Archive for category 「本」

Date: 10月 11th, 2019
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その1)

オーディオのムックが書店に並んでいたり、
オーディオ雑誌ではない一般誌が、オーディオを特集していたりすると、
ここで取り上げている。

書店に行くと、オーディオはブームなのだろうか、と思うこともあれば、
反対のことを感じてたりもする。

昨日、つまり10日に、近所の書店に寄った。
ここは、無線と実験を置いている書店である。

最近、ここの書店を少しばかり模様替えを行っている。
音楽、オーディオ関係のコーナーは、以前と同じところにある。

なのに、毎月発売日にあるはずの無線と実験がない。
何人かの人が買ってしまい売り切れてしまった、とは見えない。
売り切れているのならば、無線と実験が置かれていたであろうスペースが空いているだろうから。

ということは、この書店も無線と実験を取り扱わなくなったのか。
ここよりももっと駅に近い書店(数年前に開店)では、無線と実験は取り扱っていない。

駅の反対側にある書店にはまだ行ってないが、どうなのだろうか。
売行きのよくない雑誌は、棚から消えていくことになる。

昔からわかっていることである。
その書店でも無線と実験の売行きがよくないことは、通っていればわかる。

いつかは扱われなくなる、とわかっていても、
その日が突然に訪れると、オーディオはブームなんかではない、と思うことになる。

音楽・オーディオの雑誌の向う側には、女性雑誌のコーナーがある。
ふと見たら、同じ表紙の雑誌のサイズ違いが平積みされていた。

判型の小さなほうには、トラベルサイズと英語で表記してある。
同じ内容の女性誌がサイズ違いで出版されている。

女性誌の多くは判型が大きく、旅行に持っていくには邪魔になりやすいのか。
トラベルサイズの方は、確かに旅行に持っていくにはちょうどいい大きさ。

売れているからこそ、こういうことができる。
置かれなくなった雑誌もあれば、こういう雑誌もある。

Date: 6月 24th, 2019
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(最近感じていること・その4)

最寄りの駅にいく途中に書店がある。
この書店にはショーウィンドウがあって、
店内に入らずとも、この書店オススメの本がわかるようになっている。

もう数ヵ月以上だろうか、
一冊の本が、ずっとそこに飾られている。

雑誌に育てられた少年」である。
気になっているものの、手にとっていない。

でも、「雑誌に育てられた少年」、
これに共感する人は、けっこういると思う。
私もそうだ、と、少なからぬ人が頷いているのではないだろうか。

私も「雑誌に育てられた少年」の一人だ。
オーディオもそうだ。

「五味オーディオ教室」を読んで、
そのあとは、さまざまなオーディオ雑誌を読んできた。

周りにオーディオマニアはいなかった。
オーディオ専門店も、バスで一時間ほどかかるところにしかなかった。
そういうこともあって、オーディオ雑誌をとにかく読んだ。

でも、周りにオーディオマニアがいて、
近くにオーディオ専門店があっても、オーディオ雑誌を読みふけったであろう。

Macintosh(パソコンのMac)にしてもそうだった。
1992年ごろは、Mac関係の雑誌がいくつもあった。
MacPower、MacLife、MacJapan、MacWorldがあった。
すべて買って読んでいた。

自転車に関してもそうだった。
自転車雑誌を、書店に並んでいるものすべて買って読んでいた。

Macも自転車も東京に来てからのことである。
それでも、まずは雑誌からだった。

そしてどちらも1990年代のことである。

Date: 2月 17th, 2019
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(最近感じていること・その3)

ほかの学校、ほかの地域がどうだったのかは知らないが、
私が通っていた学校、クラスでは小学一年生(続く二年生、三年生……)を、
かなり多くが読んでいた。

数えたわけではないが、読んでいない方が少なかったのではないだろうか。
しかもその多くは、小学校を卒業するまで読んでいたようにも思う。

ということは一人っ子でも小学一年生から六年生まで、
12×6で、72冊の小学館発行の雑誌を読んでいたわけだ。

兄弟(姉妹)がいれば、さらに増えよう。
私の場合、弟と妹がいたから、手元にある雑誌ということで読んでいた。
しかも小学生を対象とした雑誌は、その時代には少年マンガ誌くらいだった。

