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Date: 12月 1st, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(続ラックスのアンプ)

同じことをウエスギ・アンプにもおもう。
ここでいうウエスギ・アンプとは現在のそれではなく上杉先生の時代のアンプのことだ。

上杉先生自身がいわれていたように、刺戟的な音は絶対に出さないアンプだった。
そのかわりとでもいおうか、音の力感ということに関しては控えめな表現にとどまっていた──、
そう感じる面をもちあわせていた。

けれど、このことは電源周波数の違いと無関係とは思えない。
上杉先生は兵庫県にお住まいだった。
当然、ウエスギ・アンプはそこでつくられていた。
音決めも60Hz地区である兵庫県で行われていた。

しかもU·BROS3のトランス類はすべてラックス製である。
電源トランスもだ。

この時代のウエスギ・アンプを60Hz地区で聴いたことはない。
なのではっきりしたことはいえないのだが、
U·BROS1とU·BROS3のペアを、60Hz地区で聴いたら、
力感の表現に関しての印象は違ってくるように思われる。

電源周波数の違いで、そのアンプの本質までが180度変ってしまうということはない。
けれど、特質においては意外と変ってしまう面もある。

いまになってU·BROS3を、60Hzで聴いてみたかった、と思っている。

Date: 12月 1st, 2016
Cate:

いい音、よい音(その1)

いい音と書いている。
よい音とは書いていない。
よい音と書くべきか、と迷っているところがある。

よい音だと、
良い音
佳い音
善い音
好い音

いい音だと、
良い音
善い音
好い音
宜い音

まだしばらくは、いい音と書いていく……。

Date: 12月 1st, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その7)

いまの時代、裡にある毒と共鳴する毒をもつスピーカーを求める人はどのくらいいるのか。
昔もそう多くはなかったのかもしれないが、
いまはもっともっと少ないような気がしないでもない。

それに毒をもつスピーカーが、現行製品の中にはたしてある、といえるのだろうか。
例えばローサーのユニットを復刻したといえるヴォクサティヴにしても、
いいスピーカーとは思いながらも、毒をもつ、とは感じていない。

ヴォクサティヴでもそうである。
それ以外のスピーカーとなると、毒とは無縁のところにある、と思う。
それが技術の進歩といえばたしかにそうであるわけだが、
それだけで美しい音を鳴らすことができるのだろうか、という疑問が残る。

新しいスピーカー、高価なスピーカーの中には、首を傾げたくなる音のモノがある。
そういうスピーカーは毒をもっているのかというと、
どうも私の耳には、そうは聴こえない。

それらのスピーカーが持っているのは毒ではなく、澱のような気がする。
最新のスピーカーであっても、澱がどこかに感じられてしまう。

Date: 12月 1st, 2016
Cate: ケーブル

ケーブル考(雑誌の書名)

1955年に電波新聞社から「電波とオーディオ」が創刊されている。
「電波とオーディオ」の創刊メンバーのひとりが、若き日の菅野先生である。

そのころのことを「僕のオーディオ人生」に書かれている。
     *
 新しい雑誌のタイトルは、僕達の間では「オーディオ」と決まっていた。とはいうものの、この「オーディオ」という言葉は当時全く知られていない言葉であって、専門家ならいざ知らず、一般には通用するはずもなかった。この頃、アマチュアの間で使われていた、レコードとオーディオに関する言葉は「ハイ・フィ」というもので、どういうわけか、「ハイ・ファイ」とは発音されなかった。
 こんな状態だったから、平山社長や、その他会社の幹部の意見では、ハイ・フィかハイ・ファイのほうがよいだろうということだったが、これには僕達が頑強に反対した。ハイ・フィやハイ・ファイは俗語であって、オーディオこそ、我々が真面目に取組もうとしている世界の正しい呼称であると突っぱったのである。もちろん、ハイ・フィやハイ・ファイは当時の辞書には出ていなかったが、オーディオは出ていた。当り前である。しかし、今だったら、雑誌のタイトルとして、辞書に出ている言葉はボツにして、出ていないほうを採るだろうに、当時は、やはり世の中、コンサーバティブであった。結局、タイトルは『電波とオーディオ』と決まったのである。この「電波」がつくことには我々は抵抗したが、電波新聞社の刊行物だからということで押し切られてしまった。しかし「電波」という字はごく小さく、ほとんど「オーディオ」が全面に目立つ題字が選ばれることになったのである。
     *
「電波とオーディオ」の編集を約三年やられて、菅野先生は離れられている。
そのころには電波の文字が大きく、オーディオは小さくなっていたそうだ。

