Kate Bush – Remastered
ケイト・ブッシュのリマスターの告知は知っていた。
LPとCDの予約が始まっているのも、もちろん知っている。
今日、Kate Bush – Remastered – Adという動画を見た。
最後に、LP – CD – Digitalとある。
Digitalが意味するのは、配信なのだろう。
ケイト・ブッシュのリマスターの告知は知っていた。
LPとCDの予約が始まっているのも、もちろん知っている。
今日、Kate Bush – Remastered – Adという動画を見た。
最後に、LP – CD – Digitalとある。
Digitalが意味するのは、配信なのだろう。
菅野先生の「音楽と確実に結びつくオーディオの喜び」の全文である。
*
「レコード芸術の原点からの発言」と題されたこの欄には必ずしも適当ではないかもしれぬが、私が制作したレコードで、あまりにも印象強く感動的であった録音について書かせていただきたいと思う。それは、この三月に録音した歌のレコードである。私が今までに制作してきたレコードは全て器楽曲ばかりであって、歌のレコードは皆無といってよい。昔、会社務めをしていた頃は、仕事の選り好みができず、歌を録音する機会もあったが、自分で独立してレコード制作を始めてからは、一枚も歌のレコードをつくった事がないのである。決して歌が嫌いだというのではない。ただ、私の身近に録音したいという意欲の起きる声楽家がいないというだけの事かもしれぬ。それにもう一つ、私は制作するならば日本の歌曲のレコードをつくりたかったという気持も強い。器楽とちがって、歌はあまりにも直接的に人間的でありすぎる。だから、私はどうしても、日本人が外国語で歌う歌に心底から聴き入ることができないのである。
それやこれやで、今まで、歌のレコードを制作する機会がないままに過ぎてしまったのだが、この三月に録音したレコードというのは、日本の声楽界の大家、柳兼子先生の日本の歌曲集である。幸いにも私は、今から七〜八年前に、柳先生の演奏会を聴かせていただいたことがあり、そのとき、既に七十歳をはるかに越えた先生の歌の表現の深さに大きな感動をおぼえた記憶がある。先生は今年五月で八十三歳になられるが、高齢の先生の歌をお弟子さんたちが集まってレコードとして残したいというお話があり、その録音のご依頼を受けたのが、このレコード制作のきっかけとなった。
私は、即座に、過去の先生の演奏会での感激を思い出し、録音のご依頼をお受けするだけではなく、このレコードを、プライベート・レコードとしてではなく、広く一般の方々にも聴いていただくべく、オーディオ・ラボから発売する形にしたいと考えた。先生のLPが一枚もないことは不思議と思えるほどだが、一八九二年生まれの先生のことを知る若いレコード制作者もそういないのかもしれないし、たいへん失礼ながら八十三歳というご高齢からして、業界ではレコード録音ということは夢にも考えられなかったのかもしれぬ。かくいう私とて、もし、あの時、先生のリサイタルを聴いていなかったら、進んでレコードを制作発売しようという気にはなれなかったろうと思う。ふとした偶然に、先生のリサイタルに足を運んだ幸運に感謝したものである。
当初、録音は二月に予定されたのだが、冬の風邪を召され、一ヶ月録音予定を遅らせたが、先生は全快とまでいかないが、歌いましょうということになった。録音当日までの私の不安と期待は大変複雑なものであったが、朝の十時半頃、録音を開始した途端、私は期待の満たされた喜びに大きく胸をふくらませたのであった。LP一枚分、実に二十八曲もの歌を、先生は一回で録音されてしまった。それも、勿論、立ちっぱなしで……。伴奏ピアノは私が最も敬愛する小林道夫氏にお願いしたが、先生にはもっと日頃馴れたパートナーがおられただろうけれど、私としては、どうしても小林氏に弾いていただきたかったのであった。信時潔の歌曲集「沙羅」、「古歌二十五首」より五曲、「静夜思」、高田三郎の啄木短歌集八曲、弘田龍太郎の四部曲「春声」、そして、杉山長谷夫の、「苗や苗」と「金魚や」という曲目であったが、こんなにまで深い音楽を録音したことはかつてないといってもよいものであった。
先生にしてみれば、八十三歳というご高齢を我々が口にすることはきっとご迷惑にちがいないと思うけれど、人間の生命の常識からして、これは驚異的なことで奇蹟といってよいほどのことであるし、それにもまして、その年輪ゆえに蓄えられた表現の味わい深さと、その肉体的条件にいささかも影響を受けないほどに鍛え込まれた技と、その努力のもたらした芸術の重味を思うとき、やはり、八十三歳の先生が歌われたという事実は忘れられるべきではない重要なことに思えるのである。先生の偉大な人格を思うとき、私は、ただただ頭が下がるのみであるが、レコードが出来上がるまでのテスト盤を技術的な立場から何度も聴くうちに、その音楽の魅力は私の中でますます大きく深いものになったことにも驚きを禁じ得ない。ジャケットに収まってレコードが市場へ出ていくまでに、私たち制作者は、音楽的内容の立場を離れ、テープ録音とレコード製造技術の見地から何回音を聴くかわからないが、正直なところ、多くの場合、製品が出来上がる頃には中味の音楽に飽きているという経験をよくする。それほど何回もオーディオ的な耳でチェックを重ねるものである。ところが、この先生のレコードの場合、その度毎に音楽の魅力が高まって、ふと気がつくと、自分は音のチェックをしていたはずなのに、いつしかそれを忘れ、深々と音楽に聴き入り、肝心のチェック事項を忘れてしまっているという有様なのであった。
