Archive for category 人

Date: 3月 5th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その1)

ステレオサウンド 210号で、ひとつだけ読みたいと思う記事がある。
黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」である。

まだ読んでいない。
書店にも寄っていない。

にも関らず、この記事は210号で、ただひとつ読むべき記事だと思っている。
いい記事のはずだ。

ここにだけは、まだ残っているはずだ。

Date: 12月 18th, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド、アナログ)

12月にはいり11日にステレオサウンド、15日にアナログの最新号が発売になった。

主だったオーディオ関係の雑誌すべてに菅野先生の追悼記事が載ったことになる。
11月に発売されたステレオ、レコード芸術、オーディオアクセサリー、
どれがよかったかなどというようなことではない。

それでもいいたいのは、前回も書いているのと同じことである。
オーディオアクセサリー掲載の追悼記事だけは読んでほしい。

Date: 12月 7th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(ピアノ)

ステレオサウンドのベストオーディオファイル、そしてレコード演奏家訪問。
菅野先生が全国のオーディオマニアを訪問された連載記事である。

菅野先生が来られるということで、多くの方が、菅野先生の録音、
おもにオーディオラボのディスクを再生される。

菅野先生によると、ひとつとして同じ音はなかった、とのこと。
菅野先生の録音の意図をはっきりと再生している音もあれば、
まったく意図しない音で鳴っていることもあった、ときいている。

ほんとうにさまざまな表情で、菅野先生の録音が鳴っている。
それでも、世の中にでは、菅野録音ということで、ある共通認識はできているようでもある。

何をもってして、菅野録音といえるのか。
これもまた人によって違うことなのだろう。

それでも、私はひとつだけいえることがある、と思っている。
ピアノの音である。

菅野先生の録音によるピアノの音をきいて、どう思うのか。
ほんとうに、菅野先生はピアノという楽器がお好きなんだなぁ、
そうおもえるかどうかである。

ピアノがいい音で鳴っている、と感じるだけでは不十分で、
菅野先生のピアノという楽器へのおもいが感じられなければ、
菅野録音はうまく鳴っていない、といえる。

Date: 11月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

としつき(26年後)

2007年11月7日に、神楽坂のとある店で、
瀬川先生の二十七回忌の集まりをやった。

その時のことは別項「瀬川冬樹氏のこと(その17)」で書いている。
菅野先生も来てくださった。

会の終りに、菅野先生がいわれた。
「オレの27回忌もやってくれよ」と。

その時、私は81歳になっている。
生きているかどうかはわからない。
生きていたとしても、もう呼ぶ人がいなくなっているんじゃないか……、
そのことに気づいた。

Date: 11月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオ、レコード芸術、オーディオアクセサリー)

19日にステレオ、20日にレコード芸術、
今日(21日)、オーディオアクセサリーの最新号が発売になっている。

それぞれに菅野先生の追悼記事が載っている。
オーディオアクセサリー 171号の追悼記事は、多くの人に読んでほしい、とおもう。

Date: 11月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(味も人なり、か・その1)

1987年ごろだったか、試聴のあいまに、
菅野先生がチャーハンの話をされたことがある。

昔、有楽町のガード下に、ミルクワンタンという店があって……、から話は始まった。
菅野先生によると、そこで食べたチャーハンが、
これまで食べたなかでいちばんおいしかった、ということだった。

けれど、その店もなくなって、
なかなかおいしいチャーハンに出合わない、と。

最近食べたなかでは、荻窪にある徳大のチャーハンがよかった。
それでもミルクワンタンのチャーハンと較べてしまうと……、ともいわれた。

ちょうどそのころ吉祥寺にある中華屋で、おいしいチャーハンに出合っていた。
汚い店である。
雑居ビルの上の階にあった。

店の名前とビルの名前が同じだったから、店主はビルのオーナーでもあったのか。
そのへんはわからないし、いまその店はない。

チャーハンといっても、高級中華料理店に行けば、
豪華な食材を使った、高価なチャーハンはある。
それはそれでおいしいけれど、ここでのチャーハンは、そういう類のチャーハンではない。

