Archive for category 「介在」

Date: 2月 3rd, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その5)

ノイズキャンセリング付のヘッドフォンで音楽を聴くということ、
ヘッドフォンから鳴ってくる音楽以外のすべての音を消し去って聴きたいということであり、
このことは、音楽以外には耳を閉ざしてしまっている──、そういう聴き方だと思う。

周囲の音いっさいに煩わされずに、音楽のみに耳を傾けることができるノイズキャンセリング付のヘッドフォンこそ、
もっとも純粋な音楽の聴き方、といも言える、──とは思えない。

去年の週刊文春に載っていた、たしか市毛良枝さんの記事だったと記憶しているが、
高齢のお母様のためによかれと思ってバリアフリーのマンションにいっしょに住むことにしたら、
なぜだが元気を失われていった。
で、ある時、以前住んでいた一戸建ての家に市毛さんが戻った時に、
ご近所の方々に「お母様はどうなされています?」と訊ねられた。

結局、市毛さんのお母様が元気をなくされていったのは、
高層マンションで周りの雑多な音がまったく聞こえてこない。
そういう環境によって、だということだった。
マンションから出られて、一戸建ての家に戻られて元気になられた、とあった(そう記憶している)。

一戸建てだと、ご近時の音も聞こえている、それ以外にも人が営むことによって生じる雑多な音が聞こえてくる。
そういう音を騒音だと捉えて、まったく拒否してしまうことは、どこか不自然な行為ように感じる。

われわれはありとあらゆる音に囲まれてて生きている。
たとえば50年前、100年前に比べると、われわれの周りにある音の種類は増えているはず。
そのわれわれをとり囲んでいる音こそが、いちばん時代を反映している音だと思う。

なにも不快なほど大きな雑多音の中で、音楽を聴け、といいたいわけではない。
ただ、周りにある音をすべて拒否した中で音楽を聴くことは、ほんとうに音楽を聴くことといえるのだろうか、
そしてほんとうに純粋な音楽の聴き方といえるだろうか。
そういう疑問がわいてくる。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その4)

人間にとっての音の入口となる耳の穴は、真正面からは見えない。
斜め後ろからでない、見えてこない。

外耳がある、というものの、耳は目と違い、前面に対してのみ感知器官ではない。
人間の視野はそれほど広いものではない。
横にあるものを見たいときには、横を向く必要がある。

耳は360度、どの方向からでも、どちらを向いていても感知できる。

人間の得る情報量の大半は視覚から、ということになっているが、
その視覚が対応できる範囲は広くない。
それに目は閉じられる。

耳にはまぶたはない。寝ているときも、音を感知している。
つねに広い範囲の音を感知しているからこそ、人は察知することができるのではないだろうか。

そうやって生きてきている、その中で音楽を聴いてきている。

ところがノイズキャンセリング付のヘッドフォンばかりでの音楽の聴き方は、
その意味でまったく別もののではないかと思うわけだ。

スピーカーを通して聴くのと、ノイズキャンセリング付のヘッドフォンで聴くのと、
もしかすると、後者のほうが純粋に音楽を聴いていることになる、といえるのかもしれない。
どちらが優れた聴き方、という区別はつけるものではないのかもしれない。

それでも、前者と後者では、マーラーが作品に書きこんだ景色は、同じに観得るのか、という疑問は残る。

そして、マルチチャンネルと、これまでの2チャンネルとの違いも、
ここに書いたことと近いものがあるのではないだろうか。

2つのスピーカーのあいだにある「窓」は、マルチチャンネルではなくなってしまうのか、
それとも360度すべて窓になってしまうのか(そうなったら、それは窓ではなくなってしまう気もする)。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その3)

オーストリアのある山荘にて作曲に没頭していたマーラーを訪ねてきたブルーノ・ワルターが、
まわりの景色に見とれていたので、
「その景色は私の音楽の中にすべて入っている」とマーラーは言った、というエピソードがある。

このマーラーの言葉どおりであるならば、聴き手は、マーラーの音楽をとおして、
彼が眺めてきた景色、だけでなく、彼が生きてきた時代の空気、ほかにもいろいろあるだろうが、
そういったことまでも、真に優れた演奏からは感じとれる道理になる。

その意味で、聴き手の目の前にあるふたつのスピーカー間の空間は、
まさしく世界・社会に通じている「窓」といえるのかもしれない。

音楽を聴く、という行為は本来孤独なものである、と同時に、
その「窓」によって、なにかとつながっている。

その「窓」が、ヘッドフォンのみで、さらにノイズキャンセリング付のもので、
雑多な音に耳を閉ざすような聴き方をしていると、存在しなくなる──、そんな気がする。
どこにも通じなくなっている。

聴き手は、その「窓」をとおして、いろいろなものを見てきている。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その2)

