文行一致(その3)
(その1)と(その2)でいいたいことは書いた。
これ以上書くのは蛇足だと、私は思っている。
けれど、(その1)と(その2)だけでは、
説明不足なのかはわかっている。
わかっているけれど、
あれだけでわかってくれる人もいるはずだ、と思っている。
それでも(その3)、(その4)と書いていかなければならないのが、
現在(いま)の世の中なのも、わかっているつもりだ。
(その1)と(その2)でいいたいことは書いた。
これ以上書くのは蛇足だと、私は思っている。
けれど、(その1)と(その2)だけでは、
説明不足なのかはわかっている。
わかっているけれど、
あれだけでわかってくれる人もいるはずだ、と思っている。
それでも(その3)、(その4)と書いていかなければならないのが、
現在(いま)の世の中なのも、わかっているつもりだ。
375+537-500、
こんなふうに書いておくと、
若い人は、何のことだろう……、と首をかしげるかもしれない。
小学生の算数の問題ではない。
JBLのコンプレッションドライバーとホーンの組合せの型番である。
537-500は、のちのHL88である。
日本では蜂の巣とも呼ばれているホーンである。
HL88、蜂の巣ホーンといったほうがとおりがいいのは分っている。
それでも、この数式のような型番(375+537-500)が、
このドライバーとホーンの組合せにしっくりくると感じるのは、憧れからだろうか。
私がオーディオに興味をもちはじめたころには、
537-500という型番は消えていた。HL88である。
Hはホーン(horn)、Lはレンズ(lens)をあらわしている。
無線と実験の1966年12月臨時増刊に、瀬川先生が書かれている。
*
中心をなすものはJ.B.Lansingの375ドライバー・ユニットに537-500ホーンに組み合わせたスコーカーで、中音に関しては目下のところ非常に満足している。375ユニットは、ボイスコイル径が4インチ(約10cm)、磁束密度20000ガウス以上という、漬物石の如き超大型のユニットで、ホーンをつけると一人では持ち上げるのに骨がおれる。
JBLのスピーカーについては、鋭いとか、パンチがきいたとか、鮮明とか、およそ柔らかさ繊細さとは縁の無いような形容詞が定評で、そのJBLの最大級のユニットを、6畳の和室に持ちこんだ例を他に知らないから、友人たちの意見を聞いたりもしてずいぶんためらったのだが、これより少し先に購入したLE175DLHの良さを信じて思い切って大枚を投じてみた。サンスイにオーダーしてからも暑いさ中を家に運んで鳴らすまでのいきさつはここではふれないが、ともかく小生にとって最大の買い物であり、失敗したら元も子もありはしない。音が出るまでの気持といったらなかった。
荒い音になりはしないか、どぎつく、鋭い音だったらどうしようなどという心配も杞憂に過ぎて、豊麗で繊細で、しかも強靭な底力を感じさせて、音の形がえもいわれず見事である。弦がどうの声がどうのというような点はもはや全く問題でないが、一例をあげるなら、ピアノの激しい打鍵音でいくら音量を上げても、くっきりと何の雑音もともなわずに再現する。内外を通じて、いままでにこれほど満足したスピーカーは他に無い。……まあ惚れた人間のほうことだから話半分に聞いて頂きたいが、今日まで当家でお聴き頂いた友人知人諸氏がみな、JBLがこんなに柔らかで繊細に鳴るのをはじめて聴いたと、口を揃えて言われるところをみると、あながち小生のひとりよがりでもなさそうに思う。
*
1966年8月に、瀬川先生の六畳間のリスニングルームに、
375+537-500はおさまっている。
山水電気扱いで、日本で最初に375+537-500を購入されたのは、瀬川先生である。
六畳間に、このホーンとドライバーを置くと、2441+2397とは違う存在感がある。
実際に、いま目の前に375+537-500がある
私のモノではなく、預かりものなのだが、
ハークネスの上に置いて眺めている。
375+537-500の下には、175DLHがある。
375+537-500の横には、馬蹄型の金具がついた075がある(これも預かりもの)。
それからスロートアダプターの2329ものっけている。
LE85のダイアフラムが木箱に入っているのもある。
Ampex-Lansingの800Hzのネットワークも、
エレクトロボイスの1828Cも置いている。
ハークネスの手前には、2441+2397がある。
瀬川先生が1966年ごろ、毎日眺められていた光景に近くなってきた。
ステレオサウンドは62号、63号で、
「音を描く詩人の死」を掲載している。
そのなかで、ずっとひっかかっていたことがある。
*
その先輩の一人、金井稔氏が追悼文のなかでいみじくも書かれたように
〝彼は自分の感性に当惑していたのであろう。〟
*
金井稔氏による追悼文とは、おそらくラジオ技術に掲載されたものだろう。
《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》
どこか大きな図書館に行けば、その追悼文全文が読めるのだが、
なぜかしていない。
前後にどういうことが書かれていたのか、はっきりしない。
