Archive for category オリジナル

Date: 10月 22nd, 2015
Cate: オリジナル, 挑発

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(オリジナルとは・その1)

ハーツフィールドのことを書いていて思い出した人がいる。
彼もまたハーツフィールドを欲しい、といっていたひとりだし、
彼の財力があれば、程度のいいハーツフィールドを手に入れることはそう無理なことではなかった。

けれど、彼はハーツフィールドを買おうとはしなかった。
彼の求める音の方向とハーツフィールドは違っていた。

折曲げ低音ホーンの音を彼は毛嫌いしていた。
生理的にだめだったのかもしれない。
だから彼はハーツフィールドそっくりのエンクロージュアをどこかに作らせる、という。
ただし内部構造はホーン型ではなく、一般的なエンクロージュアとして、である。

ウーファーは左右の開口部に配置する。
ハーツフィールドの寸法からいって15インチ口径のウーファーを開口部のところにおさめるのは無理がある。
だからここにおさまる範囲の中口径のウーファーを数発左右に配置する。
そこそこの数のウーファーが取りつけられる。

中高域はJBLのホーンとドライバーを使う。
これで見た目はハーツフィールド、
出てくる音はハーツフィールドは違う、彼好みの音ということになる。

そんなことを熱心に話してくる。
やんわりとやめたほうがいい、といっても、
彼は、うまくいく、ハーツフィールド(の外観)がほしい、と熱っぽく語っていた……。

なんなんだろうなぁ……、と思っていた。
彼はこういう人だったのか、と。

Date: 9月 4th, 2015
Cate: オリジナル, デザイン

コピー技術としてのオーディオ、コピー芸術としてのオーディオ(その1)

佐野研二郎氏の著書「伝わらなければデザインじゃない」が、
無期限の発売延期になったというニュースが昨日あった。

延期になった理由は私にはどうでもいい。
このことが考えさせたのは、今回の騒動の元となった2020年東京オリンピックのエンブレムは、
それでは何なのか、である。

「伝わらなければデザインじゃない」は発売延期になったのだから、
もう手にすることはないだろう。
どんなことが書かれているのかもわからない。

だから、あくまでも本のタイトル「伝わらなければデザインじゃない」に絞って考えても、
あのエンブレムはデザインではない、ということになる。

使用中止の理由として、国民の理解が得られなかった、とあったのだから、
つまりは「伝わっていない」からである。

もちろん人によって(デザイナーによって)、
ごく少数の人たち(たとえそれが仲間内であっても)伝われば、デザインである、という考えをあるはず。
それはそれでいい。

ここではあくまでも佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」ということである。
少なくとも佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではない、ということになる。
制作していた時点ではデザインであったのか。
それが発表され、理解が得られない(伝わらない)ことで、デザインでなくなったのか。

「伝わらなければデザインじゃない」であるのなら、
2020年東京オリンピック・エンブレムは何なのか。

デコレーションでないことは確かである。
アートということになるのか。

佐野研二郎氏の肩書きはアートディレクターのようだから、いわゆる「アート」なのかもしれない……、
と思いつつも、エンブレムはあくまでもデザインとしての依頼のはずだから……、となる。

佐野研二郎氏の「伝わらなければデザインじゃない」という著書の存在がなければ、
デザインと呼べた。けれど、発売延期になったとはいえ、その存在はあるわけだから、
佐野研二郎氏にとって、あのエンブレムはデザインではないわけで、
デザインではないエンブレムの正体不明さだけが残る。

私のなかには残っている。
そして考えるのは、やはりオーディオのことだ。
オーディオは、コピー技術・コピー芸術といえる。

アナログからデジタルになり、コピー技術、コピー精度は飛躍的に向上している。
だから、どうしても今回の騒動はオーディオと無関係なこととは思えないのだ。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その4)

CDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線を取り外すのは可逆的ではあるが、
これも誰がやっても必ず可逆的であるかというと、決してそうとはいえない。

ヘッドフォン端子への配線を取り外すことで音が変化するのは、
CDプレーヤーの筐体内には、さまざまな高周波ノイズが飛び交っている。

井上先生はデジタル機器では、ひとつひとつのIC(LSI)が小さな放送局だといわれていた。
消費電力の大きいLSIは、出力の大きな放送局ともいえるわけで、
それだけ不要輻射も大きくなると考えていい。

