耳の記憶の集積こそが……(その4)
(その1)で、
耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいおう、と書いた。
メリディアンのULTRA DACを聴いて、
そしてULTRA DACについて、関係してくることについて書いていて、
まさに、耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいちど強くいおう。
(その1)で、
耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいおう、と書いた。
メリディアンのULTRA DACを聴いて、
そしてULTRA DACについて、関係してくることについて書いていて、
まさに、耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいちど強くいおう。
マッキントッシュのゴードン・ガウの言葉だったと記憶している。
「quality product, quality sales and quality customer」だと。
どれかひとつ欠けても、オーディオの世界はダメになってしまう、と。
quality product(クォリティ・プロダクト)はオーディオメーカー、
quality sales(クォリティ・セールス)はオーディオ店、
quality customer(クォリティ・カスタマー)はオーディオマニア、
主にそういうことになる。
クォリティ・セールスには、オーディオ店以外にも、
メーカーの売り方も深く関ってくるし、
海外で売られる場合には、その国の輸入元も含まれる。
メーカー、輸入元の売り方には、広報・広告が含まれる。
ここでの広報とは、オーディオ雑誌での記事の掲載、
インターネットでのなんらかの記事などが、そうだといえよう。
クォリティ・カスタマーは、売らんかな、だけのメーカー、輸入元にとっては、
クォリティがつかないカスタマーのほうが都合はいいだろう。
高価なモノをポンと買っていく客が、クォリティ・カスタマーなわけではないし、
誰しもが最初からクォリティ・カスタマーなわけでもない。
客(オーディオマニア)をクォリティ・カスタマーに導いていくのには、
クォリティ・セールスが重要となってくる。
黒田先生の著書「音楽への礼状」からの、ここのところを引用するのはこれで四度目だ。
*
かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
*
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
世の中には、上っ面だけの音楽への礼状もどきがある。
どうも増えているようだ。
黒田先生の「音楽への礼状」は、まさに音楽への礼状である──、
と強く感じる世の中になってきているようにも感じている。
「音楽への礼状」のなかの、フルトヴェングラーへの礼状は、
そのなかでも「音楽への礼状」と感じている。
《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》
とある。
そうであってほしい、とおもう。
おもう、ということは、すでにそうではなくなりつつあるような気配を感じている。
時代の忘れ物に気づかなくなった人があらわれはじめ、増えてきたことこそ、
時代の軽量化なのではないだろうか。
一年前「毎日書くということ(続・引用することの意味)」で、
積分的な聴き方、微分的な聴き方に付いて少しだけ触れた。
これは聴き方だけだろうか。
積分的な読み方、微分的な読み方もある、と、実感することが増えている。
もっといえば、微分的読み方をする読み手がいる、ということだ。
(その5)へのコメントがfacebookであった。
そこにはトップダウン、ボトムアップとあった。
トップダウンは、企業経営などで,意思決定は社長・会長がして上位から下位へ命令が伝達され,
社員に従わせる管理方式、
ボトムアップは、企業経営などで,下位から上位への発議で意思決定がなされる管理方式、とある。
コメントされた方は、
過去のオーディオ誌に求められたのがトップダウンの評論であるとすれば、
今はボトムアップのノウハウのようなものが求められると感じている、とあった。
いわんとされることはわかる。
コメントをされた方は私よりも若い世代。
そういうふうに感じられているのか、と思う。
過去のオーディオ誌は、私が熱心に読んでいた時代のオーディオ雑誌を指すのか。
それともそれより後の時代のオーディオ雑誌なのか。
私が熱心に読んできたオーディオ雑誌の時代は、
私にはトップダウン的評論とは感じていなかったし、いまもそれは変らない。
あの時代、オーディオ評論家(職能家)は、手本であり、
憧れというより目標であった。
