オーディオにおけるジャーナリズム(続・再生音とは……)
再生音とは……を徹底的に議論せずに、音を語るということは、
「群盲像を撫ず」に陥ってしまうのではないだろうか。
再生音とは……を徹底的に議論せずに、音を語るということは、
「群盲像を撫ず」に陥ってしまうのではないだろうか。
KK塾で、人工知能の話が出た。
人工知能は不可能だ、と川崎先生が話された。
そうかもしれない、と思いながら聞いていたし、
でもまったく不可能というわけでもないかも……、そんなことも思っていた。
もしかすると人工知能が誕生するかもしれない。
真に人工知能と呼べるものが誕生したとしても、
それを搭載したロボットが登場してきたとしても、
そこにないのは、魂なんだろうな、とも聞きながら考えていた。
人工生命体をつくれても、そこに魂はあるのだろうか。
では、魂とは何なのか。
ここで行き詰まるわけだが、
再生音には、時として、その人の魂みたいなものを感じることがないわけではない。
どんな再生音にも、それがあるといわない。
だが、真剣に鳴らし込まれた結果の再生音には、何かがある。
スピーカーから鳴ってくる音すべてが再生音ではない、ということ。
この当り前のことを、つい忘れがちになるのではないか。
スピーカーからは鳴ってくる音の中には、ライヴで使われる拡声器としての音もある。
これは再生音ではない。
再生音とは、あくまでも何かにいったん記録(録音)されたものを、
もう一度音に戻したものである。
これまであれこれ考えてきた、これからも考えていく。
それはスピーカーから鳴ってくる音が再生音だから、である。
残像とは視覚的なことである。
聴覚的なことだと残響か。
けれどどちらも聴覚的なこととして捉えれば、
残像は音像、残響は音響との対比で語れるのではないだろうか、と思えてくる。
となると音がつく言葉には音場があり、これは残場となるのか。
残場(ざんじょう)、けっしていい読みではないけれど、
音像・音場・音響、
残像・残場・残響、
再生音とはそういうことではないのか、という予感がしてくる。
間違っているかもしれない。
そうだとしても、残像・残場・残響についてしばらく考えてみたいと思っている。
考えることで、間違っていたとしても何が間違っていたのかははっきりしてくるだろうから。
ビクターの実験、高城重躬氏の取組み。
このふたつに共通しているのは録音の場としての空間と、
再生の場としての空間がまったく同じである、ということ。
そして、そこに楽器が存在していることにある。
別項「オーディオマニアとして(その12)」でも書いたように、
高城氏の取組みがある成果を得ることができたのは、
そこに常にスタインウェイのグランドピアノが置かれていたことは無視できない。
同じようにビクターの実験では、そこに楽器があったことは、音にどう影響していたのだろうか。
高城氏のリスニングルームの容積に対するスタインウェイのピアノの占める比率と、
1600人が入るコンサートホールの容積に対する、
ステージ上の50人の奏者が手にしている楽器の閉める比率は、ぐんと小さくなる。
とはいえ、レコードの再生音を鳴らしていたスピーカーは、
楽器のある同じステージに設置されていたのだから、まったく音の影響がなかったとは考えにくい。
このことの音への影響がどの程度なのかを、
同じようにすり替え実験で行うことは難しい。
とにかく録音・再生の空間が同じであれば、
生演奏と録音されたものの再生の区別は難しいといえるわけだが、
ここでひとつの疑問がわく。
ビクターの実験ではレコードが使われた。
生演奏のオーケストラは服部克久指揮日本フィルハーモニー。
詳細は不明だが、ここでかけられたレコードも服部克久指揮日本フィルハーモニーの演奏と思われる。
もしもである、曲目は同じでも、レコードがカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーの演奏だったら、
カラヤンでなくともいい、別の指揮者で別のオーケストラによる演奏だったら、
生演奏とのすり替え実験は成功したのか成功しなかったのか、という疑問である。
ステレオサウンド 31号から34号にかけて、岡原勝氏と瀬川先生による記事が載っている。
