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Date: 12月 1st, 2015
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーのこと(その14)

NTXシステムの振動板の様子を捉えた写真を見て、
ゴードン・ガウがXRT20のトゥイーターコラムで実現しようとしていたことは、
こういうことなのか、と思った。

XRT20は日本では1981年から販売されている。
けれどアメリカでは1980年から市場に出ていたし、
実のところ日本にもそのころ輸入されていたにも関わらず、そのころの輸入元の判断で、
日本市場では売れない、ということでずっと保管されたままだった。

ステレオサウンドにXRT20が登場したのは59号。
新製品紹介のページで菅野先生が書かれている。
     *
ここに御紹介するXRT20という製品は、同社の最新最高のシステムであるが、すでに昨1980年1月には商品として発売さていたものなのだ。したがって、いまさら新製品というには1年以上経た旧聞に属することになるのだが、不思議なことに日本には今まで紹介されていなかったのである。1年以上も日本の輸入元で寝かされていたというのだから驚き呆れる。
     *
この記事はカラーページだった。
59号を持っている方は、もう一度写真を見直してほしい。
XRT20のウーファーセクションのエンクロージュアの下部が、どうみても新品とは思えない状態になっている。

輸入元で保管といっても、あまりいい状態での保管ではなかったようだ。
空調のきいたところで保管されていたのであれば、エンクロージュアの下部はこんなにはならない。

XRT20はヴォイシングを必要とするスピーカーシステムだったし、
トゥイーターコラムもウーファーセクションのエンクロージュアも壁につけて使うことが前提となる。
いわば制約の多い製品といえる。

こういうモノは売りにくい、売れない、と当時の輸入元が判断したのは、
XRT20というスピーカーシステムを正しく理解していなかったともいえる。

でも、どれだけの人がXRT20を正しく理解していたといえるだろうか。
XRT20を購入した人だから、XRT20を正しく理解しているとはいえない。
それがいい音で鳴っていたとしても、XRT20の理解とは別のところで鳴っているわけである。

オーディオで仕事をしていない人ならば、私はそれでいいと思っている。
正しく理解したからといって、いい音で鳴らせるとは限らないからだ。

ただオーディオの仕事をしている人は、それでは困る。
私は、一度XRT20を一般的なスピーカーと同じようにフリースタンディングで鳴らして、
こう鳴らす方がいい音でしょう、と誇らしげに語った人を知っている。
ここにも、おさなオーディオがある。

この人のスピーカーの理解はこんなものか、と思ってしまった。
とはいうものの、そのころの私も、この人よりはXRT20を理解していたとはいえるが、
ほんとうに正しく理解していたとはいえない。

なぜゴードン・ガウは、トゥイーターコラムを試作品段階で試したコンデンサー型としなかったのか、
なぜハードドーム型ではなくソフトドーム型にしたのか、
24個のトゥイーターを、なぜ、あんなふうに配線しているのか……。

いくつかの疑問があって、その答を見出せずにいた。
1996年までそうだった。

Date: 11月 29th, 2015
Cate: 使いこなし, 瀬川冬樹

使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より・補足)

さきほど書いた「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」は、続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookにもらったコメントを読んで、これだけは補足しておこうと思った。

最初に書こうと考えていたことは、別にあった。
数日前、知人からメールで問合せがあった。
「瀬川さんが、こんなことを書いているようだけど、どこに書いているのか」というものだった。

知人は、二三ヶ月前のラジオ技術の是枝重治氏の文章を読んで、私に訊ねてきた。
その号を私は読んでいないので正確な引用ではないが、
瀬川先生がある人に、昔はアンプを自作していたのに、
なぜいまはメーカー製のアンプを喜々として使っているのか。
それに対して、その時はうまく反論できなかったけど、いまはこういえる……、
そういう内容のことだったそうだ。

これはステレオサウンド 17号の「コンポーネントステレオの楽しみ」に出てくる。
     *
 しかし音を変えたり聴きくらべたりといった、そんな単調な遊びだけがオーディオの楽しみなのではない。そんな底の浅い遊戯に、わたくしたちの先輩や友人たちが、いい年令をしながら何年も何十年も打ち込むわけがない。
 大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは素材としてスピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為といえるのだ。
 ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、同席したこの道の先輩にはそのことがわかってもらえないとみえて、その人は、創造、というからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこういえる。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
     *
その知人に確認したことがある、是枝氏は「うまく反論できなかった」と書かれていたのか、と。
そうらしい。
でも、瀬川先生は「うまく説明できなかった」と書かれている。

