
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その1)

ここに書くことは、2011年6月に書こうと思ったこと。
たいてい、書きたいと思ったこと、書けると思ったことは、すぐに書き始めるようにしている。
なのにどうしていままで書かなかったかというと、書かない方がいいかも、という気持が強かったからだ。

2011年6月から約三年が経って、やはり書くことにしたのは、
その時感じたことを、より強く感じるようになってきたからだ。

2011年6月に出たステレオサウンドは、3.11のあとの最初のステレオサウンド(179号)である。
巻頭エッセイとして「今こそオーディオを、音楽を」が載っている。

2011年3月11日にステレオサウンド 178号は出ている。
それはたんなる偶然でしかないのかもしれないが、はたしてそうだろうか、ともおもう。

178号は編集長が、現在の染谷氏に変って最初のステレオサウンドである。

実はステレオサウンドの編集長が交代する、という噂はその二年前ごろから耳にしていた。
ほんとうかどうかは、部外者の私にはわからない。
一年前になると、こういう理由で交代する、というまことしやかな噂も入ってくるようになってきた。
それにステレオサウンドの奥付をみていると、交代の噂はほんとうなのかな、と思わせていた。

これらの噂が事実だったのかどうかは私にはどうでもいい。
とにかく2011年からステレオサウンドの編集長が変った、ということ。

それはおそらく急な交代ではなく、ある程度の準備期間があっての交代であったはずだと思っている。
ということは現在の染谷編集長は、
編集長になったら……、ということを、それだけの期間考えつづけてきたことだと思う。

そうやってつくられた、染谷編集長にとっての最初のステレオサウンドが2011年3月11日に出た。

それまで編集者として携わってきたステレオサウンドと、
編集長としてのはじめてのステレオサウンドとでは、それが書店に並んだときの感慨は同じではないはず。
そういう日が、3.11だった。

三ヵ月後の179号は、3.11を無視した号ではないことは、誰もが思っていたはず。
編集部もそういう気持でつくっていたことだとおもう。

「今こそオーディオを、音楽を」が載っていた。
この記事については特に書かない。
私が思ったのは、これだけなのか……、だった。

Date: 3月 9th, 2014
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その2)

「うつし」を現し、顕しとも書くことが、
「音は人なり」につながっているようにおもえてならない。

そして「うつ」という漢字には、全、空、虚がある。

Date: 3月 8th, 2014
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その1)

録音はひとつの記録行為であるから、視覚的記録行為である写すといえよう。

再生は写されたものを聴き手によって映すといえよう。

写すも映すもどちらも「うつす」であり、
写されたものを映す側のところに届ける行為もまた移す(うつす)である。

録音物(レコード)はいわば写しであり、
再生されて聴き手の前に現れる音は映しである。

「うつし」は現し、顕し、でもある。

Date: 3月 7th, 2014
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その14)

その13)の最後で書いた「エキゾティシズムへの憧れ」とは、
これまで書いてきたエキゾティシズムとはまったく異るエキゾティシズムではないのか、と思うようになっている。

(その13)を書いたのが二年前なので、少しくり返すが、
1970年代、私がオーディオに関心をもち始めたころ、
オーディオ雑誌では国による音の違い、風土による音の違いが存在することを語っていた。

アメリカにはアメリカならではの音があり、ヨーロッパにはヨーロッパの音があり、
さらに同じアメリカでも西海岸と東海岸では、ひとつのアメリカンサウンドとして語られながらも、
はっきりとした性格の違いがはっきりとあり、
同じことはヨーロッパのスピーカーでも、イギリス、ドイツ、フランスでは違っている。

だからステレオサウンドは創刊15周年記念として、
60号ではアメリカ、61号ではヨーロッパ、62号では日本の、それぞれのスピーカーの特集を行っている。

この企画を、もしいま行うとしたら、ずいぶんと違う切り口が必要になる。
ステレオサウンド 60号の時代からの変化があるからだ。

このエキゾティシズムとは別に、時代の違いによるエキゾティシズムもある、といえるだろう。
原体験として聴いたことのない時代の音を若い人が求める理由のひとつには、
時代のエキゾティシズムが関係しているように感じられる。

このふたつのエキゾティシズムは、変な言い方になるが、まっとうなエキゾティシズムであるといえよう。
けれど、私がこの項でいいたいのは、もうひとつのエキゾティシズムがあり、
このエキゾティシズムはやっかいな性質のものであり、
このエキゾティシズムをもつスピーカーシステムの音を「新しい」と感じ高く評価する人もいれば、
私のように「欠陥」スピーカーとして受けとめる者もいるわけだ。

このエキゾティシズムは、私の耳には音楽を変質させてしまうエキゾティシズムであり、
認めることのできないエキゾティシズムである。

Date: 3月 6th, 2014
Cate: 新製品

新製品(その6)