31号のタイトルは「音は耳に聴こえるから音……」
32号は「みんなほんとうのステレオを聴いているのだろうか?」
33号は「スピーカーは置き方次第でなぜこんなに音がかわるのだろう……」
34号は「壁がひとつふえると音圧はほんとうに6dBあがるのだろうか?」
となっている。
34号の最後に、生演奏とのすり替え実験のことが話題になっている。
ここで語られている生演奏とのすり替え実験は、ビクターのそれであり、
岡原氏も瀬川先生も、だまされた経験がある、と語られていることは(その1)でも書いた通り。
すこし長くなるが引用しておこう。
*
瀬川 いつまでたっても、ナマと再生音という問題が誤解を交えながらも常に討論されているということは、裏返してみると、いつの時代でもスピーカーから出る音に、もう少しどこかが進歩すると、もう少しナマそっくりの音が出るだろう……と錯覚させるだけのリアリティがあるということでしょうね。
岡原 スピーカーというのは、かなり昔から、そういう意味でのリアリティはありましたね。いわゆる、ナマと再生音のスリ替えが可能だというのは、音楽が実際に演奏されている場にいけば、相当耳の良い人でも、ナマと再生音を聴きわけることができないためです。
瀬川 わたくしもだまされた経験があります。実際オーケストラがステージで演奏していて、そのオーケストラがいつの間にか身振りだけになってしまい、録音されていた音に切り替えられてスピーカーから再生されているという実験があった。先生もあのビクターの実験ではだまされた組ですか?
岡原 ええ、見事にだまされました。似たような実験で、わたしは他人をだましたけれど、あの時は自分もだまされたな(笑)。
瀬川 ある条件を整えれば、ナマと錯覚させるほどの音をスピーカーから出せるわけですね。だからこそ、もう少し頑張ればナマと同じ音が出せる……という期待がなくならないのでしょうか。
岡原 それが大間違いなんだ。ナマと再生音がソックリだ、あるいはスリ替えることが可能なのは、ある限定条件の中でなのです。だから現在のように録音再生機器が良くなくても、ナマと再生音のスリ替えは可能だったのです。
それはなせかというと、〝空間〟が音を支配しているからです。要するに、聴衆はスピーカーの音を聴いているんじゃなくて、スリ替え実験がおこなわれた場所(ホール)の音を聴いているわけです。再生された音がそのホールの音に似るように、ナマと同じようにどこでも音がディストリビュートしていて、ナマと再生音が大体同じレベル(音量)であれば、ある程度の再生装置(スピーカー)でも、ナマと再生音は聴きわけのつかないものですよ。
瀬川 ナマと再生音のスリ替えを公開するというような場合には、限定されたかなり広いホールを使っていますから、聴衆の大部分はホールの音としてスピーカーの音を聴いてしまうのでしょうね。実験としてはほぼ百パーセント成功するのがわかっているのだろうけれど……。
しかし、一般的な(わたくしたちの暮しているような)部屋の場合でも、その部屋の中でピアノを弾き、それを録音してその場で再生して、ナマと聴きわけのつかないような音を出している人もいますね。この場合はひとつの限定された条件を煮詰めて、その方向に部屋作りつけのスピーカーを追い込んでいくわけで、そのような条件の部屋と装置で普通のレコードを再生した場合はどんなことになるのでしょうか。
岡原 一般的な場合とは少し違ってくるでしょうが、そういうアプローチの方法もあっていいと思います。
*
瀬川先生が語られている、一般的な部屋でのピアノ録音・再生のくだりは、
いうまでもなく高城重躬氏のことだ。
SFの世界では、人型ロボットだけでなく、クローン人間も登場する。
完璧なコピーといえるクローン人間が造り出せたとしても、
そのクローン人間の脳には、何が入っているのだろうか。
そのクローン人間の脳に、オリジナルの人間の脳の記憶の全てをコピーすることができたら……、
これはSFの世界での、自我とはなにか、というテーマとつながっていく。
体も完璧なコピー、記憶もそうである。そういうクローン人間がいたら、
オリジナルの人間と同じ自我が、そこに芽生えるのだろうか。
現在の録音・再生のシステムでは、いわゆる原音再生は無理である。
けれど将来、まったく違う理論と方法によって、
