アストル・ピアソラ 闘うタンゴ 完全版
斎藤充正氏の「アストル・ピアソラ 闘うタンゴ 完全版」が、
青土社から、ようやく出版される。
改訂版ではなく、完全版。待ちに待った一冊。
斎藤充正氏の「アストル・ピアソラ 闘うタンゴ 完全版」が、
青土社から、ようやく出版される。
改訂版ではなく、完全版。待ちに待った一冊。
トーレンスのTD124は、どうして「124」なのか。
おそらくだが、12インチのターンテーブルプラッターに、
4スピードだから、だろう。
TD124は、33 1/3と45回転の他に、78回転と16回転もついている。
TD124 DDは、どうだろうか。
33 1/3と45回転の2スピード。
現在のトーレンスが、
TD124という型番にこだわりたい(すがりたい)のは、
わからないわけではないが、
ならば──、と思うところがありすぎる。
「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)を、
最初に聴いたのはマリア・カラスではなく、シルヴィア・シャシュだった。
あのころ、シルヴィア・シャシュは「マリア・カラスの再来」と言われていた。
デッカから二枚、アルバムが出ていた。
バックが青のアルバムと赤のアルバムだったので、
勝手にシャシュの赤盤、青盤と呼んでいた。
青盤のほうは、TIDALやQobuzで聴くことができるのに、
どうしてだか赤盤の方は、どちらにもない。
しかも赤盤の方に、「清らかな女神よ」がおさめられている。
あのころはシルヴィア・シャシュを、マリア・カラスよりもよく聴いていた。
コンサートにも行ったし、そのコンサートがNHK FMで放送されたのを、
ステレオサウンドの試聴室で、
ケンウッドのチューナーとナカミチのカセットデッキでエアチェックもした。
なのにいつしかあまり聴かなくなってしまった。
ここ、二年ほど、TIDALで、いろんな人の「清らかな女神よ」を聴いた。
聴けば聴くほど、マリア・カラスなのか、という想いは強くなくばかり。
そして、シャシュの「清らかな女神よ」を、もう一度聴きたくなった。
CDでは二枚組の廉価盤で出ていたはずだが、買いそびれた──、
というよりも、その頃はシャシュから遠ざかっていた。
聴きたいおもいはつのる一方で、
先程、ヤフオク!で、イギリス盤(もちろんLP)を落札した。
オーディオ機器に関する情報を得るのに、インターネットを無視はできない。
トーレンスのTD124の復活のニュースを見た時は、
昔のメカニズムをリファインしてのモデルか、とほんのちょっとだけ期待したけど、
型番末尾のDDの二文字を見て、すぐにさとった。
TD124をダイレクトドライヴで復活させることの意味、
そんなこと、いまの時代、考えるだけ無駄なことなのか。
そんなふうに思いました。
それでもトーレンスが独自に開発したダイレクトドライヴならば、
期待は持てるかもしれない──、そう思うこともできるわけだが、
インターネットはそんな夢も見させてくれない。
輸入元のPDNのウェブサイトには、TD124のページはないが、
トーレンスのウェブサイトサイトには、もちろんある。
そこにはTD124のモーターの写真がある。
各社の製品に詳しい人ならば、すぐにわかるし、
そうでなくともGoogleで画像検索すると、わかることが出てくる。
トーレンスのTD124のダイレクトドライヴ版のTD124 DDが、
海外のオーディオショウで発表されたのは、数年前だった。
日本に輸入されるのだろうか、と思いながら、日本での続報はなかった。
昨年、PDNがトーレンスを取り扱うことになった。
TD124 DDのトーレンス創立140周年記念モデル、
TD124 DD 140th Anniversaryが140台の限定で発売になる。
不思議なのは、輸入元のPDNのウェブサイトには、
今日(1月2日)の時点では何の告知もないが、
ステレオサウンド 223号の巻末、
それからステレオサウンド・オンラインでは紹介されている。
限定140台のうちの一台を、抽選でステレオサウンドを介して発売されるようだ。
なぜ? と不思議に思う人はいるだろう。
憶測なのだが、
ステレオサウンドからトーレンス創立140周年を記念しての本が出るのかもしれないし、
