できるもの、できないもの(その4)
それにしても、なぜ音は所有できないのか……を考えると、
以前「再生音は……」で書いたことに行き着く、というより行き当る。
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」だから、
われわれオーディオマニアはオーディオ機器、それを鳴らす環境は所有できても、
そこで鳴る音、鳴ってくる音は所有できないのではないのか。
それにしても、なぜ音は所有できないのか……を考えると、
以前「再生音は……」で書いたことに行き着く、というより行き当る。
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」だから、
われわれオーディオマニアはオーディオ機器、それを鳴らす環境は所有できても、
そこで鳴る音、鳴ってくる音は所有できないのではないのか。
オーディオに関することで家族への言い訳をあれこれ考えずにすんだ人は、
めぐまれた人といえるのだろうか。
家族といっしょに暮らしていて、
誰にもオーディオ機器の購入、その他に関することでまったく言い訳する必要のない人は、
まず金銭的にもめぐまれている人であることは間違いないであろう。
言い訳なんぞしなくてすむならしたくはない、考えることしたくはない。
そんな言い訳をしなくてもすむのだから、すくなくともオーディオ機器の購入に関しては、そうであるのだから、
やはりめぐまれている、ということになる。
そして自由に、欲しいオーディオ機器が登場したら、買い替えられる。
買い替える、もしくは買い足すことに誰も文句を言わない、
そういう環境の人は、ほんとうに誰にも言い訳をしていない、と言い切れるだろうか。
確かに家族に対しては、言い訳をする必要はないからしない。
けれど、彼らの中には、自分自身に対して言い訳をして、あれこれ買い替え、買い足している人だっている。
あのスピーカーシステムがあれば、こういう音が出せる、
あのパワーアンプに買い替えれば、このスピーカーからもっといい音を出せる、
ケーブルをさらに高価なものにしたら……、
つねにこんな言い訳を自分に対してしていない、と言い切れるだろうか。
オーディオは自分自身に言い訳をしなければ、いい。
自分自身に言い訳をしてしまったらダメなのが、オーディオである。
家族の理解が得られない……というオーディオマニア共通の悩みがある。
ひとり暮らしであれば、そんな悩みは当然ないし、
家族といっしょに暮らしていてもそんなこと悩みなんてない、という人もいることだろう。
でも多くのオーディオマニアにとって、なかなか家族の理解が得られない、得られにくいということは、
オーディオ機器をなにか購入する際、家族を説得することから始めなければならないし、
言い訳も考えておく必要も生じてくる。
なぜ家族の理解が得られないのか──。
音楽が嫌い、という人は少ないはず。
あまり音楽には深い関心はない、という人でも、一曲か二曲、
あるいはもうすこし多いだろうが、想い出の曲とか好きな曲はある、と思う。
音楽は好き、という人も大勢いる。
にも関わらず、家族の理解が得られないのは、なぜなのか。
昔からいわれていることだが、
これまでとくに答を見つけようとはしてこなかった。
気儘なひとり暮らしを続けているからなのだが、
昨晩、ふと気づいたことがある。
音は所有できない、と書いた。
実は、このことを直感的に知っている、というより気づいている人、といったほうがいいだろう。
こういう人たちを相手に、理解は得られないのではなかろうか。
オーディオマニアの目的は、いい音を所有することだとしたら、
いくらお金をつぎ込んだとしても、あくまでも所有できるのはオーディオ機器であって、
どこまでいっても、いい音を所有できるわけではない。
もしかするとオーディオという趣味が、オーディオ機器を所有することであれば、
家族の理解はもっとたやすく得られるのかもしれない。
けれど、オーディオという趣味は、いい音を求める趣味でありながらも、
音そのものは絶対に所有できないものであることを、すでに説得すべき相手が知っていたら、
言い訳をするしかないのかもしれない。
二度と同じ音は出ない、もしくは出せない。
ずっと以前からいわれ続けていることだ。