「電波とオーディオ」の書名がいいとは思っていないが、
いまの時代からみれば、時代の先取りともいえそうである。
決して好きな表現ではないが、一周まわって新しい、ということになる。

電波とはテレビ、ラジオ、アマチュア無線などを、ここでは指しているが、
無線という意味で捉えれば、
「電波とオーディオ」はケーブルレス(ワイヤレス)・オーディオということにもなる。

「電波とオーディオ」のころの無線と、いまの時代の無線は技術的には進歩があり違ってきている。
けれど電波を使うことは同じで、機器間の接続をケーブルに頼らずに、という点は同じといえる。

「電波とオーディオ」のころの電波は長い距離の伝搬手段であり、
いまの時代の家庭内での電波は至近距離の伝搬手段である違いはあっても、
「電波とオーディオ」や「無線と実験」といった書名は、
かなり長いこと古くさい印象があったが、いまは必ずしもそうではなくなっている。

オーディオ信号の伝送において、ケーブルなのかワイヤレスなのか。
一刀両断で、どちらかが劣るとは、いまのところいえない。

ワイヤレスなんて……、という人がオーディオマニアに少なくないことは知っている。
なぜ、そんなふうに決めつけてしまうのか。
決めつけてしまうことで、自分を誰かにアピールしたいのか。

すべての技術にメリットとデメリットがあり、
ケーブルにしても無線にしても、どういう規格でどう使っていくのかので、
判断していくものであって、いえるのはどちらが好きか嫌い程度である。

ケーブル伝送は一見簡単そう(単純そう)にえるが、
部品点数においては複雑な構成の増幅よりも、
実のところ難しい面を持っているようにも思えることがある。

Date: 12月 1st, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ラックスのアンプ)

いまラックスの本社は横浜市にある。
1984年に本社を大田区に移転後、関東にある。

それ以前は大阪に本社はあった。
大阪と関東では電源の周波数が違う。
60Hzと50Hzの違いがある。

大阪本社時代は、製品開発は大阪で行っていたはず。
つまり60Hzの電源の元で行われていたわけだ。

私がはじめて聴いたラックスのアンプはLX38だった。
大阪本社時代のアンプである。
熊本のオーディオ店で聴いているから、60Hzである。

オーディオ雑誌の出版社はすべて東京にある。
50Hzである。
大阪本社時代のラックスのアンプは、50Hzで試聴されていた。
オーディオ評論家によっては、大阪本社に行って試聴している人もいようが、
大阪と東京、どちらで聴く機会が多かったかといえば、東京のはずだ。

50Hzと60Hzによる音の違いは大きい。
アメリカ製アンプで、まだ日本仕様(100V対応)になっていないアンプの場合、
昇圧トランスを使った方がいいのか、とときどききかれる。

どういう昇圧トランスを使うかにもよるし、
アンプにもよって結果は違ってくる。

ここでもオリジナル至上主義者は、アメリカと同じ電圧でなければ、という。
ならば、そういうオリジナル至上主義者は、60Hzで聴いているのだろうか。

厳密な試聴をしての印象ではないが、
60Hzのアメリカ製アンプは、電源電圧よりも電源周波数のほうが影響が大きいように感じている。

大阪本社時代のラックスのアンプも、そうだったのではないだろうか。

Date: 12月 1st, 2016
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その37)

トランス式直列型デヴァイダーの回路図は、頭のなかで描けるほど簡単なものだ。
実験的につくってみても、簡単にできる。

とはいえ使うトランスの品種によって音は大きく違ってくる。
それに同じトランスであっても、トランスの使いこなしは意外に見落しがある。
それに気づかずにやってしまうと、いわゆるトランス臭い音がつきまとうであろう。

