Archive for category 「ネットワーク」

Date: 9月 8th, 2014
Cate: Technics, 「ネットワーク」
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オーディオと「ネットワーク」(テクニクスの場合)

9月3日に、テクニクス・ブランドの復活が正式に発表され、新製品も登場した。
その時から、毎日のようにテクニクスの新製品に対する書き込みを目にする。
その大半がfacebookで、なのだが、他のところを検索しては見てみた。

発表された写真を見た時から、
こんな意見が出るだろうな、というのが多い。
私が目にしたものの大半は、否定的なことばかりである。

これは私のfacebookでのつながりゆえなのかもしれないが、
それにしても……、と少々思う。

あれこれいいたくなる気持は私にだってある。
否定的なことを書き始めれば、どれだけでも書ける。
それでも、いまのところは書かないでいる。

まだ実物を目にしていないし、音を聴いていないからだ。
こう書くと、写真をみればおおよその見当はつくよ、と返ってきそうだ。

それでも、音を聴いていないのだから、と私は思っている。

松下電器産業の創業者の松下幸之助氏が、かつて言っていた、らしい。
「会議で七割が賛成する意見はもう古い。七割の人に反対されるくらいの意見がちょうどよい」と。

会議とインターネットでの意見の交換を完全に同一視できないのはわかっていても、
インターネットというネットワークは、ひとつの会議とみなせる。
ならば、それこそちょうどいいのかもしれない。

私が目にしたテクニクスの復活に関しての意見・感想は七割くらいの人が否定的だったからだ。
ちょうどよいからといって成功する保証はどこにもないけれど、
音を聴くまで、もうすこし待ちたい。

Date: 8月 23rd, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・余談)

おさなオーディオは私の造語である。
このおさなオーディオについて書こうとしたさいに、
「おさなオーディオ」というタイトルで書こうか、とも思った。

それでも「ネットワーク」というテーマのもとに、おさなオーディオについて書きはじめたのは、
それほど熟考してのことではない。
なんとなく、というところもあった。

詳細は省くが、今日twitterである書き込みを見た。
私がフォローしている人がリツィートしていた書き込みは、このブログに関してのものだった。

それを見て、やぱりおさなオーディオは、「ネットワーク」のテーマの元に書いて正解だったかもしれない、
そう思えた。

この項の(その1)で、きたなオーディオについて書いた。
きたなオーディオは30年の月日を経て、おさなオーディオへと変っていっただけだと思う。
きたなオーディオの本質は、おさなオーディオだったのかもしれない、とも。

Date: 5月 12th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その19)

このことも別項「ある写真とおもったこと」に書いたことと重なるけれど、
オーディオと「ネットワーク」について考えていくと、共通体験の提供がある。

録音されたものは、そのままでは音は鳴ってこない。
レコードを頭の上にのせようと、耳にくっつけようと、
それだけでは音楽は聴こえてこない。しかるべき再生装置があって、そこに記録されている音楽を聴ける。

この再生装置(オーディオ)が、実に千差万別。
しかも同じオーディオ、仮に同じつくりの部屋で鳴らしたとしても、
鳴らす人が違えば同じ音が出ることはない。

人の数だけの音が鳴っている。

高価なオーディオでも、カセットテープに録音して外出時に聴くような場合でも、
人の数だけの音が鳴っている。

それがいま共通体験が可能になりつつある、といえるようになってきた。
本格的なオーディオでのみしか聴かない、という人を除けば、
つまりiPodで音楽を聴く、iPodでも音楽を聴くという人たちには、共通体験としての音楽が提供されている。

これはいままでなかったことであり、これからますます拡大していくことだろう。

オーディオと「ネットワーク」、ネットワークオーディオについて考えていくとき、
私は、分岐点(dividing)と統合点(combining)、フィルター(filtering)、
最終点と出発点の関係と境界、共通体験、これらのことばで対象を解体していくことになる。

Date: 5月 11th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その18)

それから、別項「LINN EXAKTの登場の意味するところ」でも書くことになることがある。

以前、「中点(その12)」で、
レコードは、レコードの送り手側にとっては最終点であり、
レコードの受け手(聴き手)にとっては出発点になる、という黒田先生が、かなり以前に書かれたことを引用した。

オーディオと「ネットワーク」について考えていくとき、
この最終点が最終点でなくなりつつある。

このことはレコード(録音されたもの)に関してだけではない。
スピーカーシステムに関しても、
これまではメーカーがいわゆる「最終点」として出してきたモノを、
使い手は購入し、それを出発点としていたわけだ。