録音と再生の場が異っていても、原音再生が可能になったとしよう。
それも完璧なコピーといえる原音再生である。
完璧なコピーといえるクローン人間のような原音再生である。
そんなクローン人間ならぬクローン音が実現したとして、
クローン音には、自我があるのか、と思い、
次の瞬間には、元となる、いわゆる原音(生音)には自我があるのだろうか……、と考え込んでしまった。
音に自我などあるものか、といいきれない自分に気がつく。
いいきれないということは、音に自我、自我のようなものを感じとっているのだろうか、とまた考える。
自我があるとすれば、それは原音(生音)ではなく、再生音なのではないか。
ゴジラといえば雄叫びである。
雄叫びは咆哮であり、なにかを切り裂くようにゴジラは叫ぶ。
ゴジラの咆哮は、一瞬のタメの後に発せられる。
だからこそ何かを切り裂けるのではないだろうか。
歪なく大きな音で鳴っても、それだけで咆哮にはならない。
着ぐるみゴジラとCGIゴジラ。
2014年「ゴジラ」を観て、以前書いたことが、
着ぐるみゴジラとCGIゴジラにもあてはまるところがあるのに気づく。
三年前に、日米ヒーローの造形について書いた。
日本のヒーローはウルトラマン、仮面ライダーなどは顔の表情を変えない(変えられない)。
アメリカのヒーローは、スーパーマン、バットマンなど、顔の一部、もしくは顔全体をさらしているから、
そこには自ずと表情が出てくる。
着ぐるみゴジラとCGIゴジラ。
CGは着ぐるみでは無理だと思われる表情をゴジラにつけることができる。
着ぐるみでも、まったく無表情なわけではないが、
それは限られた表情であり、表情というより、口が動く、目玉が動くといった顔の動きであり、
あくまでも着ぐるみの表情であるのに対し、
CGIゴジラの表情は架空の生物とはいえ、生き物の表情をつくりだそうと思えばほぼ自由につくりだせるといえる。
顔の表情だけでない、筋肉のつき方、動き、皮膚の質感など、あらゆることで、
CGIゴジラは生き物としてのリアリティを追求しているし、これから先もっとリアリティを増していく。
「ゴジラ」ははやくも第二弾の制作が決定していて、キングギドラも登場する。
CGIキングギドラは着ぐるみキングギドラでは無理だった動きも可能になっていることだろう。
数年先の公開とはいえ、いまから楽しみである。
けれど……、と思う。
2014年、CGIゴジラを観ている。
数年後にはCGIゴジラとCGIキングギドラの戦いを観ていることだろう。
それでも1954年初代ゴジラ(着ぐるみゴジラ)が登場した映画を観た人たちが味わったものを、
いまCGIゴジラを観ている我々は、どうなんだろうか。
1954年の「ゴジラ」を映画館で観ることはなかった。
テレビでしか観ていない。
時代もずっと後のことだ。
何本もの「ゴジラ」を映画館で観たうえでのことである。
1954年公開のゴジラは、着ぐるみの中に人がいた。
ゴジラは大きく、街を破壊していく。
ゴジラに壊されていく建物はミニチュア造形物である。
いまから60年前のゴジラは、特撮によってつくられている。
特撮とは特殊撮影技術の略称。
私が子供のころ、すでに特撮ものは流行っていた。
映画のゴジラだけでなく、ガメラもあった。他にもいくつかの怪獣ものの映画がつくられ公開されていた。
テレビではウルトラマン、仮面ライダーのシリーズが始まっていた。
限られた予算、限られた時間でつくられる特撮は、
2014年のCG(Computer graphics)によるCGI(Computer-generated imagery)ゴジラと、
1954年の着ぐるみゴジラの違い以上に、
ある意味貧弱なものだった。
それでもぼくらは夢中になってみていた。
特撮のアラは子供の目にもすぐにわかる。
しょぼい、と感じるところは多々あっても、おそらく、そのとき夢中になっていた私と同年代の子供らは、
心の中では現在のCGIゴジラのようなものを描いていたのではないだろうか。
テレビでの特撮では、こんなふうだけど、制作している人たちの理想はこんなふうではないのか。
そうやって特撮ものを数多くみてきた者にとって、1993年の映画「ジュラシック・パーク」は衝撃だった。