そのころは考えもしなかったことだが、これはすごいことのような気もする。

高校生のころ、星新一のショートショートに夢中になった。
題名も忘れたし、詳細もはっきりとは憶えていないが、こんな話があった。

あるメーカーが、万能幼児用ベッドなるモノを開発。
しかもそれを子供が生まれた家庭に無料で送る。
子供がむずかれば母親の手を煩わすことなくあやしてくれるし、
確かおむつの交換、その他、大変な育児の手間を代りにやってくれる。

それもただ機械的におこなうのではなく、やさしい声もついてくる。
こんな便利なモノだから、しかも無料なのだから普及する。

その万能ベッドに育てられた子供が大人になる。
するとベッドと同じ声で、コマーシャルが流れるようになる。
母親代りともいえる声が、これを買いましょう、あれを買いなさい、という。

それに抗えないのだ。
すんなり従ってしまう(つまり購入してしまう)。
このための万能ベッドだったのだ。

このショートショートを思い出したのは、
ステレオサウンドで働くようになってからだった。
小学館の小学○年生は、この万能ベッド的存在に近い存在に、
やり方によっては成りえたであろう──、とおもったことがある。

Date: 2月 16th, 2019
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(最近感じていること・その2)

私が最初に手にした雑誌はなにかをふりかえってみると、
小学館発行の小学一年生だったことに気づく。

それに以前に、幼稚園だったころ、幼稚園児向けの雑誌があったような記憶もないわけではない。
読んでいたような記憶もあるようなないような……。

そんな曖昧すぎる記憶ではなく、
はっきりとしたところでは、やはり小学一年生である。
そして一年後には小学二年生、さらにもう一年後には小学三年生、
とそんなぐあいに小学6年生まで毎月買って読んでいた。

小学生のころは考えもしなかったことだが、
中学生か高校生ぐらいのときに、テレビで、
小学一年生のコマーシャルが流れるようになった。

私が小学生のころ、少なくとも熊本のテレビでは、
小学一年生のコマーシャルは流れていなかった。

とにかく小学一年生のコマーシャル、
それからランドセルのコマーシャルを見ていて、
そうか小学生になるということは、ランドセルを担いで学校に通うということであり、
小学一年生を読むことなんだなぁ、と気づいた。

私が小学生にあがるころ、熊本ではやっと民放のテレビ局が二局になった。
それまではRKKという民放一局しかなかった。
NKKが2チャンネル、民放が1チャンネルと、
チャンネルは12あるのは、受信できる(映る)のはたった3チャンネルだけだった。

新聞のテレビ・ラジオ欄には隣の福岡県の番組表も載っていた。

福岡は民放が四局くらいあった、と記憶している。
受信できない福岡のテレビ番組表を見ては、うらやましく思っていた。

私が小学生になるころは、そんな時代だったし、
そこにおける小学一年生という雑誌である。

Date: 2月 14th, 2019
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(最近感じていること・その1)

趣味は読書です。
この場合の読書は、おもに文学作品を読むことであって、
雑誌ばかりを読んでいても、世の中はそれを読書、
それも趣味としての読書とは認めてくれないようにも感じている。

