Archive for category 「ネットワーク」

Date: 10月 31st, 2016
Cate: 「ネットワーク」
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オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その4)

五味先生の「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書いてある。
17の時に読んだ。
まだまだオーディオマニアとしての経験は足りないけれども、
なるほどそういうものか、と感心していた。
     *
 私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
     *
オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人、
と書いてある。
おしなべて謙虚で、ひかえ目とも書いてある。
他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる、ともある。

五味先生の周りの人たちはそうだったのであろう。
でも、ここまでインターネットが普及し、SNSを誰もがやっている時代を生きていると、
この点に関しては、「五味先生、どうも違うようです……」といわざるをえない。

facebookには、オーディオ関係のグループがいくつもある。
それのどれにも入っていない。
理由のひとつは、見たくないからだ。

それでも、友人、知人のタイムラインに、それらのグループでの話題が出たりする。
とんでもない人がやっぱりいるんだ、とその度に思う。

そのとんでもない人たちは、五味先生が書かれているオーディオマニア像とはまるで違う。
謙虚、ひかえ目の真逆である。
自説を主張するだけの我欲のかたまりのような人たちがいるようである。

自分の持っているオーディオ機器を最高だ、と思うのは悪いことではない。
けれど、その良さを強調するために、他のオーディオ機器をボロクソに貶してしまう。

完璧なオーディオ機器なんて、ひとつもないのだから、
どのオーディオ機器にも欠点といえるところはある。
にも関わらず、とんでもない人たちは、自分の機器だけは完璧で、
他は……、と思っているのだろうか。

Date: 8月 13th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その4)

私も声は大きい方だから気をつけなければならないのだが、
意外な人が話を聞いていたりする。

10年ほど前のインターナショナルオーディオショウでの、
業界関係者の会話も、いまだったらどうなるだろうか。

こんなことを話していた、と、すぐにtwitter、facebookで公開される可能性が高い。
場合によっては目線入りの写真付きでの公開かもしれない。

10年ほど前はスマートフォンはなかった。
いまは多くの人が持つようになったし、すぐに写真が撮れて加工もできて、
すぐさま公開することが、スマートフォン一台で可能になっている。

ある話を当事者の人から聞いた。
オーディオの関係者の人で、CESの取材にアメリカに行ったときのことである。
会場近くのホテルのバーで、アメリカのオーディオ関係者と飲んでいた。
アメリカのオーディオ関係者が、とあるメーカーのことを「あの会社はもう終りだ」、
そんなことを話したそうだ。これもまだスマートフォンがないころの話だ。

そのことを日本のオーディオ関係者は黙って聞いていた。
黙って聞いていたのは彼だけではなかった。
別の、アメリカのオーディオ関係者が近くの席で聞いていた。

その人によって、もう終りだといわれた会社の主宰者の耳に入った。
日本のオーディオ関係者は、「あの会社はもう終りだ」に同意していたわけではなかった。
だが否定もしなかった。

そのことがアメリカでは、肯定したと捉えられ、
その会社の主宰者と日本のオーディオ関係者との親しい仲は終ってしまった、と。

「そうは思わない」と一言発していれば、そうはならなかった。
まわりに別のオーディオ関係者がいなければ、そうはならなかった。
けれど不幸なことに、そこはアメリカであり、沈黙は肯定と捉えられるところであった。

黙っていたこと、はっきりと自分の意見を言わなかったことを後悔されている。

いまは同じことが、もっと簡単に起ってしまうかもしれない。

Date: 8月 12th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その3)

ハフィントンポスト日本語版に、鳥越俊太郎氏のインタヴュー記事が公開されている。

そこでの鳥越氏の発言に、こんなのがあった。
     *
あなたたち(ハフポスト日本版)には悪いんだけれど、ネットにそんなに信頼を置いていない。しょせん裏社会だと思っている。メールは見ますけれど、いろんなネットは見ません。
     *
同じといえる会話を、
十年ほど前にインターナショナルオーディオショウの会場で聞いたことを思い出していた。

