Archive for category テーマ

Date: 12月 24th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その3)

ステレオサウンドにいたころ、菅野先生から聞いた話がある。
菅野先生ご自身の話である。

ある時期、音というものがわからなくなった。
それでラジカセを買いに行かれたそうだ。

オーディオ評論家として顔も名も知られているから、デパートに行って買ってきたよ、
と笑いながら話されていた。

そのときも、さすがだな、と思っていたけれど、
いまのほうが、もっとそう思っている。

菅野先生も、いうまでもなくご自身の耳を信じられている。
それでも、信じ込まれているのではないように思っている。

信じることと信じ込むことには、微妙な違いがあり、
こと音を聴くうえでは、信じ込んでしまっては、音の罠のようなところに陥ってしまうこともある。

自分の耳は絶対だ、と信じ込める人は、
音がわからなくなった、という経験はされていないであろう。

私は自分の耳を信じている。
最終的には自分の耳で聴くしかない。
それでも信じ込まないようにはしている。

つねに自問自答が、耳には必要であり、
それを怠ったとき、知らぬ間に音の罠にどっぷりとはまってしまう。

そんな気がしている。
だからこそ、菅野先生のラジカセを話を思い出して書いた。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その19)

まだまだ書きたいことはある。
書くほどに書いておきたいことが出てくる。

でも、いったんこのへんにしておく。
(その16)に書いているように、山口孝氏がどう思われているのか、感じられているのかを知った上で、
書きたいからだ。

なので、町田秀夫氏には再度お願いしたい。
山口孝氏がどう思われているのかを確認していただきたい。

でも、これだけは書いておく。
町田秀夫氏は、こう書かれている。
     *
宮﨑氏が編集部に連絡した時点で、すべてが終わってしまったのだ。ステレオサウンド誌からは山口氏の記事が消え、また別の出版社は山口氏の新刊本の準備を終えていたにも関わらず、この騒動を契機に出版を取り止めている。
     *
私が原田勲氏に連絡したのは、すでに書いたように2012年8月である。
私の見落しでなければ、山口孝氏は179号(2011年6月発売)に書かれた後は、
183号(2012年6月発売)まで、なにひとつ記事は書かれていなかった。

私がオーディストの件で連絡したから、山口孝氏の記事が消えてしまったわけではない可能性もある。
それとも184号から連載がはじまる予定があったのだろうか。
それが、私が連絡したために消えてしまったのだろうか。

そのへんのはっきりしたことは、私にはわからない。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その18)

ステレオサウンドは、誰のためのものか。
そう問われれば、読者のためのもの、とも答えるし、
クライアント(オーディオメーカー、輸入商社)のためのもの、とも、
筆者のためのもの、とも答える。

けれど、ステレオサウンドは誰のもの。
そう問われれば、原田勲氏の本だと即座に答える。

私は、このオーディストの件も含めて、
ステレオサウンドに対して批判的なことを書いている。
私が書いているものを読んで、
遠慮も配慮もないやつだな、と思われる人がいても不思議ではない。

それでもあえていうが、侵してはならない領域があるのはわかっている。
「オーディスト」はその領域に入りこんでくる。

私はステレオサウンド(原田勲氏の本)には、感謝している。
ステレオサウンドが、原田勲氏以外の人によって創刊されていたら、
まったく別のオーディオ雑誌になっていたし、私のオーディオ人生も違ったものになっていたかもしれない。

原田勲氏の五味先生に対するおもいがあったからこそ、ステレオサウンドはステレオサウンドたりえていた。

今日町田秀夫氏は、こう書かれている。
     *
五味氏は補聴器を用いていたが、自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろうし、むしろ卓越した聴取能力を誇っていた。音を聴き取ることは、耳の能力だけでは語れないことは、以前から申し上げているとおりだ。
     *
これを読んで、がっかりした。
町田秀夫氏は五味先生の書かれたものを読まれていないのだ、とはっきりとわかったからだ。

こんなふうに書くと、読んでいると反論が来るだろう。
でも、ほんとうに読まれているのだろうか。
字面を追いかけただけの読むではなく、
五味先生の「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」をほんとうの意味で読まれたのか。

読んでいる人ならば、《自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろう》とは間違っても書けない。
その後に続くことは、私も同感であるが、この部分に関しては、
町田秀夫氏にがっかりした、ひどくがっかりした。
なぜ、読まずにこんなことを書かれるのか、と。
読んでいなければ書かなければいいだけなのに……。

