Archive for category ディスク/ブック

Date: 10月 22nd, 2022
Cate: ディスク/ブック

The Complete Recordings on Warner Classics CHARLES MUNCH

“The Complete Recordings on Warner Classics CHARLES MUNCH”、
この十三枚組のCDボックスが発売になったのは、四、五年前か。

EMI、エラートでの録音全集である。
オーケストラはパリ管弦楽団、ラムルー管弦楽団、フランス国立放送管弦楽団、
パリ音楽院管弦楽団。

ミュンシュとパリ管弦楽団。
五味先生の文章を読んだ時から聴きたいとおもっていた録音。
     *
 この七月、ヨーロッパへ小旅行したおり、パリのサントノレ通りからホテルへの帰路——マドレーヌ寺院の前あたりだったと思う——で、品のいいレコード店のショーウインドにミュンシュのパリ管弦楽団を指揮した《ダフニスとクローエ》第二組曲を見つけた。
 いうまでもなくシャルル・ミュンシュは六十三年ごろまでボストン交響楽団の常任指揮者で、ボストンを振った《ダフニスとクローエ》ならモノーラル時代に聴いている。しかしボストン・シンフォニーでこちらの期待するラヴェルが鳴るとは思えなかったし、案のじょう、味気のないものだったから聴いてすぐこのレコードは追放した。
 ミュンシュは、ボストンへ行く前にパリ・コンセルヴァトワールの常任指揮者だったのは大方の愛好家なら知っていることで、古くはコルトーのピアノでラヴェルの《左手のための協奏曲》をコンセルヴァトワールを振って入れている。だが私の知るかぎり、パリ・コンセルヴァトワールを振ってのラヴェルは《ボレロ》のほかになかった。もちろんモノーラル時代の話である。
 それが、パテ(フランスEMI)盤でステレオ。おまけに《逝ける王女のためのパバーヌ》もA面に入っている。いいものを見つけたと、当方フランス語は話せないが購めに店に入った。そうして他のレコードを見て、感心した。
(中略)
 シャルル・ミュンシュの《ダフニスとクローエ》そのものは、パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じとれた。いいレコードである。
(「ラヴェル《ダフニスとクロエ》第二組曲」より)
     *
このCDボックスの発売以前に、単売されていたCDで聴いている。
すべてを聴いていたわけではないが、ブラームス、ベルリオーズ、ラヴェルなどは、
もちろん聴いている。

《パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じとれた》、
五味先生は、そう書かれている。
聴けば、わかる、そのとおりなのだ。

TIDALにも“The Complete Recordings on Warner Classics CHARLES MUNCH”はある。
私がTIDALで聴くようになったときからある。

今回、改めて聴いて、
《パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じ》とっていた。

TIDALでは、MQAで聴ける。
ボストン交響楽団との録音も、MQA Studioで聴ける。

だからよけいに《パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味》が感じられる。

Date: 10月 20th, 2022
Cate: ディスク/ブック

マーティン・シュタットフェルトのゴールドベルグ変奏曲

十数年前、車での移動中にふと耳に飛び込んできたゴールドベルグ変奏曲。
私一人で乗っていたわけではなくて、他の人も同乗していたし、
ラジオの音量も大きかったわけではなかった。

聴こえてくるのは、ところどころ聴こえなかったりしたゴールドベルグ変奏曲だった。
それでも、誰の演奏なの? と気になるくらいには、魅力的な演奏に思えた。

グレン・グールドではないことはわかっていた。
すくなくとも、私がそれまで聴いてきたゴールドベルグ変奏曲とも違う演奏。
誰なのか、ひじょうに気になったものの、
演奏家の名前を聞く前に車から降りることになってしまい、そのまま月日だけが過ぎていった。

ときどき、あれは誰の演奏だったのか? と思い出すことはあったけれど、
聴いたことのないゴールドベルグ変奏曲のCDをかたっぱしから購入して聴く、
そこまでやる気力はなかった。