もっといえば、将来のライバルというふうにも見ていた。
いまは10代の若造だけれど、あと十年すれば、
そのレベルにまで上っていく──、そういう意味での目標であり、
将来のライバルとは、そういうことである。
そんな私は、トップダウンの評論とは感じていないが、
評論のところを編集に変えてみたら、どうだろうか。
トップダウンの編集、ボトムアップの編集である。
大人のオーディオマニアが大人として、
オーディオのプロフェッショナルがプロフェッショナルとして、
若い世代の手本になっていないと感じるのも、時代の軽量化といえよう。
ふと思うことがある。
オーディオ雑誌の編集者は、
なかば意識的に、なかば無意識的に、時代の軽量化を願っているのかもしれない、と。
なぜなら、その方が楽になるからだ。
表面的な頭の使い方だけで、見映えのよい本ができあがるからだ。
勘ぐりすぎかな、と自分でも思うけれど、
そう思えてしまうことが度々ある。
片側の視点、偏りすぎた視点しか持たない読み手を育てたのも、
時代の軽量化を願っている編集方針だとしたら、うまく進行している、といえるのだろう。
別項の『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』も、
時代の軽量化なんだ、と書いていて感じるようになってきた。
片側の視点、偏りすぎた視点しか持たない読み手。
そんな読み手に、なぜか謝罪する編集長。
まさに時代の軽量化だ。
インターネットの掲示板とは、見知らぬ人と、それも複数の人と、
それぞれを隔てる距離、時間など関係なしに結びつけて話し合える場ではないのか。
議論もできる場であり、議論を深めていける場もある。
なのに残念なことは、それまではそんな雰囲気のあった掲示板が、
知名度が急に広まって多くの人がどっと押し寄せるようになると、
それぞれの自己主張の場と変っていくように感じている。
しかもいい大人が……、といわれる年代の人たちに、そういう人がどうも多いようだ。
(その3)でふれたdéjà vuの掲示板もそうだったように記憶しいてる。
相手の意見に耳を傾ける、ということが、この人たちはできないのか。
そう思いたくなる(言いたくなる)ほど、一方的な書き込みをする人が現れる。
私が記憶している範囲では、こんなこともあった。
スピーカーのネットワークの次数とユニットの極性についてのことだった。
意見を戦わせていたのは、おもに二人。
どちらもハンドルネームだったが、当時ステレオサウンドに執筆していた人たちである。
そのことは常連のあいだでは知れ渡っていたはずだ。
一人は1970年ごろまでのスピーカーの教科書的書籍を元に書き込む。
もう一人は聞きかじりの知識のみで書き込む。
どちらかが全面的に正しくて、片方が全面的に間違っていたのであれば、
話は簡単に決着するのだが、両者とも部分的に正しくて、部分的に間違っている。
スピーカーの基礎知識があったうえで、
最新のスピーカーシステムがどうなっているのかを知っている人ならば、
この二人の議論が噛みあわないのはすぐにわかったはずだし、
それぞれの間違っているところを指摘することもできるのだが、
誰もそんな人はいなかったし、私も面倒でやらなかった。
二人とも知人ではあったし、一人はわりと頻繁に連絡をしていたので、
やんわりとそのことは伝えていた。
議論は尻すぼみになった記憶がある。
オーディオはすべての道に通ず、と本気で思っている。
すべての道はローマに通ず、といわれる。
すべての道はオーディオに通ず、ではなく、
オーディオはすべての道に通ず、が、ここまでオーディオをやってきた者の、
ゆるがない実感である。
オーディオは自己表現だ、と真顔で力説する人がいる。
だからこそ「音は人なり」でしょ、とそういう人は続ける。
「音は人なり」と、私はずっと前からいっている。
ここにも書いている。
オーディオは自己表現だ、と力説する人は、
「音は人なり」と言い続けてきているあなた(つまり私)にとっても、
オーディオは自己表現である、とまた力説される。
私はオーディオは自己表現だ、とは思っていない。
たしかに「音は人なり」であり、そこで鳴っている音に、
鳴らしている人(私)が反映されるわけだけど、
それをもって自己表現と決めつけられることには、強い抵抗がある。
いったい自己表現とは何なのか。
そういう人にはそのことから問いたくなるが、面倒なのでやらない。
自己表現が好きな人は、たぶんにナルシシストのような気もする。
オーディオは自己表現だ、と力説しているときの表情を見ていると、そんな気がしてくる。
「音は人なり」は、オーディオは自己表現だ、と語っているのだろうか。
私は、思考の可視化(音だから可聴化か)だ、と結論する。
これまでにどれだけの数のオーディオ雑誌が創刊されただろうか。
