Archive for category 598のスピーカー

Date: 7月 23rd, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その5)

ステレオサウンド 56号で、瀬川先生はこう書かれている。
     *
 いまもしも、ふつうに音楽が好きで、レコードが好きで、好きなレコードが、程々の良い音で鳴ってくれればいい。というのであれば、ちょっと注意深くパーツを選び、組合わせれば、せいぜい二~三十万円で、十二分に美しい音が聴ける。最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる。たとえば、プレーヤーにパイオニアPL30L、カートリッジは(一例として)デンオンDL103D、アンプはサンスイAU-D607(Fのほうではない)、スピーカーはKEF303。これで、定価で計算しても288600円。この組合せで、きちんとセッティング・調整してごらんなさい。最近のオーディオ製品が、手頃な価格でいかに本格的な音を鳴らすかがわかる。
     *
KEFのModel 303は聴いたことがある。
サンスイのAU-D607も聴いたことがある。
デンオンのDL103Dも聴いている。

パイオニアのPL30Lは聴いたことはないが、
上級機のPL70LIIは聴いたことがある。

この組合せの音が想像できないわけではない。

それでも、KEFの303をAU-D607で鳴らした音は聴いていない。

《十二分に美しい音が聴ける》とある。
けれど56号は1980年に出たステレオサウンドである。
もう四十年ほど前のことである。

《十二分に美しい音》は、四十年前だからだったのか、
いまでも《十二分に美しい音が聴ける》のか。

なんともいえない。
それでもKEFのModel 303を手に入れてから、
瀬川先生にとっての、この時の《十二分に美しい音》を聴きたくなった、
というか出したくなった。

PL30L、DL103Dは、いまのところめどが立っていないが、
AU-D607は揃えられるようになった。

この組合せの中核である303とAU-D607は、なんとか揃う。

いま住んでいるところから、
喫茶茶会記のある四谷三丁目まで運ぶ手段がなんとかなったら、
audio wednesdayで鳴らす予定である。
(なんともならないだろうから、実現の可能性は低いけれど……)

Date: 4月 29th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その4)

サプリーム「瀬川冬樹追悼号」で、菅野先生は瀬川先生について、こうも書かれている。
     *
 よく音楽ファンとオーディオファンはちがうといわれるが、僕達は音楽の好きなオーディオファンだから、そういう言葉がぴんとこない。しかし、いろいろなオーディオファンと会ってみると、確かに、音楽不在のオーディオファンというのも少なくないようである。そして、多くの音楽ファンは、ほとんど、オーディオファンとは呼べない人達であることも確かである。音楽会へは行くけれどレコードは買わないという音楽ファン。レコードは大好きだが、それを再生する装置のほうにはあまり関心がないというレコードファン。レコードしか聴かないというレコードファンもいる。レコードを聴かないオーディオファンはいないだろうが、レコードで音楽を楽しまないオーディオファンは大勢いるようだ。どれもこれも、個人的な問題だから、とやかくいう筋合いではないと思うが、これは僕にとって大変興味深い人間の質の問題である。僕とオーム(注:瀬川先生のこと)は会うたびに、このことについて談笑したものである。そして、そこで得られた結論らしきものは、我々ふたりは音楽ファンであり、メカマニアであるという、ごく当り前のものだった。音楽が好きで、機械が好きだったら、自然にオーディオマニアになるわけだということになり、オーディオに関心のない音楽ファンやレコードファンという人達は、機械が好きでない人か、技術や機械にコンプレックスをもっている人達にちがいないということになった。そして、技術や機械に無関心だったり、コンプレックスをもってこれを嫌う人達は、お気の毒だが、現代文明人としては欠陥人間であるということに発展してしまった。そして、さらに、機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまったのである。ふたりとも、人のつくるモノが大好きで、芸術作品と同様に、技術製品を尊重した。道具の文化というものを大切に考え、そこにオーディオ文化論的な論議の根拠を置いたようでもある。現代のオーディオは、あまりにもモノ中心、いいかえれば商品中心になってしまっているが、それはモノがひとり歩きをしだした結果である。我々がいっているように、モノは人の表れという考え方からは、現代のようなマーケット現象は生れるはずがないと思うのだが……とよく彼は口をとがらしていた。
     *
《機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまった》
そういう人たちが、598戦争時代のスピーカーを手がけていたのかもしれない。

