Archive for category 菅野沖彦

Date: 6月 9th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その4)

私がステレオサウンドで働くようになったのは1982年1月の終り近くだった。
ちょうどステレオサウンド 62号の編集作業の真っ只中だった。

ステレオサウンド 62号、63号には、
「音を描く詩人の死」が載っている。
瀬川先生に関する記事である。

この記事を執筆されたのは、編集顧問のYさん(Kさんでもある)だった。

ステレオサウンド 62号、63号が出たとき私は19だった。
黛さんは1953年9月生れだから、28歳だった。
編集次長という立場だった(当時の編集長は原田勲氏)。

あのころは編集という仕事になれることに精一杯のところもあったから気づかなかったけれど、
62号と63号の「音を描く詩人の死」の文章を、
黛さんは自身で書きたかったのではないのか──、
このことに今回気づいた。

黛さん本人に確認したわけではない。
でも、きっとそうであったに違いない、と信じている。

そして、その気持をずっと持ち続けていた人だから書ける文章がある、ということだ。

Date: 6月 4th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その3)

今日(6月4日)は、ステレオサウンド 211号の発売日。
発売日に書店に行き手にする──、
ここ数年、そんなことすらしなくなっているけれど、今回はさきほど購入してきた。

黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その2」を読みたかったからである。
タイトルは、その2ではなく、後編に変更になっている。

先週公開されたステレオサウンド 211号の告知をみて、
今回も黛健司氏が書かれるんだ、とまず思った。

先月末の日曜日、友人のAさんと会っていた。
私と同じ1963年生まれのAさんも、
「ステレオサウンドの前号(210号)でおもしろかったのは、
黛さんの記事だけだった」といっていた。

「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」を読みながら、
Aさんが20代のころ読んでいたステレオサウンドを思い出しながら読んでいた、とのこと。

そのときも、「その2は誰が書くんだろうね、黛さんなのかな、他の人なのかな」と話していた。
その数日後に、黛さんが書かれることがわかった。

読み終えた。
そしておもうことがある──、
ほんとうのことをいえば、黛さんが書くということがわかったときからおもっていることが、
ひとつあった。

Date: 3月 7th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その2)

ステレオサウンド 210号、
黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」。

ステレオサウンドのウェブサイトの告知で、その1とあったから、
短期連載になることはわかったし、
だからそれほどページ数を割いているわけではないだろうなぁ──、
そんなふうに勝手に思っていた。

そう思ったのは、209号掲載の柳沢功力氏の追悼文にもある。
209号には、原田勲氏の弔辞も掲載されていた。

けれど追悼文は柳沢功力氏だけだった。
柳沢功力氏の追悼文を読んで、これで終りなの?……、とおもっていた。

私と同じように感じていた人は、周りに少なからずいる。
210号以降で、菅野先生のなんらかの形で掲載されるだろうことは、予想できていた。

それでも追悼文があのくらいだったから……、
そう感じていたから、さほど期待していなかったところもある。

なので、黛健司氏の
「ベストオーディオファイル賞からレコード演奏家論へ」には驚いた。

「ベストオーディオファイル賞からレコード演奏家論へ」はサブタイトルである。
おそらく「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その2」では、
黛健司氏ではなく、他の方が書かれるのだろうか。

私個人としては、その2も黛健司氏に書いてほしい、と思っている。
どちらになるのかはわからない。

その2以降、書き手が変っていくのであれば、
誰であろうと、大変だろうな、と思う。

Date: 3月 5th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その1)

ステレオサウンド 210号で、ひとつだけ読みたいと思う記事がある。
黛健司氏の「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅 その1」である。

まだ読んでいない。
書店にも寄っていない。

にも関らず、この記事は210号で、ただひとつ読むべき記事だと思っている。
いい記事のはずだ。

ここにだけは、まだ残っているはずだ。

Date: 12月 18th, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド、アナログ)

12月にはいり11日にステレオサウンド、15日にアナログの最新号が発売になった。

主だったオーディオ関係の雑誌すべてに菅野先生の追悼記事が載ったことになる。
11月に発売されたステレオ、レコード芸術、オーディオアクセサリー、
どれがよかったかなどというようなことではない。

