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妄想組合せの楽しみ(番外・その8)
対決していくための環境として、色温度の高い光を求める。
色温度の低い、温かさを感じさせる光のもとではくつろいでしまい、対決するという雰囲気ではなくなる。
でも、なにも明るい光のもとだけが対決ていく場ではない。
もうひとつ、闇がある、と思う。
闇に一条の光、──それはもちろん色の温度の高い、純度の高い光が切り込んでくる。
ここまで考えてくると、以前書いたことのある、かわさきひろこ氏の言葉を思い出す。
余剰すぎる明るさは、人を活発にするだろうけど、一方で、人に安心感を与える。
岩崎先生の言われていた「対決」が、ここにきて、すこしわかりかけてきた気がする。
瀬川冬樹氏の「本」(お願い)
瀬川先生の「本」の第三弾は、これまでとは違い、
未発表原稿やスケッチ、メモの公開とともに、取材も行い、記事も何人かの方にお願いし、
私自身も書く内容とします。
その取材のひとつとして、瀬川先生が、新宿西口にあったサンスイのショウルームで毎月行われていた
「チャレンジオーディオ」についての取材も考えています。
当時、このショウルームでのイベントの担当をされていた西川さんを招いて、
当時、「チャレンジオーディオ」に行かれていた方々とのやりとりを、ぜひ聞いてみたいと考えています。
私自身は、当時はまだ実家住まいでしたので、「チャレンジオーディオ」に行きたいと思っていても、
結局、一度も行けずに終ってしまいました。
ですから、私自身は、西川さんから当時のことを、引き出していくのが無理ですので、
ここで、当時、通われた方々に、ぜひお集まりいただき、お話しいただきたいと考えた次第です。
場所は四谷三丁目に確保しました。
何人の方が集まってくださるかによって、こまかいことを決めていきます。
当時「チャレンジオーディオ」に行かれていて、取材に協力してくださる方は、
私宛に、メールにてご連絡ください。
よろしくお願いいたします。
瀬川冬樹氏の「本」(第2弾)
瀬川先生の「本」の第2弾を公開しました。
前回同様、今回もEPUB形式です。
前回のものを増強したものです。
ですから、ファイル名もまったく同じです。
前回よりも、iPadでの表示では約900ページ増えています。
今回はアップロード関係上、zipで圧縮してあります。
なので解凍してください。
iPad、iPhoneで、前回の「本」をインストールされている方は、
iPad、iPhone上の「本」、それからiTunes上の「本」を削除した上で、
ダウンロードし解凍したファイルを、iTunesにドラッグして、インストールお願いします。
(FireFoxで開けないという報告がありましたので、手直ししたものを新たに公開しました。
23時以前にダウンロードされた方は、再度ダウンロードをおすすめします。)
次回の更新・公開日はまだ決めておりませんが、
今回の「本」から、ドネーションブックにさせていただきます。
ドネーションブックですから、前回の「本」同様、無料でご覧いただけます。支払いの必要はありません。
ですが、これからの更新作業を確実に、より早く、より良いものにするためには、皆さまが必要です。
もしよろしければ、できる範囲の額のご寄付を、どうかご検討ください。
よろしくお願いいたします。
ご連絡は、私あてにメールでお願いいたします。
岩崎千明氏のこと(その25・補足)
岩崎先生が「対決」ということばを使われるのと、ジャズを聴かれるのは、
絶対に引き剥すことのできない関係である。
瀬川先生が、ステレオサウンド 43号に書かれた、「故 岩崎千明氏を偲んで」で、
スイングジャーナル主催の、サンスイの新宿のショールームでおこなわれた、
菅野、岩崎、瀬川の三氏による鼎談のことについてふれられている。
「すでに闘病生活中で、そのときさえ病院から抜け出してこられたのだった」とある。
この鼎談が掲載されているのが、スイングジャーナルから出た〝モダン・ジャズ読本 ’77〟のなかの
「理想のジャズ・サウンドを追求する」である。
そこで岩崎先生は語られている。
「ぼくのように60年安保の時代にジャズを聴いた人間は、ジャズをひとつのレジスタンスの音楽として、非常に闘争的な音楽と考えるわけなんです。」
瀬川先生も語られている。
「ジャズに親しんだのはほんのわずかな時期なんです。ちょうど60年安保の頃、デザインの勉強をしていまして、あの頃はデザインを勉強する者はジャズを聴かなくちゃダメだという風潮がありましてネ。」
60年安保という時代の空気とジャズ──。
岩崎千明氏のこと(その25)
岩崎先生は、何と対決されていたのだろうか。