だがオーディオのシステムが、いま以上にインターネットとの結びつきを深め、
単にプログラムソースを配信するサイトとの接続にとどまらず、
オーディオメーカーとのサイトにも接続されるようになり、
さらにはソフトウェア専門のメーカーも登場し、そこへも接続する、ということになっていけば、
もうスピーカーシステムは、最終点とはいえなくなる。

つまりユーザーのリスニングルームに設置されてしまえば、
基本的にメーカーは何も手を出すことはできない。
その意味で最終点だったわけだが、
インターネットを通じて、そのリスニングルームで鳴っている情報をメーカーにフィードバックすることで、
メーカーはその部屋に応じたプログラム(調整方法)を送り返してくれ、
スピーカーシステム側で自動的に補整する、ということは、もう夢物語ではなくなっている。

Date: 5月 11th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その17)

録音側がつくったモノ(LPであったりCDだったり、SACDだったりする)は、
流通系路にのせられてレコード店に届き、そこから聴き手の手に届く。

この流通も、またネットワークであり、
流通そのものに詳しいわけではないが、
それでもあれこれこうではなかろうかとみていくと、流通のネットワークも、
オーディオにおけるネットワークと同じことがいえることに気づく。

前回(その16)を書いて、約二年半。
書いた本人が、こんなことを書いてたはずだけど、どうだっけ? と確認するために、
ざっと目を通しているくらいだから、読まれている人は、とっくに忘れていて当然。

ばっさりと、これまで書いたことを要約すると、
録音側、再生側、それに流通にもネットワークがそこにある、ということ。
そのネットワークには、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それにフィルター(filtering)がある、ということ。

この三つのキーワードから、オーディオとネットワーク、
それに、いまネットワークオーディオと呼ばれているものについて書いていく。

Date: 8月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・追補)

「オーディオ彷徨・改訂版」は書店売りはしていない。
ステレオサウンドに直接注文するか、Amazonへの注文しかない。
だから、これから買う人は、5月30日に出た方を手にすることはまずない。

けれど、新宿のディスク・ユニオン隣の書店「BIBLIOPHILIC」では、
この4オーディオ彷徨・改訂版」を売っている。
ただ先月中旬、ここで売られていた「オーディオ彷徨・改訂版」は5月に出たものだった。
7月に増刷された分ではなかった。

なので、「BIBLIOPHILIC」のように売っているところで購入される方は、
奥付を確認された方がいい。

Date: 8月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その14)

やりたい仕事を常にやれるとは限らない。

「オーディオ彷徨」が出た1977年、私はまだ高校生だった。
2013年、「オーディオ彷徨」が復刊されたが、私はとっくにステレオサウンドから離れている。

「オーディオ彷徨」に、だから私は携わることはできなかった。

けれど、今回岩崎先生の原稿を直接手にとることが出来、
しかも「オーディオ彷徨」に所収される時点で書き換えが行われていることを見つけ、
そのことをfacebookに書いたことで、結果として訂正されることになった。

つまり7月に増刷された「オーディオ彷徨」には、間接的にはあっても携われた、という感触がある。
これが、ふたつめの嬉しいことである。

もし私がずっとステレオサウンドで働いていて、
「オーディオ彷徨」を復刊させようとしたとしても、
1977年に出た「オーディオ彷徨」の、明らかな箇所以外は訂正することができずに、
そのまま踏襲して出すことになる。

このことに思いを馳せると、ステレオサウンドから離れたから、ということにたどりつく。

ステレオサウンドにあのままい続けていたら、audio sharingをつくることはなかった。
audio sharingを公開していなければ、岩崎先生のご家族と連絡をとれることが訪れることはなかった。
そして世の中にSNSというものがあらわれ、facebookに「オーディオ彷徨」というページをつくった。
(現在は「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に変更している)

この「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に「いいね!」をしてくれる、
元オーディオメーカーに仕事をされていた方たちがいた。

昨年5月、毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記で行っている例会に、
岩崎先生の娘さんと息子さんが来てくださり、「岩崎千明を語る」というテーマを行えた。
今年6月には「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」というテーマで行えた。
ここで、岩崎先生の原稿と出合えた。

「オーディオ彷徨」の復刊にあわせて、岩崎先生の原稿がぽっと私の前にあらわれたわけではない。
これらのことをやり続けてきたから、の結果だという感触は、私だけのものだろうか。