着ぐるみでもない、ミニチュアでもない恐竜がスクリーンに映し出されていたからだ。
その「ジュラシック・パーク」から約20年。
いまはCGIゴジラがスクリーンに登場している。
ビクター50年史には、もうすこし、すり替え実験について書いた記事がある。
*
ステレオ全盛時代を迎え、ビクターとしてはヒットモデルを次々と発売し、数々の音場実験データーを保有していたにもかかわらず趣味の世界であるオーディオの世界に手前勝手な製品をユーザーに押しつけるのはポリシーに反することであり、大ぜいの人々の実際の音に対する感じ方をはっきり認識する必要があった。そこで考案されたのが、昭和35年の藤家虹二クインテットの演奏とテープのスリ替えに始まり、昭和40年の北村英治クインテットとレコードのスリ替え、そして昭和41年の日本フィル50名のオーケストラ演奏とレコードのスリ替え実験まで3回実施された生演奏と再生音のスリ替え実験であった。
このような実験は当時大変な冒険とされていたがトップメーカーであるビクターはこの失敗するかもしれない未知の実験に挑戦する義務があった。しかし当時の最新技術を駆使し録音から再生まで一丸となって不眠不休の努力の結果、この公開実験は幸い大成功し一連の実験を通して得られた貴重な音場的データーは、その後の製品に生かされた。
特に、音域バランス、エネルギーレスポンス、帯域だけはどうにもならない問題、音質だけではない複雑な音場への取組みがきわめて重要であることがわかり、SEA、無指向性スピーカーの開発につながり、ただ単に広帯域にするだけでなく低音域、高音域のエネルギーバランスが重要な要素であることも確認した。
又このころよりプレーヤーシステムに対する積極的なアプローチが展開されトラッキングエラーレスアームや、2重アイドラーターンテーブルも開発された。
*
これでわかるのは、三回目も二回目同様、レコードが使われている、ということである。
ビクターのすり替え実験の詳細をまだ知らないころ、あれこれ想像していた。
レコードなのかテープなのか。
アンプやスピーカーは特別に誂えたものなのか、それとも市販品なのか。
私はテープだろうな、と思っていたから、二回目と三回目がレコード(LP)だということが、まず意外だった。
ビクターによる生演奏とのすり替え実験の詳細がどんなものだったかは、手元に資料がない。
昭和41年(1966年)7月だと、まだステレオサウンドも創刊されていない。
ラジオ技術、無線と実験のこの時のバックナンバーを、
大きめの図書館に行き調べればおそらく記事になっている、と思う。
いまは手元にあるものといえば、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のビクター号だけである。
このムックの巻末にはビクター50年史がある(このムックが出たのは1977年)。
それによれば最初のすり替え実験は昭和35年(1960年)11月に行われている。
朝日講堂にて、藤家虹二クインテットの生演奏と録音テープとのすり替え実験で、
スピーカーはビクターのLCB1CX4が使われている。
LCB1はコニカルドーム付きのウーファーを搭載したフロアー型システム。
二回目は昭和40年(1965年)7月16日に、一回目と同じ朝日講堂で行われ、
音楽評論家、オーディオ評論家、報道陣、特約店と客、約450名が招かれている。
この時演奏したのは北村英治クインテット。
使われた機材はスピーカーはBLA50、アナログプレーヤーはSRP467など、すべて市販されているモノばかりである。
これが第一回ビクターステレオテクニカルフェスティバルである。
すり替えに気づいた正解者は9人とのこと。
ビクターの社報誌にその様子が掲載されたようで、
それが「世界のオーディオ」にも囲み記事として載っている。
*
ナマ演奏を途中でステレオレコード演奏にスリ替えるということで、音楽評論家をはじめ、多くのオーディオファンが注目していた「ビクターステレオ・パーフェクトサウンド・フェスティバル」は、さる7月16日午後6時半から、東京有楽町の朝日新聞社朝日講堂ではなやかに開催されました。音楽評論家、音響評論家、特約店とそのお客さま、報道陣など、約450名が招かれました。