共通言語をもち得ないのだから、
どんなに瀬川先生がクラシックがまともに鳴るスピーカーを、といわれたところで、
それを期待するのは無理だったかもしれない。

《モノがひとり歩きをしだした結果》が、598戦争時代のスピーカーであり、
それをあおっていたのが長岡鉄男氏であり、
その時代、長岡鉄男氏と対極にいた瀬川先生不在の時代でもあった。

KEFのModel 303の音に、ひさしぶりに触れて、帰り途、そんなことをおもっていた。

Date: 4月 28th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その3)

ひとりのオーディオ評論家を過大評価しすぎ、といわれるであろう。
それでも、瀬川先生が生きておられたら、
598戦争なる消耗戦は起きなかった、と私は思っている。

単なる偶然なのだろうが、そうとは思えないのが、
1981年に瀬川先生が亡くなられたこと、
それから二、三年後にKEFの輸入元が日本から消えてしまった。
そして598戦争である。

瀬川先生が生きておられたら、
KEFの輸入は、どこか引き受けていたであろう。

瀬川先生が生きておられたら、
KEFのスピーカーシステムの展開も違っていたであろう。

303は303.2、303.3となっていった。
303と303.2の外観は同じだが、なぜだが303.3では一般的な外観になっている。
そのころのKEFは輸入元がなかったころであり、
303.3の音がどうだったのかは、知りようがない。

《ところがその点で近ごろとくにメーカー筋から反論される。最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんどなのだから、クラシック云々で判定されては困る、というのである》、
こんなことをステレオサウンドに書く瀬川先生を、
メーカーのスピーカーの担当者はどう思っていたのだろうか。

煙たい存在、小うるさい存在……、そんなふうに思っていた人もいたはずだ。
それでも、瀬川先生は厳しいことを日本のスピーカーメーカーの技術者に、
しつこいぐらいいい続けられていた──、と私は信じている。

《あの、わがままで勝手な人間のことだったから、ずいぶん誤解されたり、嫌われたりもしたらしい》、
菅野先生が、サプリームに書かれていた。
瀬川先生を嫌っていたメーカーがあったことは、聞いている。

Date: 4月 14th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その2)

KEFのModel 303は、ステレオサウンド 54号の特集
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」に登場している。

瀬川先生だけでなく、菅野先生黒田先生の評価もそうとうに高い。

《このランクのスピーカーとしては、ひときわぬきんでている》(黒田)、
《スケールこそ小さいが、立派に本物をイメージアップさせてくれるバランスと質感には、脱帽である》(菅野)、
《ポップスで腰くだけになるような古いイギリスのスピーカーの弱点は、303ではほとんど改善されている》(瀬川)、
三氏とも特選である。

菅野先生は
《このシステムを中高域に使って、低域を大型のもので補えば、相当なシステムが組み上げられるのではないかという可能性も想像させてくれた》
とまで書かれているし、
菅野先生と瀬川先生は55号の特集ベストバイで、ともにModel 303を、
スピーカーのMy Best3のひとつとして選ばれている。