何度も出てくる。
オーディオマニアとして、音楽愛好家として、
そして女性を愛する男として、聴覚に障碍のあることを悩まれていた、苦しまれていたことを、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」を読んだ人ならば知っている。
五味先生が独白されているのを、知っている。

私は五味先生には会えなかった。
文章のうえだけで知っているだけだ。

原田勲氏は違う。
五味先生のそういう姿を、傍らで見ておられたはずだ。

だから、私はオーディストの件で、原田勲氏にメールしたのだ。
五味先生の文章に、何度もなみだをこぼした者として。
そして、ステレオサウンドの存在に感謝している者として。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その17)

オーディストに関する今回のことは、議論にはならないと私は思っているし、
町田秀夫氏は山口孝氏、私は五味先生のところから発言している。

私はニュートラルな立場から書いているわけではない。
そして私は町田秀夫氏が書かれていることも、
町田秀夫氏がニュートラルな立場から書かれているものとは思っていない。

私はこれでいいと思っている(町田秀夫氏がどう思われているのかわからないが)。

今日、町田秀夫氏は「幻聴日記」で、
私がオーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡した、と書かれている。
私はステレオサウンド編集部には、連絡していない。

町田秀夫氏は、こんな簡単な事実確認をなぜされないのだろうか。
ステレオサウンド編集部に問い合せられるか、私にメールされればきちんと答える。
なにひとつ確認されずに、そう書かれている。

オーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡しても、私は無意味だと考えた。
オーディストが載ったのは、ステレオサウンド 179号。
2011年3月11日のあと、最初に出たステレオサウンドであり、
特集は、それまでの特集記事とは当然違う内容のものだった。

そこにオーディストはあらわれた。
なぜ、よりもよって、この号に「オーディスト」を、何の説明もなしに載せてしまったのか、
とオーディストの意味を知って、そう思った。

そういう編集部に対して、オーディストの件でメールしても、無視されるだけだと思った。
それに私はステレオサウンド編集部の方たちのメールアドレスをまったく知らない。
だから出しようもなかった。

私が、オーディストの件でメールを出したのは、ステレオサウンドの原田勲会長である。

この違いは、町田秀夫氏にとっては些細な違いかもしれないが、
私にとっては大きな違いであり、だから原田勲氏宛にメールを出した。

メールの内容は、オーディストの意味について書いただけの、ごく短いものである。
出したのは179号の約一年後の2012年8月である。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その16)

結局、また書くことになってしまった。
(その12)に書いているようにしばらく、この件については黙っているつもりでいた。
けれど、町田秀夫氏が、ご自身の「幻聴日記」にまた書かれているので、また書くことにした。

おそらくこれから書くことを読まれて、町田秀夫氏はまだ明日、何か書かれるかもしれない。
そうなると私もまた明日書くことになるだろう。

そうなったらとことん書いていこうと思っているが、
これだけは町田秀夫氏にお願いして確認してほしいことがある。

それは山口孝氏は、こういうことになるのを望まれているのか、
それとももう書かないでほしい、と思われているのか、である。

私は山口孝氏とは面識がない。
だから町田秀夫氏にお願いするしかない。

それから、これも先に書いておくが、山口孝氏が私に直接、
この項で書いていることは私(山口孝氏)への人格攻撃だといわれれば、
直接お会いして謝罪しよう。

そして、その時に、山口孝氏から直にオーディストについての考えをききたい。
これはくり返すが、町田秀夫氏にお願いするしかない。

これもくり返しになるが、私自身は、山口孝氏を糾弾しているつもりはまったくない。
けれど、知らず知らずのうちに人を傷つけていることはある。

これは理屈ではなく、今回の件では山口孝氏がそう感じられていたら、謝罪するが、
それでも町田秀夫氏が書かれていることに納得したわけではない。
これだけははっきりしておく。

Date: 12月 22nd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その15)

オーディストという言葉に対して、(宮﨑は)過剰反応している──、
そう思う人がいる一方で、私がここで書いていることに全面的ではなくとも同意される人もいるし、
そんなことどうでもいいじゃないか、という人もいる。

それでいいと、私は思っている。
今回のことで改めて思ったのは、オーディストという言葉に対する、それぞれの反応が顕にするものである。

Date: 12月 22nd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(お知らせ)