外で、電車内とかで、音楽を聴く習慣は全くない。

iPodは割とはやい時期に購入した。
ソニーのウォークマンも初代は持っていなかったけど、2代目のモデルは持っていた。
でも、歩きながら、とか、電車の中で一、二度使ってみたことはあっても、結局それっきり。
あとは、家で気が向いたときに使う、という程度である。

だから、正直、歩くときも電車の中でもずっとヘッドフォン(イヤフォン)をして、
長時間音楽を耳にしている人に対しては、音楽を聴いているのか、という疑問は湧いてくる。

「聴いている」という答えが返ってくるだろう。
そこで、音楽を聴く、ということについて議論する気はない。

でも、ノイズキャンセリング付のヘッドフォンをかけている人が、電車の中でも増えてきているを目にして、
「聴いている」にしても、ずいぶん違う聴き方であるだけでなく、
もしかすると、まるっきり対極にある聴き方をしているのではないか、と考えるようになってきた。

電車の中では、雑多な音がしている。走行音やまわりの人の発する声や雑音、
それらを耳にするのが嫌で、音楽で遮断したい、という人がいるという話を、誰かから聞いたことがある。

好きな音楽を耳もとで、ある程度の音量で鳴らせば、たしかにまわりの、そういった雑音は聞こえにくくなる。
そこにノイズキャンセリング機能が加わると、さらにまわりの雑音はより徹底的に遮断される。
そのうえで、音楽で、音のカーテンをつくる──そんな印象を、私は受ける。

そういう音楽の聴き方を日常的になってしまった場合、スピーカーを通して聴くのとでは違ってくるし、
ヘッドフォンでの音楽の聴き方についても、そういうことが当り前になった人と、
スピーカーと併用してヘッドフォンでも音楽を聴く、という人とでは、まるっきり違うはず。

Date: 1月 24th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その1)

どの新聞だったのかは忘れてしまったけど、
日本でiPhoneが発売されてしばらく経ったころ、「iPhone、日本市場で苦戦」といった記事があった。
iPadが登場したときも、似たような記事を見かけた。

でも、それらの記事が出るすこし前に、電車に乗っていると、iPhone、iPadを使っている人を、
毎日、必ず見かけるようになっていた。
iPhoneに関していえば、一車両に、ひとりということはなく、
複数の人が使っていることが多く見かけていただけに、なんと間の抜けた記事なんだろう、と思った。

こういう記事を書く人は、電車に乗らないのだろうか。
少なくとも、東京に住んでいて、電車に乗ってまわりを見渡せば、それが流行りつつあるのかどうかは、
なんとなく感じとれる。

その例でいえば、最近電車でよく見かけることが多くなったのが、
ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンで音楽を聴いている人だ。

ヘッドフォン、イヤフォンで聴く人は、増えているのだろう。
若い人のなかには、スピーカーに関心をもたずに、ヘッドフォン、イヤフォンだという話も耳にする。
そういう人たちのなかからスピーカーに移る人も、少ないような話も聞く。

スピーカーで聴くのがメインの私でも、ときにはヘッドフォンで音楽を聴く。
思うのは、スピーカーとヘッドフォンを併用している人の音楽への接し方と、
ヘッドフォンだけという人では、もしかすると違うのかもしれない、と、
電車の中でのノイズキャンセリングのヘッドフォンを見て、思う。

ノイズキャンセリングにするのは、雑音を打ち消して、
いい音をそれほど音量をあげずに聴けるという効果が認められてきたのだろう、と昨年までは思っていた。

でも、今年になって思うのは、耳を閉ざしているのではないか、ということだ。

Date: 1月 8th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その5)

土に親しむ時期がなく育ってきた人たちなのだろうか、
いま土を、なにか汚いもの、として受けとめている人が増えつつあるという話をつい最近聞いて、
あまりにも意外なことで、驚いてしまった。

土を汚いものとして受けとめている人たちは、その土で育つ作物に対して、どう思っているのか。
野菜や果物をまったく口にしないというのだろうか。

これから先、10年後、20年後……、どのくらい先になるか見当はつかないけれど、
土にまったく触れずに育っていく人たちが出てくるのかもしれない。

土を毛嫌いする人、土に触れずにきた人、
そういう人たちがオーディオ機器の開発に携わってくることだってあるだろう。
スピーカーの開発にも携わってくるだろう、そういう人たちが──。

そういう時がくるのはまだまだ先だろうから、
それまでにも、スピーカーの技術は進歩していくだろう。

いったい、そのときスピーカーの音は、どうなっているのだろうか。

Date: 1月 4th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その4)

風土、ということばは、「風」と「土」からなっている。

風土、ということばには、そこに住むひとの慣習や文化に影響を及ぼす気候、地形、地質など、と辞書にはある。

土地によって土の性質は違う。だから、その土地ごとの特産物がある。
土の色も違えば、粘度も違う。
その土が、舗装される面積が増えることで、表面には露出しなくなりつつある。

