オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その4)
五味先生の「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書いてある。
17の時に読んだ。
まだまだオーディオマニアとしての経験は足りないけれども、
なるほどそういうものか、と感心していた。
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私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
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オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人、
と書いてある。
おしなべて謙虚で、ひかえ目とも書いてある。
他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる、ともある。
五味先生の周りの人たちはそうだったのであろう。
でも、ここまでインターネットが普及し、SNSを誰もがやっている時代を生きていると、
この点に関しては、「五味先生、どうも違うようです……」といわざるをえない。
facebookには、オーディオ関係のグループがいくつもある。
それのどれにも入っていない。
理由のひとつは、見たくないからだ。
それでも、友人、知人のタイムラインに、それらのグループでの話題が出たりする。
とんでもない人がやっぱりいるんだ、とその度に思う。
そのとんでもない人たちは、五味先生が書かれているオーディオマニア像とはまるで違う。
謙虚、ひかえ目の真逆である。
自説を主張するだけの我欲のかたまりのような人たちがいるようである。
自分の持っているオーディオ機器を最高だ、と思うのは悪いことではない。
けれど、その良さを強調するために、他のオーディオ機器をボロクソに貶してしまう。
完璧なオーディオ機器なんて、ひとつもないのだから、
どのオーディオ機器にも欠点といえるところはある。
にも関わらず、とんでもない人たちは、自分の機器だけは完璧で、
他は……、と思っているのだろうか。