「オーディオの対岸にあるもの」について(その1)
昨晩、ほぼタイトルだけの「オーディオの対岸にあるもの」に、
facebookで数人の方からコメントがあった。
コメントを読んで、タイトルを「再生音の対岸にあるもの」にしなくてよかった、思っていた。
オーディオは再生音といえるのは確かだが、
オーディオ・イコール・再生音ではないことも確かだ。
「オーディオの対岸にあるもの」の「オーディオ」は、
人によって違うはずである。
昨晩、ほぼタイトルだけの「オーディオの対岸にあるもの」に、
facebookで数人の方からコメントがあった。
コメントを読んで、タイトルを「再生音の対岸にあるもの」にしなくてよかった、思っていた。
オーディオは再生音といえるのは確かだが、
オーディオ・イコール・再生音ではないことも確かだ。
「オーディオの対岸にあるもの」の「オーディオ」は、
人によって違うはずである。
オーディオについて、再生音について考えるために思いついたタイトル。
いまのところタイトルでしかない。
SACDがDSDではなく、CDと同じPCMで、
サンプリング周波数、ビット数を44.1kHz、16ビットから離れて高めたものてあったなら、
スーパーレゾリューションよりもハイレゾリューションのほうが、
的確に表現しているといえる。
でもSACDはPCMではなくDSDである。
同じデジタルといっても、変調方式の違いがはっきりとある。
そのことを伝える意味でも、
ハイレゾリューションではなく、スーパーレゾリューションを、
ソニーの出井伸之氏は使われたのかもしれない。
CDの登場は1982年。
そのころのパソコンのCPUの動作周波数はどのくらいだったか。
2017年のいま、CPUの動作周波数はどこまで高くなっている。
しかも内部もシングルコアからマルチコアへと変化している。
いまハイレゾと呼ばれている規格の定義。
電子技術産業協会(JEITA)による定義と、
日本オーディオ協会(JAS)による定義は同じではない。
JEITAの定義では、CD規格よりも、サンプリング周波数、ビット数、
どちらかが超えていればハイレゾとなる。
もちろんもう一方は最低でもCD規格と同じでなければならない。
ここでのCD規格とは44.1kHz、16ビットではなく、48kHz、16ビットであるから、
48kHz、18ビットであってもハイレゾということになる。
どちらの定義にしても、そこには数値がある。
数値があるということは、技術の進歩によって、CPUの動作周波数が上っていったように、
上へ上へと目指していく。
ということはハイレゾ(High Resolution)は、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)、
ハイレゾに留まらないのかもしれない。
ステレオサウンド 131号(1999年夏号)での、
ソニーの出井伸之氏と菅野先生の対談を読み返している。
*
出井 やはり、音を聴く楽しみというのは、画を観ながらでは楽しめないんですね、オペラなら楽しめるでしょうが。
最近は、コンピュータ通信の普及などによって、信号圧縮されたオーディオが盛んになってきていて、ソニーでもメモリースティック・ウォークマンというものを提案しているんですが、そのいっぽうで、パッケージメディアを残そうと思ったら、映像でも音でも、スーパーレゾリューションでなければダメなんです。上限がないぐらいまでのね。
*
別項「オーディオと青の関係(その15)」で引用しているとおり、
SACDは《〝量〟にたいするアンチテーゼ》である。
出井氏の発言に同意する。
だからこそハイレゾリューションではなく、スーパーレゾリューションでなければ、と思う。
ハイ(High)では、量に対するアンチテーゼにはなりにくい。
ハイサンプリング、ハイビットと、それは量から少しも離れきっていない。
同じことがクルマはスーパーカーであって、
オーディオはハイエンドオーディオなのにいえる。
スーパーカーという呼称は、横尾忠則氏が言い始めたことかもしれない、ときいている。
ほんとうなのかははっきりしないが、
1968年の海外向けのカタログ制作で、SUPER CARが使われている。
このスーパーカーは、スーパーマンの有名すぎるキャッチフレーズ、
「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」「いや、スーパーマンだ!」、から来ているとのことだ。
SACD(DSD)を、ハイレゾリューションではなくスーパーレゾリューションと捉えたのは正しい。
それまでのPCMに対してのDSDであるからこそ、なおさらだ。
にも関わらず、いまではアナログディスクまでもハイレゾリューションで括ってしまっている。
小学生高学年から中学にかけてのころ、スーパーカーブームがあった。
スーパーカーという言葉は、そのころから登場したのだろうか。
いまもスーパーカーと呼ばれている。
