Archive for category ジャーナリズム

Date: 10月 13th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その30)

仲間内だけで、ステレオサウンドについてあれこれしゃべっていても、
それでは、いつまでもたっても伝わらない。

手紙なり電話をするなり、手段はいろいろある。
良くなってほしいと思っているのなら、伝えてなくてはならない。

いまのステレオサウンドがおもしろいと思っている人たちも、もちろんいる。
そういう人たちは、いまのままでいいから、と黙っていると、時代が変化するにともない、
本のあり方も変っていかざるを得ない。
そんなとき、自分の声を伝えていなければ、望まない方向に変っていくかもしれない。
変ってしまったあとに、あれこれいっても、なかなか元には戻らないものである。

だから、いまのステレオサウンドのあり方に賛同する人はする人で、
きちんと編集部に声を届けるべきだろう。

Date: 10月 13th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その29)

「ステレオサウンドを読んでいてもつまらない」、「毎号買ってはいるけど、ほとんど読んでない」という声を、
この1年の間に、よく聞くようになった。

だからといって、そう言っている人たちがオーディオに対する情熱を失いかけているのではなく、
むしろステレオサウンドとは関係なく、オーディオに対して真剣に取りくまれている。

ならば、ステレオサウンドを買うのはやめたら、という声も聞こえてきそうだが、
オーディオを長くつづけてきた人たちならば、
すくなからず、ステレオサウンドへの思い入れは、いまでももっているはずだ。
だから、文句をいいながらでも毎号手にするという人も少なくないだろう。
文句という名の要望を口にしているのだ。

私だって、ステレオサウンドへの思い入れは、人一倍持っているつもりだ。

思い入れは持っていながら、不満を感じている人たちは、ステレオサウンドに対して、
なんらかの方法で、意思表示をすべきである。

私のように、川崎先生の連載がないから買わない、というのも意思表示のひとつであるし、
ステレオサウンド編集部に対して、どう思っているのか、これからどうなってほしいのか、
きちんと伝えるべきであろう。

Date: 10月 13th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その28)

ステレオサウンドは、もう購入していない。川崎先生の連載「アナログとデジタルの狭間で」が、
わずか5回でなくなってしまったからだ。

川崎先生が、ふたたびステレオサウンドに書かれることは、もうないだろう。
だから、ステレオサウンドを買うことも、もう二度とない。

ステレオサウンドは、だから書店に手にとってパラッとめくるぐらいと、
あとは友人宅に遊びに行ったとき、そこにあれば、読むくらい。
それでも、ステレオサウンドを毎号買って読んでいる友人たちと、
ステレオサウンドについて話しても、特に困らないし、会話はきちんと成立する。
(でも、さすがに、今号の「海苔」だけはまったく気がつかなかった……。)

購読をやめたのは、川崎先生の連載がなくなったことに対する、私の意思表示である。

Date: 10月 13th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その27)

たとえば早瀬さんは、どうしても言いたいことがあって、
編集部に電話してきたことがきっかけである。25年前のことだ。

私は、編集部に、こんな企画をやってほしいという手紙を、
何通も送っていたのがきっかけで、28年前のことだ。

早瀬さんは、それで「ベストオーディオファイル訪問」に登場することになり、
井上先生の使いこなしの記事に、読者代表として、原本薫子さんとともに誌面に登場された。

私はというと、「面白いヤツがいる」ということで、編集部からある日、「遊びに来ませんか」という電話をもらい、
ほいほい出かけていったら、「働かない?」と誘われたわけだ。

早瀬さんも私も、ステレオサウンド編集部に、言いたいことがあった。
それを黙っていることができず、電話なり手紙で伝えたことで、ステレオサウンドと関わりをもつことになり、
早瀬さんと私も知り合うことになる。来年の6月で、知り合って25年になる。

私たちは、いわば意思表示をしたわけだ。

Date: 10月 8th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その26)

手塚治虫自身のルーツをさぐる作品のタイトルである「陽だまりの樹」は、
徳川幕府のことを比喩する言葉でもある。

「陽だまりの樹」は、陽だまりという、恵まれた環境でぬくぬくと大きく茂っていくうちに、
幹は白蟻によって蝕まれ、堂々とした見た目とは対照的に、中は、すでにぼろぼろの木のことである。