反論と説明とでは、読む方の印象はずいぶんと違ってくることになる。
やはり瀬川先生ならば、反論ではなく説明のはずであり、
私はここが瀬川先生らしい、と思った。
そのことを書きたかっただけで、
引用するために「コンポーネントステレオの楽しみ」を開いていた。

読んでいくうちに、そんなことよりもフローベルの言葉について書かれたところにしよう、と思った。
だから、「使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)」だけで済んでいた。

facebookへのコメントには「なかなか出会えない」とあったからだ。
その気持はわからないわけではないが、
瀬川先生も書かれている「オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ」、
ここのところを読んでほしい、と思う。

素材を探し求める態度も真摯なものになる、と書かれている。
だから「なかなか出会えない」という気持はわかる。
でも、世の中にそうそう理想と思えるモノがあるわけではない。

真摯な態度で探し求め、そうやって手に入れたモノを組み合わせて、使いこなしていく、という行為、
この行為を創造する喜びがあるとして取り組んでいくしかない。

Date: 11月 29th, 2015
Cate: 使いこなし, 瀬川冬樹

使いこなしのこと(瀬川冬樹氏の文章より)

ステレオサウンド 17号に「コンポーネントステレオの楽しみ」という瀬川先生の文章が載っている。
「虚構世界の狩人」にもおさめられている。
そこには、こう書いてある。
     *
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
 これはフローベルの有名な言葉だが、この中の「言葉」「動詞」「形容詞」という部分を、パーツ、組み合わせ、使いこなし、とあてはめてみれば、これは立派にオーディオの本質を言い現わす言葉になる。
     *
フローベルの言葉を置き換えてみると、
「われわれの言おうとする事がたとえ何であっても、それを現わすためには一つのパーツしかない。それを生かすためには、一つの組み合わせしかない。それを形容するためには、一つの使いこなししかない。さればわれわれはそのパーツを、その組み合わせを、その使いこなしを見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。」
となる。

「言おうとする事」は、いうまでもなく「出そうとしている音」である。

Date: 11月 27th, 2015
Cate: 川崎和男

KK塾(二回目)

KK塾、二回目の講師は、生田幸士氏。

生田氏の高校生時代のエピソードに、スタートレックのことが出て来た。
スタートレックのテレビシリーズを見ていた人ならば説明はいらないだろうが、
艦長のカークと副長のスポックは、たびたび異星に降りたつ。

エンタープライズ号のトップのふたりが、艦を離れてしまうことがたびたびある。

いまHuluでザ・ラストシップが毎週火曜日に一本ずつ公開されている。
ザ・ラストシップは面白い。
毎週火曜日が楽しみなくらいである。

今週の火曜日に公開されたエピソードを見て気づいたのは、
ザ・ラストシップとスタートレックは似ている、ということ。

スタートレックは宇宙戦艦、ザ・ラストシップは駆逐艦、
スタートレックは宇宙、ザ・ラストシップは海が舞台である。

スタートレックでは異星に降りたつ、ザ・ラストシップでは陸上に降りたつシーンもあるが、
メインとなるのは艦内という、いわば閉じられた空間での出来事という共通性を感じる。

ただザ・ラストシップでは艦長と副長のふたりともが艦を離れることはない。
艦長が交渉のため止むを得ず艦を離れた時には、副長が艦に残っている。
艦長はよほどのことがないかぎり艦を離れるものではないし、
まして副長とともに離れることはあってはならないこと。

今週火曜日にそのことに気づいたばかりだったから、
生田氏のスタートレックの話を聞きながら、2011年3月11日のことを思い出していた。

この日、東京電力の会長は中国に、社長は関西方面に出かけていて、
東京電力のトップふたりは会社という艦から離れていた。
どちらかひとりは必ず残っているべきである。

生田氏は高校の文化祭のリーダーだったときに、
必要だったススキを刈りに学校を離れて戻ってきたら、先生に叱られてしまった。
その時に、スタートレックでは、カートとスポックのふたりが艦を離れてしまう、
と反論したところは、それはテレビの話であり、リーダーは現場を離れてはいけない、
何かあったときにリーダー不在ではあってはいけないからだ、と、
また先生に叱られたということだった。