一方オーディオは、というと、スーパーオーディオとはあまり使われない。
SACDはSuper Audio Compact Discだから、
ここにはスーパーオーディオがある。
けれどスーパーカーと同じように使われるのは、
オーディオではハイエンドオーディオである。
ハイエンドカーというのだろうかと検索してみると、
上位に表示されるのはハイエンドカーオーディオである。
ハイエンドはオーディオにかかってくる言葉なのだろうか、と苦笑いしてしまった。
私がクルマに詳しくないためだろうか、
ハイエンドカーという言葉が一般に使われているとは感じられない。
価格の高さでいえば、スーパーカーもハイエンドである。
クルマの方が、よりハイエンドであっても、
やはりスーパーカーなのだ。
なぜオーディオはスーパーオーディオではなく、
ハイエンドオーディオなのだろうか。
このことが「オーディオがオーディオになくなるとき」にも、
そして岩崎先生のリスニングルームに憧れても、
どれだけの資産があれば、これだけのリスニングルームとオーディオ機器を揃えられるのか、
と考えてしまうリスニングルームには、憧れを抱くことがないことが多いのにも、
(その1)で書いた、その人はオーディオマニアだろうか、
ということにもつながっていく直感である。
私にとってLS3/5Aの鳴らし方は、
何度も書いているように一辺が1m程度の正三角形の頂点に、
ふたつのLS3/5Aと自分の耳を置くというセッティングを前提としている。
アナログディスクでの低域の揺すられがCDではなくなり、
かなり安定した再生が楽に可能になるとともに、
アナログディスク再生よりもCD再生のほうが音量面でも有利になっている。
アナログディスクをメインにするのであれば、
LS3/5Aに出力トランスというバンドパスフィルターをかかえる真空管アンプのほうが、
低域の安定性に関しては有利といえる。
最近ではLS3/5Aも左右の間隔を、
通常のスピーカーのように広くとって聴く人(聴かれること)も多いようである。
そうやって聴くLS3/5Aが提示する音のイメージと、
至近距離でひっそりとした音量で聴くLS3/5Aが提示する音のイメージは、
少なくとも私の中ではずいぶんと違ってくる。
ここで書くLS3/5Aの音は、瀬川先生が小人のオーケストラが現出した、と感じられる鳴らし方である。
至近距離で、音量も小さい。
そこにおける音場と、
大型スピーカーを、左右の間隔を大きくとり、
音両面での制約もなしに鳴らしたときの音場とも、同じには語れない。
しつこいくらいくり返しているが、
あくまでもそういう鳴らし方をした時のLS3/5Aのことを、
Pokémon GOのAR機能をONにしてやっていて、
この感覚、決して新しいものではない、
ずっと以前に体験したことがある──、と思い出したのだ。
そして小人のオーケストラを聴いていると錯覚しているときに、
額縁はどうだったのだろうか、と考えた。
ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur掲載の五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」。
ここでの写真は、いままで見たことのなかったデコラの姿を伝えてくれる。
カラー写真だけではない、モノクロでも、正面からのカットは二枚並んである。
正面からのカットも似まいある、後からのカットも二枚あり、
どちらもグリル、カバーを装着した状態と外した状態のカットである。
その他にも、コントロールアンプ、チューナー、パワーアンプ、電源部、
スピーカーユニット、ネットワークなどのカットもある。
それらの写真の中で、220ページと221ページの見開きのカットを見て、気づいたことがある。
このカットは両サイドのグリルだけでなく、各部の扉を全開にしている。
デコラ右側のスピーカー上部の扉をあけるとコントロールアンプ、
左側の扉をあけるとチューナーがある。
そして中央の両開きの扉をあけると、レコード収納のためのスペースがある。
アクースティック蓄音器と電気式蓄音器の違いはいくつかあるが、
このレコード収納のスペースの有無も、そうである。
アクースティック蓄音器にはSPを収納するスペースは設けられていない。
大型のアクースティック蓄音器であってもそうだ。
電蓄と呼ばれるようになって、蓄音器は音量の調整ができるようになり、
チューナーも付属するようになったりしたが、レコードの収納のスペースも設けられるようになった。
デコラにも、それがある。
扉を閉じた写真をみているだけでは、そのことに気づかなかった。
あって当然のことなのだが、なかなか気づかないことはある。
デコラにある収納スペースを見て、(その1)に書いているS氏のことが結びついた。
ある人の言はく、「今時の人は、よくよく理詰めの実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。」