この項のカテゴリーは、昨夜までジャーナリズム言葉だった。

今回のことがあったのでオーディストというカテゴリーを加えた。
それからタグにもオーディストを加えた。

Date: 12月 22nd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その14)

その12)で、
200号に五味先生のことがまったく登場しないのであれば、
オーディスト(audist)のことについてもう書くのはやめようと考えている、と書いた。

にも関わらず(その13)を書いたのは、
誤解する人がきっといるからである。

私がオーディストについて書いてきたことを読み返していただければ、
「言葉狩りあるいは人格攻撃」するつもりはまったくないことがわかってもらえるはずだ。

けれど常に誤読、誤解はある。
それに遡って読んでくれる人は少ない。
それがわかっていたから、(その13)を書いた。

それでも、やはり誤読はある。
町田秀夫氏の「幻聴日記」に、
「言葉狩りあるいは人格攻撃」という文章がある。

山口孝氏のオーディストに対する私の行為は、「言葉狩りあるいは人格攻撃」とある。
町田氏は、こう書かれている。
     *
山口孝氏は当然ながら、そのような意図がないことは彼の経歴からみて明らかであり、シンプルに「オーディオ人」という意味合いだろう。audistを社名に入れたオーディオディーラーさえあるのを、宮﨑氏はご存じなのだろうか?
     *
山口孝氏に、そのような意図がないことは、私もそう思っているから、すでにそう書いている。
《シンプルに「オーディオ人」という意味合いだろう》と書かれているが、このことについてもすでに書いている。
audistを社名に入れたオーディオディーラーがあるのも知っている。

さらに町田氏は書かれている。
     *
このような言葉狩り転じて人格攻撃の様相は、まこと残念なことだ。今後、彼がaudistという言葉を使うことはないだろうが、忌まわしい差別用語を廃語にして、楽しいオーディオ用語に変身させることを応援するという手もあるのではないか。
     *
《このような言葉狩り転じて人格攻撃の様相》──、
なぜこう受け止められたのか、と思ってしまった。

どんな人の文章でも誤読、誤解はある。
五味先生、瀬川先生の文章でも誤読、誤解する人がいるのだから、
私の書いたものが誤読、誤解されることがあるのはわかっている。

予測される誤解については、極力そうならないように配慮しているが、なくなることはない。

でもくり返し書くが、オーディストに関することで山口孝氏を糾弾する気などまったくない。

町田氏は、ご自身のfacebookにも「幻聴日記」の文章をそっくり投稿されている。
facebookにコメントしようと思ったが、町田氏は友人以外のコメントを受けつけないように設定されているようで、
facebookでの関わりのない私はコメントができずにいた。

けれど、私が書いたものをきちんと読んでくださっているSさんが、丁寧なコメントをしてくださった。
私が書きたかったことを、ほぼすべて書いてくださった。感謝している。

Sさんのコメントのおかげで、私が山口孝氏を糾弾しているという誤解はなくなった。

最後に付け加えておくが、
町田氏はオーディスト(audist)を、audistという語は現在では聴覚障害者を卑しめる意味と書かれているが、
audistは聴覚障碍者を差別する人、団体を指す。

すでにここのところから、町田秀夫氏は誤読、誤解がある。

Date: 12月 21st, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その13)

言葉狩りをしたいわけではない。

山口孝氏はステレオサウンド 179号でオーディストを使われた。
山口孝氏はそのころ無線と実験での隔月での連載でも、よくオーディストを使われていた。
179号の後、二年ほど使われていたと記憶している。

でも無線と実験の編集部に、オーディストのことでメールをすることはしなかった。
無線と実験だから、というより、無線と実験はステレオサウンドではないからである。

Date: 12月 21st, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その12)

ステレオサウンド 197号が書店に並んでいる。
3月に198号、6月に199号が出る。

200号までにあと二冊出る。
どちらかのステレオサウンドに、オーディスト(audist)についてけじめをつけるのか、
それともこのままだんまりを続けるのか。

オーディスト(audist)はステレオサウンド 179号に登場した。
山口孝氏の造語である。

山口孝氏には、そういう意図はなかったのだろうが、
オーディスト(audist)は、聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われている言葉である。

