Archive for category 「ネットワーク」

Date: 8月 17th, 2015
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その2)

人脈とは、姻戚関係・出身地・学閥などを仲立ちとした,人々の社会的なつながり、辞書には書いてある。
とうぜんだが、その辞書には、人脈力は載っていない。

人脈に「力」をつけるわけだから、
人々の社会的なつながりのもつ力が、人脈力なのかというと、
ステレオサウンド 193号に登場した人脈力は、そうではなく、人脈をつくっていける力と読める。

人と人のつながりは大事だよ、と諭されれば、そのとおりだと私だって思う。
けれど人脈は大事だよ、といわれると、同じ意味でいわれたとしても、違和感をまったく感じないわけではない。

人脈力は大事だよ、といわれたら、そこにははっきりと気持悪さを感じる。
年老いた人が、人脈力は大事だよ、といったのであれば、
ああ、この人はそういう人生を送ってきたのか……、と思うぐらいだが、
同じ言葉を、私よりも若い世代の人がいうのであれば、受け取り方も違ってくる。

なぜ、こんなにも人脈力という言葉に反応しているのか。
いま、2020年東京オリンピックに関することが騒がれている。
毎日のように、新たなネタがインターネットで見つけ出され、画像の比較が行われている。

問題が発覚してから半月以上が経っても、まだまだ勢いはやむどころか、むしろ増しつつある。
最初のころ、擁護していた人たちがいた。
この人たちの書いたものを読んでいて感じたものも、人脈力を目にして感じたものと同種のものだった。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(魔法の鏡なのか)

グリム童話「白雪姫」では継母の王女が、魔法の鏡に向ってきく、「世界でいちばん美しい人は?」と。
魔法の鏡は現実にはない。

けれど時としてインターネットは、魔法の鏡のようでもあるように感じる。
昔は個人でウェブサイトをやる人がめずらしかったこともある。
それもいつしか簡単にできるようになり、始める人が増えた。
わざわざ自分のウェブサイトまで……、という人でもブログを始めたりした。

いまはSNSが流行っていて、ウェブサイト、ブログを始めなくとも、
いいたいことを友人・知人にとどまらず、不特定多数人に向って書くことが容易になっている。

そうなってきて、いよいよインターネットがオーディオマニアにとって、
いわば魔法の鏡的な要素を鮮明にしてきているように感じることがある。

「世界でいちばん素晴らしい音は?」
そう魔法の鏡にたずねる人はいないだろうが、
間接的にたずねているのではないだろうか。

自分のシステム、リスニングルームを公開し、
これまで使ってきたオーディオ機器、レコードなどについても公開する。
そういう人すべてというわけでないのはわかっている。

それでもそういう人の中には、「世界でいちばん素晴らしい音は?」というよりも、
「世界でいちばん素晴らしい音を出しているのは誰?」とたずねているような気がすることがある。

継母の王女は、魔法の鏡が「貴女です」と答えてくれることを期待している。
継母の王女は、世界でいちばん美しい人を知りたかったわけではない。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(トーレンスのリファレンスのこと)

以前、トーレンスのリファレンスは開発過程ではダイレクトドライヴであった可能性がある、と書いた。
2011年6月、「私にとってアナログディスク再生とは(トーレンス・リファレンスのこと)」に書いている。

確度の高い推測とは自分で思っていても、
それを裏付けるものがなにか──フローティングベースの形状以外に──があったわけではない。

昨夜、audio sharing例会でEMTの950のことが話題になった。
950はEMTが開発したダイレクトドライヴ型プレーヤーの一号機である。

950は1977年か78年に登場している。
帰宅後、そういえば……、と思い、Googleで、「EMT 950」のキーワードで画像検索してみた。
モーターの写真が見つかった。
このモーターが950のフレームにどういうふうにマウントされているのかもわかった。

950のモーターは、写真をみるかぎり、
リファレンスのフローティングベースのセンターに設けられたスペースにぴったりおさまるように思える。
取り付け方も問題はない、といえる。

いうまでもなくEMTとトーレンスは同じ工場で作られていた。
リファレンスのシャフト、軸受けはEMTの930stのものを流用していることからも、
リファレンスは、やはり開発過程でダイレクトドライヴであった、と断言していいのではないだろうか。