それでもいいたいのは、前回も書いているのと同じことである。
オーディオアクセサリー掲載の追悼記事だけは読んでほしい。

Date: 12月 7th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(ピアノ)

ステレオサウンドのベストオーディオファイル、そしてレコード演奏家訪問。
菅野先生が全国のオーディオマニアを訪問された連載記事である。

菅野先生が来られるということで、多くの方が、菅野先生の録音、
おもにオーディオラボのディスクを再生される。

菅野先生によると、ひとつとして同じ音はなかった、とのこと。
菅野先生の録音の意図をはっきりと再生している音もあれば、
まったく意図しない音で鳴っていることもあった、ときいている。

ほんとうにさまざまな表情で、菅野先生の録音が鳴っている。
それでも、世の中にでは、菅野録音ということで、ある共通認識はできているようでもある。

何をもってして、菅野録音といえるのか。
これもまた人によって違うことなのだろう。

それでも、私はひとつだけいえることがある、と思っている。
ピアノの音である。

菅野先生の録音によるピアノの音をきいて、どう思うのか。
ほんとうに、菅野先生はピアノという楽器がお好きなんだなぁ、
そうおもえるかどうかである。

ピアノがいい音で鳴っている、と感じるだけでは不十分で、
菅野先生のピアノという楽器へのおもいが感じられなければ、
菅野録音はうまく鳴っていない、といえる。

Date: 11月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

としつき(26年後)

2007年11月7日に、神楽坂のとある店で、
瀬川先生の二十七回忌の集まりをやった。

その時のことは別項「瀬川冬樹氏のこと(その17)」で書いている。
菅野先生も来てくださった。

会の終りに、菅野先生がいわれた。
「オレの27回忌もやってくれよ」と。

その時、私は81歳になっている。
生きているかどうかはわからない。
生きていたとしても、もう呼ぶ人がいなくなっているんじゃないか……、
そのことに気づいた。

Date: 11月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオ、レコード芸術、オーディオアクセサリー)

19日にステレオ、20日にレコード芸術、
今日(21日)、オーディオアクセサリーの最新号が発売になっている。

それぞれに菅野先生の追悼記事が載っている。
オーディオアクセサリー 171号の追悼記事は、多くの人に読んでほしい、とおもう。

Date: 11月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(味も人なり、か・その1)

1987年ごろだったか、試聴のあいまに、
菅野先生がチャーハンの話をされたことがある。

昔、有楽町のガード下に、ミルクワンタンという店があって……、から話は始まった。
菅野先生によると、そこで食べたチャーハンが、
これまで食べたなかでいちばんおいしかった、ということだった。

けれど、その店もなくなって、
なかなかおいしいチャーハンに出合わない、と。

最近食べたなかでは、荻窪にある徳大のチャーハンがよかった。
それでもミルクワンタンのチャーハンと較べてしまうと……、ともいわれた。

ちょうどそのころ吉祥寺にある中華屋で、おいしいチャーハンに出合っていた。
汚い店である。
雑居ビルの上の階にあった。

店の名前とビルの名前が同じだったから、店主はビルのオーナーでもあったのか。
そのへんはわからないし、いまその店はない。

チャーハンといっても、高級中華料理店に行けば、
豪華な食材を使った、高価なチャーハンはある。
それはそれでおいしいけれど、ここでのチャーハンは、そういう類のチャーハンではない。

それこそ具材はチャーシュー、卵……といった、ごくシンプルなチャーハンのことだ。

なので、その吉祥寺の中華屋のことを話した。
かなり興味をもたれたようで、次の試聴のときに、その中華屋のことが話題になった。

開口一番「ひどいめにあったよ、なんだ、あの店(店主)は」といわれながらも、
「あのチャーハンは絶品だよ、でも、あの店主はひどいね」と続けられた。

Date: 11月 13th, 2018
Cate: 菅野沖彦

としつき

今日(2018年11月13日)は、ロッシーニの没後150周年。
二日前の11日は、第一次世界大戦の終結から100年。

ロッシーニの生きた時代(音楽)と第一次世界大戦が、
私がなんとなく思っていた以上に近かったことに、少し驚いていた。

それぞれの年代を数字で示されて、並べてみるとすぐに気づくことなのに、
単独でみていると、気づかないことがあったりする。

そういえばステレオサウンドにいたころお世話になった編集顧問のKさんは、
音楽のことを含めて、さまざまなことがらをまとめた年表をつくられていた。
そうやって並べてみることで気づくことがあるのに、気づいておられたからなのだろう。