人を待っていたので、会場のB1Fにある喫茶店にいた。
近くのテーブルから、はっきりと聞き取れる声で、
ショウに出展していたオーディオ関係者の会話が聞こえてきた。

誰なのかは、どこのブースの人なのかは書かない。
このふたりは、インターネットはクズだね、ということを話していた。
オーディオ雑誌には志があるけれど、インターネットのオーディオ関係のサイトには志がない、
そんな趣旨の会話だった。

確かにインターネットの世界には、クズだとしか思えない部分がある。
だからといってインターネット全体を十把一絡げに捉えてしまうのには、異を唱えたくなる。

それにオーディオ雑誌に志があった、という過去形の表現ならまだ同意できるけど、
志がある、にも異を唱えたくなる。

Date: 7月 26th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その2)

実際にはやっていない人のほうが多いはずだけれども、
街に出ればやっている人の方が多いと思ってしまうほど、
いたるところでPokémon GOをやっている。

Pokémon GOに関してのいろんな記事がインターネットにはあるし、
ポジティヴな意見、ネガティヴな意見も当然ある。
危険視する意見も少なくない。

歩きながら、という危険性だけではなく、
個人データが送信されている、という危険性を訴える意見もけっこうある。
Googleが……、とか、CIAが……、といった記事・書き込みもある。
それらをすべて荒唐無稽とは考えていない。

Pokémon GOの配信開始とほぼ同時に、アメリカのドラマ”Billions“を観た。

主人公のひとり、ボビー・アクセルウッド(ダミアン・ルイスが演じている)が、
とある訪問者が帰った後に、壁の隠し金庫を開ける。
何を取り出すのかと思っていたら、携帯電話だった。
モトローラのStar Tacである。

auがIDOだったころ、私もこの携帯電話を使っていた。
1997年ごろの電話を取り出して、アクセルウッドは誰にも知られたくない電話をかける。

“Billions”は現在のドラマであり、登場人物はほぼ全員スマートフォンを使っている。
アクセルウッドも通常はiPhoneを使っているのにも関わらず、そういう時にはStar Tacを使う。
しかもふだんはもっていることを隠している。

アメリカではまだStar Tacが使えるのかという驚きと、
用心するということはこういうことなんだな、と感心していた。

つまるところスマートフォン使っている時点で、
あるシステムに組み込まれていると考えるべきではないだろうか。

Date: 4月 26th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その1)

SNS(Social Networking Service)は、
SES(Social Experiment System)のような気がしてきている。

SNS = SESだとすれば、
そこに参加する者は、実験する側でもあり、実験される側でもある。
意識していようがそうでなくても、だ。

だからSNSはこわい、とはいわない。
むしろ逆だ。

Date: 4月 6th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その19)

オーディオメーカーが新製品を開発しようとしている。
メーカーにはいくつかの部がある。

会社によって違いはあろうが、
たとえば商品企画部、設計開発部、デザイン部、製造部といったところだろう。

けれど、ほぼすべてのメーカーに、製品開発に関係する部としての編集部はないはずだ。
新製品が完成して売り出すには、広報資料やカタログをつくる必要があるから、
そこで編集部は必要となっても、それ以前の過程における編集部の存在はなかった。

いまこんなことを書いているが、ついこの間まではこんなことは考えてもみなかった。
製品開発に編集部なんてことは、まったく思いつきもしなかった。

それでも、いまは考えが変ってきている。
実は製品開発においても「編集」部は必要なのではなかろうか、と。

Date: 3月 22nd, 2016
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その18)

別項で、ステレオサウンドの幕の内弁当化は47号からはじまった、と書いた。
このことについては追々書いていくが、
雑誌は弁当に喩えられるのだろうか、このことを考えてみる必要はある。

雑誌を弁当に喩えたのは私ではなく、ステレオサウンドの原田勲氏である。
いまから30年ほど前に聞いている。

30年という時間が経っているから、
いまも原田勲氏が自社の雑誌を弁当として考えられているのかはなんともいえない。
いまもそうかもしれないし、まったく別の捉え方をされているかもしれない。

