Archive for category ヘッドフォン

Date: 4月 17th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(QUADの場合)

パワーアンプにはヘッドフォン端子がついている機種の方が少ない。
プリメインアンプとなると、国産機種に関しては、以前は大半の機種についていた。
コントロールアンプは、となると、ついているモノもあればついていないモノもある、といった感じだった。

国産のコントロールアンプはついている機種が多かった。
海外製も意外と多かった。

それが音質向上を謳い、トーンコントロールやフィルターといった機能を省く機種が増えるに従い、
ヘッドフォン端子も装備しない機種が増えていった。

たとえばマークレビンソンのLNP2やJC2にヘッドフォン端子がないのは、
特に疑問に感じたりはしない。
マークレビンソンの成功に刺戟されてか、1970年代後半に多くの小規模のアンプメーカーが誕生した。
AGI、DBシステムズ……、これらのコントロールアンプにもヘッドフォン端子はついてなかった。
それも当り前のように受けとめていた。

不思議に思うのは、QUADの場合である。
管球式の22、トランジスターになってからの33、44、
いずれにもヘッドフォン端子はついていない。
パワーアンプにも、当然ながらついていない。

これが他のメーカーであれば、その理由を考えたりはしないのだが、
QUADとなると、考えてみたくなる。

QUADのことだから、設計者のピーター・ウォーカーのポリシーゆえなのだろうが、
ついていても不思議でないQUADのコントロールアンプにつけない、その理由となっているのは、
どういうことなのだろうか。

正直、はっきりとした答は見えてこない。
それでもQUADの場合について、考えるのは無意味ではないはずだ。

Date: 4月 16th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(その3)

GASからは最初にパワーアンプAmpzillaが登場した。
しばらくしてペアとなるコントロールアンプThaedraが出た。

Thaedraにはヘッドフォン端子が最初のモデルからついていた。
II型になってAmpzillaにもヘッドフォン端子がついたということは、
コントロールアンプとパワーアンプの両方にあることになる。

メーカー側がペアで使ってほしいと思っていても、
セパレートアンプであれば必ずしもペアで使われるとは限らない。

ゆえにコントロールアンプとパワーアンプの両方につけるのだろうか。

GASだけではない。
マッキントッシュのセパレートアンプもそうだった。
C26、C28といったコントロールアンプにヘッドフォン端子はついている。
MC2300にはなかったが、MC2105、MC2205などにはヘッドフォン端子がある。

機能が重複しているわけだ。
もっともマッキントッシュのコントロールアンプを他社のパワーアンプと(もしくはその逆)、
GASのThaedraと他社のパワーアンプ(もしくはその逆)の組合せも考えられるわけだし、
実際にそういう組合せで鳴らしている人もいるのだから、
その場合、機能は重複しないとはいえ、ペアで使う人が多いのもマッキントッシュのアンプの特徴でもあるし、
GASに関しても、ユニークなパネルフェイスはペアで使いたくなるところだし、
実際にボンジョルノ設計のアンプはメーカーがGASとSUMOであっても、驚く音を聴かせてくれる。

マッキントッシュもGASも、ペアでの使用を前提としたうえで、
ヘッドフォン端子をコントロールアンプとパワーアンプに設けることは、
機能の重複ではあっても、性能の重複ではない、と考えているからではないだろうか。

Date: 4月 15th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(その2)

1985年12月にSUMOのThe Goldを買った。
すでに製造中止になっていたから、中古である。
アンプ本体のみだった。

当時はステレオサウンドにいたから、輸入元であったエレクトリのKさんに、
回路図と取り扱い説明書をお願いした。

英文と邦訳、両方の取り扱い説明書と回路図、それからカタログもいただいた。

取り扱い説明書を読むと、ヘッドフォンの接続に関して書かれているところがある。
いまでこそ接続端子を交換して左右チャンネルのアースを分離できるようになったが、
ヘッドフォンはヘッドフォン端子を使うかぎりは、左右チャンネルのアースは共通になっている。

SUMOのパワーアンプはブリッジ出力(バランス出力)なので、
左右の出力端子の黒側(マイナス側)はアースではないので、
一般的なパワーアンプと同じやり方ではヘッドフォンは接続できない。
アンプの故障の原因となるからだ。