それにしても便利な時代である。
キーワードを入力して、画像を見ていくことで、
昔ならば、どんなオーディオ雑誌にも掲載されていなかったところまで確認することができるようになっている。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続・明白なことでさえ……)

間違いが書かれているブログのURLは、メールを送ってくれた人に問い合せればすぐにわかることだろう。
でも、URLを知ったら、読みに行く。
読んでしまったら、さらにあれこれ書きたくなるであろうから、あえて訊かなかった。

ThaedraとAmpzillaがGASの純正ペアであるが、
人によってはThaedraと組み合わせた音よりも、Thoebeと組み合わせた音のほうが気に入ることだってある。
それは理解できる。
けれど、それをもってして、
ThaedraではなくThoebeがAmpzillaとペアとなるべく開発されたコントロールアンプだ、
と言い切っていいわけではない。

あくまでも、自分にとっては純正のコントロールアンプとなるThaedraよりも、
Thoebeの方が望ましい結果が得られた──、
そんなふうに書かれれば、メールをくれた若い人を惑わすこともなかった。

おそらく、Thaedraではなく Thoebeが、と書いた人は思い込みが強いのかもしれない。
親しい人と話している分には、まあいいだろう、と思うけれど、
誰もが見れるブログで、思い込みが激しいまま間違ったことを書いてしまうと……、
ということを、その人はまったく考えないのだろうか。

同じ間違い・デタラメであっても、若い人が書くのと年配の人が書くのとでは、少し違ってくる。
ブログを書いている人の中には、自分のシステムの写真を公開している人も多い。

GASのアンプのことで間違ったことを書いた人も、そうかもしれない。
ときに、そういう写真が、この人はベテランなんだ、と読み手に錯覚を起こさせてしまうこともある。

書き手としての責任は、アマチュアであろうと存在する。
今回のことのように明白なことでさえ、間違ったことを思い込みで書いてしまうことを、
書いた本人は、なんとも思っていないのかもしれない。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(明白なことでさえ……)

先日、見知らぬ方からのメールがあった。
GASのアンプに関する質問というか、確認のような内容だった。

その方は、私のブログを読み、ジェームズ・ボンジョルノに興味を持ち、
GAS、SUMOのアンプにも興味を持たれたようだ。
はっきりと書かれてなかったけれど、若い方のようだった。

おそらくインターネットで、GAS、SUMOのことを検索されたのだろう。
それであるブログを見つけられたらしい。
そのブログには、GASのアンプの組合せについて書かれてあったらしい。

そのブログのURLは記載されていなかったので、私自身は、そのブログを見ていないが、
メールには、パワーアンプAmpzillaとペアとなるコントロールアンプはThaedra(テァドラ)ではなく、
Thoebe(セーベ) だと書かれていて、これについての確認だった。

もちろん、そんなことはなく、ペアとなるのはThaedraとAmpzillaであり、
ThoebeはSon of Ampzillaとペアになるコントロールアンプである。
GASにはThoebeの下にThalia(サリア)があり、このコントロールアンプはGrandsonとペアになる。

1970年代にオーディオをやってきた人にとっては当り前なことでも、
若い人にとっては、いまとなってはなかなか確認することが難しいようである。

それにしても……、と思う。
なぜ、ThoebeをAmpzillaとペアになるなるコントロールアンプと書く人がいるか、と。
これもいただいたメールにははっきりと書かれていなかったから、私の想像でしかないが、
そのブログを書いていた人は年輩の方のようだ。

そういう人があきらかな間違いを書き、それを読む人がいる。
幸い、そのブログを読んだ若い人は疑問をもち、私にメールを送った。
けれど、間違いが書かれたブログを読んだ人のすべてが私にメールを送るはずもない。

読んだ人の中には、すぐに間違いに気づく人もいれば、そのまま鵜呑みにする人もいる。
こうやってデタラメが、すこしずつ拡散していくことだってある。

Date: 12月 18th, 2014
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その1)

ステレオサウンドの193号に、「難条件を克服するマイシステムの作り方」という記事が載っている。

この記事に「人脈力」なる言葉が登場している。
見出しにもなっているし、本文にも出てくる。

老人力という言葉が登場して以降、語尾に「力(りょく)」をつけられることが急に増えてきた。
たいていは、どこかいかがわしさ・うさんくささを感じさせるのが多いように私は感じている。