あの時の東京電力の会長と社長が、
どんな学校を卒業してきたのか知らないし、調べようとも思わない。
偏差値の高い学校なのだろう、とは思う。
優秀な人たちなんだろうとも思う。

だから東京電力という会社のトップになれたのだろう。
けれど、このふたりには、
生田氏の高校時代の先生の存在がいなかったのだろう、とも強く思う。

数日前に、石積みのことを書いたばかりということもあって、
教育も石積みだと思っていた。
大きな石だけでは積んでいくことはできない。
小さな石も中くらいの石も必要になってくる。

文化祭でのエピソードは、いわば小さな石かもしれない。
でも、この小さな石がなければ石垣は、空積みの石垣は崩れてしまう。

Date: 10月 30th, 2015
Cate: 川崎和男

KK塾

KK塾に行ってきた。KKとはKazuo Kawasakiのことである。
これまで大阪で行われていたKK塾。大阪まで行けなかったから東京で行われるのを待っていた。

今日が東京での一回目である。
五反田にあるDNPホールに行ってきた。

一回目の講師は濱口秀司氏。13時30分に始まり終ったのは17時30分ごろだった。
途中休憩は10分程度。
なぜ無料で行われているのかと思うほどの内容だった。

濱口氏の話を聞いてグレン・グールドのことを考えていた。
なぜコンサート・ドロップアウトしたのか、
その理由はあれこれ語られているが、濱口氏の話を聞いていて、
そういうことだったのかと思うことがあった。

濱口氏の話に音楽のことは出なかった。
けれど、グールドのことを考えていた。

イノヴェーションの作法。
まさにグールドがコンサート・ドロップアウトして試みていたのはイノヴェーションの作法だった、と思っていた。

Date: 10月 30th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その10)

1970年代後半、ボンジョルノのGASのアンプの音は男性的といわれた。
レヴィンソンのLNP2は、女性的なところがあるともいわれていた。

黒田先生がステレオサウンド 24号、「カザルス音楽祭の記録」についての文章がある。
     *
 端折ったいい方になるが、音楽にきくのは、結局のところ「人間」でしかないということを、こんなになまなましく感じさせるレコードもめずらしいのではないか。それはむろん、カザルスのひいているのがチェロという弦楽器だということもあるだろうが、スターンにしても、シゲティにしても、ヘスにしても、カザルスと演奏できるということに無類のよろこびを感じているにちがいなく、それはきいていてわかる、というよりそこで光るものに、ぼくは心をうばわれてしまった。
 集中度なんていういい方でいったら申しわけない、なんともいえぬほてりが、室内楽でもコンチェルトでも感じられて、それはカザルスの血の濃さを思わせる。どれもこれもアクセントが強く、くせがある演奏といえばいえなくもないだろうが、ぼくには不自然に感じられないし、音楽の流れはいささかもそこなわれていない。不注意にきいたらどうか知らないが、ここにおいては、耳をすますということがつまり、ブツブツとふっとうしながら流れる音楽の奔流に身をおどらせることであり、演奏技術に思いいたる前に、音楽をにぎりしめた実感をもてる。しかし、ひどく独善的ないい方をすれば、この演奏のすごさ、女の人にはわかりにくいんじゃないかと思ったりした。もし音楽においても男の感性の支配ということがあるとしたら、これはその裸形の提示といえよう。
     *
ここで語られていることがそっくりそのままボンジョルノのアンプにあてはまるとまでは言わないが、
大筋においてはそういえる。
GASのAMPZiLLA、THAEDRA、SUMOのTHE POWER、THE GOLDの音は、まさしくそうである。
だから、ボンジョルノのアンプの音は男性的といえる。

そして、「鮮度」に関してもそうだといえる。

Date: 10月 24th, 2015
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その9)

SUMOの輸入元であるバブコの広告には、
THE POWER、THE GOLDのコンストラクションのことをモノコック構造と記していた。

モノコック(monocoque)とは車における車体とフレームが一体構造であることをさす。
単体構造ともいう。
自転車のフレームでモノコックといえば、フレームを形成する前三角、後三角が一体成型したものをいう。

THE POWER、THE GOLDのコンストラクションをモノコック構造といっているのは、
ジェームズ・ボンジョルノだったのか、それとも輸入元なのかははっきりしない。
ただ、当時SUMOの広告を見ながら、これがモノコック構造なのか……、と少し疑問に感じていた。