レコードをつくっている我々がそんなことをいってはいけないのだが、素晴らしいレコードというものは、音そのものの不満や、雑音などはどうでもよくなってしまうものであることを、これほど強く認識させられたこともないのであった。そして、意を強くしたことは、オーディオの仕事をしている私の講演会などに集まって下さる方々のほとんどが、ダイナミック・レンジやひずみ率や周波数特性に関心を持つマニアが多いのに、そうした機会にこのレコードのテスト盤をお聴かせしてみて、多くの方々が感動して下さったことである。オーディオ的なプログラム・ソースとしては決してデモンストレーション効果を持ったものではないし、ここにあるのは音楽そのものの魅力だけであるはずなのだ。やはりオーディオは音楽と確実に結びついているという喜びを味わったのであった。ひたすら、先生の歌の世界を、伴奏ピアノのソノリティで生かし、歪めることなくスピーカーから伝えたいと心がけて録音したのだが、人によっては、ピアノが大き過ぎるといわれたし、歌もピアノも距離感が遠過ぎるともいわれた。しかし、私としては、それらの意見には全く動かされることはない。先生の発声には、これ以上、マイクが近くても遠くても、その真価を伝えることはできないと思うし、ピアノのバランスやニュアンスの再現も、これらの歌曲のピアノ・パートの重要性からして、決して近すぎることも、大き過ぎることもないと信じている。つまり、私としては、かなり自分が満足のいく録音になったと思っているわけだ。LP両面で二十八曲の名唱、とりわけ「沙羅」の〝鴉〟〝占ふと〟〝静夜思〟に聴かれる感動の深さに酔いしれているのである。
それにしても、レコードと再生装置の関係は重要だ。私の部屋にある数種の装置で聴いてみると、そのニュアンスの何と異なることか……。ある装置は、もうたまらないほど艶っぽく歌ってくれるのだ。〝占ふと、云ふにあらねど、梳(くしけづ)るわが黒髪の、常(いつ)になうときわけがたく、なにがなし、心みだるる……〟そして、別の装置は無残に、その冷たく無機的でヒステリックな性格が、その心のひだをおおいかくしてしまう。〝不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて、空に吸はれし十五の心〟。装置の音は、この人声の、心の微妙なニュアンスを伝えるべく、血の通った音でなければならぬのだ。この啄木の詩のように端々しく、やさしくなくてはならないし、「沙羅」の〝鴉〟のように凄みを持ち、柳兼子先生のその歌のごとく毅然としていなければならぬものだと思う。
*
菅野先生による柳兼子氏の録音は、オーディオ・ラボから三枚出ていた。
現在、オクタヴィア・レコードからCDとして発売されている。
11月7日のaudio wednesdayで、かける。
1975年の録音で、それほど売れるディスクとは思えない。
けれど、いまも入手できるのは、それだけでありがたい、とおもう。
それでも、欲深いもので、オーディオ・ラボの菅野録音の多くがSACDで出ているのに、
これは通常のCDだけなのか、と、やはり思ってしまう。
SACDで出してくれ、とまではいわないが、DSDで配信してほしい。
11月1日に、AXIS THE COVER STORIES──interviews with 115 designersが出る。
デザイン誌AXISの表紙を飾ったデザイナーのインタヴュー記事を、
20年分まとめたものである。
2002年7月1日に発売になったAXISの表紙は、川崎先生だった。
三日後が、菅野先生と川崎先生の対談だった。
AXIS THE COVER STORIES──interviews with 115 designersにも、
川崎先生のインタヴュー記事は載っている。
川崎先生が表紙のAXISは、発売日に買った。
そして対談の場にもっていき、川崎先生にサインしてもらった。
AXISには、その十年くらい前、
MY VIEW OF DESIGNというインタヴュー記事に菅野先生が登場されている。
こんなことを語られている。
*
菅野 各国の状況はまちまちでしょうが、音楽の楽しみというのは非常に個人的なものですし、個々によってかなり複雑な要素が影響してくるものです。ジェネレーションによっても異なる上に地方性もありますし、傾向の差異として一つの言葉にまとめてしまうことはかなり危険なことだと思いますね。ですからここでは音楽との接し万についてを話しましょう。私は音楽を聴くということは演奏者や作曲家と対話するということになるのではないかと思っています。つまりその人間とお喋りをする、その人聞から様々なことを教わるということです。演奏ということはその人物のしぐさの微妙な部分やちょっとした癖のかたまりとして存在するわけですから、個性的な演奏であるほど人間的なものであり、そうした人間性の強く表われている演奏はやはりいいものです。最近は電子回路にデータをインプットして正確無比な演奏を行なうという音楽も開発されていますね。私も仕事でテクノロジカルな楽器やコンピュータ・ミュージックに関する取材を受けることもあります。「正確な電子音楽にはあまり興味がない」と言うと皆さんに驚かれてしまうのですが、やはり音楽は人間が介在している部分がおもしろさではないでしょうか。私は音楽とは元来、神や自然などのギフトとして存在しているものだと思っています。それらの神技を、神の子である人間が今、行なっているわけですよね。さらに人の知恵によつて録音したり再生しようとすることがオーディオによる試みであるわけですから、人間の知恵が神技にどこまで迫れるかというところは興味深いものではありますけれど。