そのことを絡めてのことなのだろう……。
「愛と孤独のフォルクローレ」が、世界思想社から出ているのを、
昨晩知った。
内容説明のところに、こうある。
《個人の物語を愛し、他者の音を聴かず、堂々と嘘を楽しむ…。》
オーディオも、全くそうだと思った。
今年は、十数年ぶりに引越しをした。
それから27歳の時に骨折した左膝を、2月に痛めた。
かなり良くなってきたと思っていたら、9月ごろからひどくなってきて、
10月、11月は、けっこう難儀した。
まだ万全とは言えないけど、収まってきている。
後遺症とは、こういうことなのか、と思った。
12月になったら、今度は声が出なくなった。
声がひどくかすれてしまって、人と話すのが辛かった。
最近の飲食店ではタブレットで注文するところが増えてきている。
声がほとんど出ない状態だと、こういう店がありがたいと感じる。
声もようやく出るようになってきたが、それでもまだかすれている。
11月に父が九十になった。その二日後に倒れて入院。病院で年を越す。
そんなふうにばたばたしていたけれど、
今年はaudio wednesdayで音を鳴らせるようになった。
新しい人との出会いもあった。
いい一年だった。
別項「2024年ショウ雑感(その13)」で、土方久明氏をオーディオ評論家(仕事人)と書いた。
いまもそう思っている。
それゆえに土方久明氏の書かれたものを、楽しく読んだとか、
面白かったと感じたことはなかった。
いま書店に並んでいるアナログ vol.86で、
フェーズメーションのCM1500が取り上げられている。
土方久明氏が担当だ。
CM1500のことは、信頼できる耳の持ち主から聞いていた。
かなりいい、と聞いているものの、私はCM1500の音は聴いていない。
ステレオサウンド 233号の新製品紹介記事でも取り上げられている。
こちらの担当は小野寺弘滋氏。モノクロで1ページでの紹介。
その文章は、あっさりしたものだ。
一方、アナログでの土方久明氏の文章からは、熱っぽさが伝わってくる。
おそらくだが、土方久明氏は本音で、このCM1500に惚れ込んでいるのだろう。
そのことが伝わってくる。
聴いてみたい、とも思う。
小野寺弘滋氏の文章では、そんな気持は湧いてこなかった。
ステレオサウンドと、音元出版のオーディオアクセサリーとアナログ。
どちらがどうとかは言わない。それでも時々ではあるが、
ジャーマン・フィジックスのHRS1300の記事でも同じことを感じていた。
ステレオサウンドでは山之内正氏、
オーディオアクセサリーは石原俊氏。
別項で、このことは触れているように、
山之内正氏の文章は、CM1500の小野寺弘滋氏の文章と同じだった。
あっさりしたものでしかなかった。
聴いた人が、そこでの音に何か感じるものがなかったのだろうから、
それ以上のことを、その文章に求めたところで肩すかしを喰らうだけだ。
それでもHRS1300の石原俊氏の文章、
CM1500の土方久明氏の文章が、一方にある。
ウエスギのU·BROS333OTLとともに、
今年の新製品で聴いてみたいと思ったCM1500である。
ソーシャルメディアを眺めていると、フォローしていない人の投稿でも、
ソーシャルメディア側のおせっかいで表示される。
オーディオのことに関しても、そんなふうにほぼ毎日、何かしらの投稿が表示される。
そんな投稿とコメントを読んでいると、この人は何も確認しないのか──、と思うことがしばしばある。
具体的にどういうコメントだったのかを挙げるのはやめておくが、
製品知識として広く知られていることですら、
そこではなかったことのように語られていて、
おかしな方向に話が進むことが少なくない。
しかもコメントしている人の誰も、そのことを指摘しない。
ならばお前がコメントしろ、と言われだろう。
しようかな、と思いつつも、もういいや、という気持もあって、
何もせずに、ここで触れているだけだ。
これも集合知である。
昨日もトーレンスのTD124の整備で出かけていた。
前回、前々回の時には、見落としていたことを見つけた。
TD124は手前左のスピード切替レバーが、電源のON/OFFを兼ねている。
電源スイッチはレバーの真下ではなく、後方にある。