まだ試していないのでなんともいえないが、
この方式ならば、低域用と高域用でトランスの品種を変えることもできる。
最初は同じ品種のトランスを使って、それでいい結果が得られるのであれば、
次のステップとして鳴らしたいスピーカーに応じて、
トランスの使い分けもできる。

もっともいいトランスはそれほど安価ではないから、
そう簡単にトランスを交換するというわけにはいかないだろうが、可能性としてはおもしろい。

このトランス式直列型デヴァイダーは、プリミティヴな方式である。
デジタル信号処理で可能なことは、このデヴァイダーではできない。

けれど、どちらも興味がある。
私にとって、このふたつがデヴァイダーの両極ということになる。

Date: 11月 30th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その15)

(その9)で引用した五味先生の文章を、もう一度読んでほしい。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
ソニーのポーダブルCDの音は、決して優美な音ではなかった。
安っぽい音といってはいいすぎだが、価格相当の音でしかなかった。

それでもジュリーニの「第九」に涙した。
ソニーのポータブルCDの音は、優美な再生音ではなかったけれど、
それまでの私は、優美な再生音を出そう、優美な再生音でベートーヴェンを聴きたい、
その一心でオーディオをやってきた。

優美な再生音が出せていたのかよりも、
出そうとつとめてきた日々があったからこそ、といえる。

だから音楽を聴いてきてよかった、
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とともに、
オーディオをやってきてよかった、ともおもっていた。

Date: 11月 29th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その14)

ベートーヴェンの前に出ていた、ウィーンフィルハーモニーとのブラームスも素晴らしかった。
だからベルリンフィルハーモニーとのベートーヴェンも期待していた。
期待していたからこそ、無理をしてでもCDと聴くためのポータブルCDを購った。

ソニーのポータブルCDだった。
質屋にあったくらいだから最新機種でもなく、普及クラスの型落ちモデルである。
どんな音なのかはまったく期待していなかったし、その通りの音しかしてこなかった。
それでも、聴いていて涙がとまらなかった。

男は成人したら、涙を流していいのは感動したときだけだ、と決めていた。
つらかろうが、くやしかろうが、涙は流さないのが大人の男だと思っていた。

こんなにも涙は出るものか、と思うほどだった。
一楽章がおわり、二楽章、三楽章と聴いて、四楽章。
バリトンの独唱がはじまると、もっと涙が出た。

大切なもの、大事にしてきたものがほとんどなくなってしまった狭い部屋で、
ひとりでいた。ひとりできいていた。

音楽を聴いてきてよかった、と思った。
ベートーヴェンを聴いてきてよかった、とも思っていた。

Date: 11月 29th, 2016
Cate: 黒田恭一

「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」

12月23日公開の映画「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」は、
邦題が示しているように1970年代後半の五年間を描いている、とのこと。

ステレオサウンド 59号の黒田先生の連載「さらに聴きとるものとの対話を」は、
マイルス・デイヴィスのことだった。
「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティジ」だった。
     *
 みんながいまのマイルス・デイヴィスをききたがっていることを、マイルス・デイヴィス自身が誰にもまして認識しているのかもしれない。にもかかわらず、いまなお、マイルス・デイヴィスは、新作を発表できないでいる。そして、その過去を整理するかのように、プレスティッジでのレコードがアルバムにまとめられ、さらにCBSでのレコードも似たようなかたちでまとめられた。マイルス・デイヴィスは、一九二六年生れであるから、一九八一年のいま五十五才である。過去を整理してはやすぎるとは思えない。
 それにしても、なにゆえに、マイルス・デイヴィスは、新作が発表できないでいるのであろうか。さしずめこのところしばらくのマイルス・デイヴィスは、ウタヲワスレタカナリヤである。ウタヲワスレタわけではないかもしれぬが、なぜかウタヲうたえないようである。マイルス・デイヴィスは、きっとつらいにちがいない。そのつらさが、漠然とではあるが、わかるような気がする。
     *
と書かれ、マイルスとの対比でデイジィ・ガレスピーについて触れられている。
マイルスのことを考えると暗示的に思い出されるひとりとしてのガレスピーである。