人脈力なる言葉は、はっきりとくっきりとステレオサウンドの中で浮いている。
人それぞれだから馴染んでいるといる感じる人もいるだろうし、なんとも思わない人、
私と同じように浮いていると感じる人もいるだろう。

馴染まないことがよくないことではない。
浮いてしまっている、と感じたから、些細なことを取り上げるな、と思われようと、ここで書いている。

これまでも、ステレオサウンドに対して厳しいことを書いてきた。
これからも書いていくであろう。
なぜ、そんなことを書くのか。

ステレオサウンドが素晴らしいオーディオ雑誌であってほしいからである。
毎号講読したくなる内容になってほしい、と思っている。
このブログを書く必要もない、と思わせる内容になってほしいからである。

でも、今回の「人脈力」に対しては、そういう気持とはすこし違うものがある。
「人脈力」が目に留った時、
「ステレオサウンドは大丈夫なのか」と心配になった。

たったひとつの言葉だろうに……、なんて大袈裟なと感じられるかもしれない。
よけいなお世話だといわれるかもしれない。

けれど、人脈力なる言葉が本文にも、見出しにも登場しているのをみると、
もやもやしたような、イヤな感じがしてしまう。

Date: 9月 8th, 2014
Cate: Technics, 「ネットワーク」
1 msg

オーディオと「ネットワーク」(テクニクスの場合)

9月3日に、テクニクス・ブランドの復活が正式に発表され、新製品も登場した。
その時から、毎日のようにテクニクスの新製品に対する書き込みを目にする。
その大半がfacebookで、なのだが、他のところを検索しては見てみた。

発表された写真を見た時から、
こんな意見が出るだろうな、というのが多い。
私が目にしたものの大半は、否定的なことばかりである。

これは私のfacebookでのつながりゆえなのかもしれないが、
それにしても……、と少々思う。

あれこれいいたくなる気持は私にだってある。
否定的なことを書き始めれば、どれだけでも書ける。
それでも、いまのところは書かないでいる。

まだ実物を目にしていないし、音を聴いていないからだ。
こう書くと、写真をみればおおよその見当はつくよ、と返ってきそうだ。

それでも、音を聴いていないのだから、と私は思っている。

松下電器産業の創業者の松下幸之助氏が、かつて言っていた、らしい。
「会議で七割が賛成する意見はもう古い。七割の人に反対されるくらいの意見がちょうどよい」と。

会議とインターネットでの意見の交換を完全に同一視できないのはわかっていても、
インターネットというネットワークは、ひとつの会議とみなせる。
ならば、それこそちょうどいいのかもしれない。

私が目にしたテクニクスの復活に関しての意見・感想は七割くらいの人が否定的だったからだ。
ちょうどよいからといって成功する保証はどこにもないけれど、
音を聴くまで、もうすこし待ちたい。

Date: 8月 23rd, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・余談)

おさなオーディオは私の造語である。
このおさなオーディオについて書こうとしたさいに、
「おさなオーディオ」というタイトルで書こうか、とも思った。

それでも「ネットワーク」というテーマのもとに、おさなオーディオについて書きはじめたのは、
それほど熟考してのことではない。
なんとなく、というところもあった。

詳細は省くが、今日twitterである書き込みを見た。
私がフォローしている人がリツィートしていた書き込みは、このブログに関してのものだった。

それを見て、やぱりおさなオーディオは、「ネットワーク」のテーマの元に書いて正解だったかもしれない、
そう思えた。

この項の(その1)で、きたなオーディオについて書いた。
きたなオーディオは30年の月日を経て、おさなオーディオへと変っていっただけだと思う。
きたなオーディオの本質は、おさなオーディオだったのかもしれない、とも。

Date: 5月 12th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その19)

このことも別項「ある写真とおもったこと」に書いたことと重なるけれど、
オーディオと「ネットワーク」について考えていくと、共通体験の提供がある。

録音されたものは、そのままでは音は鳴ってこない。
レコードを頭の上にのせようと、耳にくっつけようと、
それだけでは音楽は聴こえてこない。しかるべき再生装置があって、そこに記録されている音楽を聴ける。

この再生装置(オーディオ)が、実に千差万別。
しかも同じオーディオ、仮に同じつくりの部屋で鳴らしたとしても、
鳴らす人が違えば同じ音が出ることはない。

人の数だけの音が鳴っている。

高価なオーディオでも、カセットテープに録音して外出時に聴くような場合でも、
人の数だけの音が鳴っている。

それがいま共通体験が可能になりつつある、といえるようになってきた。
本格的なオーディオでのみしか聴かない、という人を除けば、
つまりiPodで音楽を聴く、iPodでも音楽を聴くという人たちには、共通体験としての音楽が提供されている。