けれど現在のステレオサウンドを見ると、確実に幕の内弁当であることは事実である。

今週の金曜日(25日)は、KK塾の七回目である。
講師は松岡正剛氏。
編集工学研究所所長である。

編集工学という表現。
このことばを目にすると、オーディオにおける編輯について考える。
実際の本の編集だけではなく、オーディオそのものにも編集工学といえる面があるようも感じる。

録音側で行われている編集とは違う意味合いでの「編集」が、
再生側のオーディオにもある。

編集はもともと編輯と書いていた、と辞書にはある。

Date: 3月 10th, 2016
Cate: 「ネットワーク」

dividing, combining and filtering(その1)

なにかがぐらついているように感じることがある。
いまのオーディオ界をみていると、歳月とともにしっかりとあるべき「なにか」がぐらついている。
そう感じることがある。

分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)から、
多くのシステムは成っている、と感じもする。

このことがぼんやりとなっているからなのだろうか。

Date: 9月 28th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その3)

もう十年ほど前になるけれど、菅野先生と話していた時に、
このケーブルの這わせ方が話題になった。

菅野先生は多くのオーディオマニアのリスニングルームを訪問されている。
ステレオサウンドのベストオーディオファイルでの訪問、
レコード演奏家での訪問、
ステレオサウンドだけに限っても、このふたつの企画に登場されたオーディオマニアの数は非常に多い。

菅野先生が訪問されているのはステレオサウンドの取材だけではない。
他のオーディオ雑誌の企画でも訪問されているし、
それ以外での訪問はあったはずだ。

いったい何人のオーディオマニアのところに行かれたのだろうか。
私よりも二桁は多いのではないだろうか。

菅野先生がいわれた。
「部屋の真ん中を大蛇のようなケーブルが這っているところでまともな音がしたためしはない」と。

大蛇のようなスピーカーケーブルとは、
非常に高価すぎるといえるケーブルのことである。

そんな這わせ方ができるのは、専用のリスニングルームであることが大半だろう。
リビングルームとリスニングルームを兼用していては、
そんなケーブルの這わせ方をしていたら、家族からクレームがきてしまう。

音のために専用のスペースを用意して、
音のために高価な装置を揃え、さらに高価なケーブルを買い求める。
それは生半可な気持ではできないことである。

だから茶化そうとは思っていない。
ただ問題としたいのは、そういうケーブルを使うことではなく、
そういうケーブルの這わせ方である。

菅野先生は、そういうケーブルを使っているところでまともな音がしたためしはない、
といわれたのではない。
あくまでも部屋の真ん中を這わせているところで……、である。

私が「おさなオーディオ」という造語を思いついたのは、この話を聞いてからである。

Date: 8月 17th, 2015
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その2)

人脈とは、姻戚関係・出身地・学閥などを仲立ちとした,人々の社会的なつながり、辞書には書いてある。
とうぜんだが、その辞書には、人脈力は載っていない。

人脈に「力」をつけるわけだから、
人々の社会的なつながりのもつ力が、人脈力なのかというと、
ステレオサウンド 193号に登場した人脈力は、そうではなく、人脈をつくっていける力と読める。

人と人のつながりは大事だよ、と諭されれば、そのとおりだと私だって思う。
けれど人脈は大事だよ、といわれると、同じ意味でいわれたとしても、違和感をまったく感じないわけではない。

人脈力は大事だよ、といわれたら、そこにははっきりと気持悪さを感じる。
年老いた人が、人脈力は大事だよ、といったのであれば、
ああ、この人はそういう人生を送ってきたのか……、と思うぐらいだが、
同じ言葉を、私よりも若い世代の人がいうのであれば、受け取り方も違ってくる。

なぜ、こんなにも人脈力という言葉に反応しているのか。
いま、2020年東京オリンピックに関することが騒がれている。
毎日のように、新たなネタがインターネットで見つけ出され、画像の比較が行われている。

問題が発覚してから半月以上が経っても、まだまだ勢いはやむどころか、むしろ増しつつある。
最初のころ、擁護していた人たちがいた。
この人たちの書いたものを読んでいて感じたものも、人脈力を目にして感じたものと同種のものだった。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(魔法の鏡なのか)