マイルスとガレスピーの音を、テノールにたとえられてもいる。
     *
 ガレスピーの音は、いつだって、とびきりいい音である。ああ、トランペットっていいな、とききてに思わせずにおかない音である。そこでのガレスピーの音もそうである。そういうガレスピーの音に較べれば、マイルス・デイヴィスの音は、きわだった魅力に欠ける。ガレスピーの音をイタリアのテノールの声にたとえれば、マイルス・デイヴィスの音は、さしずめドイツのテノールの声である。マイルス・デイヴィスの音は、「オ・ソレ・ミオ」をうたうためのものというより、「マタイ受難曲」のエヴァンゲリストのためのものといえるのではないか。ひとことでいえば、暗く、感覚的なよろこびに不足している。
     *
そのあとにもっとストレートな対比をされている。
1981年当時のマイルス・デイヴィスは《直立しない男根》、
《おのれの単婚が直立していることを意識さえしていないかのような》ガレスピー、と。

そして、マイルスは《不直立男根は不直立男根なりに意味をもってしまう不幸》を背負っているようであり、
マイルスはいまつらいのであろう、
《それゆえにまた、マイルス・デイヴィスの新作をききたいのである》と。

映画は、この時期のマイルスを描いているはずだ。
「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティジ」を書かれた黒田先生は、
「MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間」をど鑑賞され、何を書かれるだろうか、
かなわぬこととはいえ、読み手はそれを読みたい、と思ってしまう。

Date: 11月 28th, 2016
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その36)

前回(その35)の時点では、
LCネットワークの直列型の音を、自分で試してはいなかった。
それから約一年のあいだに、
喫茶茶会記で毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会で試している。

6cBのスロープで、2ウェイのシステムに限っていえば、
直列型ネットワークのメリットは、確かにある。

3ウェイ、4ウェイとなっていくと、そのへんどうなのかはこれから試してみたいことであるし、
高次のスロープではどうなっていくのか。
システムとしてスピーカーをどうまとめていくのか、
その方向性によってもネットワークを並列型か直列型かは変ってくるとはいえ、
直列型ネットワークの音を、自分で出してみて得られたものはけっこうあった。

それで思ったのは、マルチアンプにおける直列型はあり得るのか、だ。

トゥイーターとウーファーを直列に接続して、
それぞれのユニットにアンプをあてがうという接続は、まず無理である。
ならばパワーアンプの手前、
つまりデヴァイディングネットワーク(いわゆるチャンネルデヴァイダー)を、
並列型ではなく直列型にできないものだろうか。

ここを直列型にすることで、LCネットワークにおける直列型とイコールになるわけではないにしても、
共通する良さがあるのではないだろうか。

具体的にどうやるのか。
スピーカーユニットのところをトランスに置き換えればいい、とすぐに気づいた。

2ウェイならばライントランスをふたつ直列接続にする。
それぞれのトランスに対してコイル、コンデンサーを並列接続する。

直列型LCネットワークの回路図のスピーカーユニットを、
そのままトランスに置き換えただけの回路である。

Date: 11月 28th, 2016
Cate: audio wednesday

第71回audio sharing例会のお知らせ(忘年会としての音出し)

12月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

今回は12月、忘年会のシーズンなので、
あえてテーマを決めずに、忘年会的な音出しをしていきたいと考えている。

今年聴いたCDの中で、
誰かに聴いてもらいたいと思っているディスクを持参していただき、
あれこれ語ろうという趣旨の音出しである。

なにも今年の新譜でなくていい、旧譜であっても、今年初めて聴いて感動し、
誰かに聴いてもらいたいと思う一枚があれば、それをもってきてほしい。

喫茶茶会記でのアンプは、マッキントッシュの管球式プリメインアンプMA2275である。
夏に行ったマークレビンソンLNP2の比較試聴のときも、MA2275を使った。