瀬川先生は、そこでこう書かれている。
     *
 オーディオ機器の音質の判定に使うプログラムソースは、私の場合ディスクレコードがほとんどで、そしてクラシック中心である。むろんテストの際にはジャズやロックやその他のポップス、ニューミュージックや歌謡曲も参考に試聴するにしても、クラシックがまともに鳴らない製品は評価できない。
 ところがその点で近ごろとくにメーカー筋から反論される。最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんどなのだから、クラシック云々で判定されては困る、というのである。クラシックのレコードの売上げやクラシックの音楽会の客の入り具合をみるかぎり、私には若い人がクラシックを聴かないなどとはとうてい信じられないのだが、しかし、ともかく最近の国産のスピーカーのほとんどは、日本人一般に馴染みの深い歌謡曲、艶歌、そしてニューミュージックの人気歌手たちの、おもにTVを通じて聴き馴れた歌声のイメージに近い音で鳴らなくては売れないと、作る側がはっきり公言する例が増えている。加えて、繁華街の店頭で積み上げられて切替比較された時に、素人にもはっきりと聴き分けられるようなわかりやすい味つけがしてないと激しい競争に負けるという意識が、メーカーの側から抜けきっていない。
 そういう形で作られる音にはとても賛成できないから、スピーカーに関するかぎり、私はどうしても国産を避けて通ることが多くなる。いくらローコストでも、たとえばKEFの303のように、クラシックのまともに鳴るスピーカーが作れるという実例がある。あの徹底したローコスト設計を日本のメーカーがやれば、おそろしく安く、しかしまともな音のスピーカーが作れるはずだと思う。
 KEF303の音は全く何気ない。店頭でハッと人を惹きつけるショッキングな音も出ない。けれど手もとに置いて毎日音楽を聴いてみれば、なにもクラシックといわず、ロックも演歌も、ごくあたり前に楽しく聴かせてくれる。永いあいだ満足感が持続し、これを買って損をしたと思わせない。それがベストバイというものの基本的な条件で、店頭ではショッキングな音で驚かされても、家に持ち帰って毎日聴くと次第にボロを出すのでは、ベストバイどころではない。売ってしまえばそれまでよ、では消費者は困るのだ。
     *
メーカー筋からの反論。
《最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんど》、
ここでのローコストの価格帯とは、どのあたりを指すのか。

瀬川先生の文章を読むかぎり、
59,800円(一本)のスピーカーも、ここに含まれる。

Date: 4月 13th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その1)

別項「現代スピーカー考(余談・その2)」で、
とあるレコード店のスピーカー、KEFのModel 303について触れた。

今日久しぶりに、そのレコード店に入った。
同じ位置にModel 303は置いてある。
モーツァルトのピアノ協奏曲が鳴っていた。

ほどよい音量で鳴っていた。

瀬川先生はステレオサウンド 56号での組合せで、
《最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる》
と書かれている。
そのとおりの音で、モーツァルトが美しく鳴っていた。

1979年発売のスピーカーだから、ほぼ40年が経っている。
専用スタンドで設置されているModel 303には、
高価なスピーカーケーブルやアクセサリーが使われてはいない。
ごくごく一般的な置き方のまま鳴っている。

ほぼ40年、店主の好きな音楽を、ほぼ毎日鳴らしてきての、
今日、私が聴いた音なのだろう。

中古のModel 303は、誰がどんな鳴らしかたをしてきたのか、わからない。
どんな使われ方だったのかもわからない。
そんなModel 303に、私が今日聴いた音を期待しても無理というものだ。

Model 303は、一本59,000円(その後62,000円)の、イギリス製のスピーカーだ。
海を渡っての、この価格ということは、イギリスでは普及クラスのスピーカーだったのだろう。

598戦争が始る、ほんの数年前に、同価格帯にModel 303が存在していた。
そのことを、今日、その音を聴いて思い出していた。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その37)