それこそ具材はチャーシュー、卵……といった、ごくシンプルなチャーハンのことだ。

なので、その吉祥寺の中華屋のことを話した。
かなり興味をもたれたようで、次の試聴のときに、その中華屋のことが話題になった。

開口一番「ひどいめにあったよ、なんだ、あの店(店主)は」といわれながらも、
「あのチャーハンは絶品だよ、でも、あの店主はひどいね」と続けられた。

Date: 11月 13th, 2018
Cate: 菅野沖彦

としつき

今日(2018年11月13日)は、ロッシーニの没後150周年。
二日前の11日は、第一次世界大戦の終結から100年。

ロッシーニの生きた時代(音楽)と第一次世界大戦が、
私がなんとなく思っていた以上に近かったことに、少し驚いていた。

それぞれの年代を数字で示されて、並べてみるとすぐに気づくことなのに、
単独でみていると、気づかないことがあったりする。

そういえばステレオサウンドにいたころお世話になった編集顧問のKさんは、
音楽のことを含めて、さまざまなことがらをまとめた年表をつくられていた。
そうやって並べてみることで気づくことがあるのに、気づいておられたからなのだろう。

いまならインターネットで、そういったことがらを調べやすくなっているが、
Kさんが独自の年表をつくっていたのは1980年代である。

つくった者とつくらなかった者とが気づくことには、大きな隔たりがある。
そんなことをおもいながら、今日は菅野先生が亡くなられて一ヵ月が経ったのか、という、
その事実を、ただ感じている。

Date: 11月 6th, 2018
Cate: 五味康祐

avant-garde(その4)

コンクリートホーンをハンマーで敲き毀す。
同じことができるだろうか──、というのは、以前書いているように、
ステレオサウンド 55号を読んで以来ずっと私の中にある自問だ。

コンクリートホーンは家ごと、である。
改築なり新築でこそ可能になる。
それだけに1970年代では、究極の再生システムとしても紹介されていた。

オーディオ雑誌には、コンクリートホーンを実現したオーディオマニアの方たちが、
よく登場していた。

既製品の、どんなに高価なスピーカーシステムにも求められない何かが、
コンクリートホーンにある、といえよう。

「五味オーディオ教室」に出逢わず、
五味先生の文章とも無縁でオーディオに取り組んでいたら、
コンクリートホーンを私も目指したかもしれない。

実家暮らしを続けていたら、実現できなかったわけでもない。
仮にコンクリートホーンで、音楽を聴いていた、としよう。
オルガンは、確かによく鳴ってくれるであろう。

けれど、五味先生が指摘されているように、正体不明の音が鳴ってきたとも思う。

いまではデジタル信号処理で、コンクリートホーンのもつ欠点もずいぶんカバーできるはず。
それでも低音までカバーするためのホーンの長さは、あまりにも音源が遠すぎはしないだろうか。
そういうところまでデジタル信号処理が補えるとは、いまのところ思えない。

それでもコンクリートホーンを実現していたら、
もろもろのコンクリートホーンゆえの欠点に気づきながらも、
自分を騙して聴きつづけていくのか──。

LS3/5Aのようなスピーカーを買って、それで聴く時間が長くなっていく──。
そんなふうになるような気がする。

それでもコンクリートホーンをハンマーで敲き毀すか。
私は、ハンマーで敲き毀すことこそ正直なのだと考える。

Date: 11月 5th, 2018
Cate: 川崎和男

「プロダクトデザインと未来」川崎和男×深澤直人(その2)

昨晩の「プロダクトデザインと未来」川崎和男×深澤直人・対談のあとに、
質疑応答の時間があった。

最初は、主催者特権ということでAXISのスタッフが、
今年のグッドデザイン大賞について、二人に質問された。

今年の大賞は、おてらおやつクラブである。

モノではない。
しかも、AXISのスタッフによると、デザイナーが介在していない、とのこと。
そういうおてらおやつクラブが、2018年度のグッドデザイン大賞に選ばれたことについて、
川崎先生と深澤直人氏にたずねられていた。