バブコの広告ではTHE POWERの外装が取り外された写真が中央に大きくあった。
この写真をみると、THE POWERの中心部にはシールドされた電源トランスがある。
その両脇にヒートシンクがあり、ヒートシンクの下側に平滑コンデンサーがある。

ヒートシンクの上には電圧増幅部の基板、電源トランスの上にもプリント基板があった。
この基板がアンバランス/バランス変換回路でもる。
すぐ目につくプリント基板は三枚だが、ヒートシンクにはパワートランジスターの配線をかねた基板が、
ヒートシンクの両脇に一枚ずつある。つまり計七枚のプリント基板がある。

AMPZiLLAがヒートシンクの下側に空冷ファンを配置していたのに対して、
THE POWER、THE GOLDではヒートシンクを水平に設置。
空冷ファンはフロントパネル側に取りつけられ、リアパネル側に排気する。

バブコの広告写真をみたときには、どんなにじっくりみても気づかなかったことがあった。
THE GOLDを手に入れて、一度分解して各部のクリーニングを徹底して行ってから組み立て直して、
確かにこれはモノコック構造といえるな、と思っていた。

Date: 10月 18th, 2015
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(映画・ドラマのセリフ)

映画やドラマで、ときどきこんなセリフに出会す。

人はいつか死ぬ。早いか遅いかの違いだけだ。

こんなセリフが映画やドラマの中で使われることがある。
このあいだも聞いた。
たいてい、このセリフがいいたいことは、
早く死ぬことも遅く死ぬことも大きな違いはない、ということだ。

この手のセリフを聞くたびに思うことがある。
確かに人は必ず死ぬ。死なない人はいない。
世の中に絶対といえることは、このことくらいである。
死は避けられないのだから、早いか遅いかの違いだけだ、というセリフには半分同意できても、
半分は、早いか遅いかの前に、言葉がひとつないことを思ってしまう。

親より早く死ぬか遅く死ぬか、である。
私は、この違いは大きいと思う。

Date: 10月 12th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その人気)

「世代とオーディオ(その14)」を書き終って、ステレオサウンド 59号をぱらぱらとめくっていた。
特集はベストバイ。
このころのベストバイはオーディオ評論家だけでなく、
読者が選ぶベストバイ・コンポーネントの集計結果が載っている。

それだけでなく投票した読者の現用機器の集計結果も掲載されている。
これを丹念にみていくと実に興味深い。

59号の発売、つまり1981年におけるパワーアンプ使用台数の一位は、QUADの405の102台、
二位がアキュフェーズのP300Xの92台、三位はパイオニア Exclusive M4(a)の85台、
四位はデンオンのPOA3000の84台、五位にAmpzillaが来ている。

Ampzillaの使用台数はAmpzilla II、Ampzilla IIAも含めて51台である。
ちなみにサンプル数は3003。Ampzillaの総数率は2.8%で、
1978年度は十六位、1979年度は八位と確実に順位をあげている。

Ampzillaより上位に来ているパワーアンプは、どれもAmpzillaと同価格帯のモデルではない。
405はAMpzillaの約1/4、アキュフェーズ、デンオン、パイオニアにしても1/2から1/3の価格であること考えると、
このころのAmpzillaの人気と実力の高さが読み取れよう。

ブランド別/現用装置対照表もある。
GASはパワーアンプ部門で53台の十一位。
Ampzillaが51台だから、あとの2台はSon of AmpzillaかGrandsonであろう。
Godzillaということは考えにくい。

Ampzillaとペアとなるコントロールアンプをみると、Thaedraは16台の二十五位。
ということはGASの純正ペアで使われるAmpzillaは1/3以下となる。
この結果は、ちょっぴり残念に思う。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その9)

鮮度とは、新鮮さの度合と辞書にはある。
ということは音の鮮度とは、音の新鮮さの度合であり、
鮮度の高い音とは新鮮さの度合の高い音ということになる。

ここでの新鮮とは、どういう意味になるのか。
いままで聴いたことのない、新しい魅力をもつ音としての新鮮さもあれば、
肉や魚や果物などに使う場合の新鮮さとがある。

特にことわりがなければ、音の鮮度がいい、とか、鮮度の高い音という場合には、
後者の意味合いで使われる。

つまり、この意味合いで使われるのは、実演奏での音(コンサートホールでの音)ではなく、
スピーカーやヘッドフォンから鳴ってくる音に対して使われる。
再生音にのみ使われる。