Date: 8月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その13)

facebookグループのaudio sharingで、ステレオサウンドのNさんのコメントはもう少し続いた。

私が指摘した箇所だけではなく、他にも気になるところがあるので、
岩崎先生の原稿をコピーして送ってほしい、ということだった。

コンビニエンスストアに行きコピーするのがいちばん楽なのだが、
それでは私とステレオサウンドのNさんだけしか見れないことになる。

なので原稿をスキャンすることにした。
300dpiでスキャンした。
私がもっているスキャナーはA4までしかスキャンできないから、
400字詰め一枚の原稿用紙をスキャンするには、二回にわけて半分ずつスキャンして、
画像処理で一枚の画像にする。
この作業が意外と面倒なのだが、岩崎先生の原稿は前にも書いているように片桐さんから借りているものだから、
こうやってスキャンして画像処理しておかなければ私のところにもデータとして保存できないのだから、
遅かれ早かれ、この作業はやるつもりだった。

こうやって岩崎先生の原稿をスキャン作業は終り、
すべての家蔵を圧縮してダウンロードできるようにしている。
ステレオサウンドのNさんだけでなく、興味のある方みんなに見ていただきたいから、そうした。

jpeg画像だから、誰でも見れる。
ダウンロード先は、上記のfacebookグループのaudio sharingのコメント欄に書いている。
facebookのアカウントを持っている人、
しかも私が管理しているfacebookグループのaudio sharingに参加されている人、
という制限はつけさせてもらった。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その12)

「オーディオ彷徨」は7月上旬に増刷されている。
5月30日に改訂版として出て、一ヵ月ほどでの増刷だから、売れていると見ていいだろう。

7月の増刷分では、問題の箇所は元通りになっている。
それがどの箇所なのかは、7月の増刷分とそれ以前の「オーディオ彷徨」とを読み比べてみればわかることだ。
だから、あえて、ここがこうなっているとは書かない。

不親切な、と思う人もいていい。
自分の目で確かめずに、私がここでその箇所を書いているのを読めば、それで充分という人がそうだろう。
そんな人にとっては、私が問題にしている箇所は、どうでもいいことなのかもしれない。
だから、あえて書かない。

どうしても、それがどこでどういうことなのかを知りたい人は、
すでに1977年に出た「オーディオ彷徨」を持っている人、
2013年5月30日に出た「オーディオ彷徨・改訂版」を持っている人も、
2013年7月に増刷された「オーディオ彷徨」を手にするはずだから。

一度でもいいから、「オーディオ彷徨」をしっかり読んでいる人であれば、
二冊を並べて比較しないでも、ここだ、とすぐにわかる。

そういう人は、私がなぜ、この書き換えをここで取り上げたのか、
その理由もわかっていただける、と思っている。

そして「オーディオ彷徨・改訂版」を担当者であるステレオサウンドのNさんも、
「どうでもいいこと」とは思われなかった人である。
Nさんが、1977年の「オーディオ彷徨」の書き換えをどうでもいいことと判断されたなら、
7月の増刷分は、そのままになっていたのだから。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その11)

6月5日の「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」が終った翌日、
この書き換えに気がついたことをfacebookに書いた。

これについて、facebookグループのaudio sharingに参加されたばかりの、
ステレオサウンド関係者のNさんからのコメントがあった。

どの部分が書き換えられているのか、その子細については書かなかった。
だから岩崎先生の原稿、レアリテ、「オーディオ彷徨」と、
それぞれどういうふうに書かれているのか列記してほしい、とあった。

もっともなことだし、その三つを列記しなかったのは、
いずれ、このブログで書いていくつもりだったし、
このことにそれほど関心をもつ人もいないだろう、と勝手に思っていたからだった。

「オーディオ彷徨」の、その箇所、レアリテの、その箇所、
そして岩崎先生の原稿の、その箇所はスキャンして、Nさんへの返事とした。

そして、すぐにNさんからのコメントがあった。
そこには、増刷する訂正したいと思います、とあった。

これは二重に嬉しい驚きだった。
まずひとつは「オーディオ彷徨」の復刻版の売行きが好調だということ。
増刷する、と書かれるくらいだから、近々増刷の予定がある、ということである。

「オーディオ彷徨」が出た1977年と、2013年の現在とでは、
本の編集作業、印刷においても変化がある。
2013年の「オーディオ彷徨」はAdobeのInDesignによってなされている。
それにオンデマンド出版だと思う。少数発行に適しているから。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その10)

iPhoneの中にいれている「オーディオ彷徨」を開いて照らし合せる必要は、実はなかった。
それでも確認してみた。
この「一行」が書き換えられている。
それを確認した。

