Archive for category 人

Date: 1月 30th, 2009
Cate: アナログディスク再生, 五味康祐

五味康祐氏のこと(その7)

「想い出の作家たち」のなかで、五味千鶴子氏が語られている。
     *
亡くなる前にベッドに寝ていても、毛布をシュッとかけなおして、「折り目正しくなってるか」とたずねるのです。
「ええ、きちんとなってますよ」と言うと安心しました。何かお見舞いの品をいただいても「真心こもってるか」と言います。「とても真心のこもったものをいただきましたよ」と言うと、「そうか、人間は折り目正しく、真心こめていかなきゃいけないよ」と言っていたのをよく覚えております。
     *
「折り目正しく、真心こめて」が、
五味先生がオーディオ愛好家の五条件のひとつにあげられている、
「ヒゲのこわさを知ること」につながっているのは明らかだろう。

漫然とレコードをあてがうことで、センタースピンドルの先端をレコードの穴の周辺で行ったり来たりさせて、
その跡が細く残る。光にあてると、すぐにわかるスジがヒゲだ。

「折り目正しく、真心こめて」レコードを扱うのであれば、
こんなヒゲがつくことはない。
レコードの扱いは、ひいては音楽の扱いである。
それでも、ヒゲがあっても、肝心の盤面にキズがなければ音には無関係とわりきっている人もいるだろう。

あえて言うが、必ずしも無関係とは言えない。
レコードのセンター穴も、アナログプレーヤーのセンタースピンドルも、その寸法に許容範囲がある。
規格によって定められている寸法ぴったりだと、すっという感じで、レコードをターンテーブルの上に乗せられない。
ごくまれにレコードのセンター穴がぎりぎりの寸法のためなのだろう、
レーベル面をぐいっと力を込めて押す必要があったレコードに出合ったこともあるが、
ほとんど全てのレコードがすっとおさまる。

つまりセンタースピンドルとセンター穴の間には、わずかだけど、すき間が生じている。
そのためレコードがかならずしもセンターにきている保証はどこにもない。
ほぼ確実にどの方向かにオフセットしているわけだ。

以前、ナカミチから、このレコードの偏心をプレーヤー側で自動調整する製品TX1000が出ていた。
TX1000で調整前と後の音を聴き較べると、レコードの偏心による
──偏心といっても、ほんのわずかなブレなのに──音の影響の大きさに驚かれる方も少なくないだろう。

TX1000のように自動調整機構がついてないプレーヤーでも、偏心の影響はすぐにでも確かめられる。
同じレコードをセットして音を聴く。そしていったんレコードを取り外して、またセットして音を聴く。
けっこう音の違いがあるのに気づかれるはずだ。
端的にわかるのが、カートリッジを盤面に降ろした時の音である。
通常、ボリュームを絞ってカートリッジを降ろし、ボリュームをあげるが、
レコードの偏心を確かめたい時は、あえてボリュームには触れず、いつも聴く位置にしておく。

偏心が少なく、ほぼ中心にレコードがセットされている時の、カートリッジが盤面に降りた時の音は、
スパッとしていて、尾をひかず気持ちのいいものだ。
偏心が多いと、「あれっ?」と思うほど、この時の音が違う。

使い手の手に馴染んだプレーヤーで、「折り目正しく、真心込めて」レコードをセットしていると、
たいていは、いい感じの位置にレコードが収まってくれる。

これは、私の体験から断言できる。
ステレオサウンドの試聴室で、それこそ多い日は、何度も何度もレコードを取りかえ、ターンテーブルに乗せている。
その回数は、半端ではない。

だから言える。
ヒゲをつけるようなレコードのセットでは、偏心も大きかろう、音も冴えないだろう、と。

Date: 1月 30th, 2009
Cate: 五味康祐, 伊藤喜多男

五味康祐氏のこと(その6)