昨夜、素晴らしい音で鳴ってくれたのに、その面影も感じさせない音で鳴ることもある。
極端に大きく音が変ってしまうこともあれば、
わずかな違い──けれど、その所有者にとっては決して無視できない違い──のときもある。
システムはなにひとついじっていない。
にも関わらず音は、まるで意志をもっているかのように気まぐれな表情を、
システムの所有者に対してみせる。
理由はいろいろいわれている。
電源の状態が日々違うからだ、とか、天気(気温、湿度など)の違い、
それに聴き手の体調や精神状態、といったことが絡んでの音の変化であって、
実のところ、装置から出る音は変っていない、という人もいるけれど、
これらの要因は確かにあるけれど、それだけではなく明らかに音は変化している。
つまり、二度と同じ音は聴かせない。
なぜなのか。
つまるところ、音は所有できない、からだ。
われわれが所有できるのは、あくまでも音を出す器械(オーディオ)であって、
そこから出る音を所有しているわけではない。
だから音は変っていく。
二度と同じ音を聴かせないのだと思う。
そう考えると、われわれは音だけでなく、音楽も所有できないことに気がつく。
所有できるのは、アナログディスク、CD、SACD、配信されたファイルであって、
音楽そのものを所有している、と果していえるだろうか。
人が驚くような枚数のディスクを所有していても、音楽を所有してはいない。
音を良くしていく過程として一般的といえるのは、
例えばいままで使っていたアンプでは、惚れ込んだスピーカーを十全に鳴らしきれていない、
そういうふうに感じはじめてきたら、新しいアンプの導入を考えはじめ、
いくつかの候補をあげて、いま使っているアンプと比較試聴、
候補機種同士の比較試聴をすることになる。
自分のリスニングルームで、自分のスピーカーで比較試聴できればそれにこしたことはないけれど、
そういかなければオーディオ店においての比較試聴ということになる。
アンプに限ったことではない。
CDプレーヤーにしてもそうだし、
ケーブルやインシュレーターといったアクセサリーに関してもそう。
ケーブルはアンプよりも、ずっと自分の環境においての比較試聴が容易なものであり、
購入しての比較試聴もあれば、懇意にしているオーディオ店からの貸出しということもあるし、
オーディオの仲間同士での貸し借りもある。
一対比較のときもあれば、もっと多くの種類のアンプやケーブルを比較試聴することにもなる。
その中で、自分にとって(購入できる範囲であっても)、もっとも望ましいアンプなりケーブルを選ぶ。
複数の中からひとつを選ぶ。
そのことにこそ主体性があり、
音を聴いて、よりよい音のするモノを選んでいるわけだし、
音による自己表現をより明確なのとしていく行為──、
そんなふうに思われているであろうし、昔はそう思っていた時期もある。
いま書店に並んでいる雑誌penの9月1日号は、「サイボーグ009完全読本」となっている。
サイボーグ009は、石ノ森章太郎氏の代表作のひとつ。
今秋映画も公開される。
サイボーグ009という作品そのものについて語ろう、というつもりではない。
penの、この特集のなかに
「改造人間の紡ぐ言葉に、思わず心が震える。」とタイトルがつけられたページがある。
そのなかに「未来都市編」からの引用で、
004(アルベルト・ハインリヒ)と009(島村ジョー)の対話からなる5コマのシーンが掲載されている。
このふたりの会話だ。
004:
……機械(メカニズム)がしばしば人間をうらぎることは──
……機械(メカニズム)を身体(からだ)に埋めこまれている
──身体(からだ)の半分以上が機械(メカニズム)の……
オレたちが一番よく知っている!?
009:
だけど004(ハインツ)──
その──〝うらぎる〟といういいかたは矛盾してるんじゃないか?
……機械(メカニズム)を人間あつかいしていることになる……!
004:
──そう
その矛盾だ!
──いまいましいことに身体(からだ)の中の機械(メカニズム)たちが……
オレの思い以上に働いてくれている時……
……なんてすばらしいヤツラなんだと──
思わず〝人間的〟に感情移入して讃美したくなる!
009:
……うん!
004:
……だが、それでもやはり
──人間的にあつかうのは……
……まちがっているし──
危険なんだ!