いくつものオーディオ雑誌に掲載された文章をあつめて一冊の本に仕上げる際には、
細部の手直しが加えられることはある。
だから書き換えられていること自体を頭から否定するわけではない。

たとえば五味先生の「オーディオ巡礼」。
森忠輝氏を訪問されたときの文章で、最後のところが削除があることに気がつく。
これなどは、オーディオ雑誌という性格、単行本という性格を考えれば、納得できなくはない。

でも、「オーディオ彷徨」の、その一行の書き換えは「なぜ?」という気持が強い。
意味は通じる。文章の流れがおかしくなっているわけでもない。
今回、片桐さんがレアリテを「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」の会に持ってこられなければ、
おそらく誰も書き換えが行われていたとは気づかずに、そのままになっていたはず。

それにしても、なぜ、このような書き換えを、「オーディオ彷徨」の編集を担当した人は、
当時(1977年)行ったのだろうか。
「オーディオ彷徨」に載っている文章、レアリテに掲載された文章、岩崎先生の手書きの原稿、
なぜ「オーディオ彷徨」で、あのような書き換えがなされたのか、その真意が理解できなかった。

岩崎先生の書かれた(残された)文章を、ただ読み物として楽しむだけの人にとっては、
この店の書き換えは、私がこんなに問題にしていることが理解できない、となるだろう。
でも岩崎先生の文章を読み解こうとしている者にとっては、
そのオーディオ機器が岩崎先生にとってどういう意味をもつのか、どういう存在だったのか、
そのことを知りたいとおもう者にとっては、理解できない、よりも、許せない、という気持がわいてくる。

Date: 7月 29th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その9)

6月5日の「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」(四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記にて)に、
片桐さんが持ってこられたのは、岩崎先生の原稿と、それが掲載された雑誌、レアリテの1975年12月号だった。

こういう雑誌があったことも知らなかった。
正確に言えば思い出せなかったのだが。

この日「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」に来てくださった方に、
レアリテと岩崎先生の原稿を見てもらうために順番にまわしていた。
なのでレアリテに載っている写真だけを見ていた。

いくつものオーディオ雑誌をこれまでみてきているけれど、
オーディオ雑誌では見ることできなかった表情の岩崎先生が写っていた。
この写真はスキャンして、facebookにて公開している。

この記事のタイトルは、いままで見たことのないものだった。
だからてっきり「オーディオ彷徨」に未収録の文章だと思い込んでしまった。

「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」が終了して、電車での帰宅途中、
ひとりになってからレアリテをひっぱり出した。
「彼がその音楽に気づいた時」、
これがレアリテ12月号の岩崎先生の文章につけられていたタイトルだった。

読み始めた。
あれっ? と思った。最初の一行で気づく。
これは「オーディオ彷徨」で読んでいることに。

こういうとき「オーディオ彷徨」の電子書籍をつくって、iPhoneに入れていると便利である。
iPhoneをジーンズのポケットから取り出して、iBooksを起動して「オーディオ彷徨」を読む。
あの文章だと、記憶だけでわかっていたから、苦もなくそれが、
「仄かに輝く思い出の一瞬──我が内なるレディ・ディに捧ぐ」であるとわかった。

タイトルを変えていたんだ、
そのくらいの気持でレアリテに載っていた岩崎先生の文章を読み続けた。
最後のほうにきて、また、あれっ? と思った。

今度の「あれっ?」は最初の「あれっ?」とは違っていた。
そして、またiPhoneを取り出すことになった。

Date: 7月 19th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(S.A.C. その1)

ネットワークによる音楽の配信が、これから先、どう展開していくのか。
正確には予測できない要素がある。
オーディオマニアがほんとうに望む音楽配信は、どれだけ実現されるのだろうか。

権利の問題、利益の問題、その他、業界の外にいる者には伺い知れない理由もあるはず。
それらによって翻弄されていかないとは言い切れない。

今日も、ユニバーサルミュージックに対してソフトバンクが買収を提案した、というニュースがあった。
拒否した、という報道もあり個人的にはほっとしているのだが、
もしソフトバンクがユニバーサルミュージックを買収したとしたら、
音楽配信はどういう方向に進む(流れる)のか……、と考えてしまう。