*
だからこその肉体のある音、肉体の感じられる音なのだろう。
ステレオサウンド 80号の「ぼくのディスク日記」に、こう書かれている。
*
薬師丸ひろ子の「花図鑑」というコンパクトディスクを買ってきた(イースト・ワールド CA32・1260)。やはり、堂々と買う,というわけにはいかず、なんとなくモジモジしながら買った。なぜモジモジしたのか、自分でよくわからない。自分が、レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層から完璧にはずれたところにいることを意識しての、買うときのモジモジであったかしれなかった。
いずれにしろ、たとえモジモジしながらでも、どうしてもこのコンパクトディスクが、ぼくはききたかった。ひとつは、なにを隠そう、ぼくは薬師丸ひろ子のファンだからである。特に彼女の、どことなく危なっかしい、それでいて若い女の人ならではの輝きの感じられる声が、ぼくは大好きである。それに、もうひとつ、この「花図鑑」をどうしてもきいてみたい理由があった。中田喜直と井上陽水が、ここで作品を提供しているのをしったからである。あの中田喜直とあの井上陽水が、薬師丸ひろ子のために、どんな曲を書いたのか、それをきいてみたかった。
よせばいいのに、ついうっかり安心して、ある友人に、この薬師丸ひろ子のコンパクトディスクを買ったことをはなしてしまった。その男は、頭ごなしに、いかにも無神経な口調で、こういった、お前は、もともとロリコンの気味があるからな。
音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる。いい歳をした男が薬師丸ひろ子の歌をきけば、それだけでもう、ロリータ・コンプレックスになってしまうのか。馬鹿馬鹿しすぎる。
薬師丸ひろ子の歌のききてをロリコンというのであれば、あのシューベルトが十七歳のときの作品である、恋する少女の心のときめきをうたった「糸を紡ぐグレートヒェン」をきいて感動するききてもまた、ロリコンなのではないか。むろん、これは、八つ当たり気味にいっている言葉でしかないが、薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによってしかあきらかにできない世界も、あることはあるのである。人それぞれで好き好きがあるから、きいた後にどういおうと、それはかまわないが、ろくにききもしないで、思いこみだけで、あれこれ半可通の言葉のはかれることが、とりわけこの音楽の周辺では、多すぎる。
決めつければ、そこで終わり、である。ロリコンと決めつけようと、クサーイと決めつけようと、決めつけたところからは、芽がでない。かわいそうなのは、実は、決めつけられた方ではなく、決めつけた方だということを、きかせてもらう謙虚さを忘れた鈍感なききては、気づかない。
しかし、それは、どうでもいい。中田喜直と井上陽水が薬師丸ひろ子のために書いた歌は、それぞれの作曲者の音楽的特徴をあきらかにしながら、しかも薬師丸ひろ子の持味もいかしていて、素晴らしかった。モジモジしながらでも、このコンパクトディスクを買ってよかった、と思った。
*
黒田先生は1938年生れだから、私より25上である。
黒田先生は「花図鑑」を《なんとなくモジモジしながら》買われた。
80号は1986年に出ている。
黒田先生は48歳、私は23。
薬師丸ひろ子は1964年生れ。
私は《レコード会社の想定したこのコンパクトディスクの購買層》に含まれていた、だろう。
それでも黒田先生の《なんとなくモジモジしながら》という気持は、わかる。
いまはamazonを筆頭に、インターネットで簡単に注文でき自宅に届く。
《なんとなくモジモジしながら》ということを味わうことは、もうない時代でもある。
いわば、こっそり買える時代だ。
でも、薬師丸ひろ子のCinema Songsは、それでは買わなかった。
レコード店で買った。
《なんとなくモジモジしながら》ということはなかったけれど、
それでも堂々と買う、ともいいきれなかった。
AXIS増刊として10月12日に「Yamaha, One Passion ヤマハデザインのDNA、そして未来」が出る。
ヤマハのオーディオのことが載っているのかどうかは、いまのところわからない。
別項「プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン」で、
ヤマハの新しいコントロールアンプのC5000のデザインが、
プリメインのデザインにしか見えない、と書いているところに、
「Yamaha, One Passion ヤマハデザインのDNA、そして未来」の発売。
おもしろいタイミングで出てくる、と思っている。
それとは関係なく、私が面白そうと期待しているのが、
AXISに掲載されたヤマハのシリーズ広告の記事である。
そこには「これは単なる広告ではない。われわれの表現の実験場」とある。
以前ステレオサウンドは、広告の人気投票を行っていた。
巻末の記事で、ベスト3が発表されていた。
ヤマハ(当時は日本楽器製造)は、ベスト3内にほぼ毎回入っていた。
それ以前から、ヤマハのオーディオの広告は、表現の実験場だったのかもしれない。
一年ほど前に、CHORDからPolyが登場した。
Mojoとドッキングするオプションアクセサリーで、
マイクロSDカードからの再生を可能にする機能と、
ワイヤレスのネットワーク機能をMojoに追加する。
Mojoでのシンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”を聴いてから、