いまならインターネットで、そういったことがらを調べやすくなっているが、
Kさんが独自の年表をつくっていたのは1980年代である。

つくった者とつくらなかった者とが気づくことには、大きな隔たりがある。
そんなことをおもいながら、今日は菅野先生が亡くなられて一ヵ月が経ったのか、という、
その事実を、ただ感じている。

Date: 10月 23rd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(紅茶、それにコーヒー)

2002年7月4日、14年ぶりに菅野先生のリスニングルームを訪れて、
戻ってきた、と感じたのは、部屋に入ったときでせなく、音を鳴ったときでもない。

菅野先生の奥さまがだされる紅茶の香りと味で、
私は、菅野先生のリスニングルームに戻ってきたんだ、と感じていた。

ステレオサウンド時代に伺っていたとき、
いつも出してくださった紅茶と同じだった。

当り前のことなのに、「同じだなぁ」と感慨深いものがあった。

菅野先生といえば、紅茶だった。
試聴でステレオサウンドの試聴室に来られるとき、
当時ステレオサウンドの真向いにあった水コーヒー どんパからコーヒーをとっていた。

菅野先生だけが紅茶だった。
コーヒー嫌いなのか、と、ずっと思っていた。

いつだったのか、はっきりと憶えていないが、ある時、
奥さまがコーヒーを出してくださった
私にだけコーヒーではなく、菅野先生もコーヒーだった。

意外だったので、つい「コーヒー、飲まれるんですか」と訊いた。
もともとコーヒー好きで、水だしコーヒーに、すごくハマった時期があった、とのこと。

どうすれば美味しい、菅野先生にとっての理想の水だしコーヒーを淹れられるか、
あらゆる要素を少しずつ変えては淹れて飲み、比較。
それを果してなくくり返されたそうだ。

そんなことを続けていたら、ある日、コーヒーを体が拒否してしまった、とのこと。
濃いコーヒーの飲みすぎであろう。

それから紅茶にされた、そうだ。
だから「最近、少しコーヒーが飲めるようになったんだよ」と話してくださった。

オーディオとまったく関係がない、と思われるかもしれないが、
これこそが、ある意味、菅野先生的バランスのとりかたである。

Date: 10月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その12)

ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”はスタジオ録音である。
そこにステージがあった、とは考えにくい。

録音で歌っているホセ・カレーラスの足は、ほんとうの足はスタジオの床に立っていた。
ステージはなかった(はず)。

ならば、再生されるホセ・カレーラスの足が、
菅野先生のリスニングルームの床に立っていると感じたのは、当然といえるし、
それだけのレベルにあった音ともいえる。

五味先生も、”AROUND THE WORLD”を聴かれたら、
スタジオ録音だから、録音の現場にステージがないことは承知されて、
それでもステージが、そこに再現されていないから、肉体がない、といわれるのか。

ここで忘れはならないのは、
五味先生のスピーカーはタンノイのオートグラフである、ということ。
つまり、五味先生のいわれるステージは、
録音の場におけるステージという意味よりも、
むしろオートグラフが創り出す再生の場におけるステージのほうが、色濃いのではないのか。

こう考えると、少なくとも私は納得がいく。
菅野沖彦氏のこと(音における肉体の復活・その2)」でも書いているように、
どちらかを否定すれば、楽だ。
こんなにながいこと考えなくても済む。

それでも、私はどちらも正しい、ということで考え続けてきた。
考えてきたことで、1970年当時の菅野先生の音と瀬川先生の音、
どちらの音を聴かれながら、五味先生が菅野先生の音だけに、
肉体のない音(感じられない音)といわれた理由も、私のなかでは説明がつく。

それがリアリティ(菅野先生の音)とプレゼンス(瀬川先生の音)である。

Date: 10月 22nd, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その11)