そうこうしているうちに、忘れてしまっていた。
今年グレン・グールド生誕90年ということで、
そういえば、あれは誰だったのか? と思い出してもいた。

今日、twitterを眺めていたら、ソニー・クラシカルが、
マーティン・シュタットフェルトのことをツイートしていた。

この人だったのかもしれない。
ソニー・クラシカルと契約している演奏家だから、TIDALで聴けるはず。
確かに、マーティン・シュタットフェルトのアルバムはある。

ゴールドベルグ変奏曲もある。
MQA Studioで、もちろん聴ける。

不思議なもので、もう十数年も前に、ほんのわずか聴いただけの演奏なのに、
あぁ、この演奏だ、となる。

ソーシャルメディアとTIDAL、
この二つがなかったならば、まだ聴けずにいたことだろう。

Date: 10月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

La Veillée de NOËL

スージー・ルブラン(Suzie LeBlanc)の“La Veillée de NOËL”。
今日、知ったばかりのアルバムだ。

といっても今年発売になったCDではなく、2014年12月に発売されている。
八年経ったいま、ようやく知ったところだ。

しかもスージー・ルブランについても、まったく知らなかった。
スージー・ルブランは、1961年10月27日生れ。

なので少なからぬ録音を行っている。
なのに、今日初めて知って、初めて聴いた。

TIDALがなければ聴くことはなかっただろう。

スージー・ルブランの声はとてもいい。
どんな声か、ときかれると、答えにくい。

マリア・カラスのように強烈な個性があって、という声ではない。
柔らかいし、ぬくもりがある。
だからといって腑抜けた声、表現ではない。

スージー・ルブランの声が硬かったり、きつい感じになったり、
反対に芯のない声のようにきこえたりしたら、
それはその人のシステムの音が悪い、といいたくなる。

“La Veillée de NOËL”はMQA(88.2kHz)で配信されている。
スージー・ルブランの声は、MQAで聴いてほしい、と思っている。

スージー・ルブランの声の特質を、MQAはあますところなく発揮してくれるように感じられる。
スージー・ルブランをもっと早くに知る機会はあったのかもしれないが、
いま(今日)でよかった、とも感じている。

MQAで聴くことができたからだ。
変な言い方だが、それほどスージー・ルブランの声(表現)はMQAとの相性がいい。

Date: 9月 25th, 2022
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

Gould 90(その5)

日付が変って、今日は9月25日。
グレン・グールドの誕生日であり、グールドが生きていれば九十歳なのだが、
九十歳のグールドというのはなかなか想像がつかない。

今年はグレン・グールド生誕九十年、没後四十年ということで、
ソニー・クラシカルからいくつかの企画モノが発売になる。

いちばんの話題は、
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク。
もちろん予約しているが、発売日が変更になり10月だ。

もう少し待つことになるわけだが、
今回の生誕九十年でひとつ期待していることがある。

別項で書いている“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”。
今夏、ようやく発売になった。
TIDALでの配信も始まった。

同時に“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も新たに配信しなおされた。
TIDALでは、これまでMQA Studio(44.1kHz)だったのが、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の配信が始まったら、
MQA Studio(176.4kHz)に変更されていた。

TIDALではグレン・グールドのアルバムもMQA Studio(44.1kHz)で配信されている。
これらがもしかすると、
MQA Studio(88.2kHz)かMQA Studio(176.4kHz)かになるかも──、
という儚い期待である。

グールドのアルバムは、以前CDボックスが発売された時に、
すべてDSDマスタリングされている。
だから88.1kHz、176.4kHzに期待したくなる。

同時に七年前のことも思い出す。
CDボックスだけでなく、USBメモリー版も発売になった。

この時、amazon、HMV、タワーレコードなどのサイトでは、
24bit/44.1kHz FLACとなっていたが、
ソニー・クラシカルのサイトでは、USBメモリー版はハイレゾ 24bit/96kHz FLACと書いてあった。
結局、ソニー・クラシカルのサイトも44.1kHzになっていた。

このこともあるから、もしかする今回こそ──、と期待してしまう。

Date: 9月 20th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン: ピアノと管楽のための五重奏曲