これはいままでなかったことであり、これからますます拡大していくことだろう。

オーディオと「ネットワーク」、ネットワークオーディオについて考えていくとき、
私は、分岐点(dividing)と統合点(combining)、フィルター(filtering)、
最終点と出発点の関係と境界、共通体験、これらのことばで対象を解体していくことになる。

Date: 5月 11th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その18)

それから、別項「LINN EXAKTの登場の意味するところ」でも書くことになることがある。

以前、「中点(その12)」で、
レコードは、レコードの送り手側にとっては最終点であり、
レコードの受け手(聴き手)にとっては出発点になる、という黒田先生が、かなり以前に書かれたことを引用した。

オーディオと「ネットワーク」について考えていくとき、
この最終点が最終点でなくなりつつある。

このことはレコード(録音されたもの)に関してだけではない。
スピーカーシステムに関しても、
これまではメーカーがいわゆる「最終点」として出してきたモノを、
使い手は購入し、それを出発点としていたわけだ。

だがオーディオのシステムが、いま以上にインターネットとの結びつきを深め、
単にプログラムソースを配信するサイトとの接続にとどまらず、
オーディオメーカーとのサイトにも接続されるようになり、
さらにはソフトウェア専門のメーカーも登場し、そこへも接続する、ということになっていけば、
もうスピーカーシステムは、最終点とはいえなくなる。

つまりユーザーのリスニングルームに設置されてしまえば、
基本的にメーカーは何も手を出すことはできない。
その意味で最終点だったわけだが、
インターネットを通じて、そのリスニングルームで鳴っている情報をメーカーにフィードバックすることで、
メーカーはその部屋に応じたプログラム(調整方法)を送り返してくれ、
スピーカーシステム側で自動的に補整する、ということは、もう夢物語ではなくなっている。

Date: 5月 11th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その17)

録音側がつくったモノ(LPであったりCDだったり、SACDだったりする)は、
流通系路にのせられてレコード店に届き、そこから聴き手の手に届く。

この流通も、またネットワークであり、
流通そのものに詳しいわけではないが、
それでもあれこれこうではなかろうかとみていくと、流通のネットワークも、
オーディオにおけるネットワークと同じことがいえることに気づく。

前回(その16)を書いて、約二年半。
書いた本人が、こんなことを書いてたはずだけど、どうだっけ? と確認するために、
ざっと目を通しているくらいだから、読まれている人は、とっくに忘れていて当然。

ばっさりと、これまで書いたことを要約すると、
録音側、再生側、それに流通にもネットワークがそこにある、ということ。
そのネットワークには、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それにフィルター(filtering)がある、ということ。

この三つのキーワードから、オーディオとネットワーク、
それに、いまネットワークオーディオと呼ばれているものについて書いていく。

Date: 8月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・追補)

「オーディオ彷徨・改訂版」は書店売りはしていない。
ステレオサウンドに直接注文するか、Amazonへの注文しかない。
だから、これから買う人は、5月30日に出た方を手にすることはまずない。

けれど、新宿のディスク・ユニオン隣の書店「BIBLIOPHILIC」では、
この4オーディオ彷徨・改訂版」を売っている。
ただ先月中旬、ここで売られていた「オーディオ彷徨・改訂版」は5月に出たものだった。
7月に増刷された分ではなかった。

なので、「BIBLIOPHILIC」のように売っているところで購入される方は、
奥付を確認された方がいい。

Date: 8月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その14)

やりたい仕事を常にやれるとは限らない。

「オーディオ彷徨」が出た1977年、私はまだ高校生だった。
2013年、「オーディオ彷徨」が復刊されたが、私はとっくにステレオサウンドから離れている。

「オーディオ彷徨」に、だから私は携わることはできなかった。

けれど、今回岩崎先生の原稿を直接手にとることが出来、
しかも「オーディオ彷徨」に所収される時点で書き換えが行われていることを見つけ、
そのことをfacebookに書いたことで、結果として訂正されることになった。