MA2275はコントロール機能をすべてパスできるパワーアンプ入力を備えている。
LNP2の比較試聴の際には、この入力で、パワーアンプ部のちを使った。

そうやって聴くと、MA2275のパワーアンプ部の素姓はいい、と感じた。
それにくらべるとコントロールアンプ部の出来は、やや劣るような印象がある。

今回は実験的な意味を含めて、パワーアンプ部のみの使用で、
コントロールアンプ部も別のコントロールアンプも用意せずの音出しを考えている。
もちろんポテンショメーターを使うわけだが、配線に少し実験的要素を加えての音出しである。

12月なので、最後にはベートーヴェンの「第九」をかけたい。
四楽章のみになると思う。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 27th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その13)

1990年8月に左膝を骨折した。
一ヵ月半ほど入院していた。

真夏に入院して、退院するころは秋だった。
退院したからといって病院と縁が切れるわけではなく、
リハビリテーションがあるから毎日通院していた。

骨折して脚が一時的ではあるが不自由になると、
健康なころには気づかないことが多々在ることを知らされる。

普段何気なく歩いているのはどこにも故障がないからである。
片膝が曲らないだけで、歩き難さを感じる。

道の断面が平らではないから、端を歩くのが大変だし、
歩道に電柱があったりする。
そういう歩道に限って狭いのだから、電柱をよけるのもいやになる。

階段もそうだ。
昇るのが大変だと思われがちだが、昇りはゆっくり進めばいいだけで、
怖いのは降りである。

昇りのエスカレーターはあっても、降りのエスカレーターはない駅が大半だった。
なぜ? と思う。

リハビリに通い始めのころは歩くのも遅かった。
高齢の方に追い越されもした。

そんな日々が一ヵ月以上続いた。
リハビリから戻ってきても、部屋には何もなかった。
音楽を鳴らすシステムが何もなかった。

それでもリハビリからの帰り道、ジュリーニ/ベルリンフィルハーモニーの「第九」の新譜をみかけた。
聴きたい、と思った。
といっても聴くシステムがないから、
当時住んでいた西荻窪駅近くの質屋でポータブルCDがあったのを買った。

(その6)で書いたことを、また書いているのは、
この時のジュリーニの「第九」は不意打ちだったからだ。

ジュリーニの「第九」だから買った。
期待して聴いた。
それでも不意打ちのような感動におそわれた。

そのときの私は、仕事をしていなかった。
ひとりでいた。
リハビリだけの日々。

日常生活を送っていた、
とはいえ、みじめな生活といえばそうである。
どことなく社会から取り残され隔離されているように感じていたのかもしれない。

ポータブルCDだから付属のイヤフォンで聴いた。
少し大きめの音で聴いた。

Date: 11月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアの覚悟(その5)

死の間際、「悔いのない人生だった」といえるような生き方はしていない。
実際に、その瞬間を迎えないことにはなんともいえないが、
さまざまな悔いを思い出すかもしれない。
忘れてしまっているような悔いまで思い出すかもしれない。

これから悔いのない人生を送ったとしても、
すでに53年間生きているのだから、悔いはある。

だからオーディオマニアとしての悔いだけは残さないようにしている。
それが覚悟だと思っている。

悔いとは、あることから逃げたり避けたり、ズルしたりの記憶でもあるはずだ。
他にも悔いといえることはあろうが、
とにかくオーディオマニアとして、
オーディオに関することから逃げたり、ズルしたりの記憶を持つようなことはしないようにすることが、
オーディオマニアとしての悔いを残さない道であるし、
オーディオと対決する、ということのはずだ。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: 原器

オーディオ「原器」考(続々続・マイクロフォンこそが……)

昔のソニーの広告にあったように、
マイクロフォンがオーディオの出発点とすれば、
スピーカー、ヘッドフォン、イヤフォンが終着点ということになる。

出発点と終着点の対称性ということでは、
マイクロフォンとスピーカーシステムよりも、
マイクロフォンとヘッドフォン(イヤフォン)が、はるかに対称性を保っている。

たとえばゼンハイザーのマイクロフォンでの録音を、
ゼンハイザーのヘッドフォンもしくはイヤフォンで聴く。

マイクロフォンとヘッドフォンを同じメーカーで揃えることで、
出発点と終着点の対称性は、さらに高くなる──、といえるのだろうか。

Date: 11月 25th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その9)

オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「物分りのいい人」がいる。
「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」である。