Archive for category 広告

Date: 1月 23rd, 2014
Cate: 広告

広告の変遷(を見ていく・その1)

広告は興味深い。
ことオーディオの広告だけに話を絞っても、まとめて大量の広告を見ていくと、
それらの広告が掲載されていたオーディオ雑誌を発売時に買って読んでいたときには、
気がつかなかったことが目に入ることもある。

その意味で、広告は資料としての価値も高い。

私のもうひとつのブログ、the Review (in the past)は、基本的に文章だけである。

ここで公開しているオーディオ機器の多くを、
型番を見ただけで、どういうモノたったのかを思い出せる人にとっては、これだけでも充分だろうが、
そうでない人も大勢いる。

思い出せる人にとっても、写真やスペック、価格があれば、もっと鮮明に当時のことを思い出せるし、
それだけ資料的価値も増してくる。
それはわかっていたけれど、ただオーディオ機器の写真をスキャンして、スペックをまとめるのは、
必要なことではあっても作業としては面白くなく、ただしんどいだけである。

しんどいのはかまわないけれど、それだけだと長続きしないはわかっている。
もう少し違ったことがやれないだろうかと思っていた。

一昨年ある人からスイングジャーナルをほぼ10年分いただいた。
他のオーディオ雑誌もスイングジャーナルほどではないけれど一緒にはいっていた。

最初はスイングジャーナルに掲載されたレコード会社の広告をなんとか残せないものかと考えた。
とりあえず一冊スキャンしてみよう、ということで、スイングジャーナルをばらしていった。

Date: 5月 27th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(ソニーのこと・その3)

今日、一冊の本がゆうパックで届いた。
金曜日の夜おそく、日本の古本屋というサイトを通して注文した本である。

1975年に出た本で、「ヴァイオリン」という。著者は無量塔藏六(むらたぞうろく)氏。
岩波新書(青版)921である。
すでに絶版になっている。

この本を知ったのも、ソニーのSS-G7の広告である。
中島平太郎氏が椅子に腰かけている写真とともに中島氏による文章が載っている。
このパターンで、SS-G7の広告はいくつかある。
それだけこのころのソニーにとってSS-G7の存在は、自信作であり大きかったのだろう。
私が見た、そのうちのひとつに「ヴァイオリン」のことが書かれてあった。

そういえば、この広告、読んだ記憶がある。
本が紹介されていたことだけはなんとなく憶えていて、
当時、読もうと思っていたのに、いつしか忘れてしまっていた。

もうずいぶん忘れていたわけだ。
それを金曜日に、ある作業をしていて、偶然、SS-G7の、その広告を見つけ注文した次第である。

あの頃の広告には、ときどきではあったけれど、こんなふうに本やレコードについて書かれていることもあった。
例えばパイオニアのExclusiveの広告で、
ガーシュインの自演ピアノロールによるラプソディ・イン・ブルーのレコードのこともを知った。

マゼールとクリーヴランド管弦楽団による、この録音は1976年に行われている。
ガーシュインは1937年に世を去っているから、残されたピアノロールとの共演による。

広告で自社製品の良さをアピールするのは当然であっても、
こんなふうに本やレコードもいっしょに紹介されていると、ずいぶん印象も変るし、
なにより記憶に残る。少なくとも私はそうだ。

Date: 4月 19th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(ソニーのこと・その2)

そのSS-G7の広告に載っていた文章である。
     *
 わが家の応接間にG7を持ち込んだ。聴取条件の定石は少しく無視したが、調度品との関連や低音のでかたを考え、一間はばのサイドボードの両側に設置することとした。このサイドボードは、机や小物箱とともに三越製作所で多少奮発して購い求めたもので、気が向けばぬか袋で拭いて大切にしている。同じ丁寧さで、新たに横に並べたG7の天板や側版も拭いている。しかし拭くたびに思うことは、しっとりした色合いとつやのでかたはサイドボードの方が上であり、見比べると、G7は仕上げが少しお粗末な感じがする。
 スピーカーはよい音がだすのが身上であるから、外観、それも側版のつやまで考える必要はなかいと言えばそれまでだが、一台十万円以上のスピーカーであってみれば、時には丁寧に拭いてみたい気を起こすようなものであってもいいのではないか、と自問自答してみた。そして木材の質や仕上げを変えたら、値段も多少よいが、音もさらによいG7デラックス版ができ上るのではないかと考えた。
それで、上家具に用いられる、キャビネット材としても好適なサクラやナラを素材として、同じ寸法でシステムを組んでみたが、G7にみるバランスのよい音はえられなかった。また板の厚みや補強の方法を変えてみたが、やはり大同小異であった。いろいろの試みから分かったことは、納得できる音質をうるには、キャビネットをいじるだけではだめで、それとスピーカーユニットのうまいとり合わせが必要のようである。そういう目でG7を改めて眺め直してみると、それらのマッチングが実にうまくとれていることが分かった。あるときうちの技術者に「限られた時日に数階の試作でここまでまとめ上げた努力は多とするが、それは多分に僥倖であったと思う。」といったら、そんなことはないと目をむいておこられた。
 いうまでもなく、いかに堅い材料を用い、うまく補強を施しても、キャビネット自体は振動板の振動に応じて振動する。それからでる音の大きさは、振動板からの音の十分の一にもみたないが、音の残り方、音のひびき方はその十倍にも達する。このひびきがスピーカーの音質形成に大きな役割をもっており、このひびきをユニットの音にいかにうまく整合し、添加するかが、音作りの要諦である。音づくりに技術や経験をベースにするのは勿論であるが、ときとしてその上に勘や飛躍が必要なのも、うなずけることである。
     *
中島平太郎氏が書かれている。
このSS-G7の広告をみて、ソニーとはこういう会社なのだ、とおもっていた。
ここでの、こういう会社、というのは、いい意味での「こういう会社」である。