リレーのようなスイッチがあるわけだが、ここにはスプリングが使われている。
今回のTD124では、このスプリングの下を配線が二本通してある。
この配線の太さの分だけスプリングが湾曲している。
このTD124は一度も整備されていないようで、この配線の通し方も最初から、
つまり工場出荷の時点からのままと思っていい。
TD124の他の個体が、ここのところをどう処理しているのかは、私は知らないが、
どう考えてもスプリングの動きを邪魔している。
最初電源が入らなかった原因のようにも思える。
なので私はスプリングを外して、
配線の通り道を変えて、スプリングを装着。
長年湾曲したままのスプリングなので、完全には真っ直ぐな状態には戻らないが、
それでも結構良い感じにおさまった。
今回、私がやったことはオリジナルの状態をいじったとなるのか。
オリジナル至上主義の人からすれば、
工場出荷の状態を変えてしまったのだから、けしからんこと、となるのか。
オーディオの才能について、考えるきっかけがいくつかあった一年。
このオーディオの才能と関係してくることで、「音は人なり」を実感するとともに、
以前から書いてきている「人は音なり」もまた実感していた。
1月8日のaudio wednesdayは、ふたたび鳴らすJBLの4343で、
11月の会と違うのは、エラックのリボン型トゥイーターを足すことの他に、
パワーアンプもクレルのKSA100からゴールドムンドのMimesis 9.2へとかわる。
この時代のゴールドムンドのアンプで4343が、どんなふうに鳴ってくれるのか。
D/AコンバーターはメリディアンのUltraDACだから、その相性も含めて、
多少の不安はあるものの、楽しみの方が何倍もまさっている。
今回の4343も宇都宮のHさんが運んで来てくれる。
それだけでなくクレルのKMA100も持ってきてくれるので、
比較試聴も予定している。
ではラグジュアリーオーディオは、いつごろから始まったといえるのか。
私の考えでは、コントロールアンプがリモコン操作が可能になったのが、
ラグジュアリーオーディオの始まりだと捉えている。
普及クラスのコントロールアンプやAV用のコントロールアンプではなく、
音質を追求しながらも、操作性の良さも両立させようとしたコントロールアンプの登場という観点からすれば、
1986年に世に出たプライマーのSeries 928 preamplifierだろう。
928以前にも、そういうコントロールアンプはあったかもしれないが、
日本に輸入された製品ということでは928といえる。
BOSEの901 Series Vが見せてくれた情景は、
私だけのものでしかない。
あの日、一緒に聴いていた人の中で、なんらかの情景が浮かんでいた人は、何人いただろうか。
何人かいたとしよう。
だからといって、私と同じ情景を見ていたわけではないだろう。
確認したわけではないが、きっとそのはずだけ。
グラシェラ・スサーナの「人生よ ありがとう」はスタジオ録音だから、
BOSEの901から鳴ってくる音を聞いていて、
何かがうかんできたとしたら、それは録音光景のはずだ。
いわゆるハイ・フィデリティ再生を目指すのでもれば、
録音の光景が浮かんでこそだろう。
そこには私が思い浮かべていた情景は、わたしだけのものであり、そんなものは要らないということになるはずだ。
余計なものでしかないと言えば、そうであり、それでいい。
「人は歳をとればとるほど自由になる」
内田光子があるインタヴューでそう語っていた、
この言葉を思い出す一年でもあった。
オーディオの才能とともに、思い出してもいた。
「人は歳をとればとるほど自由になる」、
そうであろう、と思いながらも、まったく反対になっていく人も少なからずいる。
オーディオマニアに限っても、そういう人はいる。
「人は歳をとればとるほど自由になる」が、いい意味での老化だとすれば、
反対の人のは、老化ではなく劣化なのか──、
そんなふうにも思える。
人は知らず知らずのうちに、緩やかな坂を下っていたりする。
下っていることに気づかない。
だから気づくまで下っていくだけである。
気づける人は、まだいい。どこまで下っても気づかない人もいる。
これが劣化だと思う。
そんなことがいくつかあった一年だった。