004と009がいう機械とは、彼らの身体の中に埋めこまれたメカニズムのことである。
だが、この機械は、そのままオーディオに置き換えても成り立つ。
そう考えた時、オーディオマニアの身体にオーディオというメカニズムが埋めこまれているわけではない。
けれど、コンサートで生の音楽を聴くことよりも、
オーディオというメカニズムを通して音楽を聴くことに時間も情熱も費やしている、ということは、
オーディオは外在化した身体の機械(メカニズム)──、
そう受け止めることができることに気がつき、
飛躍しすぎといわれようが004のことばが、ぐっと重みをまして感じられる。
penの次号は9月1日に発売になるので、
9月1日号に興味をもたれた方は、購入はお早めに。
こうやって書いていくという行為は、何かを掘り起している──、
書いている本人はそう思っている。
そして、「何か」とは事実、真実、そういったものであるはずだとも思っている。
けれど本人はそう思っている行為でも、もしかすると何かを埋めている行為でもあるかもしれない。
そんなことを思うことがないわけではない。
見当違いのところを掘り起していれば、
掘り起すことで出た土をどこかに盛ることで、そこにある「何か」を埋めている……、
そういうことがない、と果していえるだろうか。
書くという行為と音を良くしていくという行為に似ているところ、同じところがある、と感じている。
音を良くしていこうと思い、あれこれ試行錯誤しながら音は良くなっていく──。
ここで、けれども……、とおもう。
書くことが幾つもある時に限って、なにか新しいテーマで書きたくなる。
やめとけばいいのに、と自分でも思いながらも、とにかく新しいテーマを考え出すために、
以前書いたものをランダムに拾い読みすることもある。
そんなことをせずに、いま書いているテーマの先をさっさと書けばいいのに……、とは思っても、
テーマを増やしたいときは、ときに無理してでも増やしてきた。
自然に、というか、ふいに新しいテーマが浮ぶときもある。
こうやってなかば無理矢理に新しいテーマを考え出すときもある。
今日のタイトルは、「虚」の純粋培養器としてのオーディオ。
そうやってつけたタイトルである。
2010年12月に、「虚」の純粋培養ということばを使っている。
1年半前に、そうおもった。いまもそうおもっている。
だから、タイトルを、「虚」の純粋培養器としてのオーディオ、としたわけだが、
いざタイトルにしてみて気がつくことがある。
本当にオーディオが「虚」の純粋培養器であるとすれば、
オーディオを追求するということは、どういうことなのかを、もう一度考え直さなければならないことになる。
「音は人なり」とこの、「虚」の純粋培養器としてのオーディオは相反することになりはしないだろうか。
そうも考えられるわけだが、それでも、いまはまだ直感でしかないし、おぼろげながらでしかないが、
決して、このふたつのことは矛盾しないはずだ。
ハークネスとS9500、このふたつのJBLのスピーカーシステムに対する田中一光氏の使い方は違う。
ハークネスに対しては、(私の勝手な解釈だが)田中一光氏は音を奏でる家具として、
S9500に対しては、いわゆるオーディオ機器としてスピーカーシステムとして、の使い方をされている。
S9500にはハークネスのような使い方は、もうまったく似合わない。
ハークネスとS9500とは、そういう性格の違いをもっているわけだ。
そしてハークネスとオリンパスにも、ハークネスとS9500ほどではないにしても、
同じ性格の違いがあると感じている。
ハークネスは田中一光氏の使い方もできる一方で、いわゆるスピーカーシステムとしても使いたくなる。
つまり通常のスピーカーシステムと同じように左右に拡げ、左右のスピーカーのあいだには極力物を置かずに、
スピーカーシステムの内側への振りも聴きながら調整して詰めていく。
このことが私にとって、ハークネスとオリンパスの大きな違いとして、ずっと以前からあるものだ。
結局、これは私にとっては、ハークネスとオリンパスのスピーカーシステム・デザインの違いである。
ハークネスとオリンパスとでは、オリンパスのS8Rともなれば、
ユニット構成はハークネスよりもワイドレンジ志向のものになり、ドライバーも375を採用するなど、
より本格的な再生を目指していくのであれば、ハークネスよりもオリンパスのユニット構成の方が可能性は高い。
そういう意味では、それに見合っただけの使いこなしが聴き手には求められるともいえるのだが、
オリンパスの雰囲気は、こまかい使いこなしをいくらか遠ざけてしまうようにも感じられる。
オリンパスは、音を奏でる家具としてはハークネスよりも徹底しているようにみえる。