ベートーヴェンのピアノと管楽のための五重奏曲。
よく聴く曲ではない。
ディスクも持っていないわけではないが、
積極的に購入してのディスクとは言えなかったりする。

前回、この曲の聴いたのはいつだったのか、もう正確には思い出せないほど聴いていない。
今日、ふと思い立ってTIDALで聴いていたところだ。
     *
そして他に、ちょっと変ったところでは、初期の作品で、ピアノと木管のための五重奏曲・変ホ長調・作品16、ピアノをウラディミール・アシュケナージが弾き、ロンドン・ウィンド・ソロイスツとの合奏の1枚だ(SLA6247)。これも、新しい録音ではないし、今、買えるかどうかはわからないが、これは大変録音がいい。アシュケナージも、今とちがって清新で、大家の風格というより、純粋で単純といってよい快演である。
     *
菅野先生が、朝日新聞社が発行していた「世界のステレオ」に、
「ベートーヴェン 私の愛聴盤」のタイトルで書かれていた短い文章に、それは出てくる。

さきほどまで聴いていたのも、アシュケナージとロンドン・ウィンド・ソロイスツによる演奏だ。
「世界のステレオ」は、オーディオブームだったころに出ている。
1970年代後半のオーディオのムックである。

菅野先生の「ベートーヴェン 私の愛聴盤」は、ずいぶん以前に読んでいる。
それでも、この菅野先生の文章に登場するディスクのなかで、
アシュケナージの、このディスク(録音)だけは聴いてこなかった。

特に、これといった理由があるわけではなく、なんとなくでしかない。
アシュケナージも、いつのころからかすっかり大家になってしまっている。

岡先生は、1980年代からのアシュケナージの演奏を高く評価されていた。
岡先生と菅野先生、二人のベートーヴェン対談を聞きたかった。

Date: 9月 11th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ヘルマン・プライの「冬の旅」(その3)

「冬の旅」を初めて聴いたのは、ハタチごろで、
フッシャー=ディスカウの歌唱による録音だった。

おもしろいというか、ふしぎといおうか、
そのころは「冬の旅」が青年が旅する歌であり、「青春」の歌であることはわかっていても、
そのことを意識しながら聴いていたとはいえなかったのが、
いまになって(あと数ヵ月で六十になる)、「冬の旅」が「青春」の歌であることを、
意識するようになってきている。

だからヘルマン・プライの「冬の旅」がいまの私に響いてくるのかもしれない。

「冬の旅」はドイツ語だから、いまも昔もわかっているわけではない。
もちろん対訳は何度か読んでいるから、おおまかに何を歌っているのかはわかるけれど、
それもほんとうにおおまかでしかない。

そんな聴き手(私)の心に、
ヘルマン・プライの「冬の旅」は「青春」の歌として響いてくる。

落穂拾い的な聴き方をしているけれど、
今回はそれでよかった、と思っている。

ハタチごろの私には、ヘルマン・プライの「冬の旅」は響いてこなかったかもしれないからだ。

Date: 9月 9th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ヘルマン・プライの「冬の旅」(その2)

(その1)を読んで、ヘルマン・プライの「冬の旅」を聴かれた方から、
facebookにコメントがあった。

その方はパパゲーノの印象が強すぎて、
プライの「冬の旅」を敬遠されていたようだ。

「冬の旅」といえば、フッシャー=ディスカウだけでなく、
ホッターの「冬の旅」も世評は高い。
いまはどうなのか知らないが、1980年代はそうだった。

「冬の旅」について詳しいことは省くが、
いわば「冬の旅」は、青年が旅する歌であり、「青春」の歌でもある。

そこのところで、ホッターの歌唱はもう青年とは感じられない。
中年をこえて年老いた人のようにも感じられる。

フッシャー=ディスカウの歌唱は年老いているわけではない。
でも、プライの歌唱から感じられる「青春」は、
フッシャー=ディスカウの歌唱からは、私はやや感じとりにくい、というか、
そういうこととは違うところでの歌唱のように感じられる。

コメントの方は、プライの「冬の旅」は、
肩の力の抜けた、というか、穏やかな、何かほっとするような演奏と書かれている。

意外に、ヘルマン・プライの「冬の旅」は聴かれていないのかもしれない。
とにかく、私が書いたのを読んで、プライの「冬の旅」を聴かれた人が、
少なくとも一人はおられたわけで、このことは単純に嬉しい。