598のスピーカーについて、ここまで書いてきて考えているのは、
なぜ598だったか、である。

698でもなく、498でもなく、598(一本59,800円)のスピーカーが、
これほどメーカーがコストパフォーマンスを競うようになったのか。

それを煽ったのは、長岡鉄男氏であり、
598のスピーカーにおける異常な物量投入の最初はオンキョーのスピーカーだったことは確かだ。

とはいえ、どのメーカーもこれほど598に集中しすぎたのか。

ステレオサウンド 44号(1977年)の新製品紹介の記事で、
井上先生と山中先生が語られていることが、いま読み返してみると、ひじょうに興味深い。
     *
井上 海外製品を含めて、いわゆる名器とか高級スピーカーといわれているものは、「好み」という次元でいえば得てして幅の狭いものではないかと思いますね。むしろ五、六万円のスピーカーの方がいろいな人の「好み」を満足させることができる。より「一般的な音」を持っているのではないかと思うんです。大型になってくるとそんなにオールマイティというわけにはいかなくなる。「いいスピーカーシステムなんだけれども」ということを前提にして、一人一人の人がそれでは自分に応わしいかどうかを聴くことが本来の趣味になってくると思います。それをはっきり認識する必要があります。
山中 趣味っていうのはみんなそうですね。非常に多様なものがあって、その中で自分に合った対応の仕方がいろいろできるというのでないと、また趣味にはならないでしょうね。
     *
この発言から数年後に、598戦争といわれるものが始まり、
十年後の1987年にはたいへんなことになっていた。

「一般的な音」を持っていたであろう、この価格帯のスピーカーの音は、
よほど鳴らしこなしの腕がないと、ひどくアンバランスに鳴りがちで、
とても「一般的な音」からはある意味遠ざかったにも関らず、
数は売れていただけに、その音が「一般的な音」と受け止められていくようにもなっていった。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その19)

長岡鉄男氏の信者と長岡教の信者とを、完全に同じと捉えるのは危険である。

日本にも世界にも、演奏家の名前のあとに協会とつく組織はいくつもある。
フルトヴェングラー協会とかワルター協会とか、である。

ずっと以前ある人がいっていた、
日本では協会がいつのまにか教会になってしまうところがあるから、
ぼくはそれがいやだから、どこの協会にも入らないんだ、と。

そういう傾向は、日本のクラシックの聴き手においては特に強いのかもしれない。
そんな感じがしていたから、その人の言葉に頷いていた。

教会は建造物でもあるが、
協会とともに教会は、ひとつのシステムでもある。

長岡教も、システムといえる。
長岡鉄男氏というオーディオ評論家を中心(教祖)とする組織(システム)である。

ただ、そのシステムが、長岡鉄男氏が自らすすんで組織したものか、
それとも周りの、長岡鉄男氏の信者たちが集まってつくりあげたものなのかは、
くわしいことは私は知らない。どちらなのだろうか。

長岡鉄男氏は、1987年に「方舟」と名付けられたリスニングルームを建てられている。
この方舟は、長岡教の信者にとっては、いわば「教会」として機能していたはずだ。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その18)

話はそれてしまうが、信者ということで思い出したことがある。
2001年だったか、audio sharingを公開して一年ほど経ったころにメールがあった。

メールには、なぜ高城重躬氏の文章を公開しないのか、とあった。
その理由を返信した。
すぐさま返信があった。

怒りのメールであった。
けしからん、とあった。

メールの主は、audio sharingをオーディオ協会がやっているものと勘違いされていた。
そして、高城重躬氏はHi-Fiの神様なのだから……、とつづられていた。

高城重躬氏の信者だったのだろう。
そう思ったけれど、高城教の信者、とは思わなかった。

高城重躬氏の信者ということでは、五味先生も一時期そうだった、といえる。
     *
 あれは、昭和三十一年だったから今から十七年前になるが、当時、ハイ・ファイに関しては何事にもあれ、高城重躬氏を私は神様のように信奉し、高城先生のおっしゃることなら無条件に信じていた。理由はかんたんである。高城邸で鳴っていたでかいコンクリートホーンのそれにまさる音を、私は聴いたことがなかったからだ。経済的に余裕が有てるようになって、これまでにも述べたように、私も高城邸のような音で聴きたいとおもい(出来るなら高城邸以上のをと、欲ばり)同じようなコンクリートホーンを造った。設計は高城先生にお願いした(リスニング・ルームの防音装置に関しても)。
(「オーディオ愛好家の五条件」より)
     *
五味先生と高城重躬氏の関係のその後のことについては、ここでは書かない。