おそらく200号には五味先生のことが誌面に登場すると思っている。
五味先生が補聴器を使われていたことは知られている。
そのことについて、何度か書かれている。

つまりは、ステレオサウンドの読者をオーディスト(audist)呼ぶのであれば、
ステレオサウンドは、ステレオサウンドの読者を五味先生を差別する人と呼ぶことになる。

ステレオサウンドにとって五味康祐の存在、
ステレオサウンドの読者にとって五味康祐の存在、
いまのステレオサウンド編集部はどう考えているのだろうか。

200号に五味先生のことがまったく登場しないのであれば、
オーディスト(audist)のことについてもう書くのはやめようと考えている。
そういう編集部なのだから……、と思えるからだ。

けれどオーディスト(audist)についてだんまりを決め込んだまま、
200号に五味先生のことが載るのであれば、ステレオサウンド編集部に対して遠慮することをやめる。

何も編集長が責任をとって辞めるべきとは考えていない。
誌面で、言葉でけじめをつけるべきである、と考えているだけだ。

なぜ、オーディスト(audist)という言葉が載ってしまったのか、
しかも179号だけでなく、姉妹紙のHiViでも使われたし、リンの広告でもう一度ステレオサウンドにあらわれている。
こんなことになったことをどう思っているのか、考えているのか。
きちんと説明をしたうえで、200号を送り出してほしいと思うだけだ。

Date: 12月 21st, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その18)

こんなことも考えている。
もしグレン・グールドが生きていたら、と。

アンドロイドのピアニストに最も強い関心を示すのは、やはりグールドのはず。
グールドは、アンドロイドのピアニストを、自分の分身として捉えるのではないだろうか。

だとしたら、グールドはアンドロイドのピアニストで何をするのか、
アンドロイドのピアニストに何をさせるのか。

スタジオでグールドが「録音」する。
そこでの演奏を、アンドロイドのピアニストに再現させる。
コンサートホールにおいて、アンドロイドのピアニストに、スタジオでのグールド自身の演奏を再現させる。

こんなことを考えている。
これは、そのコンサートホールに集まった人たちにとっては、何なのか。

グレン・グールドとそっくりの外観をもつアンドロイドのピアニストが、
グールドが「録音」した演奏を、同じピアノを使って再現している。

コンサート・ドロップアウトしたグールドが、コンサートホールに戻ってきた、と受け取るのか。
とすれば、そこでの聴衆はコンサートホールで実演と認識していることになる。

けれど、グールド自身はどう認識しているのだろうか。
スタジオでの「録音」を再現しているのだから、レコード・コンサートのつもりかもしれない。

Date: 12月 20th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その17)

こんな状況を考えてみる。
自分のリスニングルームにピアノを用意する。
そのピアノで、あるピアニストに演奏してもらう。

同じピアノを使って、アンドロイドのピアニストにさきほどの演奏を再現させる。
これは原音再生となるのだろうか。

ピアニストの演奏をアンドロイドのピアニストに再現させるためには、
おそらくそうとうな数のセンサーが必要となるだろう。
ピアニストにもセンサーがいくつも取りつけられ、ピアノにもいくつものセンサーが取りつけられる。

精度を高めるためにはセンサーの種類と数、小ささ、軽さが要求される。
ここで演奏を捉えるのはマイクロフォンではなく、各種センサーとなる。

これまでは音によって演奏を記録してきたが、
こういうアンドロイドが可能になれば、音ではなくピアニストの動きそのものの記録であり、
ピアニストの動きによって演奏を記録することになる。

これもオーディオなのだろうか。

KK塾での講演で石黒浩氏は、
「コピーされた直後から、それはオリジナルとは別のものに成長していく」と話された。
とすれば演奏をこうやって記録(コピー)したアンドロイドは、
元のピアニストとは別物に成長していくのだろうか。

このことと同時に考えるのは、演奏者から演奏家へ、である。
成長することで、アンドロイドのピアニストは演奏者から演奏家になっていくのだろうか。

Date: 12月 19th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その16)

昨晩はKK塾の三回目だった。
講師の石黒浩氏は、人間国宝の落語家、桂米朝師匠の米朝アンドロイドをつくられている。

これから先、さらに技術が進歩すれば、ピアニストやヴァイオリニストのアンドロイドも可能になる。
現役のピアニスト、ヴァイオリニストのコピーをつくりあげる。
外観だけでなく、その演奏テクニックも完全にコピーできるようになる。

