中点(その15)
(その12)と(その13)で、レコード(録音物)は中点だと書いた。
レコードの送り手(録音側)とレコードの受け手(再生側)の中点であり、
レコードの送り手にとってレコード(録音物)は最終点であって、
レコードの受け手にとっては出発点であるからだ。
同じことをオーディオ機器について考えると、
アンプにしてもスピーカーにしても、レコードと同じく中点といえる。
ここで書いたいのはそのことではなく、オーディオ雑誌、オーディオ評論は中点といえるのか、である。
(その12)と(その13)で、レコード(録音物)は中点だと書いた。
レコードの送り手(録音側)とレコードの受け手(再生側)の中点であり、
レコードの送り手にとってレコード(録音物)は最終点であって、
レコードの受け手にとっては出発点であるからだ。
同じことをオーディオ機器について考えると、
アンプにしてもスピーカーにしても、レコードと同じく中点といえる。
ここで書いたいのはそのことではなく、オーディオ雑誌、オーディオ評論は中点といえるのか、である。
明日(2月4日)のaudio wednesdayは、話すことに比重を置こうと考えている。
別項「audio teach-in」で書いていることが、どこかに引っかかっている感じがするからだ。
オーディオマニアは、何を知りたいのだろうか。そして何を知らないのだろうか。
このことをはっきりと掴んでいる人は、いないような気がする。
一人ひとり違うし、だからこそ話していかないと、何もわからないままになってしまう。
音を聴きながら、テーマをあえて絞らずに対話を重ねていければと思っている。
私がJBLの2405の存在を知ったのは、ステレオサウンド 41号の表紙となっていた4343によってである。
それがトゥイーターということはすぐにわかっても、オーディオに興味を持ち始めて二ヵ月ほどの中学生の私には、
2405の構造がどうなっているのかを、すぐには理解できなかった。
ホーン型トゥイーターの一般的な構造は知っていたが、2405の中心に見える、あのクサビ的な形状のディフューザーと周りのホーンとの関係が、よくわからなかった。
その点、同じJBLのトゥイーターの075の構造はすぐに理解できた。
075同様、リングダイアフラムを使っていて、その前面に位置するホーン部の形状の詳しいことを知りたくても、
どんなに目を凝らして写真を見ても、全体が黒く塗装されている2405は、わかるようでわからない。そんなもどかしさがあった。
2405のホーン部の形状がわかったのは、ステレオサウンドで働くようになって、実際の2405をじっくり見るだけでなく、
開口部に小指を入れてみたりしたからだ。
そして、しばらくして知ったのは、2405と075のホーンは同じだということ。
075のディフューザーをクサビ状にして、ホーンの内側に、ホーンのカーブにしたがうスペーサーを、ディフューザーを挟みこむ感じで配している。
正面から見て左右の半円状のスペーサーは、ホーンから外すことができる(外したことはない)。
家庭用ビデオデッキが登場したのは、1965年、ソニー製のオープンリール型だときいている。
家庭用ビデオデッキときいてイメージするカセット型となると1975年にソニーがベータマックス方式、1976年にビクターがVHSなのだが、
当時、私の周りでベータマックス、VHS、どちらかを導入した家庭はなかった。
仮面ライダーの放送は、ベータマックス、VHS登場以前である。
もしすでに登場していたとしても、同級生の誰かの家にはある、というものでもなかった。
つまり仮面ライダーは録画して見るものではなかった。
週一回の放送時にテレビの前にいなければ見れなかった。
小学生だった私、同じクラスのみな、そうやって仮面ライダーを見ていた(楽しみにしていた)。
当時は共有という言葉は知らなかったけれど、同じ時間を共有していたなぁ、といまになって思う。
生成AIとの会話、それも承認欲求を満たすためだけの会話は、
静慮とは全く無縁の行為でしかないからこそ、やっている本人には楽しいことなのかもしれない。
適切な技術書や解説の文章があって、
それをきちんと理解するために生成AIを利用するのは、いい使い方だと思う。
オーディオにおける生成AIを全否定はしない。使い方次第、使い手次第な面はあるけれどもだ。
使い手次第なのだ。
オーディオ雑誌でのベストバイ的なもの、賞、そういった記事が載った号が売れるのは、
いくつかの理由があろうが、大きな理由として、自分が使っているオーディオ機器が選ばれている──、