ステレオサウンドの姉妹誌HiViに伊藤先生が、五味先生のことを書かれたことが、一度だけある。

五味康祐大人、と、そこには書かれていた。

五味先生は大正10年、伊藤先生は明治45年の生まれ。
だから、「五味康祐大人」の言葉のもつ重み、意味合いを想うにつれ、目頭が熱くなった。

伊藤先生も五味先生も、それぞれのモノに、心酔し惚れ抜いた人である、男である。
伊藤先生はシーメンスのスピーカーに、真空管(とくにウェスターン・エレクトリックの300Bに)。
五味先生はタンノイのオートグラフに。

惚れた、でも、惚れ込んだ、でもない。惚れ抜くことができた。

実現せずに終ってしまった、残念なことがあった、ときいている。
五味先生のお宅に、
伊藤先生製作のアンプ(コントロールアンプのRA1501と300Bシングルアンプの組合せ)を持ち込み、
聴いていただこうというものであった。
実現していれば、ステレオサウンドに載っていたであろう。
どういうふうに載っていただろうか。

もしかすると、オーディオ巡礼のなかで実現していたのかもしれない。
それまでのとは逆に、伊藤先生が五味先生のリスニングルームを訪ねられる、
という形でのオーディオ巡礼だったのではないか、と思ってしまう。

五味先生がなんと語られたのか、
伊藤先生と五味先生の語らい、それを五味先生は、どう言葉にされたのか……。

実現には、時間が足りなかった。

Date: 1月 29th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その5)

五味先生の書かれたものを、いくつか読み進めていくうちに感じていたのは、その洞察力の凄さだった。

もちろん文章のうまさ、潔癖さは見事だし、多くのひとがそう感じておられることだろうし、
そのことで隠れがちなのだろうが、歳を重ねて、何度も読み返すごとに、
その凄さは犇々と感じられるようになってきた。

「天の聲」に収められている「三島由紀夫の死」を、ぜひお読みいただきたい。
わかっていただけると思っている。

マネなどできようもない、この洞察力の鋭さが、オーディオに関しても、
こういう書き方、こういう切り口があったのか、という驚きと同時に、
オーディオについて多少なりとも、なにがしか書いている者に、
絶望に近い気持ちすら抱かせるくらいの内容の深さに結びついている。

Date: 1月 28th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その4)

ステレオサウンドが以前出していたHiFi Stereo Guide、途中からAudio Guide Year Bookに変わった、
この本の編集を担当されていたのは、私がステレオサウンドにいたころはTさん、ひとりだった。

締め切り間際になると、別の部署の女の子が手伝っていたけれど、
ほとんどの作業をひとりで黙々とこなされていた。

Tさんは、五味先生の「西方の音」所収の「タンノイについて」で、
「私の友人でレーダーの製作にたずさわる技術者──かつはHi・Fi仲間である」と語られている、その人である。

以前はアンプの自作も手がけられていたときいたことがあるが、
それらはいっさいやめて、その時はQUADのシステムで
──スピーカーはESLの、それもブラック仕様の方、アンプは44と405のペアで、
アナログプレーヤーはリンのLP12(トーンアームはSMEだったか)を、
昔の電蓄を思わせる特注のラックに収められていた。

Tさんに訊いたことがある。五味先生の補聴器のことについて、確認したかったからだ。

音楽を聴かれる時は、補聴器は使われていなかった、と書かれたものを読んで、そう思っていた。
けれども一部では、補聴器をつけたままレコードを聴かれていた、という者がいた。
どう見ても、五味先生とつき合いのあった人とは思えない者が、そういうことを言う。

だからTさんに確認したかった。
ただ確認だけをしたかったのだ。

そのときTさんが、五味先生とレストランで食事をされていた時のエピソードを話してくれた。

補聴器は、こういうところでは用をなさないことが多い。
ナイフやフォークの振れ合う音、椅子を動かす音といった、周囲の雑音が取捨選択なしに耳に飛び込んでくるからだ。

だから耳元で、「五味さぁーん」とそこそこ大きな声で話す必要があったにもかかわらず、
バックグラウンドミュージックでベートーヴェンの曲が鳴っていると、
同席した誰もが気がつかないのに、五味先生だけが「ベートーヴェンの作品○○だ」と口にされたそうだ。
言われて耳をすますと、確かに鳴っているのに気がつく。
そういう音量だったのに、五味先生ひとりだけベートーヴェンに耳をすまされていた。