ていねいにも取り扱い説明書には、ヘッドフォンのアースは、
アンプ本体のシャーシーに接続しろ、と書いてある。

The GoldやThe PowerなどのSUMOのパワーアンプにヘッドフォンを接続するには、
そういうやり方しかないのだが、それにしても……、と感じた。

こういうことを取り扱い説明書に書いてあるということは、
少なくともアメリカでは、これらのパワーアンプの出力端子にヘッドフォンを接続する人たちが、
少なからずいる、ということだろう。

取り扱い説明書はThe GoldとThe Power、共通だった。
The Goldは125W、The Powerは400Wの出力をもつ。
そういうパワーアンプでヘッドフォンを鳴らす。

どういう音がするのだろうか、と思うとともに、
そういえばThe Gold、The Powerのジェームズ・ボンジョルノは、
GAS時代にも、やはりAmpzillaにヘッドフォン端子をつけていたことを思い出した。

初代のAmpzillaにはなかったヘッドフォン端子が、
Ampzilla IIではDYNAMICとELECTROSTATICの二組の端子が、フロントパネルに設けられている。
Ampzillaの出力は200W。

Ampzillaはヘッドフォンを接続しようと思えば、簡単にできる。
だかThe Power、The Goldとなると、リアパネル側にまわらなければできない。

私の感覚ではそうまでしてヘッドフォンをThe Goldで鳴らそうとは考えないけれど、
そこまでやる人がいる、ということでもある。

あきらかにAmpzilla、The Power、The Goldの出力は、数時だけで判断するとヘッドフォンには過剰である。
けれど、それはあくまでも数字の上だけの過剰さなのか、とも思う。

当時でもヘッドフォン端子を切り取って、ヘッドフォンのケーブルの末端をばらしてしまえば、
つまりスピーカーケーブルと同じにしてしまえば、そのままSUMOのアンプに接続できる。
そうすればバランス駆動で鳴らせる。

どんな音がしたのだろうか。

Date: 4月 14th, 2016
Cate: ヘッドフォン

優れたコントロールアンプは優れたヘッドフォンアンプなのか(その1)

1978年にステレオサウンド別冊として出た「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」。
ここでの試聴方法を、瀬川先生が書かれている。
     *
 ヘッドフォンのテストというのは初体験であるだけに、テストの方法や使用機材をどうするか、最初のうちはかなり迷って、時間をかけてあれこれ試してみた。アンプその他の性能の限界でヘッドフォンそのものの能力を制限してはいけないと考えて、はじめはプリアンプにマーク・レヴィンソンのLNP2Lを、そしてパワーアンプには国産の100Wクラスでパネル面にヘッドフォン端子のついたのを用意してみたが、このパワーアンプのヘッドフォン端子というのがレヴェルを落しすぎで、もう少し音量を上げたいと思っても音がつぶれてしまう。そんなことから、改めて、ヘッドフォンの鳴らす音というもの、あるいはそのあり方について、メーカー側も相当に不勉強であることを思った。
 結局のところ、なまじの〝高級〟アンプを使うよりも、ごく標準的なプリメインアンプがよさそうだということになり、数機種を比較試聴してみたところ、トリオのKA7300Dのヘッドフォン端子が、最も出力がとり出せて音質も良いことがわかった。ヘッドフォン端子での出力と音質というは、どうやらいま盲点といえそうだ。改めてそうした観点からアンプテストをしてみたいくらいの心境だ。
 また、念のためスピーカー端子に直接フォーンジャックを接続して、ヘッドフォン端子からとスピーカー端子から直接との聴き比べもしてみた。ヘッドフォンによってかなり音質の差の出るものがあった。そのことは試聴記の中にふれてある。
     *
トリオのKA7300Dは78,000円のプリメインアンプ。
約40年前のこととはいえ、KA7300Dは高級機ではなく中級機にあたる。

フロントパネルにヘッドフォン端子がついていて、出力100Wクラスの国産パワーアンプとなると、
あれか、とすぐに特定の機種が浮ぶ。
このころのオーディオに関心のあった人ならば、すぐにどれなのかわかるはず。
コントロールアンプのLNP2(当時118万円)と比較すれば、安価なパワーアンプともいえるが、
KA7300Dよりは高価なモノだ。

そのパワーアンプの、スピーカーを鳴らしての評価は高いほうだった。
スピーカーを鳴らした音は聴いたことがある。けれどヘッドフォンを鳴らした音は聴いたことがない。
だから瀬川先生の文章を読んで、そうなのか……、と思った。