真剣にMojoをどう使うかを考えはじめている。
野上さんと同じようにパソコンとUSBで接続して、というのが、
Mojoの入力端子がUSB優先ということからして、一般的である。
それでもパソコン本体が、Mojoに較べてあまりにも大きすぎる。
できればコンパクトにまとめたい。
ノート型にする、という手もあるし、MacならばMac miniもあるな、と思う。
もっとコンパクトに、ということならば、Raspberry Piを使うという手もある。
そんなことを考えていたら、そういえばPolyというオプションがあったな、と思い出した。
一年前は、Polyにさほど興味はわかなかった。
いまは違う。
CHORDというメーカーは、Mojoの使い手のことをわかっているな、と思ったし、
彼らが欲しいモノをつくっているのだな、とも感じた。
PolyはMojoと同じくらいの価格である。
Raspberry Piならもっと安価にできる。
けれど、自分で勉強しなくてはならないところもあるし、
Polyほどスマートにまとめるのは、もっと難しい。
MojoとPolyはドッキングしてひとつのプレーヤーとなるし、
専用のケースも用意されている。
うまいところをついてくるな、と感心もする。
Poly+Mojo、そしてマイクロSDカードでの再生。
これでシンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”を、また聴きたい。
それほどMojoと“A CAPELLA”、
このふたつはがっしりと結びついて、強く印象に残っている。
(その7)で終りにしようと思っていたが、もう少し書きたいことが残っている。
CHORDのMojoは輸入品である。
これが日本製であったなら、もう少し安価にできるはずなのだが、
日本のメーカーからは、Mojoがなぜ登場してこないのか。
いま発売中のトランジスタ技術10月号に、1ページだが、Mojoの記事が載っている。
内部写真がカラーで載っている。
Mojoを製造することは日本のメーカーでもできるはずだ。
けれど、なぜ開発できないのか、とおもう。
Mojoには三つのデジタル入力端子があるが、入力セレクターはない。
三つの入力には優先順位があって、USBが最優先されている。
日本のメーカーだったら、間違いなく入力セレクターをつける。
Mojoの電源スイッチの色が、入力信号のサンプリング周波数を示す。
ここに関しても日本のメーカーだったら、どうするだろうか。
ディスプレイをつけるメーカーもあろう。
出力端子はどうしただろうか。
そんなふうに細部を検討していくと、
中身は同じだとしても、外観はずいぶんと違ってくると予想できる。
それでも同じ中身を、同等のクォリティの中身を、日本のオーディオメーカーは開発できただろうか。
このくらいモノ、できますよ、というメーカーの人がいるかもしれない。
ならば、つくってくれ、といいたい。
同じことは昔もあった。
ステレオサウンド 55号には書かれている。
*
いくらローコストでも、たとえばKEFの303のように、クラシックのまともに鳴るスピーカーが作れるという実例がある。あの徹底したローコスト設計を日本のメーカーがやれば、おそろしく安く、しかしまともな音のスピーカーが作れるはずだと思う。
*
瀬川先生が書かれている。
KEFのModel 303については別項で何度も書いているから、ここではもう書かない。
Model 303も、日本のメーカーは製造はできただろう。
もっと安価にできたはずだ。
けれど開発はできなかった。
日本のメーカーがやったのは、598戦争といわれるスピーカーの開発だった。
そのころから日本のメーカーはスピーカー開発においてはまだしもの感はあっても、
アンプ、チューナーなどの電子機器においては、優秀なモノをつくる、といわれていた。
D/Aコンバーターは、アンプと同じ電子機器であるにも関らず、
日本のオーディオメーカーからMojoに匹敵するモノは出てきていない。
弱体化している、とも感じている。
Mojoの意味については、Mojoが発表になったときに調べたことがある。
iPhoneアプリのGoogle翻訳でmojoと入力しても、こちらが求める意味は表示されなかった。
それにMobile Joyの略とも発表されていたから、それ以上調べることもしなかった。
野上さんはアメリカ暮しが長かった人である。
Mojoの音に驚いた私は、Mojoの意味について、野上さんに訊いた。
Mobile Joyの略だということは伝えずに、何か意味あるんですか、と訊いた。
意味はあった。
Google翻訳ではダメだったけれど、Googleで「mojp 意味」を検索してみると、
確かに意味がある。
野上さんが教えてくれた意味も、そこにはあった。
CHORDはイギリスの会社で、mojoの、その意味は、どうもアメリカでのもののようだから、
CHORDの人たちが、その意味を知っていたのかまだはなんともいえないが、
偶然なのかもしれないが、それにしてはできすぎの意味がある。
確かにCHORDのMojoは、その意味のとおりの製品である。
mojoとは、人やモノにもともと備わっている力、という意味である。
CHORDのD/Aコンバーターに備わっている力は、どのモデルも共通している。
Mojoも最上機種のDAVEも、核となる技術は同じである。
瀬川先生は「コンポーネントステレオの世界 ’79」では、こうも書かれていた。
*
35ミリカメラの一眼レフの流れをみても、最初はサブ機的なイメージでとらえられていたものが、数年のあいだに技術を競い合っていまや主流として、プロ用としても十分に信頼に応えている。オーディオもまた、こうした道を追って、小型が主流になるのだろうか? 必ずしもそうとは言いきれないと思う。