2002年7月4日、菅野先生の音を聴いた。
ステレオサウンド時代、最後に菅野先生の音を聴いたのは1988年だから、
14年ぶりの菅野先生の音だった。

マッキントッシュのXRT20のシステムでクラシックを、
JBLのシステムでジャズを聴いたあとに、
私がもってきたCDをかけてもらった。

少し考えられて、マッキントッシュのシステムにされたように感じた。
この時の音は、まさしく肉体の復活が感じられる音だった。

ホセ・カレーラスの”AROUND THE WORLD”から「川の流れのように」をかけてもらっていた。
目をつぶれば、目の前に(といっても私は部屋の隅にいたけれど)、
手を伸ばせば届きそうな感じさえする気配を感じる鳴り方だった。

ホセ・カレーラスの肉体が、そこに復活していた。
そのカレーラスには、足もあるように感じた。
上半身だけの幽霊のような音像ではなかった。

この音を聴かれた五味先生でも、肉体のない音とはいわれないはず──、
そう思う一方で、それでももしかすると、いわれるかもしれない──、
そんなことを帰宅してから考えていた。

こんなことを考えた理由は、ホセ・カレーラスの足がどこにあるのか、だった。
それは菅野先生のリスニングルームの床に立っていた。
あたりまえだろう、そんなことは、と言われるだろうし、
それでこそリアリティというものだろう、と私も思うけれど、
五味先生にとっての肉体の復活を感じさせる音には、
ステージの存在が不可欠である。

私はホセ・カレーラスの肉体の復活を感じていた。
私だけではなかったはずだ。
川崎先生もそう感じておられた、と思う。

あの音を聴いて、肉体の復活を感じない人はいないのではないか──、
そうおもいながらも、それでも……、と考えてしまうのは、
「五味オーディオ教室」が私のオーディオの出発点であるだけでなく、
私がアマノジャクなためだろう。

そうわかっていても、仮定のことを考える。
少なくとも、私はホセ・カレーラスの肉体の復活を感じていても、
ステージの復活は感じていなかったのは事実だ。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(その10)

ステージ。
さほど深く考える必要はないように感じる、この「ステージ」を、
それを再現するのに必要なのは音場とか音場感ということで捉えてしまっては、
ここでの「ステージ」の理解は不十分のままだ。

肉体のある音と肉体のない音。
このあいだにある音について、屁理屈みたいなこともを考える。

肉体のなさを感じさせない音は、どうだろうか。
肉体があると感じるわけでもないが、肉体がないと感じさせるわけでもない。
肉体を意識させない音とでもいおうか。

つまり肉体のない音は、聴き手に肉体を意識させているからこそ、
そこに肉体がない、と感じさせている、ともいえる。

私が聴いた範囲でしかないが、実際のところ、
肉体を意識させない音は多い。
ないとも感じないし、あるとも感じない。

五味先生が聴かれた菅野先生の音とは、まだ次元の違うところで鳴っている。
おそらく五味先生は、そういう音を聴かれたとしたら、肉体がある、とか、ないとか、
そういうことはいわれなかっただろう。

菅野先生は肉体のある音を目指されていたからこそ、
五味先生は肉体がない、と感じられた──、
そういう解釈も可能である。

五味先生が求められている肉体のある音は、ステージに演奏者の足がついている、
そういう音のはずだ。

足のない、つまり幽霊のような音像では肉体はない、ということになるし、
足があったとしても、その足がステージの上になければ──、なのではないのか。

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(「僕のオーディオ人生」)