このメーカーはヘッドフォン端子をつけるにあたって、きちんと音を聴いていたのだろうか。
とりあえずつけておけばいいだろう、という安易な考えがあったのか、
それともこのメーカーが試聴用として使用したヘッドフォンならば、十分な音量を得られたのだろうか。

そうだとしても、特定のヘッドフォンにのみ、ということでは汎用アンプとしては、
むしろつけない選択もあったはずだ。

このパワーアンプでも、スピーカー端子にヘッドフォンを接げばいい音がした可能性は高い。
ヘッドフォンを鳴らすのにパワーはそれほど必要としない。
ごくわずかな出力ですむ。

ということは出力段がAB級動作であっても、
ヘッドフォンを鳴らす出力においては、ほぼすべてのアンプがA級動作をしているといってもいい。
それにアンプにとっての負荷としてみても、
ヘッドフォンとしては低い部類のインピーダンスであっても、
スピーカーとくらべれば高い値である。

つまりアンプにとってヘッドフォンを鳴らすのは、
スピーカーを鳴らすよりもずっと簡単なことだ、と思えなくもない。
でも実際のところはそうではない。

Date: 2月 1st, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その6)

岡先生がAKGのK1000について書かれた文章をさがしていた。
とりあえず見つかったのは、
別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」にあった記事だ。

このムックは中央公論社から1992年に出ている。
岡先生と菅野先生が監修されている。

すこし長くなるが引用しておこう。
     *
 それ以上に優れているのは音のよいことである。今まで音のよいヘッドフォンといえば、ソニーのMDR−R10が抜群であり、スタックスのΛ(ラムダ)Σ(シグマ)シリーズの上級機も定評があったが、K1000はダイナミック型のもつ力強さとコンデンサー型の繊細さや透明度を持ち、歪み感のすくないことでも注目されるものであった。本機はパワーアンプの出力をそのまま入力すればよいようになっている。インピーダンスが120オームなので、ふつうのスピーカーを聴くときに上げるアンプのヴォリュームの位置と大差はないところで、ほどよい音量が得られる。
 K1000が発表されたのは1990年だが、1991年にこのヘッドフォンのための専用アンプ(K1000アンプリファイアー)が発売された。純粋A級アンプで、ヘッドフォン専用アンプとして作られただけに、このアンプを通したときの音がもっともよい。
 入出力ともXLR(キャノン端子)コネクター用によっており、入力は3端子のバランス専用、出力はLR共用の4端子が1対装備されているので、K1000を2本つなぐことができる。
 このアンプが現われたので、バランス出力のあるCDプレイヤーやDATあるいはカセットデッキなどを直接モニターすることができる。音量調整も出力端子のすぐそばにヴォリュームがあるので、容易に好みのレベルに設定できる。
 K1000はたしかにヘッドフォンにちがいないが、聴感覚的にはヘッドフォンを使っているという感じをまったく与えないのは、ヘッドバンドの構造とユニットの支持法が実によく考えられているのと、完全オープン・タイプであるために、長時間使用していても違和感や疲労感がまったく生じないためである。
 また、プレイヤーの出力をダイレクトに専用アンプを経由させるだけで、余計な回路を通っていないので、プログラムのクォリティ・チェックにもひじょうに有用である。
 筆者は、仕事の必要上新譜のテストを数日間聴きっぱなしということがある。スピーカーから出る音との音場感の差などを常時チェックしたりするけれど、大部分、K1000だけで試聴して何の不都合も感じない。ひじょうにありがたいのは夜遅く聴かなければならないときに、あまり大音量を出すことは考えものなので、机上の両サイドに置いている小型モニター・スピーカーで接近試聴という不便なことになってしまうが、K1000では、ドアを開けてレコードを大音量(?)で聴いても、隣りの部屋での睡眠の何の邪魔にもならず、昼間と同じ再生レベルで聴くことができる。
 このまったく新しいヘッドフォンを使用中にひとつ新しい発見があった。聴いている音楽を同時にスピーカーからも音を出してみる。それも音量感からいえば、ヘッドフォンを耳で聴いているレベルの数分の1から10分の1ぐらいでよいのだが、このスピーカーの音によって、音場感がひじょうに広くなりパースペクティヴも感じられる。レベル差がひじょうに大きいので定位感はヘッドフォンの音で決まってしまうので、スピーカーに対するリスニング・ポジションを気にすることも必要ではない。今までサテライト・スピーカーを使ったり、いろいろな音場再生を行なってみたことはあるが、ソースのクォリティを損なわず音場感を得られるということは実におもしろい経験でもあった。
 筆者にいわせれば、ミニ・ハイファイ・システムのひとつの極点が、こんなところにあるのではないかと思った次第である。ただし、K1000が17万5千円、専用アンプが22万5千円だから、合せて40万円になる。これを高いと思うか安いと思うかはその人次第だが、いまの高級コンポーネントが、100万から数百万までのがざらにあることを考えれば、筆者はこれは安いと思う。
     *
岡先生はK1000を「新しいヘッドフォン」と書かれている。
そうだと思う。
そういう「新しいヘッドフォン」の真価を、
知人は見抜けなかったから、K1000のことを酷評したともいえる。