私だって、趣味は読書です、と誰かにいわれたら、
小説を読むのが好きな人なんだ、と、目の前の人のことをそう思う。

私だって、雑誌を読むことは好きだけれど、
それを誰かに、趣味です、といおうとは思っていない。

雑誌を読むことは趣味とはなりえないのか。
ここで書きたいのは、そういうことではなくて、
雑誌を読む楽しさを知っている人とそうでない人とがいる、ということである。

私は雑誌が好きなのだが、
いま、この雑誌が面白い、と感じることは少なくなってきている。
オーディオ雑誌のことだけをいっているのではない。

面白い特集をやっている雑誌は買っている。
けれど、それらの雑誌を定期購読しているかといえば、そうではない。
毎号買おう、とまでは思っていない自分に気づく。

最近、若い人たちと話して気づいたことも、雑誌に関することである。
「雑誌が好きなんだよ」という感覚が、ある世代より下にはなくなりつつあるのかもしれない。

私と同世代、上の世代の人たちであっても、雑誌を楽しんでいる人とそうでない人とがいる。
それでも、まだ雑誌を楽しんでいる人は多いように感じている。

Date: 10月 7th, 2018
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオ評論の本と呼ぶ理由(その2)

黒田先生の「レコード・トライアングル」は、本である。
magazineではなく、bookとしての単行本であるが、
そこに収められている文章は、すべてなんらかの雑誌に書かれたものをである。

「レコード・トライアングル」のあとがきにあるように、
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》ともいえる。

つまり書き下しではない。

《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》は、
どこかで読んだことのある文章が、いくつも載っていたりする。
読み手にとって、初めての書き手の文章ならば、そうではないけれど、
興味・関心をもって読んできている書き手の文章ならば、
けっこうな数は、いつかどこかで読んできた文章でもある。

「レコード・トライアングル」のような本は、
いわば雑誌と本の中間にあるような存在なのか、といえそうだし、
そう受け止める人もいるんだろうけれど、
私にとっては、一冊の単行本である。

書き下しであろうがなかろうが、まったく関係ない。
それにすべての文章をすでになんらかの雑誌に掲載されていた時に読んでいたとしても、
一冊の本としてまとめられ、一気に読める(読む)ことの楽しさ、
それにともなう発見は、雑誌掲載時にはなかなかできないことでもある。

雑誌に掲載されているときは、他の書き手の文章といっしょに、である。
そして、つねに掲載時の「いま」を同時に読んでいる、ともいえよう。

《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》におさめられている文章は、
比較的最近に書かれたもの、数年前の文章、もっと以前の文章でもある。

一冊に本にまとめられるときに、手直しがまたくないわけではないが、
掲載時と大きく変っていたりはしない。

なにがいいたいかのだが、結局私にとって、雑誌も単行本も、
本として受け止めている。

私にとって書店で売られているのは、本であり。
雑誌には広告が入っているから信用できない、とか、
書き下しの本が、格上だとか、そんなことは考えたこともない。

そのうえで、ステレオサウンドは、
以前は確かにオーディオ評論の本だっことについて書いていきたい。

Date: 5月 7th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その3)

数週間前に山下書店の渋谷店が閉店になることを書いたばかりなのに、
今日は、六本木の青山ブックセンターが閉店になる、というニュースだ。

最後に六本木の青山ブックセンターに行ったのは、一年近く前。
それも青山ブックセンターが目的ではなく、
ほかの用で六本木に行ったついでに寄っただけなのだから、
6月25日に閉店する、というニュースを知っても、とても残念だ、という気持があるわけではない。

それに青山本店は今後も営業していくのだから。
それなのにこんなことを書いているのは、
今回のニュースで初めて知ったのだが、
青山ブックセンターの六本木店がオープンしたのは1980年。
AXISビルが1981年で、WAVEが1983年にオープンしている。

私がステレオサウンドで働くようになったのが1982年1月。
それ以前の六本木を知っているわけではない。
私が知っている六本木は、1982年からの六本木である。

このころ六本木は少し変っていったのではないだろうか。
いまは、すごく変っているけれど。

青山ブックセンター、AXIS、WAVE。
この三つは、六本木で働きはじめた田舎出身の私には、
六本木を象徴する存在のようでもあった。

最初にWAVEが消えていった。
もうじき青山ブックセンターも消える。

だから、ちょっとだけ寂しい気持はある。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その2)