菅野先生の「僕のオーディオ人生」(音楽之友社刊)のあとがきだ。
     *
 長々と私の拙い履歴書めいた一文を通読していただき恐縮至極である。もともと、この文章は昭和五十六年にステレオサウンド社発行の『サウンドボーイ』誌、後に『ハイヴィ』と改題された月刊誌に連載を始めたものであった。当時同誌の編集長の小高根克彦氏の主旨は、こだわりと真剣さを失いつつある若い読者に対し、僕のような音一筋の男の生き様を知ってもらい、人生と趣味あるいは仕事の関り合いを通して、オーディオの本質や価値観の認識の一助にしたいというものであった。そんな大それた役をお引受け出来る気持ちにはなれなかったけれど、素直に僕の音に関わる人生について書けばよいから、という言葉に乗せられて分不相応な自伝めいたものを書くはめになったものである。
 書き出してみると、音と人間の関係を浮彫りにするためには、恥も外聞も捨てて、素直に自己をさらけ出すこと以外にはないことがわかってきた。「素直にありのままを書け」といった小高根氏をうらんでよいのか、感謝してよいのか、ついに八年もの長期間にわたって月刊誌に連載を果したものである。
 したがって、本来は私個人のこととしてではなく書いたほうがどれだけ楽であったかしれないし、この文章がどこか露出趣味のように受け取られるのではないかという心配が常に私の中にあって、正直なところ苦しい仕事であった。それも、子供の頃のことならまだしも、大人へのなりかかり、あるいはなってからの自分の内面など、そう易々と書けるものではなく、どうしても事実の羅列という無能なものになっていることを深く恥じ入るものである。また、ここには四十六歳までで、それ以後は書かれていないわけであるが、この文脈通りに現在までを生々しく書く気持にはどうしてもなれなかったからだ。本文の終りに書いたように、四十六歳にして初めて大人になれたことを自覚出来たような僕のことだから、人様に語れるようなものはなにもない。しかし、終始一貫音と音楽を愛し続けた男の人生である事だけは確かであって、すべてはここを支点としての生活である。こういう、いわば音馬鹿の姿を見ていただいて、音の世界がいかに魅力的なものかを感じていただくことも多少は意味のあることかも知れないと、またまた、これを一冊の本にまとめるという恥の上塗りをやってしまった次第。
     *
八年間の連載をまとめたのが「僕のオーディオ人生」であるだけに、
サウンドボーイ、HiViに掲載された文章すべてが読めるわけではない。
ページ数と物理的制約があるから、割愛されたところが少なくないのは仕方ない──、
とは頭では理解していても、「僕のオーディオ人生」を手によって、
やっぱり、ここは省かれていたのか……、と思った。

どれを載せて、どれを省くかは、編集者によって違う。
私だったら、と思うところが省かれていた。

それは、菅野先生の性的初体験のところである。
これを書くにあたって、かなり苦労されていたことを菅野先生からきいているだけに、
惜しいと思うし、音楽之友社の編集者の判断もわからないわけでもない。

菅野先生は何冊もの官能小説を購入して読んだ、と言われていた。
川上宗薫の作品について、高く評価されていたことを思い出す。

サウンドボーイ、HiViのバックナンバーはほとんど持っていない。
それが載っている号もない。
いつかは国会図書館に行き、すべてコピーしたいと思いながらも、実行にうつしていない。