この広告から30年以上が経った。
さまざまなことがらが変っていき、ソニーもずいぶん変ったようにみえる。

もうSS-G7を見かけることもなくなった。
最後にSS-G7を見たのはいつの日だったのか、それさえも思い出せないほどずっとみていない。

でも、この広告とともにSS-G7を、私は忘れることはないであろう。

Date: 4月 19th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(ソニーのこと・その1)

ソニーのスピーカーシステムSS-G7の登場と、私がオーディオに関心をもち始めたころとは近い。
それまでのソニーのスピーカーシステムとはまったく印象の異った、
堂々とした感じさえ受ける外観のSS-G7を見て、欲しいと思ったことは一度もないけれど、
不思議と印象に残り続けているスピーカーシステムである。

自分のモノにしたいという気持はいまも持っていないが、
でも機会があれば、いい状態のSS-G7を聴いてみたい、ではなく、
自分の手で鳴らしてみたい、とはおもっている。

ソニーのスピーカーシステムで、そんなふうにおもうのは、
私の場合、SS-G7の他はAPM8だけである。

そんなふうにおもい続けているのは、
当時のソニーの広告もいくらかは影響している、と思う。

その広告とは中島平太郎氏が、木製の椅子に腰かけている。
スタジオでの撮影だから背景には何もない。
手にはティーカップ。
中島氏は、すこし斜め下をみている。
ティーカップをみているわけではない。
視線の先にあるのは、一台のSS-G7。

この写真が見開きで載っていた。

いままでいくつものソニーのオーディオ機器の広告をみてきているけれど、
この広告ほど印象に残っているものはない。

Date: 3月 21st, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その6)

人はさまざまである。
私には無理なことでも、たやすくできる人がいる。
だから、オーディオ評論家として書くときと、
広告の紹介文を書くときとで、完全に割り切って文章を書くことができる人もいよう。

そんなふうにはっきりと自分を分けられる人だとして、
その人が書いたオーディオ評論の文章を信じられるかというと、私は逆にできない。

なぜなら、そんなふうに完全に割り切って書ける人に、
オーディオの、音楽のもつ、ほんとうに大切なところが理解できているとは、私には思えないからだ。

音楽の機微、音の機微を、そんなふうに割り切れる人がどう感じているのか、
それをまったく想像できない。

想像できない以上、私にとってその人の書いた文章はまったく信用できないことになる。

私とまったく正反対に、このことを受けとめる方もいるかもしれない。
そういう人だから、その人の書いたものは信用できる、と。

これもまた人それぞれだから、私がとやかくいうことではない。
ただ、もう一度書いておくが、
私は、そんな人たちの書いた文章は信用していない。

Date: 3月 19th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その5)

私がその人たちに直接問わなくても、
オーディオ界には、本人にそのことについて問うたり、忠告をした人がいることはきいている。

あまり具体的なことを書くと、特定されそうだからぼかして書くことになるが、
そのときの、その人たちの返事はつぎのようなものだったそうだ。

オーディオ評論家として自分と、
広告の紹介文を書く自分とははっきり分けている。
だから広告の仕事をした国内メーカー、輸入代理店の製品を紹介するときも、
オーディオ評論家として恥ずべきことは何もない。

そういうことなのだそうだ。
いともたやすく、人はふたつの面を分けられるのだろうか。

ふたつがまったく別の仕事だったら、それも可能だろう。
業種が違い、業界が違う。仕事内容もまた違うのならば。

けれど、この場合は、どちらもオーディオ業界での仕事であり、
どちらも物書きという仕事である。

Date: 3月 18th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その4)

オーディオメーカー、輸入代理店の広告にオーディオ評論家が登場することを、
どう思うのかは、人によって異っているだろう。

私は、というと、その広告が面白いならば、結構なことだと思っている。
なにしろ名前を出して、ときには顔写真も載せて、広告に出るということは、
そこで登場しているオーディオ機器、そのブランドを高く評価しているからであり、
そこにギャラが発生しているとはいえ、
まったく評価していないオーディオ機器、ブランドの広告に登場する人は、ほとんどいないはず。

それに、オーディオ評論家が登場する広告から、
そのオーディオ評論家の素顔に近い面も見ることができることだってある。
それもあって、私は、あの時代の広告は面白く、興味深いものと捉えている。