新製品といっても、大きく分ければふたつある。
ひとつは、いわゆる新製品である。
それまでなかった製品が、あるメーカーから発売になる。
もしくは新顔のメーカーのデビュー作も、この新製品である。

もうひとつは評判の高いオーディオ機器の改良モデルといえる新製品である。
こういう新製品は、型番の末尾にMK2とついたり、アルファベットがつけられたりして、
基本となった製品との区別がつくようになっている。

同じ新製品であっても、まったくの新製品に対して、いったいどういうモノだろうという期待がある。
既存のメーカーのそういった新製品であれば、ある程度の予測ができないわけではないが、
まったくの新ブランドの新製品となると、そういう期待はふくらむ。

改良型としての新製品に対しては、
以前の製品とどう変ったのかについての興味の方が強くなる。
それはこういった製品の記事を読む側にとっても、そのはずだ。

以前のモデルと技術的にどう違って(進歩して)いるのか、
デザインの変更はあるのか、
そしていちばん肝心なことは音がどう変ったのか、である。

改良型が出るモデルは、少なくとも一定の評価を得ているモデルである。
まったく不評だったモデルの改良型を出すようなことは、メーカーはまずやらない。

Date: 3月 5th, 2014
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その6)

アクースティック蓄音器には、いっさい電気は使われていない。
機械仕掛けだけでSPレコードを回し、そこに刻まれている溝を音へと変換する。
ボリュウム調整も、だからできない。

いわば原始的な再生装置である。
周波数レンジも広くないし、ダイナミックレンジだって狭い。
ノイズも多い。

電気の恩恵が一切ないことが、こういうものなのか、とネガティヴな方向に感じる人がいる。
反対に、電気仕掛けが一切ないことは、こういう音なのか、とポジティヴな方向に感じる人がいる。

どちらが正しいのか、それについて書かない。
その人が過去に、もしくは現在でもいい、
どういうアクースティック蓄音器を聴いてきたかに大きく関係していることであるし、
それだけでなく、その人が聴く音楽によっても、どう感じるかはまるで反対の方向を向く。

それによって、「蓄音器的」という表現の受けとめ方(それに使い方)は異る。

Date: 3月 3rd, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その7)

各社からメーターユニットが出ていた時代、
ステレオサウンドから出ていたHI-FI STEREO GUIDEの1977年度版を買った。

このHI-FI STEREO GUIDEのアンプ関係のページに、OTHERSというのがあり、
そこにメーターユニットが掲載されていたのを見て、
中学生の私は、このメーターユニットが欲しいなぁ、
このメーターユニットを買ったら、システムのどんなふうに組み込もうかな、などと夢想していた。

メーターがついているアンプが必ずしも欲しいと思えるアンプではなかったりするから、
メーターユニットが別に欲しくなったのだろう。

これは私ひとりの、たったひとつの例ではあるけれど、
確かにメーターが、システムのどこかにあるということは、マニアックな心理をくすぐっていた。

とはいえ中学生のマニアックな心理など、マニアックなことに憧れている心理でしかなかったのかもしれない。
それでもメーターがあるのはいいかも……、そう思っていたことは確かだった。

メーターユニットといっても、
メーターの種類で区別すればふたつにわけられる。

いわゆる昔ながらの針の振れるタイプのメーター、
それとLEDその他の発光体を採用した点灯式のメーターである。

Date: 3月 3rd, 2014
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その5)

phonogramの転換としてのgramophoneであり、
gramophoneは日本語で蓄音器、蓄音機、チクオンキだったりする。

蓄音器も、音を表現する言葉として使われることがある。
蓄音器的な音、といったりする。

この蓄音器的な音を、読み手はどう解釈しているのか。
私は、この「蓄音器的な音」は、誰が使うかにもよるが、
私が信頼している人の文章において、「蓄音器的」は、いわゆる褒め言葉である。

けれど、その同じ人の文章を読んでも、「蓄音器的」とあることで、
そう書かれたオーディオ機器は、むしろ貶されている、と受けとめている人がいることを知った。

そんなふうに受けとめてしまった人が、まだ10代であり、
ほんとうに優れた蓄音器の音を聴いたことがないのであれば、
「蓄音器的」という表現を誤解してしまうのもうなずけないことはない。

それまではそんなふうに思っていた。
でも、現実には逆なのかもしれない。

私より上の世代のほうが、「蓄音器的」という表現をそう受けとめる人が多いのかもしれない。

私は何度も書いているように「五味オーディオ教室」からオーディオを始めた。
そこにも「チクオンキ的」が出てくる。
     *
 ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
     *
ここでの「蓄音機の音」「チクオンキ的」の蓄音器とは、
電気蓄音器ことではなく、その前のアクースティック蓄音器のことであるのはあらためていうまでもないことだ。