Archive for category 「オーディオ」考

Date: 7月 20th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その4)

ふと思うことがある。
オーディオ雑誌の編集者は、
なかば意識的に、なかば無意識的に、時代の軽量化を願っているのかもしれない、と。

なぜなら、その方が楽になるからだ。
表面的な頭の使い方だけで、見映えのよい本ができあがるからだ。

勘ぐりすぎかな、と自分でも思うけれど、
そう思えてしまうことが度々ある。

片側の視点、偏りすぎた視点しか持たない読み手を育てたのも、
時代の軽量化を願っている編集方針だとしたら、うまく進行している、といえるのだろう。

Date: 7月 19th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その3)

別項の『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』も、
時代の軽量化なんだ、と書いていて感じるようになってきた。

片側の視点、偏りすぎた視点しか持たない読み手。
そんな読み手に、なぜか謝罪する編集長。

まさに時代の軽量化だ。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その4)

インターネットの掲示板とは、見知らぬ人と、それも複数の人と、
それぞれを隔てる距離、時間など関係なしに結びつけて話し合える場ではないのか。

議論もできる場であり、議論を深めていける場もある。
なのに残念なことは、それまではそんな雰囲気のあった掲示板が、
知名度が急に広まって多くの人がどっと押し寄せるようになると、
それぞれの自己主張の場と変っていくように感じている。

しかもいい大人が……、といわれる年代の人たちに、そういう人がどうも多いようだ。
その3)でふれたdéjà vuの掲示板もそうだったように記憶しいてる。

相手の意見に耳を傾ける、ということが、この人たちはできないのか。
そう思いたくなる(言いたくなる)ほど、一方的な書き込みをする人が現れる。

私が記憶している範囲では、こんなこともあった。
スピーカーのネットワークの次数とユニットの極性についてのことだった。
意見を戦わせていたのは、おもに二人。
どちらもハンドルネームだったが、当時ステレオサウンドに執筆していた人たちである。
そのことは常連のあいだでは知れ渡っていたはずだ。

一人は1970年ごろまでのスピーカーの教科書的書籍を元に書き込む。
もう一人は聞きかじりの知識のみで書き込む。

どちらかが全面的に正しくて、片方が全面的に間違っていたのであれば、
話は簡単に決着するのだが、両者とも部分的に正しくて、部分的に間違っている。

スピーカーの基礎知識があったうえで、
最新のスピーカーシステムがどうなっているのかを知っている人ならば、
この二人の議論が噛みあわないのはすぐにわかったはずだし、
それぞれの間違っているところを指摘することもできるのだが、
誰もそんな人はいなかったし、私も面倒でやらなかった。

二人とも知人ではあったし、一人はわりと頻繁に連絡をしていたので、
やんわりとそのことは伝えていた。

議論は尻すぼみになった記憶がある。

Date: 5月 5th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオはすべての道に通ず

オーディオはすべての道に通ず、と本気で思っている。

すべての道はローマに通ず、といわれる。
すべての道はオーディオに通ず、ではなく、
オーディオはすべての道に通ず、が、ここまでオーディオをやってきた者の、
ゆるがない実感である。

Date: 4月 26th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その10)

オーディオは自己表現だ、と真顔で力説する人がいる。
だからこそ「音は人なり」でしょ、とそういう人は続ける。

「音は人なり」と、私はずっと前からいっている。
ここにも書いている。

オーディオは自己表現だ、と力説する人は、
「音は人なり」と言い続けてきているあなた(つまり私)にとっても、
オーディオは自己表現である、とまた力説される。

私はオーディオは自己表現だ、とは思っていない。
たしかに「音は人なり」であり、そこで鳴っている音に、
鳴らしている人(私)が反映されるわけだけど、
それをもって自己表現と決めつけられることには、強い抵抗がある。

いったい自己表現とは何なのか。
そういう人にはそのことから問いたくなるが、面倒なのでやらない。

自己表現が好きな人は、たぶんにナルシシストのような気もする。
オーディオは自己表現だ、と力説しているときの表情を見ていると、そんな気がしてくる。

「音は人なり」は、オーディオは自己表現だ、と語っているのだろうか。
私は、思考の可視化(音だから可聴化か)だ、と結論する。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

潰えさろうとするものの所在(その2)

これまでにどれだけの数のオーディオ雑誌が創刊されただろうか。
1970年代後半、書店に行けば、いまよりも多くのオーディオ雑誌が並んでいた。
そのほとんどがいまはもうない。

オーディオ雑誌に限らない、他のジャンルの雑誌は、
オーディオ雑誌以上に創刊され、消え去っていっている。

雑誌を創刊する理由は、いったいなんなのか。
オーディオがブームになっている。
オーディオを取り上げれば、雑誌が売れる、広告が入る。
それならばオーディオ雑誌を創刊しよう──、
そういうオーディオ雑誌は、きっとあったはずだ。