1970年代後半、書店に行けば、いまよりも多くのオーディオ雑誌が並んでいた。
そのほとんどがいまはもうない。
オーディオ雑誌に限らない、他のジャンルの雑誌は、
オーディオ雑誌以上に創刊され、消え去っていっている。
雑誌を創刊する理由は、いったいなんなのか。
オーディオがブームになっている。
オーディオを取り上げれば、雑誌が売れる、広告が入る。
それならばオーディオ雑誌を創刊しよう──、
そういうオーディオ雑誌は、きっとあったはずだ。
その程度の創刊理由であっても、
オーディオがブームであれば売れただろうし、広告もとれて、利益が出る。
けれどブームが終ってしまえば、そううまくはいかなくなっていく。
消え去っていった雑誌と生き残っている雑誌。
生き残っている雑誌でも、創刊当時、創刊から十年、二十年……と経っていくうちに、
変化・変質してしまうことがある。
ステレオサウンドが創刊された1966年は、私はまだ三歳だから、
その時代を直に肌で感じとっていたわけではない。
あくまでもその後、その当時を振り返った記事を読んで知っているだけである。
それでも瀬川先生、菅野先生に書かれたものを読んでいれば、当時の空気感は伝わってくる。
当時の状況もわかってくる。
それを把握した上でステレオサウンドの創刊を考え直してみれば、
いまのステレオサウンドはすっかり変質してしまった、としかいいようがない。
二週間ほど前に「音を聴くということ(グルジェフの言葉・その3)」を書いた。
良心回路と服従回路のことを書いた。
これは暗にステレオサウンドの変質についてのことでもある。
その店で売られているのは、
スピーカーシステム、アンプ、CDプレーヤー、ケーブルなどである。
非常に高価なモノばかりであっても、アンプはアンプであり、
スピーカーはスピーカーであるわけだ。
スピーカー、アンプ、プレーヤーをまとめてオーディオ機器と、
これまで何気なく呼んでいた。
けれど、ここにきて、アンプはアンプにかわりはないけれど、
つねに、どんな場合であってもオーディオ機器なのか……、
秋葉原のその店(オーディオ店と呼ぶよりトロフィー屋がふさわしい)に行ってから、
そう考えるようになった。
あの店は、立派なオーディオ店だよ──、
そう思っている人にとっては、その店で売っているアンプやスピーカーは、
紛れもないオーディオ機器ということになろう。
けれど私や私の考えに同意してくれる人にとっては、
その店で売られているスピーカーやアンプは、オーディオ機器なのか……、
と考え込んでしまう。
その店で売られているスピーカーやアンプが、
別の店(オーディオ店と呼べる店)で売られていたら、
オーディオ機器と、私だって認識する。
同じ製品が、ある店ではオーディオ機器として、
別の店ではオーディオ機器とは呼べない何か、として売られている(扱われている)。
また屁理屈をこねまわしている──、
そう思っている人もいるだろう。
私だって屁理屈かな、と思っているところはある。
それでも、屁理屈をこねまわしているだけだろうか、とやはり思うわけだ。
オーディオ機器とは何なのかを考えることが、
「オーディオがオーディオでなくなるとき」を考えることにつながっている、と感じている。
別項「快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その3)で、
その店は、オーディオ店ではなくトロフィー屋だと書いた。
オーディオがオーディオでなくなった実例だ、と私は思っている。
指先オーディオ。
ここでは、どちらかといえばネガティヴなな意味で使っている。
でも、指先オーディオのすべてがネガティヴなものではない。
指先オーディオだからこそコントロール(調整)できるパラメータがあるわけだし、
最新のデジタル信号処理技術の進歩は、指先オーディオの未来でもある。
なのに、こんなことを書いているのは、
指先オーディオは感覚の逸脱のアクセルになることもありうるからだ。
dbxの20/20から始まった自動補正の技術は、
感覚の逸脱のブレーキとなる。
別項で書いているフルレンジのスピーカーも、感覚の逸脱のブレーキとなる。
優れたヘッドフォンもそうである。
自動補正(自動イコライゼーション)も、指先オーディオの機器のひとつといえる。
いまではスピーカープロセッサーと呼ばれる機器も登場している。
本来スピーカープロセッサーは、スピーカーシステムの最適化のために開発されたモノ。
けれど使い方によっては、スピーカープロセッサーは、感覚の逸脱のアクセルとなる。
簡単になってしまう。
実にさまざまなパラメータを、指先でいじれてしまう。
アナログ信号処理ではいじれなかった領域まで、指先ひとつでいじれる。
人によっては、ハマってしまう。
ハマってしまうことで、感覚の逸脱のアクセル化へと向うのは、
使い手に欠如しているものがあり、それを自覚していないからだ。