Date: 9月 9th, 2022
Cate: Wilhelm Furtwängler, ディスク/ブック

Brahmus: Symphony No.1(Last Movement, Berlin 23.01.1945)

五味先生の「レコードと指揮者」からの引用だ。
     *
 もっとも、こういうことはあるのだ、ベルリンが日夜、空襲され、それでも人々は、生きるために欠くことのできぬ「力の源泉」としてフルトヴェングラーの音楽を切望していた時代——くわしくは一九四五年一月二十三日に、それは起った。カルラ・ヘッカーのその日を偲ぶ回想文を薗田宗人氏の名訳のままに引用してみる——
「フルトヴェングラーの幾多の演奏会の中でも、最後の演奏会くらい強烈に、恐ろしいほど強烈に、記憶に焼きついているものはない。それは一九四五年一月二十三日——かつての豪華劇場で、赤いビロードを敷きつめたアドミラル館で行なわれた。毎晩空襲があったので、演奏会は午後三時に始まった。始まってまもなく、モーツァルトの変ホ長調交響曲の第二楽章の最中、はっと息をのむようなことが起った。突如明りが消えたのである。ただ数個の非常ランプだけが、弱い青っぽい光を音楽家たちと静かに指揮しつづけるフルトヴェングラーの上に投げていた。音楽家たちは弾き続けた。二小節、四小節、六小節、そして響はしだいに抜けていった。ただ第一ヴァイオリンだけが、なお少し先まで弾けた。痛ましげに、先をさぐりながら、とうとう優しいヴァイオリンの旋律も絶え果てた。フルトヴェングラーは振り向いた。彼のまなざしは聴衆と沈黙したオーケストラの上を迷った。そしてゆっくりと指揮棒をおろした。戦争、この血なまぐさい現実が、今やはっきりと精神的なものを打ち負かしたのだ。団員がためらいながらステージを降りた。フルトヴェングラーが続いた。しばらくしてからやっと案内があって、不慮の停電が起りいつまで続くか不明とのことであった。ところが、この曖昧な見込みのない通知を聞いても、聴衆はただの一人も帰ろうとはしなかった。凍えながら人びとは、薄暗い廊下や、やりきれない陰気な中庭に立って、タバコを吸ったり、小声で話し合ったりしていた。舞台の裏では、団員たちが控えていた。彼らも、いつものようにはちりぢりにならず、奇妙な形の舞台道具のあいだに固まっていた。まるでこうしていっしょにいることが、彼らに何か安全さか保護か、あるいは少なくとも慰めを与えてくれるかのように。フルトヴェングラーは、毅然と彼らのあいだに立っていた。顔には深い憂慮が現われていた。これが最後の演奏会であることは、もうはっきりしていた。こんな事態の行きつく先は明瞭だった。もうこれ以上演奏会がないとすれば、いったいオーケストラはどうなるというのだ。」
 このあと一時間ほどで、待ちかねた演奏会は再開される。ふつう演奏が中断されると、その曲の最初からくりかえし始められるのがしきたりだが、フルトヴェングラーはプログラムの最後に予定されたブラームスの交響曲から始めた、それを誰ひとり不思議とは思わなかった。あのモーツァルトの「清らかな喜びに満ちて」優美な音楽は、もうこの都市では無縁のものになったから、とカルラ・ヘッカーは書きついでいるが、何と感動的な光景だろうか。おそらく百年に一度、かぎられた人だけが立会えた感動場面だったと思う。こればかりはレコードでは味わえぬものである。脱帽だ。
     *
この「レコードと指揮者」を読んだ頃、
フルトヴェングラーのブラームスの一番といえば、
1951年、ベルリン・フィルハーモニーとのライヴ録音の世評は高かった。