近松答へて言はく、「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。なるほど今の世、実事によく写すを好むゆゑ、家老は真まことの家老の身ぶり口上が写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂、白粉を塗る事ありや。
また、真の家老は顔を飾らぬとて、立役が、むしやむしやと髭は生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間と言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。
絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句人の愛する種とはなるなり。趣向もこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべき事多し。」
*
近松門左衛門の「虚実皮膜論(きょじつひにくろん)」である。
インターネットで検索すれば現代語訳はすぐ見つかる。
ここでの「芸」をオーディオにおきかえれば、
見事、オーディオで音楽を聴く行為の本質をついている。
オーディオに不可欠なものとして、電気と空気が挙げられる。
将来はスピーカーというトランスデューサーを必要とせず、
脳に直接信号を送るという技術が生れるであろうし、
そうなったら空気は必要不可欠なものではないわけだが、
いまわれわれがオーディオと認識している現象には、
電気と空気は必要不可欠であり、
どちらにも「気」がついている。
空気も電気に形がないから、「気」なのかと思いながら、
なぜ聴き手には「手」がついているのかを考えてしまう。
書き手ならば、まだわかる。
書くためには手を使う。だから書き手。
読み手もそうだ。本を読むのに手を使う。だから読み手。
楽器の演奏者を弾き手という。
これもわかる。
楽器を弾くには手を使う。だから弾き手。
けれど聴き手はどうだろう。
ここでの聴き手は、音楽を聴く人のことである。
たとえばインタヴューをする人のことを聞き手という。
これはまだ理解できる。
相手が話したことを書き留めるために手を使う。
そんなふうに解釈できないこともない。
でも聴き手は違う。
聴く前には手を使う。
LPなりCDなりセットして、音を出すまでには、さほどでもないにしろ手を使う。
だが音を出たら、手を使うことはない。
にも関わらず聴き手というのは、なぜなのか。
「気」と「手」がいま気になっている。
関係しているように感じているからだ。
時代の軽量化。
それは残心なき時代のことのようにも感じている。
[残心]
武道における心構え。一つの動作が終わってもなお緊張を解かないこと。剣道では打ち込んだあとの相手の反撃にそなえる心の構え、弓道では矢を射たあとその到達点を見極める心の構えをいう。
(大辞林より)
「時代の軽量化」。
二ヵ月ほど前に、ふと思いついた。
思いついたけれど、ふつうに考えれば「時代の軽量化」よりも「軽量化の時代」だろう。
そう思いつつも、「時代の軽量化」が、頭に残っていた。
タイトルにしよう、とその時に思ったものの、
何を書くのか、まったく思いついていない。
「時代の軽量化」が思いついたものだから。
それでも書き始めないことには、「時代の軽量化」は頭の中に眠ってしまうことになる。
ぼんやりとではあっても考え続けていれば、なんとなくつかめそうなことがあるのに気づく。
まだはっきりとは捉えきれていないが、「時代の軽量化」かもしれないと感じてもいる。
仮にオーディオ雑誌からオーディオマニア訪問記事がなくなったとしても、
いまはインターネットがあるから、
さまざまなオーディオマニアのリスニングルームの写真を見ようと思えばいくらでも見られる。
オーディオマニアの数だけのリスニングルームがある。
中には、どれだけの資産があれば、これだけのリスニングルームとオーディオ機器を揃えられるのか、
そんなことを考えてしまうほどの部屋もある。
非常に高額なオーディオ機器が、いくつも並んでいる。
よく所狭し、という表現をするが、
そういうところは、所狭しとは無縁だ。
多くのオーディオ機器が整然と並んでいる。
そこに、憧れを抱くか、といえばそうでもない。
そういう部屋と対照的だったのが、岩崎先生の部屋だ。
ステレオサウンド 38号に載っている。
JBLのパラゴンが正面にあり、その両端にはアルテックの620Aが上下逆さまで置かれている。
パラゴンの上に620Aが乗っている。
パラゴンのほぼ中央にはマイクロのアナログプレーヤー。
コントロールアンプのクワドエイトLM6200Rもある。
パラゴンの隣にはJBLのハークネスが隠れるようにある。
パラゴンの対面にもスピーカーがあり、部屋の両サイドにはさまざまなオーディオ機器が積み上げられている。
それこそ所狭しとオーディオ機器がある。