ナマからレコード演奏にスリ替えるのは世界ではじめての試みだけに、場内は一瞬カタズをのんで静まりかえります。曲はクラリネットの音がさえる「アバロン」──。クインテットの背後には8個のスピーカーバッフル(BLA50)が置かれています。場内の聴衆は身を乗り出すようにして、スリ替え個所を聞き出そうと耳をそばだたせています。曲は終りに近づきました。と、突然彼らは演奏をやめて聴衆に向かっておじぎをしました。しかし曲はなおも演奏されているのです。舞台のそでの幕がひらかれました。一個のプレーヤーが現われ聴衆がアッケにとられているうちに司会者がプレーヤーをとめました。思い出したように、かっさいの拍手。大成功でした。スリ替えの個所を当てるアンケートの正解者はたったの9名。
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五年前の実験ではテープだったのが、今回はレコードに変っている。
1960年代、ビクターが生演奏と録音されたものとのすり替え実験を何度か行っていたことは広く知られている。
この実験は成功をおさめた、と伝えられている。
このすり替え実験の白眉といえるのは50名のオーケストラとのすり替えである。
昭和41年7月14日、虎ノ門ホールにて、第二回ビクターステレオテクニカルフェスティバルとして開催された。
服部克久指揮日本フィルハーモニーの50名のオーケストラによる生演奏とのすり替え実験である。
1621名が実験に参加して、正解した人は14名。1%以下であり成功といえよう。
こう書くと、参加者のほとんどはオーディオに関心のない人たちばかりなんだろう、という人がいる。
だがオーディオ評論家も参加している。
ステレオサウンド 34号、岡原勝氏と瀬川先生による実験記事が載っている。
34号では「壁がひとつふえると音圧は本当に6dBあがるのだろうか?」とテーマで行われている。
この記事にこうある。
*
岡原 スピーカーというのは、かなり昔から、そういう意味でのリアリティはありましたね。いわゆるナマと再生音のスリ替えが可能だというのは、音楽が実際に演奏されている場にいけば、相当耳の良い人でも、ナマと再生音を聴きわけることができないためなのです。
瀬川 わたくしもだまされた経験があります。実際オーケストラがステージで演奏していて、そのオーケストラがいつの間にか身振りだけになってしまい、録音されていた音に切り替えられてスピーカーから再生されているという実験があった。先生もあのビクターの実験ではだまされた組ですか?
岡原 ええ、見事にだまされました。似たような実験で、わたしは他人もだましたけれど、あの時は自分もだまされたな(笑)。
*
岡原氏も瀬川先生もだまされていた。
フルトヴェングラーがいっている。
《感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ。》と。
五味先生が、音の肉体にあれほどこだわられた、その理由は、
このフルトヴェングラーの言葉が語っている。
そういうことだとおもう。
こんなことを書くのは蛇足だというのはわかっている。
だから昨日はあえて書かなかった。
それでも、やはり書いておく。
五味先生は「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。」と書かれている。
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストの音だからだ。」とは書かれていない。
文章のアマチュアであれば、
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストの音だからだ。」と書きたいところを、
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。」と勢いで書いてしまうことはある。
だが五味先生はプロフェッショナルである。
いかに五味先生がプロフェッショナルであったかは、
ステレオサウンドの原田勲会長からきいたことがある。
プロフェッショナルの五味先生が
「つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。」
と書かれているわけだ。