はっきりしないから、よけいに《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》が、
私の心に残り続けている。
ほんとうに瀬川先生は《自分の感性に当惑していた》のだろうか。
金井稔氏と瀬川先生のつきあいは長い。
瀬川先生が高校生だったころからのつきあいである。
だから、そうなのだろう……、と思いつつも、
一方で常にそうなのだろうか……、とも思っていた。
そこに、貝山知弘氏の「文行一致」があった。
貝山知弘氏の書かれたものを、あらためて読んで、
文行一致と《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》が結びついた。
そうだったのか、とおもう。
いまになって、やっとそうおもう。
サプリーム 144号を、また読んでいる。
何回目だろうか。
最初に読んだのは、ステレオサウンドにいるときだった。
1982年春のことだ。
35年という月日は短くはない。
当時の読み方の浅かったことを、いま感じている。
文行一致、
貝山知弘氏が、そう表現されている。
*
氏は、「ステレオサウンド」26号〝いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論〟のなかで、次のように書いている。
〝ものを創るでも選ぶでも、味わうでもいい。文学でも美術でも、何でもいい。人間の生み育てた文化どれひとつとりあげてみても、ひとつの物事をつきつめて考えたり味わったり選び分けたり創造したりしていくプロセスに真剣であれば、必ず、ある種の狂気に似た感情を経験するので、またそういうところを通り抜けた人にだけ、物は、ほんとうの姿を見せてくれる。長い年月の積重ねと暗中模索と失敗のくりかえしが、それを教えてくれる。本ものを創り、選び、使いこなすのは、そういう体験を経た人に限られると言っても言いすぎではないだろう。しかしそれはいかに努力の要ることか……〟
これは、オーディオの名器と呼ばれ、趣味、洗練の極みとして生まれた製品についての記述てのだが、注目に価するのは、この一文のなかで、氏は、同時に、自己を語っていることだ。こうした氏の〈物〉に対する根本的な思想──優れた器は人間の精神の所産であるといする思想は、氏が技術誌に投稿していた頃と、全く変わってはいない。
昭和36年4、5月に、「ラジオ技術」に連載した一文のなかで、氏は、同じテーマを語っている。しかし、その表現は、きわめて簡潔だ。
〝再生装置には、その製作者の思想があらわれてくるものである〟
このアフォリズムは、その簡潔さ、その明快さ故に力があるが、まだ、氏の人生の影は投影されてはいない。前述の引用文からは、自らを語り、自らの人生を表現と一致させようという強い指向を感じとることができる。
言行一致という言葉がある。この言葉を借りるなら、氏の指向した世界は、文行一致であると、ぼくは思う。自ら表現した美意識の世界に、自らを一致させようとする指向。それは、文字どおり、狭き道であり、克己心の要る作業である。美意識を生むのもひとつの欲望であるとするならば、それは同時に、自らの現実の欲望をいっぽうで絶たねばならぬという皮相な結果も招きやすい。氏の現実の欲望がなんであったか、うかがい知ることはなかったが、ぼくの仮定が正しいとするなら、美意識の界化と現実のギャップとの間にある氏の相克は、想像を絶するものがあったに相違ない。
*
貝山氏は、この追悼文を書くにあたって、髭を剃った、と書かれている。
無意識のうちに、である。
畏敬の念がそうさせた、とも。
空洞ができてしまった。
しかも埋まっていない。
いまだ空洞のままであっても、
空洞があることを意識している人もいる、
空洞があることを、すでに感じなくなっている人もいる。
そういうものかとおもい、
コワイナ、ともおもう。
ぽっかりと大きな空洞ができた。
1977年3月(岩崎千明)、
1980年4月(五味康祐)、
1981年11月(瀬川冬樹)、
空洞は大きくなるばかりだった。
1981年、18だった私は、その空洞がいつの日か埋まるのか……、とおもった。
その日から40年ちかく経った。
いまでは空洞は空洞のまま残っていていい、とおもうようになっている。
いつからそうおもうようになったのかは、おぼえていない。
その空洞を、どうでもいいことでいっぱいにしたところで、何になるのか、とおもう。
岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代を、
少しでも知っている・体験している者と、
岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代しか知らない者との違いは、空洞である。
岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代からオーディオをやってきている者は、
心のなかに埋めようのない空洞ができてしまったことを感じた。
岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代からオーディオをやってきた者すべてが、
そうであるとはいわない。