つまりCDプレーヤーは自家中毒を起しているとも考えられる。
自分が輻射しているノイズに影響を受けているわけだから。

そんな不要輻射を、ヘッドフォン端子への配線がアンテナとなって拾ってしまう。
ヘッドフォン端子への配線を取り外すことは、CDプレーヤー内部のアンテナ、
それももっとも長いアンテナをなくすことにつながる。

ヘッドフォン端子への配線が最少限の長さであれば、
取り外した後無造作に元に戻したとしても、
元の状態と配線の引き回しの仕方が大きく変化することはない。

けれどある程度余裕のある長さであれば、
元と同じ引き回しの状態に戻さなければ(戻せなければ)、可逆的とはいえなくなる。

可逆的な非可逆的かは、既製品に手を加える人によって、その境界が変動するものであり、
絶対的な可逆的な、既製品への手の加えるという行為はそう多くはない。

Date: 6月 14th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その3)

国産CDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線を外すことは簡単なことであり、
しかも簡単に元に戻せる。

既製品に手を加える場合に、
この「元に戻せる」かが重要なポイントとなる。

元に戻せるのを可逆的、そうでないのを不可逆的ともいう。

既製品に手を加えることを認めない人は、
可逆的であろうと不可逆的であろうとダメということになり、
可逆的であれば手を加えることは認めるという人もいる。

例にあげたCDプレーヤーのヘッドフォン端子への配線は可逆的である。
では誰にでもすすめられるかといえば、必ずしもそうではない。

少なくともCDプレーヤーの天板をとって中を見て、
すぐにどの配線が目的の配線なのかがわかる人であれば何の問題も心配もないけれど、
そうでない人、
つまり実際に指さして、これがその配線だよ、と教える必要がある人には、
可逆的なことであっても、やはりすすめてはならない、と私は考えている。

そして可逆的に見えても、実際には必ずしも可逆的ではないこともある。
たとえば天板を固定しているネジの締付けトルクでそうである。

井上先生から聞いた話では、
ハーマンカードンのCitation XX(パワーアンプ)が、
ネジの締付けトルクを製造時に管理した最初のオーディオ機器ということである。

そのことを知らない人がCitation XXの天板を取る。ネジを緩める。
中にまったく手を加えずに天板を閉じる。ネジを締める。
この時、ネジの締め方がゆるかったり、強かったりすれば、
取り外す前の天板の振動モードにわずかとはいえ違いが生じる。

締付けトルクのことがわかっている人が天板をとって閉じる行為は可逆的であっても、
そうでない人の行為は不可逆的となる。

Date: 6月 7th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その2)

CDプレーヤーが登場して一年ほど経ったころだったろうか、
井上先生が試聴中にあることを指示された。
実際にやってみると、こんなことでこれだけ音が変化するのか、と驚くほどだった。

いまでは多くの人が「聴感上のS/N比」という。
けれど、この人はほんとうに聴感上のS/N比が良くなった音がわかっているのだろうか、
そう思ってしまうことがないわけではない。

聴感上のS/N比が良くなった具体的な音を知らないまま、
なんとなくの想像で「聴感上のS/N比が……」を使っているような気もする。

この時の井上先生の指示による音の変化は、
はっきりと聴感上のS/N比が良くなった例である。

何をやったかというと、CDプレーヤーの天板をとり、
フロントパネルにあるヘッドフォン端子へのケーブルを引き抜いただけである。

この頃の国産のCDプレーヤーの大半は、
ヘッドフォン端子への配線はどこも同じようなものだった。
アナログ出力回路からフロントパネルのヘッドフォン端子まで、
プリント基板の上をケーブルを這わせていた。

このケーブルの両端はコネクターになっているからハンダゴテを使わずに抜き差しできる。
このケーブルを抜いて、また天板を取り付けての試聴だった。
ヘッドフォン端子へのケーブルがあるかないか、
たったこれだけの違いなのに、出て来た音の変化は少なからぬものがあった。

プリント基板のパターンにヘッドフォン端子への配線が描かれているモデルでは、
同じことはできないけれど、当時の国産CDプレーヤーはけっこうそういうモノが多かった。

Date: 6月 6th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(モディファイという行為・その1)