グリム童話「白雪姫」では継母の王女が、魔法の鏡に向ってきく、「世界でいちばん美しい人は?」と。
魔法の鏡は現実にはない。

けれど時としてインターネットは、魔法の鏡のようでもあるように感じる。
昔は個人でウェブサイトをやる人がめずらしかったこともある。
それもいつしか簡単にできるようになり、始める人が増えた。
わざわざ自分のウェブサイトまで……、という人でもブログを始めたりした。

いまはSNSが流行っていて、ウェブサイト、ブログを始めなくとも、
いいたいことを友人・知人にとどまらず、不特定多数人に向って書くことが容易になっている。

そうなってきて、いよいよインターネットがオーディオマニアにとって、
いわば魔法の鏡的な要素を鮮明にしてきているように感じることがある。

「世界でいちばん素晴らしい音は?」
そう魔法の鏡にたずねる人はいないだろうが、
間接的にたずねているのではないだろうか。

自分のシステム、リスニングルームを公開し、
これまで使ってきたオーディオ機器、レコードなどについても公開する。
そういう人すべてというわけでないのはわかっている。

それでもそういう人の中には、「世界でいちばん素晴らしい音は?」というよりも、
「世界でいちばん素晴らしい音を出しているのは誰?」とたずねているような気がすることがある。

継母の王女は、魔法の鏡が「貴女です」と答えてくれることを期待している。
継母の王女は、世界でいちばん美しい人を知りたかったわけではない。

Date: 1月 8th, 2015
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(トーレンスのリファレンスのこと)

以前、トーレンスのリファレンスは開発過程ではダイレクトドライヴであった可能性がある、と書いた。
2011年6月、「私にとってアナログディスク再生とは(トーレンス・リファレンスのこと)」に書いている。

確度の高い推測とは自分で思っていても、
それを裏付けるものがなにか──フローティングベースの形状以外に──があったわけではない。

昨夜、audio sharing例会でEMTの950のことが話題になった。
950はEMTが開発したダイレクトドライヴ型プレーヤーの一号機である。

950は1977年か78年に登場している。
帰宅後、そういえば……、と思い、Googleで、「EMT 950」のキーワードで画像検索してみた。
モーターの写真が見つかった。
このモーターが950のフレームにどういうふうにマウントされているのかもわかった。

950のモーターは、写真をみるかぎり、
リファレンスのフローティングベースのセンターに設けられたスペースにぴったりおさまるように思える。
取り付け方も問題はない、といえる。

いうまでもなくEMTとトーレンスは同じ工場で作られていた。
リファレンスのシャフト、軸受けはEMTの930stのものを流用していることからも、
リファレンスは、やはり開発過程でダイレクトドライヴであった、と断言していいのではないだろうか。

それにしても便利な時代である。
キーワードを入力して、画像を見ていくことで、
昔ならば、どんなオーディオ雑誌にも掲載されていなかったところまで確認することができるようになっている。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続・明白なことでさえ……)

間違いが書かれているブログのURLは、メールを送ってくれた人に問い合せればすぐにわかることだろう。
でも、URLを知ったら、読みに行く。
読んでしまったら、さらにあれこれ書きたくなるであろうから、あえて訊かなかった。

ThaedraとAmpzillaがGASの純正ペアであるが、
人によってはThaedraと組み合わせた音よりも、Thoebeと組み合わせた音のほうが気に入ることだってある。
それは理解できる。
けれど、それをもってして、
ThaedraではなくThoebeがAmpzillaとペアとなるべく開発されたコントロールアンプだ、
と言い切っていいわけではない。

あくまでも、自分にとっては純正のコントロールアンプとなるThaedraよりも、
Thoebeの方が望ましい結果が得られた──、
そんなふうに書かれれば、メールをくれた若い人を惑わすこともなかった。

おそらく、Thaedraではなく Thoebeが、と書いた人は思い込みが強いのかもしれない。
親しい人と話している分には、まあいいだろう、と思うけれど、
誰もが見れるブログで、思い込みが激しいまま間違ったことを書いてしまうと……、
ということを、その人はまったく考えないのだろうか。

同じ間違い・デタラメであっても、若い人が書くのと年配の人が書くのとでは、少し違ってくる。
ブログを書いている人の中には、自分のシステムの写真を公開している人も多い。