ちなみに知人は、私よりは年上だが岡先生よりもずっと若い。

Date: 12月 1st, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その5)

ステレオサウンド 97号での岡先生の発言からもうひとつわかることは、
AKGのK1000の装着艦はひじょうに優れている、ということである。

岡先生は普通のヘッドフォンだったらかけたまま眠れないのに、
K1000では装着の違和感がまったくないから、そのまま眠ってしまう、と。

その3)でK1000の装着感を、
ばっさり切り捨ててしまった知人の感想とは、まったく逆である。

どちらを信じるか。
私は岡先生である。

K1000を切り捨てて悦に入っていた知人は、
別項「菅野沖彦氏のスピーカーのこと(その14)」で書いた知人である。
XRT20をフリースタンディングで鳴らして、こちらがいい音と言った人である。

彼は、オーディオの仕事を当時やっていた。
何を、彼はわかっていたのだろうか。

彼はK1000だからこそもつ良さを感じとれない人なのだろう。
もっといえば想像できない人なのだろう。

私はK1000を聴いていない。
K1000はとっくの昔に製造中止になっている。
K1000の設計思想を受け継いだヘッドフォンはAKGからも、他のメーカーからも出ていない。

日本ではヘッドフォン・ブームといえる状況で、
K1000の時代よりも数多くの製品が市場にあふれているにも関わらず、だ。

中野で年二回行われるヘッドフォン祭に来る人の多くは若い人である。
彼らは、終のスピーカー、終のリスニングルームといったことは、
まだ考えもしないはずだ。
私も20代のころは、そんなこと考えていなかった。

けれど、いまは違う。
終のスピーカーということも考えているし、書いてもいる。
終のリスニングルームということも考えてしまう。

AKGのK1000は、終のリスニングルームになるかもしれない。
そんな予感が残っている……。

Date: 8月 2nd, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その4)

AKGのK1000は、ステレオサウンド 95号(1990年6月発売)の新製品紹介のページに登場している。
菅野先生が担当されている。
K1000の音について、こう書かれている。
     *
今回のK1000はあえて前置きに長々と書いたように、オーストリア製にふさわしい製品で、その美しい音の質感は、決してスピーカーからは聴くことのできないものだ。特に弦楽器の倍音の独自の自然さとそこからくる独特な艶と輝きをもつ、濡れたような音の感触は、従来の変換器からは聴き得ない生々しさといってよいだろう。こうして聴くと、CDソフトには実に自然な音が入っていることも再認識できるであろう。生の楽器だけが聴かせる艶っぽさを聴くことのできる音響機器は、ヘッドフォンしかない(特に高域において)と思っているが、この製品はさらにその印象を強めるものだった。
     *
いま読み返して、K1000の音が聴きたくなってくるし、
瀬川先生がもしK1000を聴かれたら……、ということも想像してしまう。

K1000はステレオサウンド 97号で、Components of the years賞に選ばれている。
岡先生がこんなことを発言されている。
     *
 実はちょっとおはずかしい話ですが、ぼくは家で椅子に座ってこれを使っていて、そのまま眠ってしまった……。
柳沢 眠ってしまえるほど、装着の違和感がないってことですね。
 それほどヘッドフォンという感じがないんですよ。普通のヘッドフォンだったら眠れないですから。
     *
岡先生はすでに購入されていることがわかる。
どの記事を読んだからなのだろうか、
私にとってAKGのK1000といえば、岡先生が浮んでくる。
そして岡先生とスピーカーということでも、K1000が真っ先に浮んでくる。