このことによる間接的な承認欲求が満たされるからではないのか。
生成AIは、間接的な承認欲求ではなくて、直接的な承認欲求をも満たしてくれる。
そういう使い方をすれば、であるのだが、そんなことをやって何が楽しいのか、嬉しいのか、と私は思うけれど、
世の中は人さまざまなのだから、生成AIによる承認欲求を必要とする人もいるのだろう。
このことも、その人がそれで良ければ、第三者がとやかくいうことではない、と思いつつも、
こわいのは、そうやって生成AIとの会話を重ねることで、聴かずに音の判断をくだしてしまう愚かさをやってしまうことだ。
この項で触れている人は、ある方式と別の方式との比較を生成AIに訊ねている。
そして、ある方式は聴くに値しないという判断をくだした。
聴いた上で、それがたとえ十全とはいえない試聴ではあっても聴いての判断であれば、
私と全く正反対の評価であっても、そうですか、という。
けれど聴かずして判断して、そして聴く気もないと言ってくる。
生成AIに訊く前に、とにかく、その音を聴こうよ、と言いたいだけだが、もうそれすら、その人の耳には届かないようだ。
生成AIは使い手を愚かにすることもある。
生成AIにオーディオに関することを質問すると、面白いことに音についても語ってくれる。
つい先日、ある真空管について、プレート電圧はこのくらいで、バイアスはこのくらいで動作させたらローレベルのリニアリティについてきいたところ、
返ってきたのはリニアリティについてだけでなく、その場合の音についても返してきた。
これをすごいな、と感心して信じ込める人もいる。
でも少し考えれば、現時点で生成AIは音を聴くことができない。
もちろん音を判断することもできない。
にも関わらず、
この動作の音質的特徴
非常に低歪み: 動作の直線性が非常に高く、上品で繊細な音色になります。
ボーカルや室内楽に最適: 2A3や300Bのような華やかさよりも、芯が強く、中域に艶がある音になります。
と答える。
笑うしかないと私は思うけれど、そうでない人もいる。
私が訊ねたような動作例でアンプを作っている人を、私は見つけられなかった。
同じようなことを考える人は、他にもいるのは承知しているが、それでもそれほど多くはないはず。
なのに、その動作例での音について生成AIは答える。
オーディオの世界は、世の中の悪いところを先取りする。
こう言われたのは菅野先生。
もう二十年以上前に、これを聞いている。
当時も、本当にそうだ、と思い書いていた。
残念なことに、いまもそうでありこれからもそうなのだろう。
生成AIの使い方にしてもそうである。
それにしても、オーディオの世界は、これほどまでに世の中の悪いところを先取りするのか。
先ほどの(その3)で取り上げた人は、これから先増えてくるのではないだろうか。
そうなった場合、オーディオ雑誌にとって、非常に厄介な読者となる可能性も高い。
オーディオ雑誌は、早いうちに生成AIをきちんと検証する記事を作った方がいい、と私は思っている。
(その3)で触れている人は若い人ではない。私よりも年上の人だ。
世代は関係ないようにも感じている。
生成AIは道具であって使い方次第とはいっても、どんなレベルの人が使っても、それなりに使えてしまうところが怖い。
そうやって偏った人がさらに偏っていく。
そんな人が読者となったりもする。
オーディオにとっても、オーディオ雑誌にとっても、とんでもない未来がすぐそこに来るのかもしれない。
もちろんきちんと使い、自身のオーディオへの理解を深めている人もいるのはわかっている。
でも、存在を無視できないほどに、使い方によっては害悪を垂れ流しているに近い、とも感じている。
生成AIは、オーディオをダメにしていくかもしれない──、今朝、ある人からのメールを読んで、そう感じた。
その人は、生成AIとオーディオについての会話を楽しんでいる。そのこと自体は否定することではないが、
生成AIはどういう質問の仕方をするかによって、返ってくる答が違ってくる。
オーディオの理解を深めるために、その人も使っているのかもしれないが、メールを読む限り、自身の考え、感性が正しいことを生成AIに認めてもらいたいだけ。
私には、そうとしか思えないくらいに、こんな質問の仕方をどうしても繰り返すのか──。
オーディオはややもすると自分の臍だけを見つめてしまいがちな面も持つ。
それが悪いまでは言わないけれど、その人は、その方向に躊躇わず進むために生成AIとの会話を重ねていっている。
オーディオにはいろんな方式、技術、製品がある。
それらの音を聴かずに生成AIと会話して、こういう音だと思い込む。