GASのアンプのことで間違ったことを書いた人も、そうかもしれない。
ときに、そういう写真が、この人はベテランなんだ、と読み手に錯覚を起こさせてしまうこともある。

書き手としての責任は、アマチュアであろうと存在する。
今回のことのように明白なことでさえ、間違ったことを思い込みで書いてしまうことを、
書いた本人は、なんとも思っていないのかもしれない。

Date: 12月 20th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(明白なことでさえ……)

先日、見知らぬ方からのメールがあった。
GASのアンプに関する質問というか、確認のような内容だった。

その方は、私のブログを読み、ジェームズ・ボンジョルノに興味を持ち、
GAS、SUMOのアンプにも興味を持たれたようだ。
はっきりと書かれてなかったけれど、若い方のようだった。

おそらくインターネットで、GAS、SUMOのことを検索されたのだろう。
それであるブログを見つけられたらしい。
そのブログには、GASのアンプの組合せについて書かれてあったらしい。

そのブログのURLは記載されていなかったので、私自身は、そのブログを見ていないが、
メールには、パワーアンプAmpzillaとペアとなるコントロールアンプはThaedra(テァドラ)ではなく、
Thoebe(セーベ) だと書かれていて、これについての確認だった。

もちろん、そんなことはなく、ペアとなるのはThaedraとAmpzillaであり、
ThoebeはSon of Ampzillaとペアになるコントロールアンプである。
GASにはThoebeの下にThalia(サリア)があり、このコントロールアンプはGrandsonとペアになる。

1970年代にオーディオをやってきた人にとっては当り前なことでも、
若い人にとっては、いまとなってはなかなか確認することが難しいようである。

それにしても……、と思う。
なぜ、ThoebeをAmpzillaとペアになるなるコントロールアンプと書く人がいるか、と。
これもいただいたメールにははっきりと書かれていなかったから、私の想像でしかないが、
そのブログを書いていた人は年輩の方のようだ。

そういう人があきらかな間違いを書き、それを読む人がいる。
幸い、そのブログを読んだ若い人は疑問をもち、私にメールを送った。
けれど、間違いが書かれたブログを読んだ人のすべてが私にメールを送るはずもない。

読んだ人の中には、すぐに間違いに気づく人もいれば、そのまま鵜呑みにする人もいる。
こうやってデタラメが、すこしずつ拡散していくことだってある。

Date: 12月 18th, 2014
Cate: 「ネットワーク」, ステレオサウンド

オーディオと「ネットワーク」(人脈力・その1)

ステレオサウンドの193号に、「難条件を克服するマイシステムの作り方」という記事が載っている。

この記事に「人脈力」なる言葉が登場している。
見出しにもなっているし、本文にも出てくる。

老人力という言葉が登場して以降、語尾に「力(りょく)」をつけられることが急に増えてきた。
たいていは、どこかいかがわしさ・うさんくささを感じさせるのが多いように私は感じている。

人脈力なる言葉は、はっきりとくっきりとステレオサウンドの中で浮いている。
人それぞれだから馴染んでいるといる感じる人もいるだろうし、なんとも思わない人、
私と同じように浮いていると感じる人もいるだろう。

馴染まないことがよくないことではない。
浮いてしまっている、と感じたから、些細なことを取り上げるな、と思われようと、ここで書いている。

これまでも、ステレオサウンドに対して厳しいことを書いてきた。
これからも書いていくであろう。
なぜ、そんなことを書くのか。

ステレオサウンドが素晴らしいオーディオ雑誌であってほしいからである。
毎号講読したくなる内容になってほしい、と思っている。
このブログを書く必要もない、と思わせる内容になってほしいからである。

でも、今回の「人脈力」に対しては、そういう気持とはすこし違うものがある。
「人脈力」が目に留った時、
「ステレオサウンドは大丈夫なのか」と心配になった。

たったひとつの言葉だろうに……、なんて大袈裟なと感じられるかもしれない。
よけいなお世話だといわれるかもしれない。

けれど、人脈力なる言葉が本文にも、見出しにも登場しているのをみると、
もやもやしたような、イヤな感じがしてしまう。