たとえば瀬川先生ならば、真っ先にJBLの4343が浮ぶ。
菅野先生ならばマッキントッシュのXRT20だったり、JBLの3ウェイのシステム、
それにジャーマンフィジックスのDDD型ユニットが浮ぶ。
長島先生はジェンセンG610Bだし、その人の名前とともに浮んでくるスピーカーがはっきりとある。

岡先生の場合、私はなぜかK1000をまっさきに思い浮べてしまう。
岡先生のスピーカー遍歴は知っている。
にも関わらず岡先生とスピーカーということになると、K1000なのである。

Date: 7月 24th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その3)

1990年ごろのヘッドフォンでAKGのK1000というモデルがあった。
AKGはK1000のことをヘッドフォンとは呼ばず、イヤースピーカーと呼んでいた。

ヘッドフォンは密閉型にしろ開放型にしろサウンドチェンバーと呼ばれる空間が存在する。
密閉型はその名の通り、サウンドチェンバーは密閉されているから、外界の音とは遮断されることになる。

開放型はサウンドチェンバー内の空気とヘッドフォンの外側の空気とは流通性がある。
そのため密閉型よりも音もれが発生することになる。

密閉型か開放型かと装着感にも関係しているため、
密閉型はどうしてもだめという人もいるし、密閉型の音の方がいいという人もいる。

K1000は開放型のひとつなのだが、
ヘッドフォン特有のサウンドチェンバーはK1000にはない。

通常のヘッドフォンではパッドが耳の周囲に直接ふれるわけだが、
K1000ではこめかみ周辺にパッドがふれ、耳の周囲を覆うものは存在しない。
いわば完全な開放型ともいえる構造をもつ。

K1000が出た時に、さっそく聴いたという人がまわりにいた。
どうだった? ときいた。
返ってきたのは、あんなのは欠陥品、という強い口調の完全な否定だった。
こめかみで支える構造ゆえ、音を聴く以前に非常に不愉快で頭が痛くなる──、
ということだった。何度聞き返しても、音について彼の口から語られることはなく、
あんな欠陥品は買うべきではないし、あんなものを製品として出したことが理解できない……、
彼の口から出るK1000の否定はいきおいを増すばかりだった。

きいていていやになってきた。
彼はK1000のことを評価するに値しないモノと断言していたけれど、
彼の顔の幅ははきりいって広いほうだった。
こめかみにパッドがあたるから、顔の幅が広ければそこにかかる圧も増してくる。
だから彼は我慢できなかったはず、と思いながら彼の口から出るK1000の悪口をきいていた。

装着感は人それぞれなのだから、彼にとって最悪であっても、多くの人にとってそうとはかぎらない。
事実、K1000の装着感についてそういう指摘を読んだ記憶はない。

記憶に残っているのはK1000の音のよさに語られたものばかりだ。

Date: 6月 2nd, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その2)

これまでに全身麻酔の経験は三回ある。
一回目は幼すぎてまったく記憶にない。
二回目、三回目は通常ならば全身麻酔ではないのだが、
喘息持ちゆえに全身麻酔をかけて、ということだった。

麻酔から醒めはじめの感覚はできればもう味わいたくない。
私の場合、二回目、三回目とも麻酔から醒めるのが遅かったようだ。
昼の手術(骨折の治療)なのに、麻酔から醒めはじめたのは夜中の一時すぎくらいだった。

それから夜が明けるまで眠れない。
病室の天井を、ぼんやりした意識で眺めていた。

病室のベッドの上で最期を迎えるということは、
病室の天井をうすれゆく意識で見るということなのか。
そんなことも思っていた。

五味先生も瀬川先生も岩崎先生も、みな天井を眺めるしかなかった……。

Date: 3月 16th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その1)

喘息持ちなこともあって、小学生のころは学校をよく休んでいた、早退も多かった。
健康な人よりも、だからこのころはベッドの上で過ごすことが多かった。

こんなことを思い出すのは、
ベッドの上が、終のリスニングルームとなるのか、と考えるようになったからかもしれない。

ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記を思い出す。
五味先生のことが書いてあった。
     *
 五味先生が四月一日午後六時四分、肺ガンのため帰らぬ人となられた。
 オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。その何日かまえに、病室でレコードを聴きたいのだが、なにか小型の装置がないだろうか? という先生のご注文で、テクニクスのSL10とSA−C02(レシーバー)をお届けした。
 先生は、AKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。
     *
五味先生にとって、AKGのヘッドフォンが終の「スピーカー」ということに、
そして病室のベッドが終の「リスニングルーム」ということになったのか……、と考える。