だから家具として、オリンパスは、そういう使い方を聴き手に暗黙の了解として、求めている。
家具ということになれば、それが音を奏でるモノであっても、
多くの家具と同じように壁に寄せて置くことになる。
そういう置き方をしたときに、部屋の中にしっくりと収まるからだ。
田中一光氏のリスニングルームの記事が掲載されたステレオサウンド 45号は、1978年発行。
1993年に発行されたステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に掲載されている「田中一光氏 JBLを語る」でも、
ハークネスはやはり健在だ。
カラー4ページのこの記事にリスニングルームの写真は2点。
1点はProject K2 S9500が収められているもの、もう1点がハークネスの部屋である。
45号のときとは部屋の感じも多少変化している。
左右のハークネスのあいだには、やはりテーブルがある。椅子もある。
ただテーブルの細部の造りは多少異っているし、それにテーブルの幅が1.5倍ほど広くなっている。
そのことと関係してだろうが、椅子も45号のときはハンス・ウェグナーのモノだったが、
「JBLのすべて」では別の椅子に、それも2脚置かれている。
ハークネスの上に置かれているライトは写真をみるかぎりでは、45号と「JBLのすべて」、どちらも同じモノだ。
どちらが好きかといえば、45号のほうが、私は好きである。
最初の印象が強かったためでもあろうが、インテリアの一部として、
部屋の雰囲気そのものに溶け込んでいる感じを、より強く受けるからのような気がする。
「JBLのすべて」でのハークネスは、45号のときよりもスピーカーシステムとしての存在感がはっきりしている。
田中一光氏によるふたつのハークネスが置かれているリスニングルームの写真を見る順番が違っていたら、
それに見たときの年齢も関係しているから、どちらがいいとか、そういったことではない。
ハークネスが、田中一光氏のリスニングルームにおいては、家具として部屋に溶け込ませるように置かれている、
このことに注目してほしい。
田中一光氏の、もうひとつのスピーカーシステム、
S9500のあいだにはスクリーンがあるだけで、テーブルも椅子もない。
毎日書いていくためには、テーマが必要で、しかも複数のテーマがあったほうが書いていきやすい。
それだけでなく、複数のテーマが互いに関係し合っていくこともある。
だからあれこれ、いくつもテーマをつくってはそれについて書いているわけで、
新たなにテーマをつくったときには、そのことに関する結論、もしくはそれに近いものは同時に私の中にあって、
それに向って書いていっている。
ただその結論に向って書いていく途中で、書き手自身が気づくこともあるし、
細かく説明しておきたいこともでてきて、
テーマをつくったときに考えていたものよりも、ずっと長くなってしまっている。
書けば書くほど、結論へなかなか到達しない、というか、より遠くなっている気もしないではない。
それに結論は最初にあっても、そこに至るまでのプロットをつくっているわけではない。
私のなかでは自然な結びつきで、そこ(結論)に至っていることでも、
いざ言葉にしてみると、埋めていかなければならないことが、ある。
実は、この、「オーディオ」考に関しては、結論、もしくは結論に近いものは、何も私の中にはなかった。
どういうことを書いていくのかも、まったく考えていなかった。
ただただ、「オーディオ」考、というタイトルだけが思い浮んだだけで、とりあえず書き始めてしまった。
そういう始まりかたをしたものだから、私自身、これから先、どうなって、どういうところに行き着くのか、
まったくわからないし、だからこそ興味があり、書いていて面白い。
(書き手が面白いことが読み手にとって必ずしもおもしろいわけではないことはわかっている)
いま、家具という見方でオーディオを、あえて捉えている。
こういうオーディオの捉えかたもできる、という意味でも書いているが、
書いていて、この捉えかたから見た場合の、オーディオの進歩についても書いていけることに気がついた。
オーディオ機器の性能は、基本的には向上してきている。
それは進歩といえることなのだろうが、オーディオを家具として捉えた場合、
さらに、オーディオは何モノかをいろいろと考え、そこから捉えていったときに、
いまのオーディオの、進歩と広く(それだけに漠然となのかもしれない)認識されているものは、
ほんとうに進歩と呼べるものなのだろうか、という疑問が出てくる。
とにかくオーディオが何モノなのかを、考えられるだけ考え抜いた上で、
それらの立場からのもう一度見直していかなければ、実のところ、進歩については語れないであろうし、