Date: 8月 29th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その25)

「寄らば大樹の陰」を、人の生き方は人それぞれだから、否定はしない。
ただ、その大樹が、「陽だまりの樹」ではないと、誰かが保証してくれるのか、
「陽だまりの樹」ではないと、誰がわかるのか。

Date: 8月 5th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その24)

「我々のあいだには、チームプレイなどという都合のよい言い訳は存在しない。
あるとすれば、スタンドプレイから生じるチームワークだけだ」
荒巻大輔の言葉だ。

荒巻大輔とは何者? と思われた方もいるだろう。
インターネットで検索してみると、すぐに出てくるので、ここでは書かない。

この言葉をきいたのは、ずいぶん前だし、そのときも感心したおぼえがある。
それを、いまごろ、ふと思い出したわけだ。
チームプレイとチームワークは似ているようでいて、違うものだ。

それに、結局のところ、スタンドプレイ(単独行動)のみしかないのかもしれない。
ならばチームワークを生むスタンドプレイと、生まないスタンドプレイの違いは、どこにあるのか。

「思いやり」が、そこにあるかないのか違いだと断言する。
「思いやり」のないスタンドプレイには、チームワークは存在し得ない。
そうはっきりと言える。

Date: 8月 5th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その23)

以前はどうだったのだろうか。
想像するしかないが、やはりステレオサウンドにおいて、五味先生の存在は精神的な支柱だったと思う。

それに、一昨日、黒田先生の「憧れが響く」を入力していて考えていたのは、「目的地」についてである。

プライベートにおいて、出されている音の「目的地」はひとりひとり違っていても、
オーディオ評論家として「目的地」は、直接、言葉に出されていないくても、
おそらく共通したものがあったようにも思えてならない。

だから、編集者が黒子でいても(いたからこそ)、うまく機能していったのだろう。
けれど、状況は大きく変化している、変化した。
だから、チームプレイが必要なのかもしれないと考えたわけだ。

だがそれも、精神的なリーダー不在ではうまく機能するとは、とうてい思えない。
では、どうすればいいのか。
ひとつ、思い出した言葉がある。

Date: 8月 5th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その22)

ステレオサウンドが創刊された当時は、人に恵まれていた。
五味康祐、岡 俊雄、岩崎千明、井上卓也、長島達夫、山中敬三、菅野沖彦、
瀬川冬樹、黒田恭一、上杉佳郎(生年順)……。

いまも活躍されているのは菅野先生ひとりになってしまった。
上杉先生も健在だが、オーディオ評論家としての活動は控えられているのではないだろうか。

あからさまに書いてしまえば、いまオーディオ誌に執筆されている方たちと、上記の方たちとでは、
力量も、経験量も違う、というしかない。

だからといってそれを嘆いていても仕方のないことで、「人がいない」というのは言い訳にすらならない。
少なくとも編集者が、これを言ってしまっては、終りである。

ひとりひとりの力が劣るのであれば、協力し合うことで、対処すればいいだけのはなしで、
1対1で勝てなければ、1対複数で向えばいい──、そんなふうに考えていた。

チームプレイがうまく機能するには、監督もしくはリーダーが必要だ、とも……。

こんなことを数ヵ月前までは考えていたし、このことを数人の方に話したこともあった。

Date: 8月 1st, 2009
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

オーディオにおけるジャーナリズム(その21)

先週発売になったMACPOWERに掲載されている川崎先生の「ラディカリズム 喜怒哀楽」のなかに、
『「予知」と「勘」』という言葉が、ある。

川崎和男の「予知」と「勘」とは、
エリック・ホッファーの「未来を予測する唯一の方法は、未来をつくる力を持つことである」──、
この言葉そのものであり、川崎先生には、その力があるからこそ、と思っている。

「未来をつくる力」こそ、本来、ジャーナリズムの核なのではなかろうか。

エリック・ホッファーは、こうも言っている。
「真の預言者とは未来を見通す人ではなく、現在を読み解き、その本性を明らかにする人である」と。

Date: 7月 30th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その20)