AXISのスタッフ、川崎先生、深澤直人氏の話をきいていて、
思い出していたのは、別項「フルトヴェングラーのことば(その1)」で引用したことである。
     *
もう二十年以上も前になりますが、あらゆる世界の国々の全音楽文献をあさって、最も偉大な作品は何かという問合せが音楽会全般に発せられたことがありました。この質問は国際協会(グレミウム)によって丹念に調査されたうえ、回答されました。人々の一致した答えは、──『マタイ受難曲』でもなければ、『第九シンフォニー』でも、『マイスタージンガー』でもなく、オペラ『カルメン』ということに決定されました。こういう結果が出たのも決して偶然ではありません。もう小粋(エレガンス)だとか、「申し分のない出来」とか、たとえば「よくまとまっている」とかいうことが第一級の問題として取り上げられるときは、『カルメン』は例外的な高い地位を要求するに値するからです。しかしそこにはまた我々ドイツ人にとってもっとふさわしい、もっとぴったりする基準もあるはずです。
(新潮文庫・芳賀檀 訳「アントン・ブルックナーについて」より)
     *
「アントン・ブルックナーについて」は1939年だから、20年以上前というと1919年以前。
ほぼ百年前のことだ。

「カルメン」が、最も偉大な作品に選ばれたのと、
グッドデザイン大賞におてらおやつクラブが選ばれたのは、
賞を選ぶにあたっての、共通する何かが、いまも百年前もあるということなのだろうか。

人の身体は新陳代謝が行われていても、老化していく。
昨晩、感じた社会そのものも歳をとっていく、ということも、
新陳代謝が行われていても、老化していっているように思うからだ。

Date: 11月 4th, 2018
Cate: 川崎和男

「プロダクトデザインと未来」川崎和男×深澤直人(その1)

夜の六本木は、ひさしく行っていない。
今日はAXISギャラリーで、「プロダクトデザインと未来」のテーマで、
川崎和男×深澤直人・対談があった。

日曜だったからなのか、かまびすしい夜ではなく、
歩いている人も少なく、閑散としていた。

対談の会場は満員だった。
深澤直人氏は、川崎先生がAXISの表紙を飾る二号前に登場されている。
その写真の印象があったため、深澤直人氏を見て少々驚いた。

二人とも2002年のAXISに登場されているのだから、十六年が経っている。
その歳月を考えれば当然なのだが、
川崎先生が年上なのに、深澤直人氏が年上のようにも感じられて、
思わず深澤直人氏の誕生日を確認した。

川崎先生はAXISの表紙のとき、ストライプのシャツだった。
今日もそうだった。
ストライプの太さは違っていたけれど。

川崎先生は、本調子ではなかったように感じた。
声をきいていて、そう感じた。

誰一人として歳をとらないものはいない。
皆、等しく歳をとっていっている。
人だけではない、社会そのものもそうだ、ということを二人の対談をきいていて思っていた。

Date: 11月 4th, 2018
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(ボザークとXRT20・その3)