肉や魚、果物などの鮮度がいいという場合には、
それらの肉や魚はすでに死んでいるからこそ、鮮度がいいとか悪いとかいう。
果物にしても、すでにそれらがなている木から捥ぎ取られているからこそ、
鮮度が高いとか悪いとかを気にするわけだ。

再生音も、いわば捥ぎ取られた音といえるし、
すでに死んでいるともいえる。
こんなことを特に意識していなくとも、オーディオに夢中になっていれば、
そのことは無意識のうちにわかっているのであろう、だから音の鮮度ということが気になる。

だが、ここで音の鮮度とは、もうすこし違う意味合いがあることに、
GASのTHAEDRAをボンジョルノのパワーアンプにつないで聴いた者は気づくのかもしれない。

Date: 10月 1st, 2015
Cate: James Bongiorno

THE GOLDなワケ(THE NINEの場合)

SUMOのTHE POWERには半分の出力のTHE HALFがあった。
THE GOLDにも半分の出力のTHE NINEがある。

THE GOLDの中古を見つけて買ったことを山中先生に話したことがある。
THE NINEもいいアンプだよ、と教えてくださった。

THE NINEはTHE GOLDのハーフモデルだからA級動作である。
電圧増幅部はTHE GOLDがディスクリート構成なのに対し、THE NINEはOPアンプを使っている。
出力段はTHE GOLDとほぼ同じ構成である。

フロントパネルはTHE HALFが黒なのに対し、THE NINEはゴールドである。

こんなことを書いているけれど、THE NINEの実物を見ることはなかった。
山中先生が聴かれているのだから日本に輸入されているはず。
けれどステレオサウンドの新製品紹介のページには載ることはなかった。

そんなTHE NINEであっても、インターネットのオークションをみていると、
ときどき出品されていることがある。
並行輸入かもしれないし、正規品かもしれない。
とにかく、さほど数は多くないにしても日本にTHE NINEはある。

このTHE NINE、なぜNINEなのだろうか。
THE HALFはわかりやすい。半分だからだ。

NINEは9。
なぜ9なのか。あれこれ考えてみた。

THE GOLDの半分で9ということは、つまりはTHE GOLDは18になる。
18Kなのか、THE NINEは9Kということなのか。

これが正しいのかどうかはいまとなってはわからない。
仮に正しかったとしたら、THE GOLDは18Kであって、24Kではないのか、ということになる。
24Kがいわゆる純金なのだから。

ここまで考えてくると妄想はふくらむ。
THE GOLDのスペシャルもデルの構想がボンジョルノの頭の中にあったのかもしれない。
18Kではなく24KとしてのTHE GOLDの構想が。

Date: 9月 23rd, 2015
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その8)

ジェームズ・ボンジョルノはマランツ時代にModel 15を手がけている。
AMPZiLLAが取り上げられたステレオサウンド 35号では、
ボンジョルノはマランツでModel 500を手がけたとあるが、これは間違いである。
Model 15といっても、若い人ではどんなモノなのかまったく知らないだろう。

Model 15はパワーアンプで、
モノーラルアンプを二台左右にならべてフロントパネルで結合したコンストラクションをもつ。
つまり、いまでいうところのデュアルモノーラルコンストラクションである。

AMPZILLA 2000の登場を知って、ボンジョルノの復活を嬉しく思うとともに、
AMPZILLA 2000のスタイル、二台左右に並べての写真をみて、Model 15のことを思い出していた。
このことは、AMPZILLA 2000について考えていく上で無視できない。

GASのGODZiLLAもまたデュアルモノーラルコンストラクションをとっている。
フロントパネルのすぐ裏に二基の電源トランス(EI型)が配されている。

それはボンジョルノのアイディアだったのかは、
それともただ単にAMPZiLLAをブリッジ接続したともいえる規模からくるコンストラクションだったのか。

どちらなのかははっきりしない。
ただフロントパネルには電源スイッチが左右で独立してふたつあるところをみると、
そうなのかなぁ……、ともおもえる。

このGOFDZiLLAのコンストラクションは、予想のつくコンストラクションともいえる。
それに対して同時期に登場したSUMOのTHE POWERのコンストラクションは、
それまでのボンジョルノが手がけたアンプどれとも似ていない。

ここにボンジョルノの飛躍ともいえるものを感じるし、
ボンジョルノが奇才と呼ばれるのは、なにも奇を衒ったようなデザインとネーミングとロゴではなく、
こういうところにあるのだという具体的なモノとしての存在である。

