耳の記憶の集積こそが……(その7)
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
なのだから、過去を物語として語れない時点で、
その人はオーディオを語れない、ともいえる。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
なのだから、過去を物語として語れない時点で、
その人はオーディオを語れない、ともいえる。
オーディオに限らず、どの分野、とくに趣味の世界では、
自称オーソリティがすくなからずいる。
他称オーソリティももちろんいるのだけれど、
その他称オーソリティのなかには、自称オーソリティが認めるオーソリティだったりして、
実のところ、自称オーソリティとなんらかわらないだけの、あやしいオーソリティだったりする。
そんなふうに感じているのは私ぐらいのものか、と思っていたら、
そうではなかった。
やっぱりそうなんだなぁ……、とおもうしかない。
自称オーソリティの周りには、類は友を呼ぶわけだから、
同じ人たちが集まって、互いに、あの人はオーディオのオーソリティですから、と呼ぶ。
そういう時代である。
(その19)、(その20)で、
ステレオサウンド・グランプリの次の選考委員長は誰なのかについて、すこしばかり書いている。
(その19)と(その20)を書いたのは2020年9月。
三年前に書いていることの続きを、いま書いているのは、
昨日発売になったステレオサウンド 227号に、柳沢功力氏の名前がないからだ。
3月発売の226号にも、柳沢功力氏の名前はなかった。
今年12月発売の229号でのステレオサウンド・グランプリの選考委員に、
柳沢功力氏の名前はないかもしれない。
そうなった場合、次の選考委員長は誰になるのだろうか。
そして、誰か一人、選考委員に新たに加わるのだろうか。
それは誰なのだろうか。
「続・再生音とは……(その33)」で、
自己模倣という純化の沼にはまってしまったら、
永遠に花を咲かすことはできない、と書いた。
自己模倣という純化の沼にはまってしまった人は、つぼみのままの音を聴き続ける。
音という花を咲かせることはできない。
そのこと、書いた二年前よりも、強く感じるようになってきているし、
つぼみのままの音を愛でることから脱却できない人は、
たがやさせない人でもある。
これも以前書いていることなのだが、
たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。
自己模倣という純化の沼のこわいところは、
本人だけが気づかぬまに、
憧れがたてまえの憧れとなってしまうことだ。
そして、そうなってしまった憧れは、憧れがもつ本来の精気、輝きを失う。
五年前に、別項「続・再生音とは……(続その12に対して……)」で、
AIとは、artificial intelligenceだけではなく、
auto intelligenceなのかもしれない、と思うようにもなってきた、と書いたことを、
このテーマの続きを書こうとしたら思い出した。
オーディオマニアが、
オーディオマニアとしての役目、役割をまったく考えなくなったとしたら、
それは、やはり時代の軽量化なのだろう。
実際のところ、どうなのだろう?
オーディオマニアとしての役目、役割──、
そんなこと、自分には無関係という人の方が多いのだとしたら……。
デッカ・デコラも、終のスピーカーなのか、と考えたことがないわけではない。
それでもデコラは、私にとってスピーカーシステムとしての存在ではなく、
別の存在としてのモノであって、デコラは少なくとも私にとって終のスピーカーとはいえない。
いつかはデコラ、という気持は持ち続けている。
なのに終のスピーカーといえない気持は、いまのところ自分でもうまく説明できない。
それでもおもっていることはある。
もし、デコラに匹敵する存在のモノをつくれ、といわれたならば、
スピーカーに関しては、Troubadour 40を選択する。
デコラと同じように、複数のトゥイーターを角度をつけて配置するという方法も考えるが、
それではオリジナルのデコラを超えること(肩を並べること)はできないように考えるからだ。
全体のデザインはほとんどなにも考えていないのだが、
それでもスピーカーの中心となるのはTroubadour 40(DDD型ユニット)しかない。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
私はそう考えている人間だから、
オーディオにおける快感か幸福かについても、
耳の記憶の集積によって、大きく左右される、とうけとめている。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
(その1)で書いている。
そのまま、もう一度書いておく。
この大事なことを抜きにして、オーディオについて語り合うことはできない。
太った豚より痩せた狼であれ。
一時期、よくいわれていたものだ。
はっきりとは憶えていないし、