たしかに、ICやLSIの技術によって、電子回路はおそろしく小型化できる。パーツ自体もこれに歩調を合わせて小型化の方向をとっている。けれど、オーディオをアナログ信号として扱うかぎり、針の先でも描けないようなミクロの回路を通すことは、やはり音質の向上にはならないだろう。プリント基板にエッチングされた回路では電流容量が不足して音質を劣化する、とされ、エッチング層を厚くするくふうをしたり、基板の上に銅線を手でハンダづけする手間をかけて、音質の向上をはかっている現状では、アンプの小型化は、やはり限度があるだろう。オーディオがディジタル信号として扱われる時代がくれば、手のひらに乗るアンプも不可能ではなくなるだろうが……。
*
MojoはD/Aコンバーターだから、半分はアナログ信号を扱っているけれども、
それでもD/Aコンバーターとしての性能は、
デジタル信号のアナログ信号への変換部分にかかっているといえるし、Mojoというより、
CHORDのD/Aコンバーターの技術的特徴は、まさにこの部分にある。
Mojoがアナログ信号だけを扱うオーディオ機器であったら、
Mojoのサイズと価格で、Mojoに匹敵する音を実現するのは困難(というより無理)といえる。
別項「redundancy in digital」を書いていることと対極にあるデジタル機器が、Mojoともいえる。
Mojoは手軽に扱ってもそれなりの音は聴かせてくれる。
「Mojo、いいけれど、それでもこのサイズ、この価格を少し超えている程度だよね」
そんなふうに捉えている人がいても不思議ではない。
あのサイズ、あの重さだから、どこかにポンと置いて接続して鳴らす。
本来はそういう使い方をしてもいい製品なのだろう。
Mojoとは、Mobile Joyを略した型番である。
だから、9月21日の夜、野上さんのところであれこれやったようなことを、
Mojoは、ユーザーに要求していないのかもしれない。
それでも、あれこれやれば、しっかりは音は変化していく。
そうやって得られる音は、デジタル機器ゆえの進歩を実感させるとともに、
Mojoの、もうひとつの意味についても気づかされる。
「緻密なメカは、セクシーだ」ということでは、
われわれの世代、上の世代のオーディオマニアには、
ステラヴォックス、ナグラのオープンリールデッキがまさしくそうである。
どちらもスイス製、しかも高価だった。
熊本のオーディオ店では実物を見ることはなかった。
東京に来てからも、オーディオ店で見た記憶はない。
写真や映画に登場した、これらのメカを見ては、
使う目的はほとんどないにもかかわらず、欲しい、と思っていた。
この時代、小型でも優れた音ということになると、途端に高価になる。
国産の小型コンポーネントは、ナグラやステラヴォックスのような製品ではなかった。
比較的安価な製品だった。
このことは瀬川先生も、
《それが当り前で、パワーアンプに限らず、同じ時代に同じような内容のものを超小型化しようとしたとき、もし音質を少しも犠牲にしたくなければはるかに高価につくし、同程度の価格でおさえるなら音質は多少とも聴き劣りするはずだ。それでなければ大型機の方が間違っている》
と書かれている。
国産の小型コンポーネントのそれぞれの価格は、CHORDのMojoより少し高いくらいに抑えられていた。
当時の小型コンポーネント(その4)で引用した瀬川先生の文章にあるように、
音にこだほるオーディオマニアにとっては身構えせずに聴ける、いわばサブ的なシステムとして、
《音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち》にとってはメインのシステムとして、
素直に受け止められる。
ではMojoはどうかといえば、
《音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち》にとってのメインのシステムの一部となる。
オーディオマニアにとっても、そうなるだけの音を聴かせてくれる。
身構えて聴いても、というより、
シンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”では、身構えて聴きたくなる音を再現してくれたからだ。
これは、MojoがD/Aコンバーターという、デジタル機器のひとつだからかもしれない。
(その1)で、iPhoneのカメラについて触れたのは、
初期のデジタルカメラからの進歩が、そのままCHORDのMojoにあてはまるからである。
40年前、瀬川先生が「コンポーネントステレオの世界 ’79」の巻頭で書かれていることも思い出す。
少し長いが引用しておく。
*
パイオニアがA2050(プリメイン)でまず横幅を38センチに縮めて小型化のトップを切ったのは78年の3月だった。この寸法自体は驚くにあたらないが、パイオニアの場合、これと同寸法のチューナーとカセットデッキを同時に発売し、小型スピーカーと、それに前年にすでに発売していた小型レコードプレーヤー(XL1350)を組んで、ミニコンポーネントシリーズとしてまとめたところがユニークだった。このシリーズは周到に計画されたらしく、随所に新しい構造上のくふうがみられ、しかもサイズに無理をしていないせいか音質も立派だと思うが、小型化という点では、なかなか可愛らしいね、という程度の評判にとどまったと思う。