どこでどんなふうに死ぬのかなんてわからない。
ベッドの上で死ねるかもしれないし、そうでないかもしれない。
それでも、ベッドの上で最期の時を過ごすようになるのは十分考えられることだ。

そこでどうやって音楽を聴くのだろうか。
ヘッドフォンなのだろうか。
ヘッドフォンという局部音場が、ベッドの上を終の「リスニングルーム」としてくれるのだろうか。

まだわからない。

Date: 2月 23rd, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(その4)

ヘッドフォン、イヤフォンをスピーカーの代用品と見做す人はいまもいるようだ。
満足に音を出せる部屋をもたない者がヘッドフォンに凝るんだ、と、そういう人はいいがちだ。

自由にいつでも好きな音量で聴ける環境をもっていればヘッドフォンで聴く必要は、
ほんとうにないのだろうか。

1990年夏に骨折して、一ヵ月半ほど入院していた。
当時はiPodやiPhoneなんてなかった。
ウォークマンは持っていなかったから、音楽を聴けるモノは何ももたずに入院していた。

一ヵ月ほどは音楽を聴きたいという欲求はそれほど強くなかった。
順調に回復したころから、松葉杖で病院内を歩いていると、
ふと気づくと口ずさんでいる曲があった。

ハイドンのピアノソナタだった。
グールドの弾くハイドンのソナタであった。
グールドによる軽快なリズムで進行するハイドンのピアノ曲が、無性に聴きたくなっていっていた。

最近、このグールドのハイドンをイヤフォンで聴いた。
なんといい感じで鳴ってくれるんだろうか、と感じていた。

このハイドンが、グールドにとってはじめてのデジタル録音である。
聴いていると、これほどヘッドフォン、イヤフォンの良さを聴き手に認識させる演奏はないようにも感じる。

一言で表現すれば、マスからの解放なのかもしれない。

Date: 2月 17th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(バイノーラルはどうなるのか)

瀬川先生はステレオサウンド別冊「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」で、
テスト方法として、次のことを書かれている。
     *
 プレーヤーやレコードは、日頃テスト用に使い馴れたものをそのまま使った。私の場合、ヘッドフォンの用途はすでに書いたようにごく普通のレコードの鑑賞用であるのだから、バイノーラルディスクを使うことはしなかった。もともとスピーカーで聴くことを前提に録音されたレコードをヘッドフォンで聴くのだから、音像定位や音場感には無理のあることは当然なのだが、だからといってヘッドフォンでレコードを聴くことをやめるわけにはゆかないのだから、そういう無理を承知の上で、どこまで満足のゆく再生ができるのか、を知りたかったわけだ。
     *
いまヘッドフォン、イヤフォンがこれだけ普及しているけれど、
そこで聴かれているのは、「スピーカーで聴くことを前提に録音された」ものである。
バイノーラル録音のものを聴いている人は、ごくわずかであろう。

私が知る(聴いた)バイノーラル録音で新しいのは、
グレン・グールドの1955年のゴールドベルグ変奏曲を、ヤマハの自動演奏ピアノを使って録音したSACDだ。
このディスクには通常のステレオフォニックの録音とはバイノーラル録音のふたつが収録されている。
2007年に出ている。

その後にバイノーラル録音はディスクはあるのだろうか。
ハイサンプリング、ハイビット(いわゆるハイレゾ)は、
ヘッドフォン、イヤフォンでも、対応を謳うモノが多くなってきているし、話題になっている。

けれどバイノーラル録音・再生のことは、まったく話題になっていないようだ。
ヘッドフォンでステレオフォニックの録音を聴くのが間違っているわけではないが、
一度はバイノーラル録音されたものをヘッドフォンで聴いてみてほしい、とも思う。

これからはパッケージメディアと並行してインターネット配信も進んでいく。
ならばグールドの自動演奏ピアノの録音と同じように、
同時にステレオフォニックとバイノーラルの、ふたつの録音を行い、
インターネット配信でバイノーラル録音を販売する、というやり方もあっていいのではないか。