「不思議だったなぁ、五味さんのそういうところは」と懐かしそうに話してくださった。

Date: 1月 27th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その3)

やはりケンプだった。

五味先生が病室で最期に聴かれたのは、ケンプ弾くベートーヴェンの作品111。
おそらくバックハウスの作品111は通夜で、最期にかけられたのだろう。

お嬢様の五味由玞子さんが、「小説新潮スペシャル」に収められている
「父・康祐の遺したレコード」(1981年1月)に、こう書かれている。
     ※
最後に、わが家から父のもとに届けたレコードは、オイゲン・ヨッフム指揮の「マタイ受難曲」とウィルヘルム・ケンプの弾いたベートーヴェンのピアノソナタ、作品一〇六、一〇九と一一一である。父は一一一を聴きながら泣いていた。父の涙を、私はそのとき、はじめて見た。

Date: 1月 25th, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その2)

「想い出の作家たち」という本のことを知った。
1993年に文藝春秋から出ており、今は亡き作家の素顔を、身近にいた家族が語った本とのこと。

その第1集に、五味先生の奥様、千鶴子氏の文章が収められている。

絶版だが、amazonで古本が購入できる。価格も、送料のほうが高いくらいだ。
注文したばかりなので、手もとに届くのは数日後である。

Date: 1月 22nd, 2009
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(その1)

もう10年ほど前になるか、週刊文春で剣豪小説を取りあげた企画があった。
座談会形式だった。五味先生についても語られていた。

五味先生は、「喪神」により1953年(昭和28年)2月に、第28回芥川賞を受賞されている。
松本清張氏の「或る『小倉日記』伝」との同時受賞。

この時の芥川賞の選考委員は、川端康成、丹波文雄、舟橋聖一、石川達三、瀧井孝作、佐藤春夫、宇野浩二、
坂口安吾の8氏。

週刊文春によると、坂口安吾氏が、もっとも強く推されたとある。
記憶がかなり曖昧だが、坂口氏がもし選考委員でなかったら、五味先生の芥川賞受賞はなかった、
そういう印象だった。
坂口氏は「この男は、大化けする。」、そう言って推されたそうだ。

「文藝春秋」1953年3月号に選評の概要が載っている。

坂口安吾氏は語っている。
「剣士や豪傑については日本古来の伝承的話術があり、この作品はそれに即している如くであるが、
実はそれに似ているだけで、極めて独創的な造形力によって構成された作品である。
かかる発明はとうてい凡手のなしうべからざるところで、非凡の才能というべきである。」

丹波、舟橋、宇野3氏の、そっけなく冷たい評とは、まったく異る。

Date: 1月 20th, 2009
Cate: 川崎和男

いのち・きもち

川崎先生の「いのち、きもち、かたち」を言い換えるとしたら、

「きもち」は「喜怒哀楽」、
「いのち」は「運命、宿命、天命、使命」か。

「かたち」は……。

オーディオにおけるジャーナリズム(その1)

オーディオ評論について考える時、思い出すのが、井上先生が言われたことだ。

──タンノイの社名は、当時、主力製品だったタンタロム (tantalum) と
鉛合金 (alloy of lead) のふたつを組み合わせた造語である──

たとえば、この一文だけを編集者から渡されて、資料は何もなし、そういう時でも、
きちんと面白いものを書けたのが、岩崎さんだ。
もちろん途中から、タンノイとはまったく関係ない話になっていくだろうけど、
それでも読みごたえのあるものを書くからなぁ、岩崎さんは。

井上先生の、この言葉はよく憶えている。
試聴が終った後の雑談の時に、井上先生の口から出た言葉だった。

井上先生は、つけ加えられた。
「それがオーディオ評論なんだよなぁ」と、ぼそっと言われた。

それから、ずっと心にひっかかっている。

岩崎先生は、「オーディオ評論とはなにか」を、以前ステレオサウンドに書かれている。
そのなかで、柳宗悦氏の言葉を引用されている。

「心は物の裏付けがあってますます確かな心となり、物も心の裏付けがあってますます物たるのであって、
これを厳しく二個に分けて考えるのは、自然だといえぬ。
物の中に心を見ぬのは物を見る眼の衰えを物語るに過ぎない」

