Archive for category 書く

Date: 2月 5th, 2012
Cate: 書く

毎日書くということ(答えではなく……・その1)

以前書いたように、このブログは1万本書くまで毎日書いていこうと決めている。
そのためには、それに見合うだけのテーマが必要となり、
テーマの多くは、いわば問いであり、
本文に、その問いに対する答えにたどりつくまでの過程である。

昨夜までで2430本書いて、この2431本目を書こうとして気がついたことがある。
問いがあるから答えがある、問いがあるから答えを見つけられる、ということだ。

2008年9月に書き始めたわけだから、約3年半で2400本ということは、まだまだ書きつづけていくことになる。
このペースでいけば、あと約10年書いていくわけだが、
1万本に近づいたときに、究極の答え、最終的な答えにたどりつけるのか。
そのためには究極の問いを見つけることになる。

そのことは本末転倒なような気もするし、
じつのところ、答えよりも問いを見つけていくことが大事なことなのかもしれない、と思う。

究極の問いを見つけたとき、
その答えは見つけられるのか。もしかするとすでに見つけていたことに、そのとき気づくのだろうか。

Date: 12月 22nd, 2011
Cate: 書く

毎日書くということ(このブログとは)

毎日書くということ、について、何本か書いてきた。
そのときは、タイトルの通り、毎日書くという行為についての自問であり、その答えだった。
今日ふと思ったのは、そうやって毎日書くという行為による、
この、audio identity (designing)というブログそのものは、いったい私にとって何なのか、という自問だった。

わりとすぐに答えは返ってきた。
これは「墓」なんだ、と。

Date: 12月 14th, 2011
Cate: 書く

毎日書くということ(日本語の入力)

先週の木曜日、帰宅してメールをチェックしようとしたらネットに接続できなくなるというトラブルがあった。
このトラブルを解消するとともに、インターネットの契約を変更した。
そして、ようやく今夜から快適に接続できるようになった。

つまり8日から昨日(13日)のブログは、iPhoneから更新していた。
書くのを一週間ほど休むことも、少しだけ思ったけれど、3G回線とはいえ接続できる環境があり、
iPhoneのアプリとしてWordPressがある以上、一週間の辛抱だからと、毎日書くことにした。

とはいえ、Mac OS Xに親指シフトキーボードの組合せが、私にとってのブログ書きのためのツールであり、
iPhoneからの更新となると、親指シフトキーボードが欠けてしまう。
iPhoneでいきなり書き始めることも考えたが、結局、Macと親指シフトキーボードで書く。
それを見ながらiPhoneで入力することにした。

iPhoneでの日本語入力はフリック入力を使った。
指をスライドさせて文字を選んでいく。

キーボードはいうまでもなくキートップを指先で叩いていく。
押す行為である。
それに対してフリップ入力で、すでに親指シフトキーボードで入力した文章を見ていたら、
また違う言い回しに変えたくなった箇所がいくつか出てきた。
フリップ入力と親指シフトキーボード入力とでは、誇張抜きに10倍以上の時間の違いがあるのに、
そんなふうに書き換えていくところが出てくるものだから、さらに時間がかかった。

それでも指をスライドして文字を入力していく動作は、キーボード入力とはまだ違う感触があり、
その感触が、キーボード入力とは違う表現に結びついていっていたのかも、と思う。

これから先も親指シフトキーボードでブログを書いていく。
でも、時にはあえてフリック入力でのブログ書きもやっていくのも、いいかもしれない、といまは思っている。

Date: 9月 3rd, 2011
Cate: 書く

9月3日(2008年〜2011年)

このブログ、audio identity (designing)をはじめたのは、2008年9月3日。
まる3年が経過して、今日から4年目が始まる。

audio sharingをやってきて、このaudio identity (designing)を毎日書いてきて、いま感じているのは、
なにかを「預っている」という感じが、この1年ほどのあいだに徐々に強くなってきている、ということだ。

なにを「預っている」のか、それは具体的なかたちをもっているようでいて、そうでないところもあって、
実感が強くある一方で、稀薄さ、というよりも、はかなさに近いものを感じることもある。

とはいうものの「預っている」以上は、
それを活かし、生かしていくことを考えていかなければならない、と思っている。
そのことが「編集」である、とも思っている。

Date: 12月 29th, 2010
Cate: 書く

改めて、毎日書くということ

ブログは10日以上更新できないままだった。

毎日書いていて、長い時もあれば短い時もある。
けれど長い文章のときが必ずしも、そのために時間を多く必要とするわけでもなく、
短い時の方が、意外に時間を必要としたりする。

ブログを書かなければ時間が、その分浮く。
しかもいまは瀬川先生の「本」づくりの作業の真っ最中。
ブログを書かないだけ、その作業が捗ったかというと、そうじゃない。
むしろ滞っていた。ブログを書かない、書かなくてもいい、書こうとしても書きこめない、ということが、
なにか気合いを抜けさせるところがあって、はやく再開させねば、と思っていた。

なぜ書くのだろうか。

アウグスティヌスの有名なことばに、
私に誰も問わなければ、私は時間とは何かを知っている。
しかし時間とは何かを問われ、説明しようと欲すると、私は時間とは何かを知らない。
──がある。

「時間」をオーディオに置き換えてみる、音に置き換えてみる。
私に、誰かが問うているわけではない。

問いには、ことばで説明していくしかない。

「ことばが思考の着物ではなくて、思考の肉体であるとは、
私たちが思い、考える場合に概念と論理だけによるのではなく、
イメージと想像力にもよるのだ、ということである。」
──中村雄二郎氏のことばである。