オリジナルとは(続・独り言)」を二日前に書いた。
facebookに、40件以上のコメントがあった(私の分も含んでいる)。

こんなにコメントがつくとは思っていなかった。
コメントに返事をしながら、マーク・レヴィンソン以外の具体例も思い出していた。
そこで、既製品に手を加える行為について、改めて書いてみようと思い立った。

まずはっきりしたいのは、私は既製品に手を加えることがある。
以前書いたように、かなり徹底して手を加えたこともある。

スチューダーのCDプレーヤーA727を手を加えるときは、
47万円という価格もあって、下準備的なことをかなりやった。

A727と同じピックアップメカニズム、デジタルフィルター、D/Aコンバーターを使用している製品を用意した。
このCDプレーヤーで思いつくかぎり、手を加えてみた。
そこで得られたものをA727にフィードバックした。

ただしA727のモディファイには、いっさいハンダゴテは使っていない。

他にも手を加えたモノはいくつかある。
簡単な例ではトーレンスのアナログプレーヤー101 Limited。
このプレーヤーはEMTの930stのトーレンス版であることから、
つまりはコンシューマー用として使われることを前提に、
内蔵イコライザーアンプのインピーダンス整合のために、
出力端子の裏側に小さな抵抗が取り付けてある。

私の場合、受け側のアンプでインピーダンス整合をやるので、
この抵抗は取り外してしまった。

この抵抗はトーレンスによる930stのモディファイでもあり、
この抵抗を取り外した私の行為もモディファイである。
つまりモディファイをなくすためのモディファイともいえる。

私は既製品に手を加える。
だからといって、誰かにそのことをすすめることはしない。

Date: 6月 4th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続・独り言)

既製品にわずかでも手を加えることに対して、
ひどく拒否反応を示す人、批判的な人がいる。

精魂込めてつくられたモノに手を加えてはならない。冒瀆行為だという人もいる。
そういう気持からなのだろうし、理解できないことではないけれど、
現実の製品のすべてが精魂込めてつくられているとは私には思えない。

ただそれでも、私がそう思えないだけで、
いや違う、これも精魂込めてつくられている、と受けとめている人がいるのはわかっている。

だから、そのことに対してとやかくいう気はない。
でも、そういう人たちは、マーク・レヴィンソンがやってきたことをどう受けとめているのだろうか。

マーク・レヴィンソンはマークレビンソンを離れてチェロを興した。
そこでレヴィンソンは、ARのLSTをベースとしたスピーカーシステムを発表した。
それからアポジーのD/Aコンバーターをベースとした製品も出した。

チェロを離れたあとは、レッドローズミュージックを興した。
ここでのアンプは、オーディオプリズムのアンプをベースにしたものである。

つまりレヴィンソンは既製品に手を加えて、それを商売としていた。
このことの是非について書きたいのではない。
これらの製品を、精魂込めて……、という人たちは、どう受けとめているのだろうか。
それを知りたい気持がある。

レヴィンソンの行為は冒瀆ではないのか。

Date: 2月 17th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(STAR WARSの場合・その2)

映画「ピープルvsジョージ・ルーカス」を観て考えるのは、
オリジナルは時代に属するものなのか、ということ。

スターウォーズが、この件でこれだけ騒がれるのは、スターウォーズが名作ということでもあろう。
名作もまた時代に属するのか。

名作が時代に属するのであれば名器も時代に属するのか。
そして原器は、どうなのか。

時代に属して、時代に縛られてはいない、といえるのか。
時代に属していないけれど、時代に縛られているものもあるのか。

そんなことを考えている。

Date: 2月 15th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(STAR WARSの場合・その1)

2010年の映画に、「ピープルvsジョージ・ルーカス」がある。
スターウォーズの熱狂的なファンとスターウォーズの監督ジョージ・ルーカスの映画であり、
スターウォーズの熱狂的なファンのジョージ・ルーカスに対する愛憎をとらえたドキュメンタリーである。

スターウォーズは1977年に公開された。
映画館で観た世代だから、あのときの昂奮はいまも忘れられない。
この映画に登場するファンは、まさしく熱狂的とつけなくてはならないほどの人たち。