ふたつの言葉が浮かぶ。

釈迦の「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」と
川崎先生の言葉の「いのち、きもち、かたち」である。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その12)

石清水を入力したのに、出てきたのは濁水だった……。
そこまでひどいアンプは、当り前だが存在しない。

でも石清水の味わいが失われて、蒸留水に近くなったり、
蒸留水に、ほんのわずかだが何かが加わって出てくる。
そういう精妙な味わいの変化は、アンプの中で起こっている。

完全な理想のアンプが存在しない以上、
アンプの開発者は、なにかを優先する。

ある開発者は、できるだけアンプ内で失われるものをなくそうとするだろう、
また別の開発者は、不要な色づけをなくそうとするだろう。

もちろん、その両方がひじょうに高いレベルで両立できれば、それで済む。
現実には、特にマーク・レヴィンソンがLNP2に取り組んでいたころは、
失われるものを減らすのか、それとも色づけをなくしていくのか、
どちらを優先するかで、つねに揺れ動いていても不思議ではない。

ふたつのLNP2を聴いて、私が感じていたのは、そのことだった。

バウエン製モジュールのLNP2は、失われるものが増えても、色づけを抑えたい、
マークレビンソン製のモジュールのLNP2Lは、できるだけ失われるものを減らしていく、
そういう方向の違いがあるように感じたのだった。

LNP2Lは失われるものが10あれば、足されるものも10ある。
LNP2は足されるものは5くらいだが、失われるものは15ぐらい、
少し乱暴な例えではあるが、わかりやすく言えば、こうなる。

水の話をしてきたから、ミネラルウォーターに例えると、
LNP2Lは硬水、LNP2はやや軟水か。水の温度も、LNP2Lのほうがやや低い。

これは、どちらのLNP2が、アンプとして優れているかではなく、
オーディオ機器を通して、音楽を聴く、聴き手の姿勢の違いである。

音楽と聴き手の間に、オーディオ機器が存在(介在)する。
その存在を積極的に認めるか、できるだけ音楽の後ろに回ってほしいと願うのか、
そういう違いではないだろうか、どちらのLNP2を採るか、というのは。

そして、LNP2Lを通して足されるものに、黒田先生は、
マーク・レヴィンソンの過剰な自意識を感じとられたのではないのか。

足されるものは、聴き手によって、演出になることもあるし、邪魔なものになる。

瀬川先生は、LNP2Lによって足されるものを、積極的に評価されていたのだろう。
だからこそ、アンプをひとつ余計に通るにも関わらず、バッファーアンプを搭載することに、
積極的な美(魅力)を感じとられた、と思っている。

だからML7Lが登場したとき、
黒田先生は、積極的に認められ導入されている。
瀬川先生は、ML7Lの良さは十分認めながらも、音楽を聴いて感じるワクワクドキドキが薄れている、
そんなことを書かれていたのを思い出す。

JBLの2405とピラミッドのT1Hの試聴記も思い出してほしい。

Mark Levinsonというブランドの特異性(余談)

「人間の死にざま」(新潮社)に所収されている「音と悪妻」で、

このところ実は今迄のマッキントッシュMC275の他に、関西のカンノ製作所の特製になる300B-M管一本を使ったメイン・アンプを併用している。これは出力わずか8ワットという代物である。さすがに低域はマッキンの豊饒さに及ばぬが、だが、何という高音の美しさ、音像の鮮明さ、ハーモニイの味の良さ……昔の愛好家がこの真空管に随喜したのもことわり哉と、私は感懐を新たにし、マッキンよりも近頃は8ワットのカンノ・アンプで聴く機会が多い。

と書かれ、組み合わされているコントロールアンプについて、「ベートーヴェンと雷」のなかで、
マークレビンソンのJC2だとされている。

念のため、関西の、と書かれているが、正しくは、小倉の、である。

カンノ・アンプをお使いだったことは、以前から知っていた。
コントロールアンプはマッキントッシュのC22かマランツの#7のどちらかで、
おそらく#7かな、と思っていただけに、
JC2の文字を見た時は、驚きよりもうれしさのほうが大きかった。