思い込むのも、その人の自由というか勝手である。やりたければずっと続けていけばいい。
けれど、その行為はオーディオへの理解を深めることではなく、どこか片隅に自分自身を追いやって、
自分の臍だけを見つめて過ごすことでしかない。
この人だけがそうなのか。他にも同じような人がいるようにも思える。
偏ったオーディオの知識を持った人が、生成AIとの会話を重ねていくことでますます偏る。
オーディオの未来は、どうなっていくのだろうか。
こういう人が極々少数派であればいいのだが……。
昨年12月から、audio wednesdayは会場をかえて、ぴあ分室で行っている。
ここのシステムについては別項で触れているように、トリノフ・オーディオによって音響補正がなされている。
つまりD/Aコンバーターの出力がコントロールアンプに入り、コントロールアンプの出力がトリノフ・オーディオに入る。
トリノフ・オーディオは入ってきた信号をA/D変換して信号処理を行う。そしてD/A変換してパワーアンプに信号を送る。
一つのシステムにD/Aコンバーターが二箇所、A/Dコンバーターが一箇所あることになる。
ということはトリノフ・オーディオ内で行われるA/D、D/A変換によってMQAの良さはスポイルされることは、十分考えられる。
理想はトリノフ・オーディオがMQA対応になってくれることだが、あまり期待はできない。
それに、そんなことを言っていたら、音を鳴らせなくなる。
実際鳴らしてみると、MQAの良さはきちんと伝わってくる。これで、トリノフ・オーディオがMQAに対応してくれれば……、
さらに良くなるだろうに、という気持はあるけれど、少なくともMQAの良さがひどくマスキングされているという印象はない。
このことはトリノフ・オーディオによる音響補正によって、別のマスキング要素がかなりの部分、抑えられているからだろう。
(その25)で書いていること。
バッテリーからAC電源を作り出すポータブル電源を使ってウェスターン・エレクトリックの594Aを鳴らしたことをふり返って気づくことは、励磁型スピーカーにこそ、ポータブル電源を使うべきではないのか、である。
励磁型スピーカーは、スピーカーの理想のように昔から語られている。
私も、そう思っていた(いまもある程度は思っている)が、励磁型スピーカーの難しさは、フィールドコイル用の電源をどうするかにある。
少しでも励磁型スピーカーを鳴らしたことのある人ならば、電源の重要性をわかっている。
規定の電圧と電流が供給されていれば、電源は何でもいい──、そう考えている人は、たぶんいない。
そのくらい電源で音が変る、というか変りすぎる。
ビクターはSX1000の開発にあたり励磁型スピーカーを試している。そして電源もいろいろ試したことは、当時のオーディオ雑誌を読めばわかる。
タンガーバルブを使った電源、バッテリーによる電源なども、そこに含まれる。
励磁型スピーカーの、電源による音の変化の大きさは、ボイスコイルとフィールドコイルが近距離の関係なことに原因があると考えている。
この問題を解消するには、フィールドコイルの電源を商用電源から切り離すしかない。
(その1)で書いているゲスなことをする人は、ほんとうにオーディオマニアなのだろか。
五味先生の「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書いてある。
*
私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
*
17の時に読んだ。
まだまだオーディオマニアとしての経験は足りないけれども、
なるほどそういうものか、と感心しながら、何度も読み返した。
ゲスとしか言いようのないメールを送信してくる人は、この五味先生の文章を、どう読むのか。
別項で書いているが、残念なことにオーディオの世界にもゲスは以前からいる。
別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で取り上げた人たちがいる。
壊れて破損しているオーディオ機器を隠して配送を依頼して、因縁をつけて損害賠償を要求する人、
スピーカースタンドの重量が、カタログスペックよりも少しだけ重たいことで裁判おこす人──。
私が知らないところでは、こんなふうにして裁判をおこしているのだろうか。
Googleで「オーディオ 裁判」を検索してみた。
検索してみてほしい。
たとえばウーヘルがある。
ウーヘルはもともとテープデッキのメーカー。