その意味で、6月にテクニクスとダイヤトーンから相次いで発表された小型アンプ・シリーズが、本格的な超小型化のあらわれで、その後はオーレックス、少し遅れてソニー、ビクター、アイワ……と同類が次々に出現しはじめた。
これらの超小型アンプのおもしろさは、何よりもまず、実物を目の前に置いたときの意外性にある。こんなに小さくて! と、誰もが目を見張る。カメラなどでも同じことだが、従来一般化していた大きさのものを、そのまま小型化したのでは、どこか玩具的な印象を与えてしまう。その点はさすがに心得たもので、テクニクスもダイヤトーンも、そしてその後を追った各社の製品も(一部を除いては)、材質や仕上げに精巧な感じをそれぞれに表現していて、それがいっそう、ミニチュアとしてのおもしろさ、小型化されているにもかかわらず信頼感を抱かせる大切な要素になっている。
ただ、前例のない製品であるだけに、細部でのコントロール類の機能や形態の整理に、まだ十分に消化しきれていない部分が各社とも散見されるのは、いまの段階では仕方のないことだろう。
これまでに発売されたミニアンプを形態別に分類してみると、トップを切ったテクニクス、ダイヤトーン、オーレックス、アイワの四社がセパレートタイプ、あとを追ったビクター、ソニーの二社がインテグレイテッド(プリメイン)タイプというように(パイオニアは超小型とはいいにくいので別にすれば)同類で、このほかにテクニクスがレシーバーを一機種追加している(同社では「レシーバー」という呼び方のイメージのよくないことを嫌って、「チューナー・アンプリファイアー」と命名しているが)。
ミニアンプとしてどういう形態が最も好ましいか、などということは簡単には結論づけられないが、しかし次のような見かたができる。
こんにちの時点まで、アンプは大きさや重さの増加することなどいっさいかまわず、いわばなりふりかまわないやりかたで、音質の向上に務めてきた。電源部の強化、アイドリング電流を多くするために放熱板の面積を増加する……。すべて大型化の方向であった。
パルス電源などの新しい技術の助けを借りたにせよ、例えばテクニクスのSE-C01(パワーアンプ)があの大きさ(W29・7×H4・9×D25cm)で42W×2の出力を得ていることは驚異だが、同じ40Wといっても、たとえばGASの〝グランドサン〟の鳴らすあの悠揚たる、まるで100W級ではないかとおもえるような音にくらべると、やはりどこか精一杯の感じがすることは否めない。ダイヤトーンやオーレックスの場合は、パワーアンプを(コントロールアンプの寸法に合わせないで)ひと廻り大型に作っているが、それでもやはり、同じパワーの大型機にくらべて同格の音がするという具合にはゆかない。
それが当り前で、パワーアンプに限らず、同じ時代に同じような内容のものを超小型化しようとしたとき、もし音質を少しも犠牲にしたくなければはるかに高価につくし、同程度の価格でおさえるなら音質は多少とも聴き劣りするはずだ。それでなければ大型機の方が間違っている。
改めて言うほどの問題ではなく当り前だと言われるかもしれない。が、私の言いたいのはこれから先だ。
ミニアンプを実際に見た人は、誰でも、その可愛らしさに驚く。そのサイズから、これなら机の上に、書棚や食器棚の片隅に、また寝室のベッドのわきに……さりげなく置くことができそうだ、と感じる。またそれほどではない一般の人たちも、その点では変らない。
言いかえればそれは、ことさらに身構えずに音楽が楽しめそうだ、という感じである。ミニアンプ(を含む超小型システム)は、誰の目にも、おそらくそう映る。実際に鳴ってくる音は、そうした予感よりもはるかに立派ではあるけれど、しかしすでに大型の音質本位のアンプを聴いているマニアには、視覚的なイメージを別として音だけ聴いてもやはり、これは構えて聴く音ではないことがわかる。そして、どんな凝り性のオーディオ(またはレコード)の愛好家でも、身構えないで何となく身をまかせる音楽や、そういう鳴り方あるいはそういうたたずまいをみせる装置を、心の片隅では求めている。ミニアンプは、オーディオやレコードに入れあげた人間の、そういう部分に訴えかけてくる魅力を持っている。
では、いわゆるマニアでない人たちにはどうか。音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち。生活の中で、どこからともなく美しい楽しい音楽がいつも流れていることを望んでいる、そんな聴き方の好きな人たちなら、ミニアンプは、マニアがときたま身を休めるためのいわゆるセカンドシステムやサブ装置(システム)でなく、そのままメインの再生装置として素直に受けとめられるはずだ。
オーディオやレコードのマニアにとってはどこまでもサブ機であり、一般の人たちにとってはそのままメインの装置になる。
これは一見矛盾しているようだがそうではなく、このことがミニアンプのありかたに大きな示唆を与える。
マニアにとってのサブ機なら、あえて大仰にセパレートタイプなどと身構えなくても、インテグレーテッド型、あるいはいっそうまとめた形のレシーバータイプであるほうが、むしろ好ましい。テクニクスのSA-C02を目の前に置かれて、これ一台でチューナーからパワーアンプまで全部収まっている、と思うと、まるで、いままで背負っていた重いリュックサックを肩から下ろした瞬間のような、素敵に身軽な安堵感をおぼえる。これでいいじゃないか。十分じゃないか。何を好んで、いままでのあの図体の大きな、三つも四つも分割された場所ふさぎのアンプに何の疑いも抱かなかったのだろう……。