実は、私もJC2を使っていたからだ。

1987年だったか、とある輸入商社の方にお願いして、アメリカから取り寄せてもらった。
しかもジョン・カールによってアップグレードされたJC2だった。
しかもJC1が搭載されているものだった(「人間の死にざま」を手に入れたのは2000年ごろ)。

ツマミは、初期の、細くて長いタイプ。
見た目のバランスは、途中から変更になった、径が太くなり、短くなったツマミの方がいいのはわかっているけど、
JC2の、あの時代のアンプの中で、ひときわとんがっていた音にぴったりなのは、やっぱり細いツマミだからだ。

五味先生のJC2がどちらなのかは、写真で見たわけではないのでわからない。
けれど、きっと初期のモノだと、確信している。

Date: 1月 16th, 2009
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか

文藝春秋 2月号を読んだ。
五味先生が最期に聴かれたレコードは、バックハウスのベートーヴェンの作品111、とある。

五味先生の追悼記事が載ったステレオサウンド 55号の編集後記に、原田氏は、
「最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの111番だった」と書かれている。

新潮社から出た「音楽巡礼」に、五味先生と親しくお付き合いされていた南口氏も、
ケンプのベートーヴェンがお好きだった、と書かれていたので、
今日までずっとケンプのベートーヴェンを最期に聴かれたものだと思ってきた。

ケンプは病室で最期に聴かれたのかもしれない、バックハウスは通夜でかけられたものかもしれない。

まぁ、でも、どちらでもいいような気持ちも、正直にいえば、ある。
ケンプのベートーヴェンも、バックハウスのベートーヴェンも、代わりなんて思い浮かばない。
音楽とは、本来そういうものだということを想い起こさせてくれる。

どちらにも、自恃がはっきりとある。

Date: 1月 15th, 2009
Cate: 五味康祐

文藝春秋

いま書店に並んでいる「文藝春秋」2月号に、
ステレオサウンドの原田 勲会長が、
「五味康祐先生のオーディオ」というタイトルで、コラムを書かれている。

実は、いましがた、傅さんからいただいメールで知ったばかりなので、未読。
こんな時間に開いている書店が近所にあれば、すぐに買いに走るところなのに……。

「オーディオ巡礼」復刻版の巻末には、原田氏の「五味先生を偲んで」が所収されている。

Date: 1月 15th, 2009
Cate: 五味康祐

「オーディオ巡礼」

五味先生の「オーディオ巡礼」が復刻される。
1月24日、ステレオサウンドから発売になる。

実は「オーディオ巡礼」が復刻されることは、1年前に、ステレオサウンドの原田会長から聞いていた。

2月2日、瀬川先生の墓参に行く車の中で、五味先生の話になったとき、
「五味さんの命日の4月1日に、オーディオ巡礼を復刻したいんだ」と話された。

五味先生の文章に心打たれ、ときに涙して、音楽とオーディオにのめり込んでいった者は、
どんなに時が経とうと、忘れることは絶対にない。

字面だけを読んできた者には、理解できないことだろう。

Date: 1月 10th, 2009
Cate: 傅信幸, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その24)

1980年(だったと思う)のFM fanに、傅さんによる菅野先生と瀬川先生の記事が載っていた。

菅野先生のページには瀬川先生の、瀬川先生のページには菅野先生の、それぞれの囲み記事があり、
真に親しい間柄だからこそ出来る、軽い暴露的な話が載っていた。

瀬川先生は、「JBLの375とハチの巣は、菅野さんよりもぼくのほうが早く使いはじめた」と、
菅野先生は「彼は白髪を染めている」と書いてあったのを思い出す。

今日、1月10日は瀬川先生の生日だ。存命ならば74歳。
髪は真っ白になられていただろうか。
どんなふうになられていただろうか……。74歳の瀬川先生の風貌を想像するのはなかなか難しい。

つまり、それだけの時間が経っていること。
今年は、それをいつもよりも実感している。

あと20日もしないうちに、私も46歳になる。
瀬川先生と同じ歳になるからだ。