Date: 2月 11th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(その3)

カートリッジにはトーンアームという相棒がいる。
ゼロバランスさえとれれば、どんなトーンアームとどんなカートリッジの組合せでも、音は出る。
とはいっても、そのカートリッジの本来の性能をできるだけ発揮したければ、
トーンアームの選択も重要になってくる。

軽針圧カートリッジに最適なトーンアームは、重針圧カートリッジには向かないし、
重針圧のトーンアームで、軽針圧カートリッジは使いたくない。
それぞれのカートリッジに適したトーンアームをできるだけ使いたい。

ステレオサウンドがヘッドフォンの別冊を出した1978年と現在の違いは、
ヘッドフォンアンプがいくつも登場してきていることである。

ヘッドフォンアンプはカートリッジにとってのトーンアームのような存在である。
カートリッジとトーンアームの関係のように適さない、ということはほとんどないけれど、
ヘッドフォンにとってヘッドフォンアンプの登場は、良き相棒の登場ともいえよう。

瀬川先生は「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」での試聴で、
トリオのプリメインアンプKA7300Dを使われている。
その理由を書かれている。
     *
 ヘッドフォンのテストというのは初体験であるだけに、テストの方法や使用機材をどうするか、最初のうちはかなり迷って、時間をかけてあれこれ試してみた。アンプその他の性能の限界でヘッドフォンそのものの能力を制限してはいけないと考えて、はじめはプリアンプにマーク・レヴィンソンのLNP2Lを、そしてパワーアンプには国産の100Wクラスでパネル面にヘッドフォン端子のついたのを用意してみたが、このパワーアンプのヘッドフォン端子というのがレヴェルを落しすぎで、もう少し音量を上げたいと思っても音がつぶれてしまう。そんなことから、改めて、ヘッドフォンの鳴らす音というもの、あるいはそのあり方について、メーカー側も相当に不勉強であることを思った。
 結局のところ、なまじの〝高級〟アンプを使うよりも、ごく標準的なプリメインアンプがよさそうだということになり、数機種を比較試聴してみたところ、トリオのKA7300Dのヘッドフォン端子が、最も出力がとり出せて音質も良いことがわかった。ヘッドフォン端子での出力と音質というは、どうやらいま盲点といえそうだ。改めてそうした観点からアンプテストをしてみたいくらいの心境だ。
     *
このころの瀬川先生は、いまのヘッドフォンとヘッドフォンアンプの状況は歓迎されたように思う。
1978年当時はヘッドフォンのみだった。
いまは優秀なイヤフォンもある。
メーカーの数も増えた。
そこにヘッドフォンアンプが加わるわけだから、きっとハマられたのではないだろうか。

Date: 2月 10th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(その2)

1978年にステレオサウンドは別冊として「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」を出している。
国内外47機種のヘッドフォンの試聴を行っている。

この別冊の筆者は岡原勝氏、菅野先生、瀬川先生。
この面子からして、ヘッドフォンの別冊だから……、といったところは微塵もない。

いま思えば、よくこの時機に、これだけの内容のヘッドフォンの別冊を出していたな、と感心する。

1978年当時のヘッドフォンの扱いは、ぞんざいだったといえなくもない。
ステレオサウンド本誌でヘッドフォンがきちんと取り上げられることはほとんどなかった。
そこにヘッドフォンだけの別冊、
しかもステレオサウンドのメイン筆者である菅野先生と瀬川先生が試聴に参加されている。