その程度の創刊理由であっても、
オーディオがブームであれば売れただろうし、広告もとれて、利益が出る。
けれどブームが終ってしまえば、そううまくはいかなくなっていく。

消え去っていった雑誌と生き残っている雑誌。
生き残っている雑誌でも、創刊当時、創刊から十年、二十年……と経っていくうちに、
変化・変質してしまうことがある。

ステレオサウンドが創刊された1966年は、私はまだ三歳だから、
その時代を直に肌で感じとっていたわけではない。
あくまでもその後、その当時を振り返った記事を読んで知っているだけである。

それでも瀬川先生、菅野先生に書かれたものを読んでいれば、当時の空気感は伝わってくる。
当時の状況もわかってくる。

それを把握した上でステレオサウンドの創刊を考え直してみれば、
いまのステレオサウンドはすっかり変質してしまった、としかいいようがない。

二週間ほど前に「音を聴くということ(グルジェフの言葉・その3)」を書いた。
良心回路と服従回路のことを書いた。

これは暗にステレオサウンドの変質についてのことでもある。

Date: 2月 5th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その8)

その店で売られているのは、
スピーカーシステム、アンプ、CDプレーヤー、ケーブルなどである。
非常に高価なモノばかりであっても、アンプはアンプであり、
スピーカーはスピーカーであるわけだ。

スピーカー、アンプ、プレーヤーをまとめてオーディオ機器と、
これまで何気なく呼んでいた。

けれど、ここにきて、アンプはアンプにかわりはないけれど、
つねに、どんな場合であってもオーディオ機器なのか……、
秋葉原のその店(オーディオ店と呼ぶよりトロフィー屋がふさわしい)に行ってから、
そう考えるようになった。

あの店は、立派なオーディオ店だよ──、
そう思っている人にとっては、その店で売っているアンプやスピーカーは、
紛れもないオーディオ機器ということになろう。

けれど私や私の考えに同意してくれる人にとっては、
その店で売られているスピーカーやアンプは、オーディオ機器なのか……、
と考え込んでしまう。

その店で売られているスピーカーやアンプが、
別の店(オーディオ店と呼べる店)で売られていたら、
オーディオ機器と、私だって認識する。

同じ製品が、ある店ではオーディオ機器として、
別の店ではオーディオ機器とは呼べない何か、として売られている(扱われている)。

また屁理屈をこねまわしている──、
そう思っている人もいるだろう。
私だって屁理屈かな、と思っているところはある。

それでも、屁理屈をこねまわしているだけだろうか、とやはり思うわけだ。
オーディオ機器とは何なのかを考えることが、
「オーディオがオーディオでなくなるとき」を考えることにつながっている、と感じている。

Date: 2月 5th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その7)

別項「快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その3)で、
その店は、オーディオ店ではなくトロフィー屋だと書いた。

オーディオがオーディオでなくなった実例だ、と私は思っている。

Date: 1月 30th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

指先オーディオ(その2)

指先オーディオ。
ここでは、どちらかといえばネガティヴなな意味で使っている。
でも、指先オーディオのすべてがネガティヴなものではない。

指先オーディオだからこそコントロール(調整)できるパラメータがあるわけだし、
最新のデジタル信号処理技術の進歩は、指先オーディオの未来でもある。

なのに、こんなことを書いているのは、
指先オーディオは感覚の逸脱のアクセルになることもありうるからだ。

dbxの20/20から始まった自動補正の技術は、
感覚の逸脱のブレーキとなる。
別項で書いているフルレンジのスピーカーも、感覚の逸脱のブレーキとなる。
優れたヘッドフォンもそうである。

自動補正(自動イコライゼーション)も、指先オーディオの機器のひとつといえる。
いまではスピーカープロセッサーと呼ばれる機器も登場している。

本来スピーカープロセッサーは、スピーカーシステムの最適化のために開発されたモノ。
けれど使い方によっては、スピーカープロセッサーは、感覚の逸脱のアクセルとなる。
簡単になってしまう。

実にさまざまなパラメータを、指先でいじれてしまう。
アナログ信号処理ではいじれなかった領域まで、指先ひとつでいじれる。

人によっては、ハマってしまう。
ハマってしまうことで、感覚の逸脱のアクセル化へと向うのは、
使い手に欠如しているものがあり、それを自覚していないからだ。

Date: 1月 21st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

指先オーディオ(その1)