スピーカーから鳴ってくる(向ってくる)音楽との対決、だけではなかったようにも思う。
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」。
このことば、いままで出していた音と違う音を、耳が求めたら、というふうに読める。
これもそれだけではないように思う。
これは、オーディオの知識を得ることによって頭の中に出来上ってくる固定概念との対決、
という意味も含まれている。
そう確信している。
BBCモニター考(特別編)
昨年秋、また瀬川先生が書かれたメモとスケッチをいただいた。
その中に、BBCモニター、というよりもロジャースのPM510についてのメモがある。
1年前の今日も、瀬川先生のメモを公開した。
今年は、去年に比べるとずっと量は少ないが、このPM510についての「メモ」を公開する。
*
◎どうしてもっと話題にならないのだろう、と、ふしぎに思う製品がある。最近の例でいえばPM510。
◎くいものや、その他にたとえたほうが色がつく
◎だが、これほど良いスピーカーは、JBLの♯4343みたいに、向う三軒両隣まで普及しない方が、PM510をほんとうに愛する人間には嬉しくもある。だから、このスピーカーの良さを、あんまりしられたくないという気持もある。
◎JBLの♯4345を借りて聴きはじめている。♯4343よりすごーく改良されている(その理由を長々と書く)けれど、そうしてまた2歩も3歩も完成に近づいたJBLを聴きふけってゆくにつれて、改めて、JBLでは(そしてアメリカのスピーカーでは)絶対に鳴らせない音味というものがあることを思い知らされる。
◎そこに思い至って、若さの中で改めて、Rogers PM510を、心から「欲しい」と思いはじめた。
◎いうまでもなく510の原形はLS5/8、その原形のLS5/1Aは持っている。宝ものとして大切に聴いている。それにもかかわらずPM510を「欲しい!!」と思わせるものは、一体、何か?
◎前歴が刻まれる!
*
内容からして、なにかの原稿のためのメモであろう。
そして最後の1行の「前歴が刻まれる!」だけ、インクの色が違う。しばらくたってから書き足されている。
注意:若さの中で改めて、とあるが、「若」の字がくずしてあり、他の漢字の可能性も高いが、
ほかに読みようがなく、「若さ」とした。
ユニバーサルウーファー考(その5・補足)
井上先生は、磁気回路がアルニコ磁石かフェライト磁石なのかによる音の違いは、
磁石としての性能の違いだけが影響してくるのではなく、アルニコとフェライトの製造方法の違いから生じる、
個体としての性質の違いも音に大きく関係してくることに注意しろ、とよく口にされていた。
アルニコとフェライトでは叩いた時の音がまったく異る。
しかも磁石の占める割合は、わりと大きい。磁気回路の強力なスピーカーユニットほど、
この固有音の違いもまた大きく音に関係してくるわけだ。
そして構造体としてスピーカーユニットを捉えた時に、
質量がどのように分布しているのかも重要だと言われていた。
ウーファーは基本的にコーン型かほとんどであるため、
構造体としてはほとんど同じだが、トゥイーターとなるとホーン型、ドーム型、コーン型などなど、
いろいろな種類があり、それによって構造が大きく異ってくる。
同じホーン型でもホーンの形状の違い、ユニット全体の構造の設計の違いなどによって、
ほぼ同じ重量のホーン型トゥイーターでも、質量が集中しているものもあれば、分散しているものもある。
同じ重量であれば、集中している方が全体の強度も高くなる。
それは手にした時の感覚的な重さの違いでもある。
同じ重量のトゥイーターでも、質量が集中して小型のモノと、わりと大きく質量が分散しているモノとでは、
前者の方がずしりとした感じを受けるだろう。
そういう要素は、かならず音に関係してくる。
というよりも、どんなことでも音には関係してくる。
ユニバーサルウーファー考(その5)
もう30年以上まえのことだが、
井上先生が、マクソニックのトゥイーター、T45EXのことを、パワートゥイーターと表現された。
T45EXは、ホーン型トゥイーターのT45の磁気回路の磁石を、励磁(フィールド)型に置き換えたもので、
ベースとなったT45は重量3.8kgなのに、T45EXは9kgと倍以上の重量になっている。
JBLの2405が2kg、エレクトロボイスのT350が3.2kg、
強力な磁気回路を背負っていたピラミッドのT1でも3.85kgだから、
T45EXの物量の投入具合が重さからも伝わってくる。
構造体として、これだけの重量差があると、たとえ磁気回路がT45と同じで永久磁石だったとしても、
出てくる音には、そうとうの違いが生じるものである。