マニアでない一般の愛好家にとってはどうなのだろうか。もしも、日常の暮しの中でさりげなく音楽を流しておきたい、という程度にオーディオセットを考える人なら、そして、正常な生活感覚を持っている人なら、やはり、チューナー、プリ、パワーと三つに分かれた大仰さよりも、せいぜいチューナーとプリメインの二つ、もし性能が同じなら一体型レシーバーの方を、とるはずだ。
──こう、考えてくると、ミニアンプをプリメイン+チューナー,さらにセパレートタイプに、あえて作る必然的な理由というものが、次第に薄れてくることがわかる。
とは言っても、私は、こうあるべきというヤツが大嫌いだ。ミニアンプのいわば主流がこんな方向を目ざすのが本すじであることを言いたかっただけで、しかしそこに、セパレートあり、プリメインあり、また結構で、それぞれに個性を競い合わなくては、ものは面白くならない。いまはまだ製品としての例はないが、たとえばナカミチ630のような、チューナー+プリアンプという形が、ミニの中に生まれてもよさそうに思う。こちらを手もとに置いて、パワーアンプはスピーカーの近くに持っていってしまう。このほうが理想的でもあるはずだ。
ミニアンプに触れたのだから、そのいわば元祖に敬意を表しておかなくてはならないだろう。いうまでもなくイギリスQUADだ。むろんQUADはミニアンプを作ろうとしていたわけではない。けれど、こんにちの新しい国産ミニアンプをみて驚いた目で、もういちどQUADのアンプ群やチューナーを眺めてみれば、それがもう十数年以前から(管球時代からの流れでみれば二十年以上に亘って)、このサイズを維持してきたことに驚かずにはいられない。
*
1978年に、国産メーカーから小型化をはかったコンポーネントが登場した。
テクニクス、ダイヤトーン、オーレックス、アイワ、ビクター、ソニーらのなかで、
いまもオーディオマニアの記憶に残っているのは、テクニクスのコンサイスコンポのはすだ。
私もそうだ。
ダイヤトーン、オーレックスのミニコンポーネントも記憶に残っているが、
この時代の小型コンポーネントということですぐに思い出すのは、コンサイスコンポである。
オーレックスの場合、広告は、製品以上に記憶に残っている。
この広告のキャッチコピーは「緻密なメカは、セクシーだ。」であった。
確かに小型で緻密なメカは、セクシーといえる。
CDの登場は1982年10月。
翌年にはヤマハから10万円を切るCD-X1が出た。
第一世代のCDプレーヤーは、各社どれも15万円ほどか、それ以上していた。
ソニーのCDP101が168,000円だった。
そこにヤマハが99,800円でCD-X1を出してきた。
ヤマハの最初のCDプレーヤーCD1は250,000円していた。
CD-X1は10万円を切った、ということで話題になった。
ヤマハは、CDプレーヤー関連においては、価格的に挑戦していたところがある。
セパレート型が登場後、D/AコンバーターDX-U1を69,800円で出してきていた。
CDプレーヤーの価格に関しては、第一世代とそれ以降の製品を同列には比較し難い。
明らかに国産メーカーの第一世代のCDプレーヤーは、戦略的に価格を抑えていた。
CDP101の168,000円を、いまの若い世代の人たちがどう思うのかはなんともいえないが、
中を見れば、同価格の他のオーディオ機器(アンプ)と比較しても、
儲けが出るのだろうか、と思った。
事実、信頼できるところから聞いているが、
ヤマハのCD1は本来ならば40万円くらいの価格になる中身である。
CD1のことだけ具体的に書いているが、これは他のメーカーも同じだったはずだ。
とにかくCDとCDプレーヤーを普及させたい、というメーカーの意図(思惑)が、
第一世代のCDプレーヤーの価格である。
いま考えると、第一世代のCDプレーヤーは、製品ではあったけれど商品と呼べたのか、と思う。
儲けは出なかった、けれど、ここで普及への突破口となれば、
第二世代、第三世代……で利益をあげることができる、その意味では商品といえるのかもしれないが、
製品と商品について考えるうえで、第一世代のCDプレーヤーは興味深い。
ヤマハのCD-X1を見て触ったとき、
はっきりと第一世代には感じられなかったコストということが、そこにはあった。
CD-X1は利益の出る製品だった。つまり商品といえる最初のCDプレーヤーだったのかもしれない。
CD-X1もDX-U1も、そのころはステレオサウンドにいたから、じっくりと聴いている。
そこでは、音を聴いての驚き、
つまり今回のMojoを聴いての驚きはなかった。
だから、Mojoの音には、その音を聴いたときに驚き、
こうやって書きながら、もう一度驚いているわけだ。
数日前に、写真家の野上眞宏さんから「Mojoで遊びましょう」という誘いがあった。
それで昨晩は、野上さんのところに行っていた。
MojoはWindowsパソコンとUSBで接続されていた。
ヘッドフォン端子からの出力をRCAに変換するアダプターがつけられていた。
記憶にある(といっても三ヵ月半ほど前のこと)以前のD/Aコンバーターの音とは、
あきらかに違うけれど、良さもあればそうでないと感じるところもあった。
途中で以前のD/Aコンバーターも試しに鳴らしてみる。
もう一度Mojoに戻して、少しセッティングを変える。
ちょっと面白い置き方も試した。
その音は良くても、実用性には欠ける。
そんなことをやっていると、音も変っていく。
といっても、何か特別なアクセサリーを使ったわけではない。
細かなことは書かないが、なんだぁ〜、と思われるようなことをいくつかやっただけ。
いくつかのアルバムを聴いてカンターテ・ドミノ(DSD)を聴くころには、
いい感じで鳴るようになってきた。
その次に、シンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”。