まして進化については語れないし、真価もわからないはずだ、と思えてきたところだ。
田中一光氏のハークネスについては以前も書いている。
くり返しになるとわかっていても、氏のハークネスの使い方については何度も書きたくなる。
私が言葉を尽くすよりも、ステレオサウンド 45号に載っている写真を見ていただく方が、
その使い方の見事さを伝えてくれる。
オーディオ関係の雑誌には、昔から読者訪問記事がある。
ステレオサウンドにも、いまはなくなってしまったが、
菅野先生によるベストオーディオファイルがあり、レコード演奏家訪問があった。
その前には五味先生によるオーディオ巡礼があった。
ほかの雑誌にも、定期的だったり不定期だったりするが、
オーディオマニアのリスニングルームは記事になることが多い。
それにインターネットが普及して、ウェブサイトやブログをつくり公開することがそれほど難しいことではなくなり、
リスニングルームの実例をみようと思えば、いくつも見ることができる。
古くからあるオーディオマニア紹介(読者訪問)の記事だが、
以前といまとでは、読者の興味の対象が変って来つつあるのかもしれない、と思うこともある。
昔は、この人はこういうオーディオ機器を使い、こういう使い方をしているんだ、
といったことに関心が向いていたのではないだろうか。
いまは、この人はこういう使いこなしをしているんだ(それはあくまでも写真でわかる範囲のことではあるが)、
そのことに読者の関心は向きつつある、もしくは向いているし、
編集者側の発信の仕方としても──記事の内容とももちろん関係していてのこともある──、
使いこなし方にまでふれるようになってきているようにも感じることがある。
ステレオサウンド 45号の田中一光氏のリスニングルームの写真が伝えてくれるのは、
田中一光氏の使い方であるからこそ、当時中学3年だった私は憧れたのだ。
なぜ、そのような使い方をするのか。
その前に、同じJBLのスピーカーシステム、ハークネスのことを書きたい。
ハークネスは、いまでも「欲しい!」という気持がつづいている。
ステレオサウンド 45号の連載記事「サウンド・スペースへの招待」を読んだときから、
ずっとその気持は続いている。
ときに強くなったり、かすかになったりしながらも、1977年から持ち続けている気持だ。
この号の「サウンド・スペースへの招待」の副題には「木に薫るハークネス」とついている。
紹介されているのはデザイナーの田中一光氏のリスニングルーム。
このときの田中一光氏のシステムは、
スピーカーシステムは、もちろんJBLのハークネス(001 System)、
コントロールアンプはマッキントッシュのC22とマークレビンソンLNP2L、パワーアンプはマランツの510M、
プレーヤーはヤマハのYP800でカートリッジはピカリングXSV/3000。
ステレオサウンド 45号が手元にある方はぜひひっぱり出して見てほしい、と思う。
こんなにハークネスが見事に部屋に収まっているのを見た14歳の私は、ずっと憧れてきた。
ハークネスというスピーカーシステムは、美しい、と思う。
けれど、他のJBLのスピーカーシステム、
たとえばハーツフィールド、パラゴン、オリンパスと比較すると、
エンクロージュアはバックロードホーンではあるものの、サランネットをつけた状態ではそのことは判らない、
四角い箱でしかない。
金属製のテーパーのついた細い脚、
シックなサランネットもフラットではなく中心から両端にかけて奥に引っ込んでいる。
JBLのスピーカーシステムの中で、モダーンデザインの成功例だと思う。
そういうハークネスだから、
ハーツフィールド、パラゴン、オリンパスに見られるような家具的要素・側面は希薄であり、
通常のスピーカーシステムと同じように内側に振って設置するという使い方もある、と思うし、
田中一光氏の、見事な使い方もある。
田中一光氏のハークネスの使い方は、家具として扱われている。
そのことを意識されていたのかいなかったのかは、「サウンド・スペースへの招待」を読んでもわからないが、
氏のリスニングルームの写真を見れば、
ハークネスが家具として、あるべきところに収まっている、としかいいようがない。
タンノイのRHRを聴くとき、サランネットは、ではどうするか。
どちらでもいい、と思う。
聴く音楽によって付けたり外したりしてもいいし、音量によっても付けたり外したりして、
自分によって、そのときの自分にとって好ましい方をその都度選択していく、という使い方でいい、と思う。
それに鳴らしはじめのころと、使い始めて1年後、3年後、5年後、10年後……によっても変ってくる。