岩崎先生の部屋に行かれた方の話だと、ほんとうに足の踏み場がない、とのこと。
床にもアンプがいくつも置かれていて、アンプとアンプの間のわずかなすきまを歩いていく。
岩崎先生の部屋の写真を見ていると、いいな、と素直に思う。
こういう雰囲気は出せないな、とも思う。
私は、岩崎先生の部屋に、オーディオを感じてしまう。
「オーディオがオーディオでなくなるとき」は、
吉田健一氏の「文学が文学でなくるとき」にならってのものであり、
しかも永井潤氏が1982年に、ステレオサウンド別冊Sound Connoisseurで使われている。
オーディオがオーディオでなくなるとは、どういうことなのか。
まずそのことについて書いていかなければならないのだが、
同時に「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」とか、
「オーディオ評論家がオーディオ評論家でなくなるとき」とか、
他にもいくつか「文学が文学でなくなるとき」にならって考えている。
すぐに答が出せそうでいて出せないもどかしさを感じている。
まだはっきりと言葉に変換できないから、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」といったことを考えている。
昨夜、友人でオーディオ仲間のAさんと数年ぶりに会って、あれこれ話していた。
オーディオの話もしたし、海外ドラマの話、同世代だけにゴジラやガメラの話などをしていた。
Aさんが以前訪れたことのあるあオーディオマニアのことが話に出てきた。
そのオーディオマニアのことを聴きながら、
その人はオーディオマニアなんだろうか、と思っていた。
そのオーディオマニアの方とは面識がない。
会ったことのない人について書いていることは承知している。
そのうえで、世間一般から見れば、その人はすごいオーディオマニアということになるけれど、
私にはどうにもそう思えない何か、Aさんの話から感じていた。
そんなことがあったので、ふと「文学が文学でなくなるとき」を思い出したし、
「オーディオがオーディオでなくなるとき」について考えてみようと思っているところだ。
カスリーン・フェリアーのバッハ/ヘンデルのアリア集を聴きたい、とも、
デコラを聴いた時に思っていた。
いまもデコラで、この愛聴盤を聴きたい、と思う。
フェリアーのこの録音はモノーラル録音であり、
ずっとモノーラル録音の盤を聴いてきた。
けれどフェリアーのアリア集は、
バックのオーケストラのみをステレオ録音にしたレコードも出ている。
デッカともあろうものが、なんと阿呆なことをするものだと、
そのレコードの存在を知ったときには思っていた。
だから手にすることもなかった。聴いてもいない。
けれど、ひさしぶりに、或るところでデコラと対面した。
ターンテーブルが不調でレコードを聴くことはできなかったけれど、
丁寧に磨き上げられた、そのデコラを眺めているうちに、
そうなのか、デッカは、もしかするとデコラでフェリアーを鳴らすために、
わざわざオーケストラをステレオ録音に差し替えて出したのか……、と思っていた。
デッカのデコラは、最初はモノーラルだった。
その後、1959年に、ここでデコラと書いているステレオ・デコラが登場した。
だから本来ならばデコラと書いた場合は、モノーラルのデコラであり、
ステレオのほうはステレオ・デコラとするべきである。
にも関わらず私にとってデコラは、ステレオ・デコラであり、
モノーラルのデコラについて話すときは、モノのデコラと言ったりしてしまう。
本末転倒だな、とわかっていても、
そのくらい、私にとってデコラとはステレオ・デコラのことであり、
それはデッカの人たちにとってもそうだったのかもしれない、
と気づかせてくれたのが、フェリアーのオーケストラ差し替え盤だった。
金が欲しい!
私もデコラの音に触れたときに、そう思っていた。
デコラを買えるお金だけではなく、デコラを置ける部屋をも用意するだけのお金が欲しい!、
と思った。
五味先生は
《デッカ本社の応接室で、あの時ほどわたくしは(金が欲しい!)と思ったことはない。》
と書かれている。
これまでに数々のオーディオ機器を聴いてきて、欲しいとおもったことはある。
その欲しいと思ったオーディオ機器を手に入れるために、金が欲しい! と思ったこともある。
でも、デコラを聴いたときほど、金が欲しい! と思ったことはない。
初めて聴くことができたデコラは、満足のいく感興ではなかったにもかかわらず、
私にそう思わせた。
同時に、S氏(新潮社の齋藤十一氏)は、デコラだったからあの方法、
コレクションから追放していくレコードを決めていけることに気がついた。
文字の上では、齋藤十一氏がデコラだということは知ってはいた。
デコラの音がどういう音であるのかも文字の上では或る程度は知っていたし、想像していた。
それでも、哀しいかな、そこでとまっていた。
それ以上は、実際にデコラの音に触れて、気づいたわけだ。