これが驚くほどの音だった。
Mojoの筐体についている三つのインジケーターの一つは、
色で入力されているデジタル信号の状態を示す。
“A CAPELLA”では44.1kHzを示す色になっている。
CDをリッピングしたものだから、とうぜん44.1kHzである。
なのに聴いている印象は、ハイレゾ音源? とMojoのインジケーターを確かめるほどに、
うまいぐあいに鳴っている。
CHORDのD/Aコンバーターは、Mojoの上にQUTESTはがあり、
その上にはHUGO 2、HUGO TT、DAVEがある。
MojoよりQUTEST、QUTESTよりHUGO 2……、
そんなふうに音そのものは良くなっていくはずだ。
MojoとDAVEを直接比較すれば、きっと大きな差に驚くとは思う。
でも、それは当り前のことであり、そうでなければ困る。
MojoとDAVEを直接比較しての驚きと、
Mojoを聴いての、特に昨晩の“A CAPELLA”の音での驚きは、
同列には比較できない性質の違いがある。
Mojoでの“A CAPELLA”の音には、野上さんも驚かれていた。
目の前にあるのは掌サイズのD/Aコンバーターであり、
価格も50,000円前後である。
ソニーが最初に出したポータブルCDプレーヤーのD50も、同じような価格だった。
1984年に発売されている。
D50の音はイヤフォンでも、スピーカーでも聴いている。
その後も、いくつかのポータブルCDプレーヤーは聴いている。
イヤフォンで主に聴いたし、中にはスピーカーで聴いたモノもある。
単体のCDプレーヤーとD/AコンバーターとしてのMojoを比較するのは、少し無理があろう。
それでもどちらも掌サイズで、
価格も近い(といっても年代的な差を考慮すればMojoの価格もスゴい)。
昨日(9月21日)は、新しいiPhoneの発売日だった。
最初のiPhoneから11年。
ハードウェアの進歩は、デジタルとはそういうものだ、と頭ではわかっていても、
やはりスゴいと思うほどである。
処理速度も速くなっているけれど、それ以上に搭載されているカメラの進歩は、
直接ヴィジュアルであるだけに、その進歩ぶりはよりはっきりと実感できる。
私がデジタルカメラに初めて触れたのは、カシオのQV10だった。
1994年発表、1995年3月発売。
知人が買ったのを触らせてもらった。
私がデジタルカメラを買ったのは、キヤノンのPoweShot A40で、2002年だった。
いまは単体のデジタルカメラは持っていない。
iPhoneのカメラを使っているだけだ。
直接、QV10、PoweShot A40の画質と比較したわけではないが、
ここまでコンパクトになって,ここまで簡単に、ここまでキレイに撮れるようになったのは、
競争の激しい世界だからこその進歩なのとはわかっていても、驚異的に近い。
それに較べるとオーディオは……、とつい言いがちになってしまうけれど、
昨晩、聴いたCHORDのMojoには驚いた。
MojoはD/Aコンバーター搭載のヘッドフォンアンプとなるのか。
出力はヘッドフォン端子のみである。
掌にのるサイズ、重量も180gしかない。
価格も安い。
それでもPCMは768kHz/32ビット、DSDは11.2MHzまで対応している。
これまでヘッドフォンアンプとして聴いたことがある。
けれど、スピーカーを通してMojoは聴いたことはなかった。
MQA-CDは、CDと互換があるからこそD/Aコンバーターが対応していれば、
ピックアップ部分、トランスポートは従来のCDのそれでいいわけだ。
ということはハイブリッドSACDのCDレイヤーをMQA-CDとすることも可能なはずだ。
何の問題もない。
そういうハイブリッドSACDが出ているのかどうか、知らなかった。
今回メリディアンのULTRA DACを聴いてからというもの、
MQAについての勉強をしているところである。
不勉強であった。それゆえにどんなディスクがあるのかをほとんど知らない。
いましがた帰宅した。
郵便受けに届いていた。
先日、注文したラドカ・トネフのFAIRYTALESである。
封を切ってみると、MQA-CDのマークとともにSACDのマークも入っている。
Hybrid SACDとも表記してある。
やっぱりあるんだ、と思ったし、
技術的にはなんら問題はないことの確認でもある。
項を改めて書く予定でいるが、世の中にはMQAを誤解している人が少なからずいる。
今回MQAで検索してみて、初めて知った。
MQAは非可逆圧縮だからダメ、と書いている人もいたし、
ハイレゾではない、とまで書いている人もいた。
MQAに非可逆圧縮の領域があるのは確かである。
けれど、あくまでも、その領域があるということであって、
全領域が非可逆圧縮なわけではない。
他にも書いておきたいことはいくつもあるが、
ここで書くことではないので、このへんにしておくが、
MQAがどういう技術か、そのことを知る前に、
まずULTRA DACでMQA-CDの音を聴いてほしい、とおもう。
MQAについて勉強するのは、その方がずっといい。
ULTRA DACの音を聴いて、それでもMQAに対して否定的であるのならば、それはそれだ。
少なくとも、私は、そういう人と音楽、音、オーディオについて語ろうとは思わないし、
そんな人と酒をのみながら、あれこれ話すことは絶対にないだろうから、
つまり完全に無関係な人だから、好きにやってくれ、というしかない。
FAIRYTALESが、MQA-CDとSACDのハイブリッド盤であるということは、
自信のあらわれであろう。