2月に、渋谷の山下書店にのことを書いた。
田舎で馴れ親しんだ書店らしい書店だと感じていた。

ステレオサウンドは、私がいたころは六本木にあった。
青山ブックセンターも六本木にあった。

ステレオサウンドで働くことで、青山ブックセンターを知った、といってもいい。
これが東京の書店なのか、と、
三省堂や紀伊國屋書店に初めて入ったときとは、また違う感想をもったものだった。

山下書店と青山ブックセンターは、ずいぶん違う。
あのころ青山ブックセンターは深夜まで営業していた。
山下書店の渋谷店も、一時期まで24時間営業だった。

あるときから青山ブックセンターのコピーのような書店が、東京に増えてきた。
そのすべてとはいわないが、スカした書店が増えてきた。
スカした書店は、スカした品揃えで、スカした客が集まる。

優れた本でも、スカした書店で、スカした品揃えのように並べられると、
スカした客の手に渡る。

こうしたスカした書店は、エロ本は当然のことながら、置いてない。
エロ本がないからスカした書店なわけではない(念のため)。

スカした客が集まる書店では、
いったい誰が買うんだろう……、という本もある。
私が何度か目にした範囲では、スカした客が手にしていた。

話は飛躍するが、こうしたスカした人たちが、
デザインのパクリを平然とやっているように見えるのだ。

渋谷の山下書店は、4月26日で閉店する。
このあたりは渋谷の再開発に含まれるのだろうか。

渋谷から山下書店がなくなる。
こういう書店は減っていくだけなのか。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その11)

株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーによって「考える人」は、
新潮社から出ていた。

単独スポンサーゆえに、その会社が降りてしまえば、
そして次のスポンサーが見つからなければ、それで終りとなる面ももつが、
「考える人」のオーディオ版は、やはり無理なのか、とずっと思っていた。

「考える人」だから単独スポンサーがついた、ともいえる。
オーディオ雑誌に、単独スポンサーがつくだろうか。

オーディオメーカーが単独スポンサーについたのでは、意味がない。
オーディオと関係のない会社で、オーディオ雑誌の単独スポンサーになるところ、
そんな会社、あるわけがない──、と思い込んでいた。

先月のKK適塾が終って、数日後、ふと思いついた。
もう完全に妄想の領域であるし、可能性としてはゼロではないだろうが、
限りなく近いこともわかっている。

わかったうえで書いている。
川崎先生が編集人・発行人としてのオーディオとデザインの雑誌ならば、
DNPが単独スポンサーになることだって、可能性としてはまったくゼロではないはずだ。

Date: 2月 6th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その1)

渋谷駅の南口に山下書店がある。

以前はよく渋谷にも出掛けていたが、ここ十年ほどは、めっきり足が向かなくなった。
以前ならばタワーレコードがあるし、東急ハンズもあるし、ということだけで渋谷に出掛けていた。

たまに渋谷に行ってもタワーレコードに寄って、
そのまま原宿まで歩いて電車に乗る、といった感じだ。

山下書店がある側にはほんとうに行かなくなっていた。
昨年12月、山下書店の前を通ることが数回あった。

特に買いたい本があったわけではないが、
ひさしぶりだな、と思って入った。

ぐるっと店内を一周して思ったのは、
山下書店には成人雑誌(ようするにエロ本)のコーナーがあった。

書店には小学生のころから行っている。
私が住んでいた熊本のイナカ町の書店にも、エロ本が置かれているコーナーがあった。
むしろ、この手の本をまったく置いてない書店はなかったように記憶している。