そこにもってきて励磁型で、しかも電磁石への電圧をあげれば磁束密度は高くなる。
井上先生は、磁束密度をあげたときの音は、パワートゥイーターとしての性格をはっきりと感じる、と言われている。
パワートゥイーターという表現がふさわしいT45EXの音はどんなだったのだろうか。
井上先生の発言を拾ってみると、
トゥイーター単体の付属音、シャッとかシャラシャラといった音がまったくいっていいほど出てこない、
2トラック38cmのオープンリールデッキで生録をするときにモニター用としてつかうことのできる製品、
ということになる。
だから、
生演奏の音をマイクで拾ってそのまま録音器を通さずにスルーで聴けば、
付帯音がなくて十二分なエネルギーが出せるので、すごい魅力が引き出せるはず、と評価されている。
ただ、こういう性格の音の場合、アナログディスクの再生では、高域の伸びが不足しているように聴こえ、
高域の音の伸びがもっと欲しくなるようおもわれが、実は十分なエネルギーが再現されているため、
いわば演出された繊細さにつながる高域感は稀薄になる──、そう受けとれる。
井上先生の書かれたものをよく読んでいる人ならば、このアナログディスク再生とテープ再生の対比で、
音を表現されることを、わりと井上先生は使われることに気づかれているはず。
Mark Levinsonというブランドの特異性(その46・さらに補足)
もともと人間という動物は、最少限度の、自分の考えに共鳴してくれる仲間を求め、集団を作る。それはいわば相手の中に自己の類型を発見する、つまり自己の存在を確認するひとつの手段なので、こうした手段の得られない完全な孤立の状態には耐えることができない。この状態は、もっと複雑な社会の中では、特に、過渡期といわれる時期に目だってあらわれる。物ごとのゆれ動いている過渡期の状態では、人は方向を見失う、すなわち孤立するという怖れにつきまとわれる。それは何か確定したひとつの形式を求める気持、あるいは画一性の必要悪となって現われる。その形式に従っているかぎり自分は方向を見失わないのだ、という安心感。周囲のどこを見回しても、他人が自分と同じ形式に従って行動しているという安定感。つまり類型の発見が、自己の存在を確認するための確かな安心感となってあらわれるので、これは日常のことばづかい、行動、服装の流行などに端的にあらわれている。
いまこれと逆に、周囲の誰もが自分と違った形で行動している、というようなことが起きると、彼はひどく不安になり、孤立感が彼を苦しめる。孤立の怖れの強い人ほどそれを打消したいという意識も当然強く、孤立感の裏がえしの行動としての自己拡大欲、征服意識が強く、それが他人への積極的なはたらきかけ、あるいは命令となってあらわれる。自己と他との間に存在するギャップを埋めようとする意識のあらわれである。つまり〈弱い犬ほどよく吠える〉ということである。
*
上記の文章は、11月7日に公開した瀬川先生の「本」のなかにもおさめたからお読みになった方もおられるだろう。
ラジオ技術、1961年1月号に掲載された「私のリスニングルーム」のなかで書かれている。
瀬川先生、25歳の時の文章。
続・思い浮かんできたこと
「音は人なり」が意味するところは、結局のところ、
レコードにおさめられている音楽は、決して不動でも不変でもない、ということ。
同じ1枚のレコードが、聴き手が100人いれば100とおりの鳴り方をする。
1000人いても、10000人いても、ひとつとして同じ音では鳴ることはない。
そこにオーディオが介在しているからだし、再生(演奏)する人がいるからだ。
その意味でも、オーディオは「虚」だと思う。
オーディオは、「虚」の純粋培養を、ときとして行ってくれる。
そのために必要なことはなんだろうか、と考えてゆくことを忘れてはならない。
Mark Levinsonというブランドの特異性(その46・補足)
瀬川先生は趣味をどういうふうに捉えられていたのか。
スイングジャーナルの1972年1月号の座談会のなかで語られている。
*
人との関係なくして生きられないけれども、しかしまた、同時に常に他人と一緒では生きられない。ここに趣味の世界が位置しているんだ。逃避ではない自分をみつめるための時間。趣味を逃避にするのは一番堕落させる悪い方向だと思う。
*
こんなことを語られている。
*
仲間達と聴く。そのときはいい音に聴こえる。しかし、それは趣味そのものではなくて、趣味の周辺だと思うのです。趣味の世界は常に孤独なのです。
*
1972年の1月号ということは前年の12月に出ているわけだから、この座談会は、亡くなられる10年前になる。
だから、それからさきに、この考えを改められたのか、ずっと変らずだったのか。どちらだったのだろうか。