そうなったときに、このアンドロイドがピアノを弾く、ヴァイオリンを弾く。
これも録音・再生といえる。
ならば、アンドロイドによる演奏の再現は、オーディオなのだろうか。

スタインウェイのピアノで演奏されたものを、
そのピアニストのアンドロイドで再生する。

再生する際のピアノはスタインウェイを使う。
けれど元の演奏で使われたピアノそのものを使うことができるのは、ごく限られた場合となる。

このアンドロイドのピアニストを個人で購入し、どのピアノで鳴らすのか。
スタインウェイでも、まったく同じスタインウェイのピアノは用意できない。
同じ型番のピアノであっても、一台一台微妙に違う。

その違いをどう考えるのか。
さらに別メーカーのピアノを持ってくることも考えられる。
ヤマハやベーゼンドルファーのピアノを、そのアンドロイドに弾かせる行為は、どういうことなのか。

──こんなことをあれこれ考えている。

Date: 12月 18th, 2015
Cate: 1年の終りに……

2015年をふりかえって(その3)

クラフトノーツのOT360へのリンクをクリックされた方は、
こんなスピーカーを? を思われたかもしれない。

私は、このブランドもスピーカーもまったく知らなかった。
10月開催の音展で初めて見かけた。

どちらかといえば貧相な外観のスピーカー、
このスピーカーが置かれていたブースに入った時、ちょうど鳴っていた。よく聴くディスクがかけられていた。
このディスクは、インターナショナルオーディオショウでもかけていたブースがあった。
このディスクが、思いの外、演奏の雰囲気を醸し出していた。

OT360はペアで11万円(税別)する。
約30年前の598のスピーカーに投入された物量からすると、いくら時代が違うとはいえ、
がっかりされるかもしれない。

世の中には原価厨と揶揄される人たちがいる。
なんでもかんでも、この製品の原価はこのくらいだから、
この価格は高すぎる、などとくだらないことをいう人たちだ。

この人たちからすればOT360は、
高すぎるスピーカーということになるだろう。

OT360のユニットは11cm口径のフルレンジユニットが一発。
エンクロージュアの材質はダンボールだ。
専用スタンドも段ボールでできている。

もうこれだけで拒否反応をおこす人がいるのはわかっている。
OT360はエンクロージュアをただ段ボールで作ったスピーカーではない。
段ボールでなければならなかった構造をもつスピーカーである。

もっと聴きたいと、音展で思っていた。
けれど時間がきてしまい、同じブースでデモを行う他社の時間になり、一曲しか聴けなかった。
でも、その一曲の鳴り方は印象に残っている。

Date: 12月 18th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その3)

ケーブルの交換で音が変ることを、オカルトだ、と決めつける人たちが昔からいる。
彼らは「オカルトだ」の次に口にするのが「オーディオは科学だ」である。

そういう主張をする人の中に、こんな人がいた。
「菅野先生はケーブルで音が変ると言われていない」
だからケーブルで音が変ることはありえない、ということだった。

菅野先生は、ケーブルによる音の違いについて、針小棒大に語られてはいない。
でもケーブルによる音の変化は認められているし、
ステレオサウンドのバックナンバーで確認できることだ。

にも関わらず、その人はたまたま彼が目にした範囲で菅野先生がケーブルについて語られていないから、
「菅野先生はケーブルで音が変ると言われていない」ということになる。

これは極端な例とは思う。
でも、この人も「オーディオは科学だ」というのである。

こういう例もある。
スピーカーケーブル長さを極端に変えても音は変らない、という主張だった。
同じ品種のスピーカーケーブルで、ひとつは1m、もうひとつは100mほどにする。

これだけ長くするとケーブルの直流抵抗も無視できない値になる。
1mと100mとでは、スピーカーからの音圧にはっきりとした差が出る。
そのことは、ケーブルで音は変らない、と主張する人も認めている。

けれどその先がある。
100mのスピーカーケーブルで減衰した分はボリュウムをその分上げれば同じになる。
よってケーブルの長さ(1mと100mとでは)で、音は変らない、というものだった。

「オーディオは科学だ」という人すべてが、こんな人ではない。
ケーブルで音が変ることを私は認めているし、同時に「オーディオは科学だ」と考えている。
私だけではない、多くの人が「オーディオは科学だ」という認識の上に立っている。

その上でオーディオにおける観察──先入観なしに聴くこと──の重要性を正しく認識している。
その違いが「オーディオは科学だ」にもある。