瀬川先生は、自ら立候補して試聴に参加されている。なぜか。
     *
 ヘッドフォンで聴くレコードの音というものを、私は必ずしも全面的に「好き」とはいえない。が、5年ほど前から住みついたいまの家が、発泡性のPCコンクリートによるいわゆる「マンション」の3階で、遮音さえ別にすれば住み心地は悪くないのだが、音屋にとって遮音が悪いというのは全く致命的でまして夜が更けるほど目が冴えてきて、真夜中に音楽を聴くのが好きな私のような人間にとっては、もう命を半分失ったみたいな気分。いまはもう、一日も早くここを逃げ出して、思う存分音を出せる部屋が欲しいという心境になっているが、そんな次第で、最近の私にとって、ヘッドフォンは、好むと好まざると、もはや必要不可欠の重要な存在になってきている。
 それでもはじめのうちは、何となく入手したいくつかのヘッドフォンを、決して満足できる音質ではなかったが、ヘッドフォンなんて、まあこんなものなのだろうと、なかばあきらめて、適当に取りかえながら聴いていた。そのうちどうにも我慢ができなくなってきて、友人の持っている国産のコンデンサー型を借りてみたりしたが、なまじ期待が大きかったせいか、よけい満足できない。
 だいたいヘッドフォンというは、ローコストの製品はおマケのような安ものだし、高級機になると販売店等でも実際の比較試聴がなかなかできない。そんな折に、ほとんど偶然のような形でAKGのK240を耳にして、ヘッドフォンでもこんなにみずみずしく、豊かでひろがりのある音が得られるのかとびっくりして、しばらくのあいだこればかり聴く日が続いた。これの少し前は、KOSSのHV/1LCをわりあい長く聴いていた。国産のヘッドフォンのいくつかを試してみても、音楽のバランスのおかしいものが多く、とうてい満足できなかった。とはいうものの、AKGやKOSSにも、十分に充たされていたわけではない。
(中略)
 試聴はかなり長時間にわたったが、テストをしている最中にも、いくつかの良いヘッドフォンを発見するたびに、私は早速、今回の編集担当のS君に頼んでは、気に入った製品をすぐに手配してもらった。こうして試聴の終ったいま、イエクリン・フロート、ゼンハイザーHD400、ベイヤーDT440を買いこんでしまった。AKGは140も240もすでに持っているし、KOSSは前述のようにHV/1LCと、それに私の目的ではめったに使わないがPRO/4AAを前から持っている。これだけあれば私は十分に満足だ。
     *
この文章から、瀬川先生は六本のヘッドフォンを、この時点で所有されていることがわかる。

Date: 2月 7th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(その1)

思いつくまま挙げていけば……、
EMTのTSD15、オルトフォンのSPU-A/E、デッカMark V/ee、エンパイアの4000D/III、エラックのSTS455E、
テクニクスのEPC100C、スタントン881S、ピカリング、XUV/4500Q、サテンのM18BX、デンオンDL103D、
AKGのP8ESなど。

これらのカートリッジを高校生だったころ、欲しいと思い眺めていた。
最初に、この中から手にしたのはエラックのSTS455Eだ。29900円だった。

いまの時代に、そのころの私がいたとしたら、同じように欲しいと思い眺めるのは、
カートリッジではなくヘッドフォンとイヤフォンかもしれない。

1970年代の終りからの数年間、カートリッジのヴァリエーションは実に豊富だった。
手軽に購入できる価格のモノから、そうとうに高価(20万円近い)モノまであった。
価格だけではない、発電方式もそうだし、針圧に関しても軽針圧から重針圧のモノまで揃っていた。
カンチレバーの素材に関しても、金属だけでなくサファイアやダイアモンドといったモノもあった。

もう、そういう時代はやってこないことだけは確かだ。
それだけにヘッドフォン、イヤフォンのヴァリエーションの豊富さは、
そのころのカートリッジとダブってみえる(みてしまう)。

あのころのオーディオマニアは、カートリッジは平均何本所有していたのか。
10本以上所有している人も珍しくなかったはずだ。

そのころのそういう人たちは、きっと奥さまから、
一度に聴けるレコードは一枚なのに、なぜこんなにカートリッジが必要なの?
とイヤミをいわれていたことと思う。

ヘッドフォン、イヤフォンも、そのころのカートリッジのように何本も持つ人も珍しくない。
きっと、耳は左右にひとつずつしかないのに……、といわれてしまうかもしれない。

ウラディミール・ホロヴィッツは、
「頭はコントロールしなければならないが、人には心が必要である。感情に自由を与えなさい」
といっている。

スピーカーに比べてヘッドフォン、イヤフォンは手軽に購入できるし、
置き場所に苦労することもない。
ならば、まわりからなんといわれようと、あれこれ買ってしまうのは、
自分自身の感情に自由を与えているんだ、と思えばいいではないか。

カートリッジは音の入口、ヘッドフォン、イヤフォンは音の出口という違いはあるが、
どちらも変換器(トランスデューサー)である。

このことが、アンプをいくつも所有するのとは意味合いが少し違ってくるところでもある。