私のなかでは、答は出ている。
瀬川先生の書かれたものを読んで、ひとりひとりが自分の答を出していくものだろう。
思い浮かんできたこと
このブログをはじめたころに「再生音は……」と短い文章を書いている。
そこに「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と書いた。
じつはこのときは、なかば思いつきで書いた。
だが8月からの瀬川先生の「本」づくりに集中していて、このことが頭にとつぜん浮かんできた。
そして、「現象」だからこそ、それは虚構世界へとつながっていく。
はっきりと言葉として表現されているわけではないが、瀬川先生も、こう捉えられていたのだろうか。
Mark Levinsonというブランドの特異性(その46)
レコードの音は、徹底的に嘘であるところが好きだ。虚構だから好きだ。日常的でないから好きだ。そしてそれを鳴らすメカニズムには、レコードの虚構性、非日常性をさらに助ける雰囲気があるから好きだ。
一人の人間を幸せにする嘘は、人を不幸にする真実よりも尊い。「百の真実にまさるたったひとつの美しい嘘」というのは私の好きな言葉で、これを私は、レコードの演奏やそれを鳴らすメカニズムやそこから出てくる音にあてはめてみる。レコードの音は、ほんらい生とは違う。どこまで行ってもこの事実は変わらない。オーディオの技術がこの先どこまで進んだとしても、そしていまよりもっと生々しい音がスピーカーから出せるようになったとしても、ナマとレコードは別ものというこの事実は変わらない。
だからナマと同じ音など求めるのはバカげている、という考え方がある。どこまでナマに近づけるかという追及などナンセンスじゃないか、という意見がある。一面もっともだが、私は違う。たとえば小説が虚構の中で現実以上の真実をみせてくれるように、映画が虚構の中で実生活以上の現実感を味わわせてくれるように、私は、スピーカーが鳴らす虚構の音にナマ以上の現実感を求める。生の音と同じ、ではない、いわば生以上の生、を求めるのである。虚構の世界のこれは最も重要な機能である。虚構は日常性を断ち切ることによって、虚構にいよいよ徹することによって、真実を語ることができる。(「人世音盤模様」より)
*
瀬川先生が、なぜLNP2の音に惹かれたのか、が、この文章につながっていっていると思う。
そして、もうひとつのなぜ──ここまで虚構世界に追い求められるのはなぜなのか。
その答はここにあるのではなかろうか。
*
なぜ、趣味が人を純粋にさせるのか。それは、趣味というものは実生活のあらゆる束縛から解き放たれた虚構の世界のものであるからだ。虚構の世界では、人は完全に自由である。実生活上の利害とも無縁だ。これを買ったらトクかソンかなんていう概念は、趣味の世界にありえないコトバなのだ。外から強制されるものではなく、自らが自らのルールを(虚構の中で)定め、虚構世界の束縛の中に、束縛による緊張の世界に、自発的に参加する。そこに無限の飛躍と喜びがある。これはある意味で子供たちの遊びの世界に似ている。子供たちは遊びの世界で——というより遊びこそが子供たちの全宇宙と言うべきなのだが——、石ころや木の葉をさえすばらしい宝ものに変えてしまう。子供たちは魔法つかいだ。(「続・虚構世界の狩人」より)
*
私がなぜ、そう感じたのか、その理由については、まだ書きたくないし、書くべきでもないよう気がする。
だからあえて舌足らずのままにしておくことをお許し願いたいが、それでもひとつだけ書いておく。
「子供」──、このことばこそ、ここでは、とても大事な意味を持っているはずだ。
Mark Levinsonというブランドの特異性(その45)
この項(その32)に、瀬川先生のKEFの105の試聴記を引用している。
そこに「組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のようにツヤや味つけをしてやらないと、
おもしろみに欠ける傾向がある。」と書かれている。
このことは、瀬川先生がマークレビンソンのアンプ(このときはML7はまだ登場していない)の音を、
どう感じておられたかがわかる。
もしこのとき、LNP2やJC2(ML1)、ML2などがとっくに製造中止になっていて、ML7とML3だけになっていたら、
こんなことは書かれなかったと思う。
ステレオサウンドの1981年夏の別冊の巻頭原稿「いま,いい音のアンプがほしい」に、どう書かれているか。
*
その当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
*
「その当時のレヴィンソン」とは、ジョン・カールと組んでいた頃のマーク・レヴィンソンだ。