アナログでもっぽら信号処理をしていた時代から、
ツマミを動かすことで、さまざまなことができるようになってきた。

そこにデジタルが登場して、さらに範囲は拡がり、より細かな調整が可能になってきている。

なんらかのプロセッサーが目の前に一台あれば、
以前では簡単に変更できなかったパラメータをもいとも簡単にいじれるようになっている。

技術の進歩が、ツマミを動かすだけでなんでもできるようにしてくれる。
けっこうなことである。

けれど懸念もある。
その懸念が、指先オーディオである。

指先だけでかなりのことが可能になってきた。
便利な時代になってきた、とは思っている。

なのに指先オーディオなんて、ついいいたくなるのは、
何かを見失ってしまった人を知っているからだ。

彼は昔からパラメトリックイコライザー、グラフィックイコライザーが好きだった。
そのころは彼もまだ若かった。
それらのイコライザーに積極的であっても、指先オーディオではなかった。

けれどデジタル信号処理による、プロ用機器ではさまざまなプロセッサーが出てくるようになった。
それらを手にしたころから、彼は指先オーディオへと突き進んでいった。

歳をとったということもあるのだろう。
体を動かすよりも、指先だけで済むのだから(必ずしもそうではないが)、
そういうプロセッサーへの依存は強くなっていくのか。

高度なことをやっていると思い込んでしまっている彼は、
何も生み出せなくなってしまった──、
私はそう感じている。

彼ひとりではない、とも感じている。
指先オーディオは拡がりつつある、と感じている。

Date: 1月 16th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(人が集まるところでは……)

不特定多数の人が集まるところでは、気持よく帰れることの方が稀だとおもう。
特にオーディオ関係の、そういう場では、げんなりしたり、イヤな気持になったり、
そういうことは必ずつき物だと思っていた方がいい。

昨年のインターナショナルオーディオショウでは、
別項「2017年ショウ雑感(会場で見かけた輩)」で書いている人がいたわけだ。

こういう人の他にも、音を聴きに来ているのか、自慢話を披露したくて来ているのか、
何が目的なのかわからない人もいる。

同好の士が集まる場だからといって、気持よく帰れるわけではい。
先日の「菅野録音の神髄」でも、残念なことに、そういう人たちがいた。

そういう人たちの方が圧倒的に少数であっても、
そういう人たちは目障り、耳障りであるために目立つ。

そういう人たち(そういう大人)に幻滅したくない、という人もいよう。
それで「菅野録音の神髄」に来なかった人もいる。

その人の気持がわからないわけではない。
それでも、やはり来るべきだった、といおう。

今年の最初に「オーディオマニアの覚悟(その7)」を書いた。
そこには、こう書いた。

オーディオマニアとして自分を、そして自分の音を大切にすることは、
己を、己の音を甘やかすことではなく、厳しくあることだ。

そうでなければ、繊細な音は、絶対に出せない、と断言できる。

繊細な音を、どうも勘違いしている人が少なからずいる。
キャリアのながい人でも、そういう人がいる。

繊細な音を出すには、音の強さが絶対的に不可欠であることがわかっていない人が、けっこういる。

音のもろさを、繊細な音と勘違いしてはいけない。
力のない、貧弱な音は、はかなげで繊細そうに聴こえても、
あくまでもそう感じてしまうだけであり、そういう音に対して感じてしまう繊細さは、
単にもろくくずれやすい類の音でしかない。

そんな音を、繊細な音と勘違いして愛でたければ、愛でていればいい。
一生勘違いしたままの音を愛でていればいい。

それでいいのであれば、幻滅したくない、イヤな気持になりたくない、
傷つきたくないということで、そういう場に出かけなければいい。それで済む話だ。

あとは本人次第だ。

Date: 10月 26th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その6)

SACDは、Super Audio Compact Discの略称であるのは、いうまでもない。
なぜSuperとCompactのあいだにAudioを加えたのだろうか。

Super Compact Discでもよかったはずだ。
そうすれば略称はSCDとなる。

SACDの名称は、ソニーが決めたのだろうか。
ソニーとフィリップスが話し合って決めたことなのか。

SACDが登場した頃は思いもしなかったが、
いまはAudioが入っていてよかった、と思う。

Date: 10月 19th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その3)

「五味オーディオ教室」がオーディオのスタートだった私にとって、
「五味オーディオ教室」は、五味先生の耳の記憶が綴られていた、とつくづくおもうとともに、
それ以外のスタートでなくてよかった、ともつくづくおもう。

「五味オーディオ教室」をくり返しくり返し読んできたのは、
「五味オーディオ教室」という五味先生の耳の記憶を継承しようとしていた──、
ここにきて、やっとそういえる。

Date: 10月 17th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その2)

自分の耳に自信があれば、人の意見、
特にオーディオ評論など必要ではない──、という意見が以前からある。

耳の記憶の集積こそが、オーディオである、と考える私にとって、
真にオーディオ評論といえるものを読むことは、耳の記憶の集積につながる行為である。

Date: 10月 15th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その1)

耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいおう。