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Date: 1月 14th, 2020
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その9)

(その8)にfacebookにコメントがあった。

オーディオ評論、オーディオ・ジャーナリズムをいま信じている人はいるのでしょうか、
とあった。

私自身、菅野先生が亡くなられて、
オーディオ評論家(職能家)はいなくなった、と以前書いている。
オーディオ評論家(商売屋)ばかりになってしまった、と思っている。

私の周りの人たちも、そう思っている(感じている)人ばかり、ともいえる。
それでも、信じている人たちがいるのも知っている。

東京および近郊の人たちという限定された範囲ではあっても、
そういう人たちはいる。

これも私が知っている範囲のことでしかないが、
信じている人たちのほとんどは、いまオーディオ評論家を名乗っている人たちと、
SNSでつながっていたり、その人のリスニングルームに訪問したり、
なんらかのつながりがある人だ。

だからなのか、○○さんは違う、と彼らはいうことがある。
その○○さんのことは私だって直接知っていたりする。

○○さんは違う、という人たちが知らなくてもいいことを知っていたりする。

信じている、とは、だまされている、ということでもある。
だまされている、とは、あえて見ないようにしている、ということでもある。

私は、というと、信じていない側にいる、といえる。
それでもずっと昔に、ステレオサウンドを熱く読んでいた者として、
ひとかけらぐらいは残っていてほしい、とおもいを捨てきれずにいる。

Date: 1月 14th, 2020
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その27)

励磁型用の電源については書きたいことはまだまだあるが、
ここでは真空管アンプのこと、
ウェスターン・エレクトリックの300Bのプッシュプルアンプのことがテーマなので、
このへんにしておくが、真空管アンプにおいての固定バイアスの電源も、
励磁型の電源と同じところがある。

凝ろうとすれば、いくらでも凝れる。
電源トランスから別個にして、というのが理想に近い。

それから非安定化なのか安定化なのか。
安定化ならば──、励磁型の電源について書いたことと同じことがいえる。

凝れば凝るほど大掛りな電源となっていく。
場合によっては屋上屋を重ねることにもなりかねない。

電源トランスから独立させた固定バイアスの真空管アンプの音は聴いたことがないが、
その効果は音にはっきりとあらわれることだろう。

けれどバイアス用電源にそこまで凝る、ということは、
アンプ全体の電源に関しても、そういうことになる、ということだ。

バイアス用だけでなくヒーター用の電源トランスも独立させることになる。
そうなるとモノーラル構成でも、電源トランスは最低でも三つになる。

最低でも、としたのは、もっと凝ることもできるからだ。
各増幅段用に電源トランスを独立させていく──、
こんなことをやっていると、シャーシーの上にはトランス類がいくつ並ぶことになるだろうか。

トランスの数が増えれば、相互干渉の問題からトランス同士の距離も確保しなければならない。
振動の問題も、トランスが増えれば増してくるし、
重量の問題も大きくなってくる。

真空管アンプ一台の重量は、モノーラルであっても50kgを優に超えるであろう。

電源はエスカレートしやすい。
それは江川三郎氏がハイイナーシャのアナログプレーヤーの実験と同じようで、
ここまでやれば、という限度が見えてこないのかもしれない。

Date: 1月 13th, 2020
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その26)

励磁型の電源は、メーカーがつけてくる電源をそのまま使うのが無難ではある。
無難とはいえるが、必ずしも最良の結果とはいえないのも事実である。

永久磁石では得られない性能をめざしての励磁型なのだから──、
というおもいは、励磁型スピーカーに惚れ込めば惚れ込むほどに強くなっていく、であろう。

スピーカーユニットに手を加えることは生半可なことではない。
でも外部電源ならば……、と思うはずだ。

もっと大きな電源にしてみたら、
最新の電源にしてみたら、とか、
電源についてあれこれ勉強すればするほど、なんとかしたくなるはずだ。

非安定化か安定化電源か、
安定化電源ならば、定電圧電源なのか、定電流電源なのか。

このへんのことは、ビクターがSX1000を開発するにあたって、そうとうにやっていて、
そのことは当時の広告にも載っている。

定電圧電源にしても定電流電源にしても、回路によって性能は違ってくるし、
使用部品によっても音は違ってくる。

部品に懲り出すと、電源トランスはトロイダル型がいいのか、それともEI型がいいのか、
電源トランスの磁束密度は……、とか、
トランスの取付方法はどうするのか(意外にも高額機でも安直な取り付けのモノが少なくない)、
シャーシーはどういうものにするのか、
他にもいろいろあって、それだけでもかなりの量になってしまう。