古くからのオーディオマニアであっても、
岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代よりも、
岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代の方がいまや長いのだから、
あの時空洞ができたことう感じても、いまではそうでないのかもしれない。
それだけの月日が経っている。
空洞をいまだ感じている者もいればそうでない者もいる。
ほんとうにそれだけの月日が経っているのだ。
空洞はできたのだろうか、
それともうまれたのだろうか、ともおもう。
別項「Noise Control/Noise Designという手法」も、
「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」から発している考えである。
「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」
13歳で出逢った「五味オーディオ教室」に、そう書いてあった。
他にもいくつか深く心に刻まれたことばはある。
その中でも、この「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」は、
オーディオの最終解答のようにも感じた。
感じただけで、理解できていたわけではない。
それでも、ここにいつかたどりつくのだ、という確信はあった。
その日から40年以上経った。
「無音はあらゆる華麗な音を内蔵している」を忘れそうになることもあった。
もう忘れることはない。
とんかつのことを書いている。
そういえば、おもい出す。
そういえば瀬川先生も、とんかつ、お好きだったのか、と。
*
二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。
*
実際にとんかつ屋の看板があったのだろう。
そこに電話番号も書いてあったのだろう。
だから、ただ単に双眼鏡で見えたこと、思ったこと、考えたことを書かれただけかもしれない。
それでも、ここにもとんかつがでてきた、とおもい出す。
《出前をしてくれるのだろうか、と考える》くらいなのだから、
嫌いではなかったはずだ。
ついさきほど、ある人の住所を教えてほしい、という連絡があった。
教えてほしい、と連絡してこられた方も、私も、
その方の家は知っているし、何度も行っている。
けれど正確な住所を知っているわけではなかった。
私も何丁目までは憶えていても、番地、号となると、
iPhoneの住所録にも登録していなかった。
そうだ、あれがあった、と思い出した。
音楽之友社のMUSIC DIARYである。
いまも出しているのかは知らない。
MUSIC DIARYは、
作曲家、演奏家、評論家、研究家の人たちの住所と電話番号が載っているポケットサイズの本だ。
オーディオ評論家の方の住所も載っている。
私の手元にあるMUSIC DIARY 1981は、瀬川先生の遺品だ。
住所のいくつかに印がつけられている。
この人につけてあるのか、と思ってみていた。
MUSIC DIARY 1981の前半分は、予定表になっている。
なにひとつ書きこまれてなかった。
真っ白の予定表をみていて、あれこれ思い出してしまった。
五味先生は、毎年ワーグナーを、
バイロイト音楽祭を録音されていた。
放送された、
いちど録音されたものを録音する。
それはどんなにいい器材を用意して注意を払ったところで、
ダビング行為でしかない、ともいえる。
やっている本人がいちばんわかっていることだ。
それでも毎年録音されていた。
オーディオ愛好家たる私の自画像がテープに録音されている、と。
答は、目の前にある。
見えているわけではない。
あるという気配を感じている。
その気配を濃くしたいからこそ、
毎日問い続ける(書き続ける)。
オーディオにおいては、答は目の前にある、
そんな直感があるからこそ、
問い続ける。
五味先生がいわれた「音による自画像」には、そういう意味が含まれてのことだ、
この齢になっておもえてきた。
別項 「40年目の4343(その4)」でも、
五味先生がハンマーでコンクリートホーンを敲き毀されたくだりを引用している。
10年ほど前のステレオサウンドの記事「名作4343を現代に甦らせる」。
この記事のひどさは、ステレオサウンドの50年の中でも、ダントツといっていい。
この記事のほんとうのひどさは、連載最後の、とあるオーディオ評論家の試聴にある。
そのことは(その3)で触れた。
ここにオーディオ少年から商売屋になってしまった人が、はっきりといる。
あえて誰なのかは書かない。
このオーディオ評論家(商売屋)には、怒りはなかったのだろう。
怒りがないのか、それとも怒りを、もう持てなくなってしまったのか。
このオーディオ評論家(商売屋)は、
ハンマーで、無惨にも変り果てた4343もどきを敲き壊すことはしなかった。
おそらく、そんなこと考えもしなかったはずだ。
このオーディオ評論家(商売屋)が、オーディオへの愛を書いていたとしたら、
それは上っ面だけの真っ赤な嘘だと思っていい。
私はそう思って読んでいる。
怒りもなければ、愛もない。