その彼らとジョージ・ルーカス側とでは、オリジナルに対する考えが違うことが、描かれている。

1977年公開のスターウォーズは、のちにEpisode IVと呼ばれるようになった。
旧三部作、新三部作があるためである。

1997年に旧三部作がリマスターされ、劇場公開された。
フィルムの洗浄から始まり、デジタル処理も施されている。

このリマスター版を、ジョージ・ルーカス側はオリジナルと位置づけている。
だが熱狂的なファンは、最初に劇場公開されたものをオリジナルとしている。

制作側は、当時の技術ではできなかったことを、20年後の技術で実現しようとする。
つまり制作側にとってのオリジナルとは、ジョージ・ルーカスの頭の中にあるものを映像化したもの、となる。
熱狂的なファンにとっては、ジョージ・ルーカスがそれをオリジナルといおうと、
あくまでもリマスターであり、オリジナルは当時劇場公開されたもの、
パッケージソフトではレザーディスクで発売されたもの、ということになる。
(この映画の公開後、DVDでも、いわゆるオリジナル版が出ている。)

それはリマスター版を認める認めないに関係なく、熱狂的なファンにとってはそうである。

映画の中でも取り上げられているが、
1980年代にモノクロ映画をカラー化しようという動きがあったときに、
ジョージ・ルーカスは反対の立場に立っている。
そういう彼が、自分の作品に対しては反対の立場をとっている。

何をもって「オリジナル」とするのか、
この映画でもそうだが、立場によって違うということに結局のところなってしまうのか。

Date: 6月 17th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その16)

昭和49年だから1974年、いまから40年前にオーディオラボオガワで岩崎先生は講演をされていたことが、
今回メールのやりとりでわかった。

エアリーズのウーファーの補修を担当してくれたSさんは、
当時10代だったので、そのときの岩崎先生の講演をきかれてはなかったけれど、
岩崎先生の話は耳にされていて、オーディオラボオガワの専務に確認されたところ、
当時の写真が残っていた。

その写真のコピーがエアリーズのウーファーに同封されて、岩崎先生のご家族のところに戻ってきた。

もしオーディオラボオガワ以外のところに補修を依頼していたら、
こんなことはなかったわけだ。

Sさん(女性の方である)からのメールを読んでいて、
喜ばれているように感じた。
岩崎先生のご家族の方も喜ばれている。

私も、オーディオラボオガワを選んで良かった、と喜んでいる。

Date: 6月 16th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その15)

オーディオラボオガワから修理の終えたユニットが戻ってきた。

戻ってきた、といっても私のところではなく、この項の(その1)にも書いたように、
今回のスピーカーは私のモノではないから、持主のところに戻ってきている。

オーディオラボオガワから輸送用のダンボール箱を送ってもらうときに、
今回の事情を説明して、ダンボール箱はそちらに送付してもらった。

このときに岩崎先生のスピーカーだ、ということを伝えた。
今回補修を依頼したウーファーは、エレクトロボイスのエアリーズ搭載のものだ。

その後何度か担当のSさんとメールでやりとりして感じたことは、
ほんとうにここで良かった、ということである。

五味先生が「西方の音」で、
《直感はあやまたない、誤るのは判断だとゲーテは言ったが、当てにならない。》と書かれている。
そうかもしれない。
それに直感と本人が感じているだけであって、それがほんとうに直感がどうかもあてにはならない。

それでも今回、最初に頭に浮んだのはオーディオラボオガワだったし、
その後、判断材料としてあれこれ情報を集めて選んだのもオーディオラボオガワだった。

直感と判断が一致したから選択であるわけだが、
ふり返って思うに、オーディオラボオガワを選ぶようになっていたのかもしれない。

Date: 6月 3rd, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その14)

どこに依頼したらいいのか、正直決めかねていた。
これ以上判断材料となる情報は得られそうにないから、
いまある判断材料によって、どこかに決めなければならないのだが、ここにしよう、と決めるだけのものがない。

そんなある日、Googleであるスピーカーの画像検索を行っていた。
今回補修するスピーカーとは別ブランドのモノであり、調べたいことがあっての画像検索だった。

かなりの数の写真が検索結果として表示された。
それらの中から得たい情報が期待できそうな写真をクリックしていた。
そこで、ある写真が目に留った。
見事なメンテナンスがされているな、と思った。

販売店のサイトのようだった。どこだろう、と思ったら、第一候補のサイトだった。
やっぱり、ここがいいのか、と思いながら、
このサイトをもう一度読みなおしてみたら、
数ヵ月かかる、とあるメンテナンスはシステムに関して、である。
エッジの交換でもけっこうな時間がかかる、とある人から聞いていた。