都心でマンション住まいの方ならば、会社にいって帰ってくる間にいちども土を踏むことなく一日がおわる、
というひとは少なくないと思う。

そして都心では高層ビルが乱立している。

風も、土同様、その地域地域での独特の「風」であるはず。
それが巨大な人工物によって通り道を塞がれ、風と密接な関係にあるであろう土も舗装されつつある。
そのことによって、それぞれの国、土地に吹いていた風の性質が、
どこもかしこも似通ってきているのかもしれない。

実はこのことが、各国のスピーカーの音から、ある種の個性が稀薄になりつつある原因なのかもしれない。

Date: 12月 31st, 2010
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その3)

瀬川先生が、音と風土との関係性について語られていたころからすると、
いまのスピーカーを眺めてみると、国の違いによる音の個性は薄らぎつつある。

それが技術の進歩だ、といってしまえば、まさしくそのとおりだが、
はたして技術進歩だけが、その理由だろうか、とも一方で思う。

たしかにスピーカーの分析・測定技術が進歩し、
設計・開発も、それ以前の勘に頼っていた作り方から、次の時代の作り方へと移ってきた。

理想のスピーカーとは、どこのメーカーのスピーカー・エンジニアがいうように、
ノン・カラーレイション(色づけのない)音であり、その色づけが、いわばお国柄だった、と捉えられてきた。
でも、ほんとうに、そういう色づけは、瀬川先生の言われていた音と風土の関係によるものなのか。

それはスピーカーのお国柄というよりも、ブランドの個性であって、
それとは別に国による音の違い、という個性は別に存在しているとはいえないだろうか。

瀬川先生の時代と、いまとではオーディオの世界も大きく変化している。
いまスピーカーユニットを製造しているところは、あのころからすると数は減っている。
アメリカのスピーカーメーカーでも、日本のスピーカーメーカーであろうと、
どちらも同じヨーロッパのスピーカーユニット製造メーカーのものを使っている例もある。

メーカーによっては、製造メーカーに対して、細かな注文を出しているだろうが、
それでもスピーカーシステムの中核をなすユニットが同じメーカーで作られているものを搭載していては、
スピーカーユニットを自社生産していたころからすると、個性は薄らいで当然だ。

ここで薄らぐのは、メーカーの個性なのか、それとも国による個性なのか。

Date: 6月 1st, 2010
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その2)

瀬川先生は、音と風土の関係について、熱心に語られていた。

この「風土」ということばには、「風」がある。
「風」がある言葉で、音を表現することに関係している、もしくは使えそうな言葉をひろっていくと、
風景、風格、風潮、風圧、風合、風韻、風雅、風趣、風情……、といったところだろう。
風琴もある。いうまでもなくオルガンのことだ。

音には「風」の側面ももっているように、感じている。
そう考えていくと、音圧ではなく風圧、地響きではなく風を、
部屋の中に起こすことがオーディオにおける低音再生のコツ、というよりも真髄のようにも思えてくる。

音と風土ということでは、JBLの音について、
以前はよく、カリフォルニアの「空」を思わせるようだ、という表現がよく使われていた。
なぜ「空」だったのかと考えれば、写真で、そのイメージを視覚的に伝えることが容易だからではないだろうか。

だが、JBLの音は、カリフォルニアの「風」を感じさせる、というほうが、より本質的な表現にならないだろうか。
カリフォルニアの「風」を感じさせるように鳴ったとき、
JBLのスピーカーは本領発揮をしているといえるような気もする(カリフォルニアに行ったことはないけども)。

ここに、音と風土の関係性があるといえるのではないだろうか。

Date: 4月 4th, 2010
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その1)

小林秀雄氏の「モオツァルト」。
ここに引用するまでもなく、私と同じ世代、そして上の世代の方に、強く刻まれているであろう、
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。」──。

「疾走するかなしさ」と語られることもある。

いまさら小林秀雄の「モオツァルト」でもあるまい、という世代もいるかもしれない。
それでも、かけがえのない存在、に近いところがある。

瀬川先生は、「モオツァルト」を書き写された。
そう聞いたことがある。だから、私も書き写したことがある。

そうやって読んできた「モオツァルト」を、ほんのすこしオーディオ的な側面から捉えてみると、かなしさの疾走には、風がともなっているはず、だと思えてくる。
疾走することによって、風が興る。

この「風」こそが、オーディオを通してモーツァルトを聴くのに不可欠な要素だと、
私の裡では、そう木霊している。

これが正しいモーツァルトの聴き方、というつもりはまったくない。
といいながらも、「風」を感じられない音で聴いて、何になるのか、ともいっている私が、いる。