Date: 6月 2nd, 2010
Cate: 書く

毎日書くということ(フルトヴェングラーのことばについて)

この項の最初に引用したフルトヴェングラーのことば。

「音楽は、案出されたり構築されたりしたものではなく、成長したもの、
いわば直接に『自然の手』から生まれ出たものである。この点において、音楽は女性に似通っている。」

ここでフルトヴェングラーがいいたかったことを、別の面から語ったのが、柳宗理氏のことばではないだろうか。

「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない。 デザインは意識活動である。しかし、自然に逆らった意識活動は醜くなる。なるたけ自然の摂理に従うという意識である。この意識はデザインする行為の中で、究極のところ無意識となる。この無意識に到達したところより美が始まる。」

Date: 4月 30th, 2010
Cate: 書く

続々続々・毎日書くということ

書くのにひどく苦労する日は、テーマはいくつもあっても、頭の中が空っぽなような気もする。

だが、である。

エリック・ホッファーは言っている。
「空っぽの頭は、実際は空ではない。ゴミで一杯になっているのだ。
空っぽの頭に何かを詰め込むのが難しいのは、このためである。」

頭の中が空っぽのように感じて、ひどく書くのが億劫なときも、ゴミが溜まっているのかもしれない。
種々なことが、誰にでもある。朝、家を出て夜、帰宅するまでのあいだに、
多い日もあれば少ない日もあるだろうが、頭の中にゴミが溜まりはしないのだろうか。

そういう日は、まずTwitterで、いくつかつぶやく。それから the Review (in the past) の入力をする。
とにかく指を動かす。指を動かすことで頭を刺激しているという作用もあるだろうが、
指を動かすことで、実は頭の中のゴミを掻き出しているのかもしれない。
だから、書き出せるようになる。最近そう思えてきた。

一日休めば、それだけゴミは溜まっていく。

Date: 3月 9th, 2010
Cate: 書く

続々続・毎日書くということ

テーマはいくつもあるのに、ときに書くのにひどく苦労する日がある。

なぜか、と思って振り返えれば、そういう日の多くは、書いては消し、をやっている。
文章が気に入らないから、消す。
なぜか、といえば、感情がこもっているから。

演奏や歌で、「感情をこめて!」と音楽の先生が、生徒に向って注意する、という、
映画や小説などで、よくありそうなシーンだが、
「感情をこめた」演奏や歌は、ほんとうに名演奏なのか──、聴く人の心を打つ、とは私は思っていない。

演奏家や歌手に求めたいのは「心をこめた」演奏なり歌である。

感情をこめているようでは、文章もダメである。
こめるのは「心」であり、私が「この人の書いたものはすべて読みたい」と思った人たち、
川崎先生、黒田先生、瀬川先生、そして五味先生の書かれる文章は、
その人ならではの「心」がこもっていた。

私は、まだ未熟だ。

Date: 2月 14th, 2010
Cate: 書く

続々・毎日書くということ

複数のテーマを並行して書いているから、書くことに困ることはない。
でも、指が動きを止めてしまう日は、どうしてもある。
書きたいことはあるのに、書き始めがうまくいかなかったり、
言葉が浮かんでこない日がある。

川崎先生は、毎日、ブログを書き続けることは「修業」だと書かれている。
自分を修練させるために「ことば」の世界に入る、と書かれている。

まだ、私はその域には達していないけど、そのとおりだと感じている。
毎日書くことは、努力ではなく、たしかに修業である、と。

そして、もうひとつ感じていることは、書くことによって、
自分自身をプログラミングしているような気もする。

Date: 1月 4th, 2010
Cate: 書く

続・毎日書くということ

毎日書くということと、毎日ブログを公開していくということは、同じことではない。

あるテーマについて書くとき、毎日少しずつ書いては公開していくやり方より、
一度に集中して、まとまった量を書きあげて、それを分割して日々公開していく方が、ずっと楽である。
書き溜めておけるし、毎日書かずにすむ。

いまのやり方をしていると、ときどき、「思わず」書いてしまうことがある。
それをそのまま公開して、話がどんどん逸れてしまい、本来のテーマに戻れるのか、と、
自分でも心配になることがある。

「思わず」書いてしまったことは、直後にはたいてい、書かなければよかったかも……、と思うこともある。
それでも、書き進めていくうちに、自分で書いておきながら思わぬ展開になり、
「思わず」書いたことが結果的にはよかったとも思うことがあるため、いまのやり方を続けている。

「思いつき」や「思いこみ」で書くことは、さけるべきである。
けれど、「思わず」という感覚は、意外に大切なものなのかもしれない。

Date: 9月 3rd, 2009
Cate: 書く

2年目

2008年9月3日の19時7分に、最初の記事を書いているから、今日から2年目に入った

毎日書いていても、達成感みたいなものは感じられないけれど、
今日はちょっとだけ、達成感らしきものを感じている。

Date: 12月 11th, 2008
Cate: 書く

毎日書くということ

「音楽は、案出されたり構築されたりしたものではなく、成長したもの、
いわば直接に『自然の手』から生まれ出たものである。この点において、音楽は女性に似通っている。」
そう、フルトヴェングラーは「音楽ノート」で語っている。

音楽を文章に置き換えても、そのまま通用する気がする。

「自然の手」がどういうものかについては語られていない。
前後の文章もない。これだけ、である。

それは人が生れたときから持っているものなのか、それとも身につけるものなのか……。
「自然の手」から文章を生み出せるようになるには、どうしたらいいのかはわからない。
それでも、書くことを、一日たりとも忘れてはならない。これだけは言える。