菅野先生の音(オーディオ)を語る上で忘れてはならないのことのひとつに、官能性がある。
「僕のオーディオ人生」から、ここだけは引用しておこう。

戦時中疎開されているときのことを書かれている。
     *
 旧盆の八月十五日は、村をあげての盆踊りであった。これは、僕にとって実に大きな、フレッシュな体験となった。先に書いたように、佐渡へ着いて、船のPAスピーカーで聴いた《佐渡おけさ》によって、生れて初めて日本民謡の洗礼を受けた僕だったが、この盆踊りで、決定的に日本情緒が体内に染み込むこととなったように思う。これは、後年の僕の音楽生活だけではなく、情緒全般にきわめて大きな影響力をもつことになった体験であった。
 それだけではない。僕はこの夜、生れてはじめて、リアルなセックス体験をすることになったのだから、ことはもっと大きい。今でもこの夜のことを思い出すと、そのショックが鮮烈に蘇ってくるほどだ。
 農業組合の前の広場にやぐらが組まれ、昼間から太鼓や笛が奏されていた。「ピョロ、ピョロ、ピョロのロンロン」と笛は《おけさ》のメロディを奏で、僕のハートを踊らせた。僕の中には、ベートーヴェンもシューベルトもいなくなっていた。もっと強烈に、直接的に、心底からこみあげてくる情感の虜になってしまったようだ。
 単純な二拍子のリズムは、素朴で強烈な生命の鼓動そのものだ。塩風にのって香る海の空気、編笠をかぶり、浴衣に白足袋の男女が妖しく腰をくねらせながら足を運ぶ4ビートのステップ。
 やがて、陽がとっぷりとくれる頃、踊りのムードはクライマックスにクレッシェンドしていく。大人達に混じって僕ら子供達も、見よう見真似で《おけさ》や《相川音頭》を踊りながら、一種の恍惚の世界へ入り込んでいく。
 今思うと、これこそ音楽と舞踊の原点だ。僕が今、よく口にするカントの言葉「芸術とは、悟性の秩序づけをもった感性の遊びである」という定義からすると、これは確かに芸術ではない。悟性の秩序づけなど、薬にしたくても無に等しい。これはまさに、官能的情感に満ち溢れた感性の遊びそのものである。しかし、これぞ、音楽や舞踊が芸術に昇華された次元においても、絶対に存在すべき要素の一つであることを痛感せずにはいられない。クラシック音楽にも、ジャズにも、ましてやロックやフュージョンに、これが欠けていたら、音楽という人間行為は、まことに空しい。洗練の極致などという音楽への評価は、必ずしも賞め言葉とはいえない。だから僕は、カントの芸術の定義を、感性と情緒の遊びというふうに訂正したい。
 それはともかく、この昭和十九年八月十五日の夜は、僕の成長期における記念すべき夜であった。踊りに疲れた僕は、友達と一緒に目の前の海岸へ出た。嵐のあとでもあったので、そこにはたくさんの小船が引き上げられ、石垣にそって並べられていた。小船といってもかなり大きなものもあり、岸に上げられると、子供の背丈より高いものもあった。
 月の光に照らされた岸辺は真暗ではなかった。突如、友達の一人が「シーッ」と口を指でふさいだ。何のことだかわからなったが、僕は本能的に身をすくめ、足を止めた。嵐のあとの静かな潮騒に交って、異様な物音が聞こえてきたのである。人の息である。ときどきうめき声にも似た響きも聞こえる。荒々しい吐息に交って、明らかに女性の甘い泣き声のような呻きが聞こえるのである。しかし、その時の僕には、それが何を意味するものなのかはわからなかった。一緒にいた友達はわかっていたらしく、「べべ、べべ」と小声で僕にささやいた。「べべ?」僕にはよくわからなかった。後でわかったことだが、それは男女の性行為を意味する土地の言葉である。
 そこここに並べられていた船の中から、その声はもれていた。しかも一組ではないのである。友達に促され、そのうちの一つの船に近づいてみた。ちょうど船に上る台のような木材があったので、それに静かに上って、僕達は船べりから中を覗き見たのである。凄かった。悩ましかった。きれいだった。刺激的だった。踊りの着物を着た男女がもつれあっていたのだ。月の光に、雪のように白い女性の足が、赤銅色の男の足に絡んでいた光景は、壮絶に僕の目を射た。
 僕は息をのんだまま、その木造船の船べりに釘づけになってしまった。心臓の鼓動が大きすぎて、相手に気取られるのではないかと心配であったが、僕はそこから離れようとは絶対に思わなかった。口の中がカラカラに乾き、つばも飲みこめない苦しさであった。一体、これは何なのだ? 魅力的だが、ひどく罪深いことのようにも感じられた。おそろしく恥ずかしいような気持でもあった。それにもかかわらず、僕は男女のその部分を見たいと思った。僕のいる角度からは、男の尻の動きが見えるだけで、その部分はどうしても見えなかった。
 僕は疲れ果て、見つかることのおそろしさも手伝って、ついにその場を離れ、まだ見たがっていた友達を引っぱって、再び踊りの群へ帰ってきてしまった。
「どっと笑うて、立つ波風の、荒き折節、義経公は」武張った《相川音頭》を唄う青年の声は、艶と輝きに満ちていて美しかった。大きな輪を描いて踊る粋な男女の着物姿と、凛々しい太鼓のリズムは、今も僕の目と耳に焼きついて離れない。そして、それはあの生れて初めて見た男女の赤裸々な性の姿との見事なダブル・エクスポージュアなのである。
     *
昭和19年(1944年)だから、菅野先生は11歳である。