書店(というより本屋)は、そういうものだという認識が私にはある。
そんな私だから、山下書店にその手の本のコーナーがあって、いい本屋さんだな、と思った。

いまでは個人経営の書店からも、この手の本のコーナーはなくなりつつある。
いつごろからそうなっていったのだろうか。

雑誌がつまらなくなっているように感じはじめたころと、
書店からエロ本が排除されるようになってきたころというのは、無関係なのだろうか。

Date: 8月 7th, 2017
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方

とんかつこそ男の好物だ、
そう思っている私。

いま書店に並んでいるBRUTUS 852号
特集は「とんかつ好き。」

すぐに手にとりたくなる企画、
でもすこし待った。

とんかつ好きの男、
それも編集経験がある男。

「とんかつ好き。」の特集、
どういう内容にするのか、考えた。

考えたあとに、インターネットで、
「とんかつ好き。」の目次をみた。

これは買おう、と思った。
明日にでも買うつもりだ。

こんなふうにして、オーディオ雑誌をみてみるといい。
これは買おう、と思わせてくれないのばかりだ。

Date: 7月 12th, 2017
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオ評論の本と呼ぶ理由(その1)

これまで何度か、ステレオサウンドはオーディオ評論の本だった、と書いている。
残念なのは過去形でしか書けないことだが、
いまのステレオサウンド編集部は、
おそらくステレオサウンドを、オーディオ評論の本とは思っていないだろう。

私は見ていないのだが、いま書店に並んでいるステレオサウンド 204号の編集後記に、
ある編集者が、ステレオサウンドを「オーディオの本」としている、らしい。

少し前に、ステレオサウンドはオーディオ評論の本、と書いたことに対し、
facebookにコメントがあり、ステレオサウンドは雑誌コードがついている雑誌であり、
コメントをくださった方は、出版に関係する仕事をされていて、
私が、ステレオサウンドを「本」と称することが気になっていた、とある。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌である。
それは私も、そう思っている。
だから、いまのステレオサウンドを、オーディオ評論の本とは絶対に書かないし、
オーディオの本とも思っていない。
あくまでもオーディオ雑誌として捉えている。

本という言葉は単行本を、まずイメージさせる。
単行本と雑誌、どちらが出版物として上位かということは関係ない。
上も下もない。

どちらも本であるわけだが、
本はbookであり、bookからイメージされるのは単行本であり、
雑誌はmagazineであり、magazineからは単行本がイメージされることはない。

ここまで書いていて、ふと思い出したのが、黒田先生の文章である。
     *
 最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本ばかりが多くて──と、さる出版社に勤める友人が、あるとき、なにかのはずみにぼそっといった。もうかなり前のことである。その言葉が頭にこびりついていた。
 その頃はまだぼくの書いたものをまとめて出してくれる出版社があろうとは思ってもいなかった。なるほど、そういうこともいえなくはないななどと、その友人の言葉を他人ごとのようにきいた。
 三浦淳史さんが強く推薦してくださったために、この本が東京創元社から出してもらえることになった。むろん、うれしかった。ところが、それこそあちこちに書きちらしたものをいざ集める段になって、かの友人の言葉が頭の中で去来しはじめた。作業を進めながら、うれしくもあったが、気が重かった。
 最初に雑誌のために文章を書いたのは一九五九年である、と書いて自分でも驚いているところである。四半世紀近くも書いてきたことになる。もうそんなになるのか。信じがたい。
 書いたものの整理はまったくしていなかった。この本をまとめるために、やむをえずある程度は整理しなければならなかった。雑誌の切りぬきをまとめてみたら、ダンボール箱に五箱あった。へえーと、これまた驚かないではいられなかった。
     *
東京創元社から出ていた「レコード・トライアングル」のあとがきからの引用だ。
ここでの本とは、「レコード・トライアングル」のことでり、それは雑誌ではなく単行本である。

Date: 3月 30th, 2017
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その10)