なんとなくでしかないのだが、オーディオマニアが望む方向とは違ってくるような気もする。
詳細はわからないし、今後どうなるのかもわからない。

巷では、CDに未来はない──、そんな言い方がなされている。
CDはあくまでも、1982年の時点で、デジタルで家庭に音楽(録音)を届ける最初の手段であった。
いまはCDだけが手段ではなくなっている。

遅かれ早かれCDというメディア(手段)はなくなるであろう。
インターネットによる配信がある──、と安心もできない。

昨日までオーディオマニアにとって理想的な配信を行っていた会社があっても、
企業買収により翻弄されてしまう可能性もないわけではない、と、今日の買収のニュースを読んで思っていた。
そして、このソフトバンクによる買収のニュースがきっかけで、
この項(オーディオと「ネットワーク」)にサブタイトルとして、「S.A.C.」をつけて、
なにか書いていけるのではないか、と思ったわけである。

S.A.C.とはStand Alone Complex(スタンド・アローン・コンプレックス)の略である。
「攻殻機動隊」の主人公、草薙素子による造語である。

Date: 6月 24th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その8)

「元原を見たい、元原で確認したい」──、
そう思うのは私だけでなく、今回「オーディオ彷徨」に携われた人も、まったくそうだったと思う。
もちろん、これは私の憶測にすぎないといえばそうなのだが、でも確実にそうだといいきれる。

だからこそ、facebookページ「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に「いいね!」をしてくれていた、
ステレオサウンドの関係者(Nさん、としておく)が、
非公開のfacebookグループ「audio sharing」に参加されたのだ、と思っている。

参加しなければ、岩崎先生の原稿を見ることができない。
見なければ確認できない。
逆の立場だとしても、私も同じ行動をとる。

それでも、audio sharinbへの参加希望の知らせが来て、
誰なのかを目にした時は、やはり驚いていたけれど。
でも、驚きは、すぐに納得に変る。

岩崎先生が亡くなられてすでに36年が経つ。
岩崎先生の手書きの原稿で確認しようと、どんなに思っても願っても、
ほとんどかなわないことである。まずかなわない、といいかえてもいい。

そこに一本ではあっても、手書きの原稿を見える機会があれば、
ためらうことなく、そこが非公開で、ステレオサウンドに対して、
少なからぬ人が批判的だと思うことを書いている人間がやっているところへでも行く。

それは、完璧な一冊の本をつくるのは困難だとわかっているけれど、
それでも少しでもそこに近づけたいと常日頃から思っている編集者にとっては、
ためらう理由にはならない。

同じステレオサウンド関係者であっても、
立場の違いはあっても、私が管理していることがわかってすぐに「いいね!」を取り消した人と、
取り消すことなく、さらに非公開の「場」に参加してくる人、
このふたりの違いは、どこに起因しているのだろうか。

Date: 6月 10th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その7)

誤植やミスのない本をつくることは、編集経験のない人が考える以上にたいへんなことである。
とくに手書きの原稿時代、写植の時代には、いま以上に大変なことだった。

瀬川先生の著書に「オーディオの楽しみ」がある。新潮社から出た文庫本である。
この本にも、やはりミスがある、それも小さくないミスである。

新潮社は、私が働いていたステレオサウンドよりも大きな出版社であり、
歴史も古く、本づくりの体制においてもしっかりしたものにも関わらず、
あるミスが幾人もの人の目をすり抜けて活字になってしまっている。

ただ、これは仕方のない面もある。
文章としてはつながっていて、オーディオにさほど関心のない人ならば、
書いてあることの意味は理解できなくとも、文章としておかしなところはないのだから。

これなどは、手書きの原稿で、前後の文章を入れ換えたり、あとでつけ加えたりしたために発生したミスである。
きれいに清書された原稿であったならば、こういうミスは発生しなかったであろう。

「オーディオの楽しみ」のどの部分が、そういうふうになっているのかは、
私が公開しいてる瀬川先生の著作集のePUBと比較すればわかる。
この電子書籍の作業時に、前後の文章を並べ替え直して、
意味がきちんとつながるように直している。

これは元原(手書きの原稿)がなくても、瀬川先生が意図された通りに直すことはできた。
でも、いつもそうとは限らない。
入力作業をやっていると、明らかな誤植と判断できるのはいい、
けれど微妙な箇所も意外と少なくなく、どっちなんだろう……と悩むことがある。

とくにスイングジャーナルはそういうところが多い。
そういう箇所にぶつかる旅に、「元原を見たい、元原で確認したい」と思うわけだが、
それはかなわない。