そんな私だけど、問題にしたいことがある。
それは広告の紹介文をオーディオ評論家が書いていることである。
もちろん、その紹介文を名乗っているのであれば、なんら問題とはしない。
けれど、すくなくとも1980年代から、私の知るかぎり割と最近まで、そういうことが続いていた。

オーディオ評論家の方すべてがそういうことをしているわけではない。
依頼があっても、そういうことはオーディオ評論家がやるべきことではない、とことわっている方を知っている。

だが中には、たやすく仕事として引き受けているオーディオ評論家(と呼べるのだろうか)が、
数人いる。
どの人が、どこの広告の紹介文を書いていたのかは、1990年代あたりまでは知っている。
それについて、こまかなことは書かないけれど、
この人たちは、恥を知っているのだろうか、と問いたい。

Date: 3月 17th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その3)

ずっと以前、オーディオの広告は、読み物でもあった。
それがいつしか文字が少なくなり、いまでは見るものへとなってしまったのが大半である。

どちらの広告が優れているとかではなく、広告の形態もずいぶん変化してきていることを改めて実感する。

ステレオサウンドの1970年代から80年代にかけての広告も読み物としての面白いものがあった。
私としてはステレオサウンドで育ってきたから、
ステレオサウンドを贔屓にしたい気持は人一倍強いけれど、
読み物としての広告ということに関しては、
1970年代のスイングジャーナルに掲載されたオーディオの広告のほうが読みごたえがある、と認めざるをえない。

とくに毎月出版されるスイングジャーナル本誌よりも、
別冊として出ていたモダン・ジャズ読本での国産メーカーの広告のいくつかは、
よくこれだけの広告(というよりもメーカーがページを買い取ってつくった記事)を出していたな、と感心する。

モダン・ジャズ読本のためだけにつくった広告である。
これらの広告にもオーディオ評論家が登場されている。

これらの広告がどういうふうにつくられていったのか、その詳細については何も知らない。
メーカーの広告の担当者が、オーディオ評論家との打合せを行いつくっていったのか、
それともどこかの編集プロダクションにまかせていたのか、
そのへんのことはわからないけれど、それらの広告は、広告であるわけだが、
広告で終ってしまっているわけではなく、そういうところに時代のもつ熱気を感じるといえないだろうか。

Date: 3月 16th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その2)

1970年代の広告の特徴といえるのは、
評論家が広告に登場していたことが、ひとつあげられる。

このころはオーディオ雑誌にもレコード会社の広告がわりと掲載されていた。
レコード雑誌に載るレコード会社の広告もそうであったのだが、
そのレコードにおさめられている演奏を高く評価する音楽評論家、
そのレコードの音質を高く評価するオーディオ評論家の推薦文といえる、短い文章があった。

これだけの評論家に高く評価されているレコードであることを前面に打ち出していた。
そういうレコード会社の広告に較べると、
オーディオ関係の広告でそういった構成のものはどちらかといえば少なめであったけれど、
1970年代には、それでも目につくほど多かった、ともいえる。

有名なところではサンスイの「私とジム・ラン」という広告があった。
JBLのスピーカーを使われているオーディオ評論家が左ページ一面にリスニングルームでの写真が載り、
右ページには「私とジム・ラン」というタイトルの文章が載っていた。
岩崎先生、瀬川先生、菅野先生らが登場されていたし、
古いマニアの方ならご存知なことだが、当時はパラゴンを鳴らされていた江川三郎氏も登場されている。

このサンスイによる「私とジム・ラン」は広告には違いないけれど、
読者からすれば、記事として読める。
ページをただ埋めるためだけの記事なんかよりも、ずっと読み物として面白い記事ともいえる広告であった。

こういう広告を毎号入れられたとなると、編集者も気合がはいってくるのではなかろうか。
広告が、時に記事を挑発する時代が以前はあった。

Date: 3月 15th, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その1)

オーディオ雑誌には、記事と広告がある。
広告のまったく載らないオーディオ雑誌は、いまのところない。

その広告を必要悪だと捉えている人もいる。
雑誌は広告がある程度のページ数掲載されることによって、
その分だけの広告収入があるからこそ、雑誌の値段は抑えられている。
広告がまたく入らずに雑誌をつくれば、いまのような価格では到底無理になるから、
広告は必要悪だ、という考え方である。

たしかに広告の存在が雑誌の値段をある程度抑えているのは事実である。
でも必要悪ではない、と私は思っている。

ごく一部の広告は、必要悪という意味をこえて、
なぜ、こんな広告を、このオーディオ雑誌は載せるのだろうか、と、
その出版社の広告営業部の見識を疑いたくなることがないわけではないが、
それでも良質の広告は、雑誌にとって必要なものである。

広告を必要悪、さらに値段は高くなってもいいから広告なんていらない、とまで考えている人にとっては、
オーディオ的に表現すれば、記事は信号(情報量)であり、広告はノイズということになろう。
雑誌における記事と広告の比率は、つまりS/N比ということになる。

広告の占める割合が多くなれば、それはノイズが増えることであり、S/N比は低下する。
広告が少なくなればなるほどS/N比は高くなっていく。

こんな捉え方もできるわけなのだが、
果して広告は雑誌においてのノイズなのだろうか。