こういものを読むと、聴きたくなる。
1945年のドイツでの演奏会の録音が残されているとは、当時は思わなかった。

けれど残っているものである。
最終楽章のみ録音が残っている。

私が聴いたのは、Music & ArtsのCDだった。
フルトヴェングラーのブラームスの演奏を集めた四枚組ぐらいのCDだった。

そこに1945年1月23日のブラームスの一番の最終楽章があった。
1990年ごろだったはずだ。

五味先生の文章を読んで十年ほど経っていた。
いまはTIDALでも聴くことができる。

なので先日、久しぶりに聴いた。
前回きいた時から、二十年近く経っていた。

Date: 9月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

BINDER QUINTET: Featuring John Tchicai

今日は第一回audio wednesday (next decade)で、
ジャズ喫茶めぐりをしていた。

最後に行った店は、新宿のナルシス。
ここだけは、最後に行こう、と最初から決めていた。

18時ごろに入店。
ドアを開けて入ったら、目の覚めるような音が鳴っていた。

かかっていたのが、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”だった。
私は熱心なジャズの聴き手ではないから、聴いて、すぐにそれが誰の演奏なのかはわからない。

クラシックだって、これまで聴いたディスク(録音)よりも、
聴いていないディスク(録音)のほうが多いのだから、
ジャズに関しては、聴いているディスク(録音)はわずかでしかない。

ビンダー・クインテットの名も、初めて知った。
最近では、こういう場で気に入った曲がかかっていると、
店の人に訊ねる前に、iPhoneにインストールしているアプリShazamで検索する。

多くの人が、Shazamを使っていることだろう。
便利なアプリである。
けれど、Shazamでも、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”は表示されなかった。

なのでジャケットにある“BINDER QUINTET”の文字を手入力しての検索。
すぐに、どのディスクなのか判明したが、
TIDALで聴けるだろう、と思い検索してみると、
ビンダー・クインテットは一曲のみ表示されるだけ。
アルバムの検索結果はゼロだった。

いまのところ、CDも入手はできないようだ。
とはいえ、ビンダー・クインテットの“Featuring John Tchicai”は手に入れたい、
自分の音で聴いてみたい。

今日は、このディスクとの出逢いがあった。

Date: 9月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ヘルマン・プライの「冬の旅」(その1)

シューベルトを集中的に聴いていることは、
別項で聴いているとおりだ。いまもシューベルトを、まず聴くようにしている。

ここ一週間ほどは、シューベルトの歌曲をよく聴いていた。
「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」、「白鳥の歌」も聴いている。

これまで「冬の旅」がとくにそうなのだが、
ディートリッヒ・フッシャー=ディスカウを主に聴いていた。

他の歌手による録音をまったく聴かなかったわけではないが、
それで比率としてはかなり少なかった。

ディートリッヒ・フッシャー=ディスカウだけを聴いていれば、それでよし、とは、
もちろん思っていないけれど、そうなっていた。

実を言うと、今回初めて、ヘルマン・プライの「冬の旅」を聴いた。
1971年の録音、ピアノはサヴァリッシュである。

エンゲルのピアノによるプライの「冬の旅」も聴いていなかった。
私が聴いたことがあるのは、デンオン録音、ビアンコーニによるピアノの「冬の旅」である。

さほど期待していたわけではなかった。
それでも素晴らしい歌唱は、そんなバイアスをきれいに吹き飛ばしてくれる。

Date: 9月 5th, 2022
Cate: ディスク/ブック

音響道中膝栗毛(その2)

(続)音響道中膝栗毛」には、
ステレオサウンドに連載されたものがおさめられている。

伊藤先生の文章とは、伊藤先生のアンプ記事よりも先に出あっている。
中学生のころから読みはじめたステレオサウンドには、伊藤先生の連載があった。

そのころは、伊藤先生がどういう人なのかは全く知らなかったが、
それでも書かれたものを一つでも読めば、
中学生であっても、伊藤先生がどういう人なのかは、直観的につかめていたところがある。