ポータブル型のオープンリールデッキ、カセットデッキで知られていた。
そのウーヘルが、小型コンポーネントシステムを売り出した。
ウーヘルのカセットデッキ、CR240の音を聴いているが、他のモデルの音は知らない。
それでもテープデッキの音は想像できるところもあるが、小型コンポーネント全体の音は、どうだったのだろうか。
この頃のウーヘルの輸入元は三洋電機貿易だった。
チューナーのEG740の外観は、いかにもウーヘル的だけど、製造は日本だったと記憶している。
ウーヘル本社が企画設計して日本製造だったのか。このやり方は、1970年代のマランツがそうだった。
アメリカで設計し、製造は日本で行っていた。
EG740が西ドイツ製か日本製なのかは、あまり気にしていない。日本製であっても欲しいチューナーであることにはかわりない。
ただEG740は外部電源である。コントロールアンプもそうだったはずで、一つの電源から供給するようになっている。
実をいうと、この電源だけは持っている。日本製である。けっこう前にヤフオク!に出品されていたのを、安価だったので落札した。
EG740本体をいつ手に入れてもいいように、である。
少し話が逸れてしまったが、EG740の出力をCR240で録音してみると、どうなるのだろうか。
セクエラは、のちにスピーカーを出していたが、テープデッキは手掛けていない。
マランツはカセットデッキはあったけれど、Model 10Bとは時代が違う。
QUADにもテープデッキはなかった。
ウーヘルのEG740とCR240は同時代の製品である。この組合せの音は、どうだったのか。
チューナーについて書いていると、ステレオサウンド 59号の特集ベストバイの座談会を思い出す。
*
菅野 これも個人によって全く考え方がちがうと思いますね。たとえば、自分があまり関心のないジャンルというものがある。ぼくにとってはFMチューナーがそうです。ぼくはFMチューナーで、レコードに要求するだけの音を聴こうとは思わないんですよ。まあ、そこそこに受信して鳴ってくれればいい。だから大きな期待をもたないわけで、FMチューナーなら、逆に値段の高いものに価値観を見出せないわけです。
亡くなられた浅野勇先生みたいにテープレコーダーが大好きという方もいる。「もうこのごろレコードは全然聴かないよ、ほこりをかぶっているよ」とおっしゃっていたけれど、そうなると当然レコードプレーヤーに関しては、大きな要求はされないでしょう。やはりテープレコーダーの方によりシビアな要求が出てくるはずですね。
そのようにジャンルによって物差しが変わるということが全体に言えると同時に、今度はその物差しの変わり方が個人によってまちまちだということになるんじゃないでしょうか。
柳沢 ぼくもやはりFMチューナーは要求度が低いですね。どうせ人のレコードしか聴けないんだから……といった気持ちがある。
瀬川 そうすると、三人のうちでチューナーにあたたかいのはぼくだけだね。ときどき聴きたい番組があって録音してみると、チューナーのグレードの差が露骨に出る。いまは確かにチューナーはどんどんよくなっていますから、昔ほど高いお金を出さなくてもいいチューナーは出てきたけれども、あまり安いチューナーというのは、録音してみるとオヤッということになる。つまり、電波としてその場、その場で聴いているときというのは、クォリティの差がよくわからないんですね。
*
菅野先生が言われているように、チューナーというジャンルは、それに対する考え方、価値観が個人によってかなり違ってくるものの代表だろう。
《だから大きな期待をもたないわけで、FMチューナーなら、逆に値段の高いものに価値観を見出せないわけです。》
とも菅野先生は発言されている。
私も菅野先生と同じで、チューナーの音にそれほどのレベルは求めていないところもあるといえばある。
それに高性能なチューナーで受信したい番組がどれだけあるだろうか──、と考えると、
ステレオサウンド 59号の時代よりも、それは悲しいとしか言えない。
それでもマランツのModel 10B、セクエラのModel 1は、写真だったら実物を見ると、やっぱりいいな、すごいな、となる。
モノマニアの一面が強く前に出てくるからだろうし、モノマニア心をいまでもくすぐってくる。
そしてチューナーの音である。瀬川先生の発言が、やはり気になる。
《ときどき聴きたい番組があって録音してみると、チューナーのグレードの差が露骨に出る。》
ということは、エアチェック(録音)する場合、相性のいいチューナーとテープデッキがあるのだろうか。
このことを考え始めると、また楽しくなる。