つまり7月に増刷された「オーディオ彷徨」には、間接的にはあっても携われた、という感触がある。
これが、ふたつめの嬉しいことである。

もし私がずっとステレオサウンドで働いていて、
「オーディオ彷徨」を復刊させようとしたとしても、
1977年に出た「オーディオ彷徨」の、明らかな箇所以外は訂正することができずに、
そのまま踏襲して出すことになる。

このことに思いを馳せると、ステレオサウンドから離れたから、ということにたどりつく。

ステレオサウンドにあのままい続けていたら、audio sharingをつくることはなかった。
audio sharingを公開していなければ、岩崎先生のご家族と連絡をとれることが訪れることはなかった。
そして世の中にSNSというものがあらわれ、facebookに「オーディオ彷徨」というページをつくった。
(現在は「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に変更している)

この「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に「いいね!」をしてくれる、
元オーディオメーカーに仕事をされていた方たちがいた。

昨年5月、毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記で行っている例会に、
岩崎先生の娘さんと息子さんが来てくださり、「岩崎千明を語る」というテーマを行えた。
今年6月には「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」というテーマで行えた。
ここで、岩崎先生の原稿と出合えた。

「オーディオ彷徨」の復刊にあわせて、岩崎先生の原稿がぽっと私の前にあらわれたわけではない。
これらのことをやり続けてきたから、の結果だという感触は、私だけのものだろうか。

Date: 8月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その13)

facebookグループのaudio sharingで、ステレオサウンドのNさんのコメントはもう少し続いた。

私が指摘した箇所だけではなく、他にも気になるところがあるので、
岩崎先生の原稿をコピーして送ってほしい、ということだった。

コンビニエンスストアに行きコピーするのがいちばん楽なのだが、
それでは私とステレオサウンドのNさんだけしか見れないことになる。

なので原稿をスキャンすることにした。
300dpiでスキャンした。
私がもっているスキャナーはA4までしかスキャンできないから、
400字詰め一枚の原稿用紙をスキャンするには、二回にわけて半分ずつスキャンして、
画像処理で一枚の画像にする。
この作業が意外と面倒なのだが、岩崎先生の原稿は前にも書いているように片桐さんから借りているものだから、
こうやってスキャンして画像処理しておかなければ私のところにもデータとして保存できないのだから、
遅かれ早かれ、この作業はやるつもりだった。

こうやって岩崎先生の原稿をスキャン作業は終り、
すべての家蔵を圧縮してダウンロードできるようにしている。
ステレオサウンドのNさんだけでなく、興味のある方みんなに見ていただきたいから、そうした。

jpeg画像だから、誰でも見れる。
ダウンロード先は、上記のfacebookグループのaudio sharingのコメント欄に書いている。
facebookのアカウントを持っている人、
しかも私が管理しているfacebookグループのaudio sharingに参加されている人、
という制限はつけさせてもらった。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その12)

「オーディオ彷徨」は7月上旬に増刷されている。
5月30日に改訂版として出て、一ヵ月ほどでの増刷だから、売れていると見ていいだろう。

7月の増刷分では、問題の箇所は元通りになっている。
それがどの箇所なのかは、7月の増刷分とそれ以前の「オーディオ彷徨」とを読み比べてみればわかることだ。
だから、あえて、ここがこうなっているとは書かない。

不親切な、と思う人もいていい。
自分の目で確かめずに、私がここでその箇所を書いているのを読めば、それで充分という人がそうだろう。
そんな人にとっては、私が問題にしている箇所は、どうでもいいことなのかもしれない。
だから、あえて書かない。

どうしても、それがどこでどういうことなのかを知りたい人は、
すでに1977年に出た「オーディオ彷徨」を持っている人、
2013年5月30日に出た「オーディオ彷徨・改訂版」を持っている人も、
2013年7月に増刷された「オーディオ彷徨」を手にするはずだから。

一度でもいいから、「オーディオ彷徨」をしっかり読んでいる人であれば、
二冊を並べて比較しないでも、ここだ、とすぐにわかる。

そういう人は、私がなぜ、この書き換えをここで取り上げたのか、
その理由もわかっていただける、と思っている。

そして「オーディオ彷徨・改訂版」を担当者であるステレオサウンドのNさんも、
「どうでもいいこと」とは思われなかった人である。
Nさんが、1977年の「オーディオ彷徨」の書き換えをどうでもいいことと判断されたなら、
7月の増刷分は、そのままになっていたのだから。