Date: 9月 22nd, 2015
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その7)

ステレオパワーアンプを二台、モノーラルパワーアンプならば四台用意してブリッジ接続にする。
この場合の出力は8Ω負荷時の四倍の出力が得られる──、のが理屈である。

50W+50Wのステレオパワーアンプをブリッジ接続すれば、だから200Wのモノーラルパワーアンプとなる。
けれど実際にブリッジ接続してみても理論通りに四倍の出力が得られるモノはごくわずかである。

ほとんどの場合、出力の増加は二倍程度であった。

1977年に登場したマークレビンソンのML2は、8Ω負荷時で25W。
にも関わらず消費電力はA級動作のため400W。
無駄飯喰いのパワーアンプだが、4Ω負荷時では理論通りに50Wになり、
2Ω負荷時には、ここでもまた理論通りに100Wになる。

なのでML2Lをブリッジ接続すれば8Ω負荷時で100W、4Ω負荷時で200Wが得られる。
それだけML2は電源の余裕度が大きかったといえる。

ML2の登場によって、
電源の余裕度を4Ω負荷時の出力、ブリッジ接続時の出力から推し量ろうとするようにもなった。
4Ω負荷時の出力が8Ω負荷時の出力の二倍になっているかどうか、
ブリッジ接続時に四倍になっているかどうかである。

ただしこれを逆手にとって、
4Ω負荷時の出力の半分の値を8Ω負荷時の出力として表示するアンプも登場したようだ。
8Ω負荷時には実際はもっと出力が得られるのだが、正直にその値を発表すると電源の容量が不足している、
そんなふうに受けとめられることを避けるためでもあった。

ML2にしても8Ω負荷時で実のところ50Wの出力が出せていたようでもある。
それが初期のロットからそうだったのか、途中からそうなっていったのかは不明なのだが。

GASのAMPZiLLAは8Ω負荷時の出力は200W+200W、
GODZiLLA ABの出力は350W+350Wと約二倍である。

AMPZiLLAの外形寸法はW44.5×H17.8×D22.9cm(AMPZiLLA IIAのカタログ発表値は若干大きい)、
GODZiLLAはW48.0×H18.0×D49.0cm、
重量はAMPZiLLAが22.7kg、GODZiLLAが45.0kg。

GODZiLLAはAMPziLLAを奥行き方向に二台並べた外形寸法と重量である。
出力もAMPZiLLAをブリッジ接続した値に近い。

このことだけでは断言できないものの、
やはりGODZiLLAはAMPZiLLAのブリッジ接続がベースになっているパワーアンプなのだろう。

Date: 9月 21st, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々続・おもい、について)

日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人は、
おそらく自分自身が、そういう方向へともってゆこうとしているとは気づいていないのかもしれない。
それだけではなく、自分自身が毒されたということを自覚していないのかもしれない。

そういう人たちでさえ、オーディオ界で仕事をするようになったときから、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうと考えたり、行動していたわけではなかったはずだ。

なのにいつしか毒されてしまう。
いつのまにかであるから、なかなか毒されたことに自覚がなく、
自覚がないままだから、日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうとしている──。

そんな人たちばかりでないことはわかっている。
わかっていても、そんな人たちの方が目立っている。
ゆえにそんな人たちの周囲にいる人は、どうしても毒されてしまう環境にいるといえよう。

それで毒される人、毒されない人がいる。
そんな人も、自分が周囲の人を毒する方向へともってゆこうとしているとは、
露ほどにも思っていないのではないだろうか。

こういうことを書いている私自身は、どうなのだろうか……。

Date: 9月 20th, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々・おもい、について)

ステレオサウンド 16号(1970年9月発売)、
巻頭には五味オーディオ巡礼がある。
副題として、オーディオ評論家の音、とついている。

山中敬三、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の音を聴かれての「オーディオ巡礼」である。

瀬川先生のところに、五味先生は書かれている。
     *
 でも、私はこの訪問でいよいよ瀬川氏が好きになった。この人をオーディオ界で育てねばならないと思った。日本のオーディオを彼なら毒する方向へはもってゆかないだろう。貴重な人材の一人だろう。
     *
「毒する方向へはもってゆかない」。
これは、日本のオーディオを毒する方向へともってゆく人が現実にいる、ということのはずだ。

「貴重な人材の一人だろう」。
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆかない人よりも、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人の数が多いということなのだろう。