ステレオサウンド別冊「音の世紀」の巻頭記事、
「至高のヴィンテージサウンドを聴くで、AR3aが登場している。
     *
柳沢 いずれにしても、それまでは豊かな低音は大きなスピーカーでなくては出ないとされていたのに、その意識を変えたのだから大改革ですね。
菅野 ボストンにはそういう伝統があるのかな。ボーズのスピーカーもあそこで始まっているんですよね。
柳沢 ボーズも小さいけど重厚な低音を出す。
朝沼 ボストンは古い街で、ヨーロッパへの憧れも強いでしょうし……。
菅原 街並みもヨーロッパが引っ越してきたような感じですかね。
朝沼 ですから音も何となくヨーロッパの音を感じさせますね。
菅野 ニューイングランドそのままですよ。
朝沼 当時ARの広告で憶えているんですけど、これをカラヤンとマイルスが使っているっていうのを。
菅原 そうそう、カラヤンとマイルスがAR3aを使っていたんだって。だから僕にとっては、カラヤン、マイルス、野口久光というイメージだった。
朝沼 そんなしゃかりきてではなく、音楽をさりげなく楽しむといったイメージですね。
菅野 それでいて、コンパクトでありながら当時としては凄いワイドレンジでもあって。
朝沼 マイルスが家に帰って、JBLでしゃかりきにやってたら、ちょっと可笑しいですからね。カラヤンだって同じだけど(笑)。
菅野 そう、それは可笑しいよ(笑)。
菅原 何かほっとするサウンドがこれにはあって、それが広告のイメージにも合ってた。
菅野 僕は、個人的にはこの延長線上の低音は、マッキントッシュのXRTなんですよ。
朝沼 やはりボトムが下がってますよね。
菅野 そうなんです。それでやはり完全密閉型でしょう。
柳沢 それはボザークの音にも言えましたね。
菅野 そうそう。だからAR、ボザーク、マッキントッシュという、だいたいの流れだね。イーストコースとの音の。
     *
AR3aについて語られている座談会であっても、
ボザークとマッキントッシュのXRT20とのこと、
井上先生と菅野先生のことを考えながら読みなおすと、興味深いし、
この試聴に井上先生が加われていたら……、と想像すると、また楽しい。

Date: 10月 23rd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(紅茶、それにコーヒー)

2002年7月4日、14年ぶりに菅野先生のリスニングルームを訪れて、
戻ってきた、と感じたのは、部屋に入ったときでせなく、音を鳴ったときでもない。

菅野先生の奥さまがだされる紅茶の香りと味で、
私は、菅野先生のリスニングルームに戻ってきたんだ、と感じていた。

ステレオサウンド時代に伺っていたとき、
いつも出してくださった紅茶と同じだった。

当り前のことなのに、「同じだなぁ」と感慨深いものがあった。

菅野先生といえば、紅茶だった。
試聴でステレオサウンドの試聴室に来られるとき、
当時ステレオサウンドの真向いにあった水コーヒー どんパからコーヒーをとっていた。

菅野先生だけが紅茶だった。
コーヒー嫌いなのか、と、ずっと思っていた。

いつだったのか、はっきりと憶えていないが、ある時、
奥さまがコーヒーを出してくださった
私にだけコーヒーではなく、菅野先生もコーヒーだった。

意外だったので、つい「コーヒー、飲まれるんですか」と訊いた。
もともとコーヒー好きで、水だしコーヒーに、すごくハマった時期があった、とのこと。

どうすれば美味しい、菅野先生にとっての理想の水だしコーヒーを淹れられるか、
あらゆる要素を少しずつ変えては淹れて飲み、比較。
それを果してなくくり返されたそうだ。

そんなことを続けていたら、ある日、コーヒーを体が拒否してしまった、とのこと。
濃いコーヒーの飲みすぎであろう。

それから紅茶にされた、そうだ。
だから「最近、少しコーヒーが飲めるようになったんだよ」と話してくださった。

オーディオとまったく関係がない、と思われるかもしれないが、
これこそが、ある意味、菅野先生的バランスのとりかたである。

Date: 10月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その12)

ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”はスタジオ録音である。
そこにステージがあった、とは考えにくい。

録音で歌っているホセ・カレーラスの足は、ほんとうの足はスタジオの床に立っていた。
ステージはなかった(はず)。

ならば、再生されるホセ・カレーラスの足が、
菅野先生のリスニングルームの床に立っていると感じたのは、当然といえるし、
それだけのレベルにあった音ともいえる。

五味先生も、”AROUND THE WORLD”を聴かれたら、
スタジオ録音だから、録音の現場にステージがないことは承知されて、
それでもステージが、そこに再現されていないから、肉体がない、といわれるのか。

ここで忘れはならないのは、
五味先生のスピーカーはタンノイのオートグラフである、ということ。
つまり、五味先生のいわれるステージは、
録音の場におけるステージという意味よりも、
むしろオートグラフが創り出す再生の場におけるステージのほうが、色濃いのではないのか。