Date: 11月 1st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その17)

facebookで、五味康祐氏の信者を自認している人がいる、というコメントがあった。
それはそうだろう、と思う。

私は(その16)で、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない、と書いた。

五味先生の信者を自認している人は、どういう人なのかは知らない。
けれど、五味教の信者を自認しているわけではないはず、と思う。

五味先生の信者なのか、五味教の信者なのか、
五味先生に関心のない人にとっては、どちらも同じじゃないか、となるかもしれないが、
「教」がつくかつかないかは、無視できない違いである。

長岡鉄男氏の熱心な読者のすべてが、長岡教の信者なわけではないはずだ。
熱心な読者もいれば、長岡鉄男氏の信者の人もいるだろうし、
長岡教の信者もいる。

私にしても、傍からみれば、五味先生の信者じゃないか、と思われているかもしれない。
五味先生の書かれていることを、一から十まですべて盲目的に信じるのが信者であろう。
別項「耳の記憶の集積こそが……」で書いているように、
くり返しくり返し読むことで(その音を聴くことは叶わないから)、
五味先生の耳の記憶を継承しようとしている。

Date: 10月 31st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その16)

ステレオサウンドの創刊が1966年。
ここをオーディオ雑誌の始まりとして、
51年間に多くの人がオーディオ雑誌に文章を書いてきている。

いったい何人になるのかはわからない。
多くの人が書いてきた、としかいえない。

その中で、○○教といわれているのは、長岡鉄男氏だけではないだろうか。
長岡鉄男氏が教祖で、その読者が信者である。

長岡教の信者が、教祖様の文章を読む以上に、
私は、他の人の文章を読んできた、といえる。

けれど、○○教の信者だとは思っていない。
五味先生の文章をそれこそ熱心に読んできたわけだが、
五味教なんてものはないし、五味教の信者とも思っていない。

五味先生を教祖だとおもったことは一度もない。
五味先生だけではない。

瀬川先生の文章も、熱心に読んできた。
けれど瀬川教はないし、瀬川教の信者でもない。

同じことは他の人にもいえる。
これは私だけのことではないはずだ。

五味先生の文章を熱心に読んできた人は、
私より上の世代には多くいる。

その人たちが五味教の信者かというと、そうではないはずだ。

長岡鉄男氏だけが教祖と呼ばれている。
その熱心な読者は、自身のことを長岡教の信者ともいう。

Date: 10月 21st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その15)

長岡鉄男氏がオーディオ評論をはじめる以前は、
放送作家だったことは、よく知られている。

長岡鉄男氏が手がけられた番組がどういうものであったのか、
放送作家としての長岡鉄男氏の評価はどうであったのかは直接は知らない。

中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」の中に、
オーディオ評論家ではない長岡鉄男氏についての記述がある。
     *
 成城の我が家の書斎──四畳半の腰掛け式コタツのある、我が家では音だし機械が置いてない唯一の部屋──の小さな本箱には、長岡鉄男さんの著書が何冊か並んでいる。オーディオの本ではない。奇智、頓智、隠し芸に関する新書判である。二十年前、長岡さんはラジオ、テレビのコミック・ライターであった。天才的、としか評しようのない創造力で幾つかの人気番組を作り上げておられたが、同時にコミックな本も次々にものされ、その方面でも人気作家のひとりであった。その頃、新しい本が出版されるたびに、長岡さんは献呈の辞を添えて私に贈って下さった。当時の宴会における私の隠し芸の種本は、ほとんど長岡さんの作であった。人気が出ないわけはないではないか。
     *
才能ある放送作家だったのだと思う。
その才能がオーディオマニア(キチガイでない)に向けられたからこそ、
長岡教と呼ばれる、ある種の集団が生れたのではないだろうか。

Date: 10月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その14)

長岡鉄男というオーディオ評論家は、どのタイプなのか。
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)だと私は思っている。