(その10)を書こうと思いながらも、
他のことを書くことを優先していたら、(その9)から一年半以上経っていた。

この一年半のあいだに、大きく変ったことがある。
「考える人」の休刊が、今年2月15日に発表になった。
4月4日発売の2017年春号で休刊となる。

「考える人」のメールマガジンを読んでいる。
そこに、こうある。
     *
 先日、ばったり顔を合わせた同年代の編集仲間に冷やかされました。「考える人」みたいな雑誌を作ってしまうと、病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう、というのです。たしかに、そういう面は否定できません。1世紀以上の歴史と伝統を持つ出版社の基盤の上で、高いスキルを持った編集スタッフの力を借りながら、だ一戦の人たちの寄稿を仰ぎ、また創刊以来、単独スポンサーとして支援して下さった株式会社ファーストリテイリングの伴走を得て、思う存分に作ってきた雑誌です。手前みそになりますが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本チームを率いて戦うような醍醐味を満喫できたのは、編集者として大変に恵まれたことだったと思います。この後の「考える人」ロスが心配です。
     *
《病みつきにならないか? 一度この味を覚えたら、忘れなくなるだろう》、
ここだけ抜き出せば、なにか麻薬のことをいっているようにも聞こえる。

「考える人」という雑誌は、そのくらい編集者にとっては、
雑誌の編集者にとっては、これ以上は求められないくらいの環境である。

株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーということのウェイトは、大きい。
大きすぎた、ようにも、いまは思う。

創刊15年で、「考える人」は休刊となる。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その3)

私が小学生、中学生のころは、
田舎町にも書店は何軒もあった。
それから貸本屋もけっこうあった。

貸本にはハトロン紙というのだろうか、半透明の白い紙のカバーがつけられていた。
東京にも貸本屋があるのを意外に感じたのは、30年以上の前のこと。
東京も貸本屋は少なくなってきた。

いま住んでいるところには、徒歩10分ほどのところに一軒ある。
客はあまり見かけないが、ずっと続いているから需要はあるのだろう。
個人経営の書店は近辺で三軒なくなったが、この貸本屋は残っている。

AmazonのKindle Unlimitedは、インターネット上の貸本屋と思う。
そういう時代を生きてきたからなのかもしれないが、
Kindle Unlimitedという横文字の名称であっても、
毎月定額で読み放題の貸本屋がインターネットにあるのと同じである。

貸本には半透明の紙のカバーがついていた。
そのカバーを外して読むことは出来なかった。
だから書店で買ってきた本とは感触が微妙に違う。

この感触の違いはKindle Unlimitedにもある。
紙の本とは違う感触が、そこにある。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その2)

少し前に、講談社、小学館などの雑誌、人気書籍が、
突然、それも一方的に削除されたニュースがあったAmazonのKindle Unlimited。

月額980円で登録されている本は読み放題というサービス。
最初のラインナップを見て、会員にはならなかった。

今日知ったのだが、ステレオサウンドがKindle Unlimitedにある
いまのところ188号から最新の200号までが会員になれば読める。
HiViもあるし、菅原正二氏の「聴く鏡 II」、和田博巳氏の「ニアフィールドリスニングの快楽」もある。

ステレオサウンドの他に、音元出版もある。
無線と実験、ラジオ技術はいまのところない。

Kindle Unlimitedの会員であれば読み放題であるけれど、
会員をやめれば読めなくなる。
会員のあいだに読んだ本を自分の本にできるわけではない。
所有ではなく読む権利が、月額980円で得られるからだ。

ステレオサウンドだけを読むだけが目的なら、Kindle Unlimitedは高くつく。
ステレオサウンドは三ヵ月に一冊だから、980円の三ヵ月分はステレオサウンドよりも高くなる。

けれどステレオサウンドしか読まないという人はまずいないだろうから、
安い、ということになる。
Kindle Unlimitedへの誘導なのだろう、
ステレオサウンド 199号のKindle版は今なら99円になっている。

私はステレオサウンドがKindle Unlimitedで読めるようになるとは思っていなかった。
正直、意外な感じがした。

本は読まれなければ「本」ではない。
ページをめくるのは、紙の本も電子書籍も指である。