こう考えると、少なくとも私は納得がいく。
菅野沖彦氏のこと(音における肉体の復活・その2)」でも書いているように、
どちらかを否定すれば、楽だ。
こんなにながいこと考えなくても済む。

それでも、私はどちらも正しい、ということで考え続けてきた。
考えてきたことで、1970年当時の菅野先生の音と瀬川先生の音、
どちらの音を聴かれながら、五味先生が菅野先生の音だけに、
肉体のない音(感じられない音)といわれた理由も、私のなかでは説明がつく。

それがリアリティ(菅野先生の音)とプレゼンス(瀬川先生の音)である。

Date: 10月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その11)

2002年7月4日、菅野先生の音を聴いた。
ステレオサウンド時代、最後に菅野先生の音を聴いたのは1988年だから、
14年ぶりの菅野先生の音だった。

マッキントッシュのXRT20のシステムでクラシックを、
JBLのシステムでジャズを聴いたあとに、
私がもってきたCDをかけてもらった。

少し考えられて、マッキントッシュのシステムにされたように感じた。
この時の音は、まさしく肉体の復活が感じられる音だった。

ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”から「川の流れのように」をかけてもらっていた。
目をつぶれば、目の前に(といっても私は部屋の隅にいたけれど)、
手を伸ばせば届きそうな感じさえする気配を感じる鳴り方だった。

ホセ・カレーラスの肉体が、そこに復活していた。
そのカレーラスには、足もあるように感じた。
上半身だけの幽霊のような音像ではなかった。

この音を聴かれた五味先生でも、肉体のない音とはいわれないはず──、
そう思う一方で、それでももしかすると、いわれるかもしれない──、
そんなことを帰宅してから考えていた。

こんなことを考えた理由は、ホセ・カレーラスの足がどこにあるのか、だった。
それは菅野先生のリスニングルームの床に立っていた。
あたりまえだろう、そんなことは、と言われるだろうし、
それでこそリアリティというものだろう、と私も思うけれど、
五味先生にとっての肉体の復活を感じさせる音には、
ステージの存在が不可欠である。

私はホセ・カレーラスの肉体の復活を感じていた。
私だけではなかったはずだ。
川崎先生もそう感じておられた、と思う。

あの音を聴いて、肉体の復活を感じない人はいないのではないか──、
そうおもいながらも、それでも……、と考えてしまうのは、
「五味オーディオ教室」が私のオーディオの出発点であるだけでなく、
私がアマノジャクなためだろう。

そうわかっていても、仮定のことを考える。
少なくとも、私はホセ・カレーラスの肉体の復活を感じていても、
ステージの復活は感じていなかったのは事実だ。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その10)

ステージ。
さほど深く考える必要はないように感じる、この「ステージ」を、
それを再現するのに必要なのは音場とか音場感ということで捉えてしまっては、
ここでの「ステージ」の理解は不十分のままだ。

肉体のある音と肉体のない音。
このあいだにある音について、屁理屈みたいなこともを考える。

肉体のなさを感じさせない音は、どうだろうか。
肉体があると感じるわけでもないが、肉体がないと感じさせるわけでもない。
肉体を意識させない音とでもいおうか。

つまり肉体のない音は、聴き手に肉体を意識させているからこそ、
そこに肉体がない、と感じさせている、ともいえる。

私が聴いた範囲でしかないが、実際のところ、
肉体を意識させない音は多い。
ないとも感じないし、あるとも感じない。

五味先生が聴かれた菅野先生の音とは、まだ次元の違うところで鳴っている。
おそらく五味先生は、そういう音を聴かれたとしたら、肉体がある、とか、ないとか、
そういうことはいわれなかっただろう。

菅野先生は肉体のある音を目指されていたからこそ、
五味先生は肉体がない、と感じられた──、
そういう解釈も可能である。

五味先生が求められている肉体のある音は、ステージに演奏者の足がついている、
そういう音のはずだ。

足のない、つまり幽霊のような音像では肉体はない、ということになるし、
足があったとしても、その足がステージの上になければ──、なのではないのか。