だからこそ、あれだけ多くの読者からの支持があったのだと思っている。
長岡鉄男氏のうまいところは、
オーディオマニア(キチガイでない)を相手に、
オーディオマニア(キチガイ)と思い込ませることにあったのではないだろうか。

オーディオメーカーにとってありがたいのは、
長岡鉄男氏のようなオーディオ評論家であったはずだ。

オーディオマニア(キチガイでない)がオーディオマニア(キチガイ)と思い込むことで、
オーディオにお金を注ぎ込む。
メーカーにとってありがたい存在(客)を、長岡鉄男氏はその文章でつくってきた。

その10)で引用した五味先生の文章。
その中に出てくる、あるステレオ・メーカーの音響技術所長の
「キチガイ相手にショーバイはできませんよ」、これこそがメーカーの本音であり、
オーディオブームはオーディオマニア(キチガイでない)によって支えられていた、ともいえるし、
ブームのためには、オーディオマニア(キチガイでない)を、
オーディオマニア(キチガイ)だと思い込ませることだったのではないか。

Date: 7月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その13)

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)がいる。

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)はいない。

ここでいうキチガイとキチガイでないをわけるのは、
決定的にわけるのは想像力である。

想像力だけではないが、想像力の欠如はキチガイとはならない。
想像力がある人すべてがオーディオマニア(キチガイ)になるわけではない、
オーディオマニア(キチガイでない)の人もいるが、
想像力の欠如では、オーディオマニア(キチガイ)にはなれない。

Date: 7月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その12)

オーディオマニアとは、はっきりといおう、キチガイである。
キチガイは気違いと書く。

気が、ふつうの人と違うわけだ。
そういう人がオーディオをやっている。
その人たちのことをオーディオマニアという。
私は、そういう認識でいる。

世の中に、オーディオマニアと自称する人は、
いまどのくらいいるのか。

マニアという言葉が嫌いで、
オーディオファン、オーディオファイル、レコード演奏家と自称する人もいる。
そういう人もひっくるめて、ここではオーディオマニアとしているわけだが、
真の意味でオーディオマニア(キチガイ)といえる人は、そう多くはない、と感じている。

オーディオマニアを自称している人が、キチガイなのかどうかは、わかりにくい。
高価なオーディオ機器を揃えていたり、
珍しいオーディオ機器を持っていたり、
レコードのコレクションも見事だったり、
人がうらやむようなリスニングルームも持っていたりしている人が、
オーディオマニア(キチガイ)とは限らない。
限らないから、わかりにくい。

オーディオマニア(キチガイ)とオーディオマニア(キチガイでない)とがいる。
オーディオを始めてから40年以上。
ここ十年くらい、意外に、というか、当然というべきか、
オーディオマニア(キチガイ)は少ない、と感じている。
そうとうに少ないように感じている。

同じことは、そのままオーディオ評論家にいえる。
オーディオ評論家(キチガイ)とオーディオ評論家(キチガイでない)とがいる。

長岡鉄男氏は、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)である。

Date: 6月 13th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その11)

「五味オーディオ教室」には、音キチという表現が出てくる。
音キチの「キチ」とは、キチガイの略である。

「五味オーディオ教室」が出た1976年は、
ぎりぎり音キチという言葉が使われていた。

音キチは、ある意味蔑称でもある。
音ばかりに夢中になって、肝心の音楽を聴いていない──、
そんな意味も含まれて使われることがあるからだ。

けれど、私は音キチといわれようと気にはしない。

よく音(オーディオ)に関心のない人の中には、
「まず音楽ありき、でしょ、オーディオありきではないでしょ」、
こんなことをいう。

いちいち反論するのもイヤになるくらいに聞き飽きた。
だが、いいたい。
音楽ありきの前に、音ありき、である、と。

「まず音楽ありき、でしょ、オーディオありきではないでしょ」という人の多くは、
音とオーディオをまったく同一視している。

そうでないことをいちいち説明したところで、わからない人はわからない。
オーディオに関心がなくとも、わかる人はわかる。
そういうものである。

まず音ありき、なのだ。
だからこその音キチである。