でも、少し状況は変っているのかもしれない。
エッジの交換だけなら、それほど待たなくてもいいのかもしれない。

とにかく問い合わせてみるしかない。
返事は早かった。

ウーファーのメンテナンスであれば、二週間ほどだった。
それならばここしかない、ということで依頼した。

山形にあるオーディオラボオガワに依頼した。

Date: 5月 31st, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その13)

いくつかの候補から、ひとつだけ消去法で外した。
そこは東京にある店で、条件的には問題ない。
エッジ交換のサービスも行っているし、技術もしっかりしてそうだった。

商売になるのであれば何でもかんでも売る店とは異り、そこはJBLの4300シリーズを中心に商売をやっている。
このことは好感がもてる。

にも関わらず、ここを真っ先に候補から外したのは、エッジ交換の技術とは直接関係のないことからだ。

ここは4300シリーズ以外に、その店独自のスピーカーシステムを製作している。
JBLのユニットを使っている。
しかもそれに4300シリーズにはない型番をつけている。

4300シリーズを好きで本当に理解している、と思わせる内容のスピーカーシステムであれば、
エッジ交換にここを選んだかもしれない。

だが実際の、この店オリジナルのスピーカーシステムは、
4300シリーズの魅力をほんとうに理解しているのだろうか、と疑いたくなる内容と外観である。

ここには、だから頼めない、と思った。
まったく心情的な理由から、外した。

Date: 5月 29th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その12)

東京もしくは東京近郊で、エッジ交換をやってくれるところはいくつかあるのはわかった。
けれど、どこにするのか。

これもまたインターネットで検索して丹念に検索結果を見ていくと、
それらのところでエッジ交換をした人のサイトやブログがいくつか見つかるし、
エッジ交換をやっているところのサイトにも、交換した人の声が載っている。

そういうのをみていって、ここが良さそうだ、ここもいいみたいだな、とは思う。
けれど、どんなにインターネットで調べたり、エッジ交換をしたことのある知人に話をきいても、
ほんとうのところははっきりとしない。

つまりエッジ交換を依頼した経験のある人は世の中にけっこういる。
けれど、その人たちが、複数の業者にエッジ交換を依頼して、
仕上ってきたものを比較した上で、ここがいい、あそこがいい、と言ったり書いたりしているわけではない。

エッジ交換を依頼した人も、今回の私のように調べて、どこにするかを決めて、そこにする。
それで仕上ってきたモノをみて、満足がいけば、そこが良かった、ということになる。

インターネットに書いている人の多くはそうであろう。
よほどの人でなければ、複数の業者にエッジ交換を依頼して比較することはない。

どんなにインターネットで調べても、実際に話をきいたところで、肝心のところはわからない。
結局、どこかに決めてエッジ交換を依頼するしかない。

では、どうやってそこを選ぶのか。
いくつかの候補を消去法で消していき、残ったところに依頼するのか。
それも判断材料が少なすぎる。

Date: 5月 28th, 2014
Cate: オリジナル

オリジナルとは(あるスピーカーの補修・その11)

そういうわけで、ウレタンエッジにすることに決めた。
どれだけ持つのかはっりきとわからない。
交換したウレタンエッジも、いつの日かボロボロになるわけで、また交換しなければならない。
その時はまたウレタンエッジにするのか、
それともウレタンエッジに替る、いい材質のエッジが登場しているかもしれない。

とにかく今回はウレタンエッジにする。
では、どこに依頼するのか、となる。

ずっと以前はエッジの交換をやってくれるところを探すのも一苦労だった。
いまではインターネットで検索すれば、あちこちのオーディオ店でエッジ交換を受けつけていることがわかる。

いい時代になったな、ともいえるし、この中からどこを選ぶのがいいのか、
いまの時代は、そのことで迷う時代になっている。

以前ならば、見つけたところに依頼するしかなかったのが、いまでは選べるわけだ。

検索結果を丹念に見ていけば、評判のいいところがいくつかあるのがわかる。
そのうちのひとつは、その評判を耳にしていた。

そこを第一候補としたのだが、ここのウェブサイトのスピーカー・メンテナンスのページをみると、
お預かりに数ヵ月、とある。ここは時間がかかる、ともきいていた。
とはいえ数か月か……、と思った。
時間がかかるのはわかるけれど、数ヵ月預けている、ということが気になった。
自分のユニットではないだけに、よけいに、この点が気がかりとなる。