文章を書いている最中にも、こまかい判断を、いくつもしている。
文章を書こうというときには、もうすこし大きい判断をしている、といえようか。

それらの判断がすべて正しいわけでもないだろうが、判断なくしては書けない。
書き手がつねに心がけておくべきことは、小さなものであれ大きなものであれ、
判断は、つねに読み手に向ってなされるべきであること。

どちらを向いて、その判断を下したのか。
読み手に向っての判断であれば、その人が、私とまるっきり正反対の判断をされたとしても、
それは尊重するし、異は唱えない。けれども……。

Date: 6月 16th, 2009
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 黒田恭一

オーディオにおけるジャーナリズム(その19)

ステレオサウンド 38号で、黒田先生が、岩崎先生のリスニングルームを訪ねられたあと、
岩崎先生宛の手紙という形で、感想を書かれている。

タイトルは、アレグロ・コン・ブリオ。
そこに書かれている。
「大きな音で、しかも親しい方と一緒にきくことが多いといわれるのをきいて、岩崎さんのさびしがりやとしての横顔を見たように思いました。しかし、さびしがりやというと、どうしてもジメジメしがちですが、そうはならずに、人恋しさをさわやかに表明しているところが、岩崎さんのすてきなところです。きかせていただいた音に、そういう岩崎さんが、感じられました。さあ、ぼくと一緒に音楽をきこうよ──と、岩崎さんがならしてくださった音は、よびかけているように、きこえました。むろんそれは、さびしがりやの音といっただけでは不充分な、さびしさや人恋しさを知らん顔して背負った、大変に男らしい音と、ぼくには思えました。」

さびしさや人恋しさを知らん顔して背負った、大変に男らしい音──、
ここにも孤独があり、孤独を、岩崎先生は、ある意味、楽しまれていたのでは、と思えてくる。

そう思うのは、私のひとりよがりなのかもしれないが、
それでも、私の中では、一条の光とアレグロ・コン・ブリオ(輝きをもって速く)が、結びつく。

Date: 6月 15th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その18)

いまいちどスミ・ラジ・グラップの言葉を書いておこう。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」

いいかえれば、音楽は、「一条の光」である。
一条の光は、オーディオの存在によって、いつでも灯けられる。

真っ白の一条の光のときもあれば、やわらかい、ほのかな色をおびた一条の光も、
つよいまぶしいほどの一条の光も……、
鳴らすレコードによって、オーディオによって、いま鳴っている音によっても、
一条の光は幾重にも変化する、変化してゆくもの。

必要な一条の光も、その時々、その人の諸々の事情により異なるものだ。
だからレコードであり、だからオーディオなのである。

Date: 6月 14th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その17)

心の贅沢とは、孤独を楽しむことだ、と思う。

もちろんこれだけではないだろうし、いまはこう思っていても、
数年後ぐらいにはまったく違うことを思って書くかもしれない。

それでも、いまは、こう思っている。

Date: 6月 12th, 2009
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(その16)

贅肉にも同じ文字が使われていることからもわかるように、
贅沢という言葉だけでは、どうとでもとれる多面性がある。

物質的な贅沢、精神的な贅沢という表現があるように、文化的な贅沢、文明的な贅沢もあろう。
頭にどんな言葉がつくかによって、なんとなく、どういう贅沢なのかがぼんやりと浮かび上がってこよう。

よく「心の贅沢」という。たしかに贅沢のまえに「心」がついてる。単なる「贅沢」とはちがう。
だが贅沢にいろいろあるように、「心」こそ、さまざまだろう。

満ち足りた心もあれば、空虚な心もあろう。すさんだ心、かよわい心、つよい心、うつくしい心……、
心の前にどんな言葉がつくかによって、「心の贅沢」はまるっきり違う様相となる。

そして、精神的な贅沢、気持の上での贅沢ではなく、「心」の贅沢と言ってしまうことで、
含まれるものは、数を増す。

心の捉え方も、人によって微妙に異るのは当り前のことだ。
おまえはどうなんだ、と問われれば、はっきりとは答えられないが、
ここで書いたことを思っている。

だから、「心の贅沢」と言ってしまった瞬間に、
これを発した人の表現したものから、その人の心を、
受け手、読み手、聴き手は、無意識のうちに感じとっているところがあると思う。