検索してみても、いつごろから、誰が言い始めたことなのかはっきりとしない。
私が十代の終りごろからハタチすぎくらいまでに、
よく見聞きしたように思う。
私の周りにも、真顔で「太った豚より痩せた狼であれ」という男がいた。
豚、狼というのが精神的な分類であることはわかったうえで、
ややひねくれたところのある私は、
豚なのか狼なのかは、本人には選べないし、
選べるのは太っているか、痩せているか──、ではないのか。
それを真顔でいう人に向って返したことはないけれど、
いま彼らは、どう思っているのだろうか。
(その18)で引用した菅野先生の文章は1975年のものだが、
まだそのころは私は「五味オーディオ教室」にであっていない。
なので「世界のオーディオ」のラックス号を読んだのは、
ステレオサウンドで働くようになってからである。
《肥った馬はやせていき、やせた馬は死んでいき、肥った豚が増えてくる。ついには、やせた豚と肥った豚だけの世の中になってしまう》、
ゆえに、ここのところではうんうんと頷いていた。
やせた豚と肥った豚だけの世の中。
そうなりつつある。
ひさしぶりに読みなおして、五十年近く前に書かれたこととは、
わかっていても、予言めいていると思うし、
ここで私は「時代の軽量化」をテーマにしているけれど、
それは近年のことではなく、ずっと以前から悪循環の輪なのかもしれない。
次の文章を、まず読んでほしい。
*
ところで現実の姿はどうだ。金儲けが第一、唯一の目的(初めはそうではなかったのが、知らず知らずのうちにこうなっていく悪循環を生み出す,悪い輪廻から生れたものと思われるが)の人間は、すでに物創りの魂を失っているわけだが、そういう人間が作るものに本物の美や価値があろうはずがない。それを買う買手は、決してよい買手とはいえない。買手のほうにも広い精神的視野と高い価値観がないから、少しでも安いものを買って目先の得をしようと思う。それでも売れることは売れる。ただし、安くしなければならないから、大量に売らなければならない。上がった利益は次の仕事に使われるが、その方向が問題。つまり、より安く、より多くつくるために大部分が使われる。もともと物創りの精神を失っているから、客の目を惹くためにはなんでもする。新製品は目につくから、次から次へと短期間にやっつけ仕事でも新製品をつくらねばならない。この輪廻の中で金儲け主義の人間に使われる多くの使用人達は馬車馬のようにムチ打たれ、心の余裕を失うままにヒステリックに働き疲れる。少しでも賃金を獲得しようと汲汲とする。少しでもサボッたほうが得だという歪んだ考えや無責任人間が生れる環境が出来上がる。金儲け人間たちは、大量のそういう使用人達の管理や、おだてに神経を使い、ますます本質を忘れる。そうしてふくれあがった大量の人間たちは、他の分野でも、低い価値観しか持たないから、決していい買手にはなり得ない。文化は低下し、人間は疲れる。世の中がこういう輪廻をつくり出すと、人は生き甲斐を失って、ただ疲れ、ますます悪循環の輪は拡がっていく。そして、知らず知らずのうちに、世の中には、本当に優れたものの価値を評価する人間が減っていく。いいものは値段の高さだけが目立つようになる。ここで本来のオーディオ界の輪が決定的にくずされるわけだ。実用家電製品になり下がる。趣味はひたすら、レジャーとか暇つぶしといった概念だけで考えられるようになり、オーディオも単なる流行現象と化し、肥った馬はやせていき、やせた馬は死んでいき、肥った豚が増えてくる。ついには、やせた豚と肥った豚だけの世の中になってしまう。
*
《少々極端だが》と菅野先生自身も書かれているが、
1975年に書かれた、この菅野先生の文章を読んで、
どう思う(感じる)のか、そしてどう考えるのか。
不遜な人たちを叱れる人がいなくなってしまったのも、
時代の軽量化なのだろうし、
叱る(叱られる)と怒る(怒られる)を同じに捉えてしまう人がいるのも、
そうなのかもしれない。
倫理がどこまでも曖昧になっていくのだろうか。
ながくオーディオという趣味を続けていれば、
かなりの金額をオーディオに費やしただろうし、
それにともないオーディオマニアとしての自信もついてきていることだろう。
けれど、そこに覚悟がなければ、
自信だけでは、かっこよくはならないのではないか。
オーディオ製品に大のおとなが一生をかけんばかりに打ち込んでしまう。音楽にならまだ話はわかるが、近頃では若い前途洋々の人生をひたむきにまで賭けて、オーディオマニアたることを誇りにもとうとする。なぜか。
オーディオには、いまや男の夢を托し得るだけのロマンがあるからだ。そう、こうしたロマンを求められ得る男の世界は、はたして他に存在するといえるだろうか。(ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」ラックス号より)
*
岩崎先生が、「私のラックス観」で書かれていることだ。
1975年に書かれていることだ。
このころハタチ前後だった人たちは、七十近くになっている。
このころの若い人たちは《オーディオマニアたることを誇りにもとうと》したわけだ。
いまはどうなのだろうか。