だから、この人の書くものは、きちんと読もう、と思った。
伊藤先生の書かれたものに、最新のオーディオ機器のことは登場しない。

古いオーディオ機器のことが書かれてあるかというと、
こちらもウェスターン・エレクトリックやシーメンスのことがたまに出るくらいで、
そういう文章ではない。

けれど、伊藤先生の文章はオーディオについての文章だった。
伊藤先生の文章を、いつ読むのか。

大人になってから、老いてから読んでもいい。
けれど10代のころに読んでいるのといないのとでは、その後に違いがあるはずだ。

私は運が良かった、とオーディオに関してはそう思う。
オーディオに関心をもつ大きなきっかけが「五味オーディオ教室」だったし、
その後すぐに、伊藤先生の文章を、その時代に読めたからだ。

Date: 9月 4th, 2022
Cate: ディスク/ブック

音響道中膝栗毛(その1)

誠文堂新光社から出ていた伊藤先生の「音響道中膝栗毛」が、
復刊ドットコムから復刊される。

音響道中膝栗毛」と「(続)音響道中膝栗毛」の二冊ともである。

この二冊を熟読しても、伊藤先生のアンプが作れるようになるわけではないし、
真空管アンプを設計できるようになるわけではないが、
ほんとうに熟読すれば、感じるところはそうとう多くある筈だ。

Date: 8月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ESCAPE

8月19日に日付が変った直後に、
e-onkyoのサイトにアクセスしたら、ジャーニーの“ESCAPE”がジャケットに目に入った。

2022年リマスター、とある。
TIDALでもあるかな、と思って見たが、まだなかった。
どうも時差の関係で少し遅れるようで、今日の午後、TIDALをチェックしたら、あった。

e-onkyoではflacで、48kHz、96kHz、192kHzがあるが、
MQAはなかった。

TIDALはMQA Studioで、192kHzのみである。
音がいい。
聴いていて楽しくなる音のよさである。

“ESCAPE”は1981年のアルバム。
当時の若者は(私もその一人なのだが、リアルタイムでは聴いていない)、
“ESCAPE”を聴いていたわけだ。

別項で「熱っぽく、とは」を書いているけれど、
“ESCAPE”を当時夢中になって聴いていた若者ならば、
買ったアンプをトートバッグに入れて持ち帰ることぐらいなんでもなかったのかもしれない。

そんな、こじつけめいたことも聴き終ってから思っていた。

Date: 8月 15th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その8)

ギターは小さなオーケストラ、といわれていることは昔から知ってはいた。
知ってはいたけれどそう実感したことはなかったから、
そういうふうにいうんだなぁ、ぐらいだったのが、
“Friday Night in San Francisco”を聴くまでだった。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
ギターが小さなオーケストラであることを実感できたし、そのことが衝撃でもあった。

そしてギターという小さなオーケストラは、凝縮されたオーケストラでもあった。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を四十年ほど聴いてきて、
ギターは魂に最も近い楽器だ、と感じるようになってきた。

ここでの魂は、弾き手の魂なのだが、
そこにとどまらず聴き手の魂にも最も近い楽器だと思っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も、
まさにそうである。
そういう音で鳴ってくる。

Date: 8月 14th, 2022
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その7)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”。
聴いてどうだったのか。
どちらがいいのか、どちらが人気があるのか。

昨晩、両方ともMQA Studioで聴いていた。
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いたあとに、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”を聴いていた。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月5日、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”が1980年12月6日。
けれど、その録音が発売になったのは、1981年と2022年である。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、これまで数え切れないほど聴いてきている。
最初はLPで聴いて、CDで聴いて、SACD、そしてMQA Studioで聴いている。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、昨晩が最初である。
MQA Studioでしか聴いていない。

聴いてきた長さ、その他もろもろが違いすぎる。
そして1981年に、“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”も同時に発売になっていたら、
いまとは違う比較をしていただろうし、感じ方も違っていたであろう。

でも、現実は四十年ほどの開きがあって、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”と“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”である。

しかも“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
別項でも何度か書いているように、ステレオサウンドの試聴室で、
アクースタットのコンデンサー型スピーカー、Model 3で聴いている。

それゆえの衝撃の大きさ、強さがある。
ほんとうに強烈な体験だった。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、そうではない。
それに昨晩聴いたばかりだ。

正直、比較する気は私にはまったくない。
どちらも聴くと楽しい。

それでいい、と思っている。