かたくなにどちらに決めてしまって使うよりも、その方がいい。
サランネットの脱着は簡単に行えるし、RHRはフロントバッフルも仕上げてあるから、
サランネットを外した状態でも外観的に気になるわけでもない。
ではオリンパスは、どうかというと、これはもうつけた状態で聴くしかない。
組格子を外した状態の音が、付けたときの音よりもずっとずっと好ましいとしても、
オリンパスというスピーカーシステムを使うのであれば、あの組格子は外したくない。
組格子を外したオリンパスの外観も、精悍といえなくもないが、
それでもオリンパスは組格子付きの状態こそがオリムパスというスピーカーシステムを成立させている。
オリンパスを組格子なしで聴くのであれば、
いっそのこと、ほかのスピーカーシステムにした方がいいとさえ、私は思う。
そう私に思わせるのは、オリンパスに家具的側面を強く感じているから、でもある。
オリンパスを使ったことはないし、これから先も自分のモノとして使うことはないはずだ。
それでも、もし使う機会がおとずれたとしたら、オリンパスを家具として映える位置に設置するだろう。
そこが音的にはあまり芳しくないとしても、
オリンパスというスピーカーシステムの正しい使い方のひとつ、と思えるからだ。
使い方と使いこなしは似ているようで、違う。
オリンパスは、家具的側面のない現代のスピーカーシステムのようには、角度を付けて設置したくはない。
つまり聴取位置に向けて内側に振りたくはない。
まっすぐ向くように設置したい。
理由は前述しているとおり、映えるようにしたいからだ。
ステレオ再生のために2台のオリンパスをどう設置するのが、もっとも映えるのかを考えれば、
私にとってのオリンパスの設置はこうなってしまう。
そして内側に振るのをやめるだけでなく、
できるだけ左右に広げて、それも部屋のコーナーぎりぎりまでに寄せた方が、より収まりがいいはずだ。
だからといって、すべてのスピーカーシステムのサランネットを外して試聴していたわけではない。
基本的にフロントバッフルがきれいに仕上げられているスピーカーシステムは、
サランネットを外した状態を標準として試聴していた。
国産のスピーカーシステムは、ブックシェルフ型もフロアー型もフロントバッフルはきれいに仕上げられている。
一方、イギリスのBBCモニター系列のスピーカーシステムとなると、
スペンドール、ハーベス、ロジャースのスピーカーシステムをみればわかるように、
エンクロージュアの側板、天板(機種によっては裏板)はツキ板仕上げでも、
フロントバッフルは黒色の塗装というものが多かった。
この種のスピーカーシステムはサランネットを装着した状態での音づくりをしていることが多く、
実際に音を聴いてもサランネットありの音が好ましく思えることが多い。
サランネットをつけた音か、つけない音かは、メーカーによって違う。
それに開発時期によっても違っている。
外した常態化つけた状態か、その音の判断は、そのスピーカーシステムを使う人が判断することであって、
フロントバッフルが黒塗装のスピーカーシステムでもサランネットを外した音が好ましいと感じるのであれば、
外して聴いた方がいいと思うし、
サランネットがない音のほうが気に入ったとしても、スピーカーユニットが見えるのが嫌だという人もおられる。
こういう例もある。
タンノイのRHRはバックロードホーンのエンクロージュアで、
フロントバッフルと呼べるほどの面積はないもののきちんと仕上げてある。
とはいってもサランネットを外して聴くスピーカーシステムなのかといえば、
サランネットの裏側をみると、そうともいえない。
サランネットにカーヴをもたせるために小孔がいくつもあけられたパンチングメタルが、ネットの裏にある。
これを叩いてみるとけっこうな音がする。
それに小孔を音が抜けるときにも、そのことによる固有音が発生する。
こんなものがスピーカーユニットの前にあったら音質が劣化する──。
たしかに劣化する、といえるし、劣化ではなく音の変化でもあると、この場合はいえる。
タンノイはあえて、こういうサランネットを作ったのであろう、と思っている。
サランネットにカーヴを持たせるには、ほかのやり方がいくつかあったはず。
それでもパンチングメタルを使っている。
小孔、といえば、タンノイの同軸型ユニットの特徴でも、多孔型イコライザーがある。
JBLやアルテックのコンプレッションドライバーがリングスリット状のイコライザーを採用しているのに、
タンノイは一貫して細い孔を、スロートから見て放射状に広がるようにあけたタイプとなっている。
RHRのサランネットの裏側をみたとき、タンノイがあえてこういう構造にしたのは、
多孔型イコライザーとの関連性からかもしれない、と思った。