思いつくことをすべて比較試聴して検証して──、
そんなことをやりはじめたら、肝心の音楽を聴く時間を大きく削ってしまうことになるはずだ。

でも、時間とお金を費やして、理想に近いと思える電源が実現したとしよう。
きっとかなり大型の電源になっているだろう。

大型になり、重量が増せば増すほど、置き方の注意もさらにシビアになってくる。
ウーファーだけ励磁型ならば,電源の数は二つで済むが、
マルチウェイで全ユニット励磁型ともなれば、電源の数は増え、
置き方の解決は難しくなっていくばかり。

そしてもうひとつ、
電源事情はますます悪くなっていくばかりである。

Date: 1月 12th, 2020
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その8)

デノンのPMA-SX1 LIMITED EDITIONとDCD-SX1 LIMITED EDITIONに関する記事を、
純粋な記事だと信じて読んでいる読者は、どれだけいるのか。

タイアップ記事をやる側が思っているほど多くはないのではないか。
少なくない人たちが、とっくに気づいている、と私は感じている。

気づいている人たちの多くが、口に出していわないだけだったりするのではないか。
そのことに気づかずに、タイアップ記事をやる。

一回くらいなら、「やっているな」で受け流すことはあっても、
デノンのタイアップ記事のように、ここまでやられるとうんざりする人も出でこよう。

うんざりするだけなら、まだいい。
うんざりの先には、誰もオーディオ評論と、かつていわれたものを誰も信じなくなる日がくる。

デノンは、自社の製品が売れれば、そのためにはなんでもやる──、
そんなふうに見える。

売れなければ……、それまでである。
とはいえ、自分のところだけよければ、それでいいのか、
いまさえよければ、それでいいのか。

タイアップ記事のやりすぎ、氾濫は、
オーディオ・ジャーナリズムの崩壊そのものである。

Date: 1月 11th, 2020
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その7)

デノンは、これほどまでにタイアップ記事に熱心なのか。
ここまであからさますぎるタイアップ記事は、もう逆効果としか私には思えないのだが、
そうではない、と本気で思っているのだろうか。

デノンのPMA-SX1 LIMITED EDITIONとDCD-SX1 LIMITED EDITIONが、ほんとうに自信作であり、
優れた音を聴かせてくれる製品であれば、ここまでやる必要はないのではないか。

いや優れた製品だからこそ、
いろんな人(オーディオ評論家)に聴いてもらい、
その試聴記を多くの人に読んでもらいたい──、という考えなのか。

ステレオサウンドを熱心に読んでいた遠い昔、
この製品の試聴記を、この人が書いてくれたらなぁ、と思うことは数えきれないほどあった。
誌面という物理的な制約があるかぎり、
すべてのオーディオ評論家に聴いてもらい、書いてもらうということはまず無理である。

そんなことはわかっていても、
やはり、この人(私の場合は瀬川先生だった)の試聴記が読みたい──、
そう思い続けてきた。

インターネットには、誌面という制約はない。
だから、一つの機種を多くの人に聴いてもらい、
多くの試聴記を公開することが容易である。

デノンの意図は、そういうところにあるのかもしれない、と一定の理解を示しながらも、
結局のところに、誰に聴いてもらい、誰に書いてもらうか、ということは、とても重要なことである。

人選をあやまってしまうと、やりすぎたタイアップ記事という印象を、
幾重にも重ねてしまうことになってしまう。
もうすでにそうなっている。

タイアップ記事をやりたがる会社、
その依頼をほいほいと受けてしまう書き手、
本人たちは、そんなことはない、と口を揃えていうのかもしれないが、
これではオーディオ評論家(商売屋)といわれてもしかたないのではないか。

Date: 1月 11th, 2020
Cate: ジャーナリズム, 広告

「タイアップ記事なんて、なくなればいい」という記事(その6)

昨年末の(その5)で、
デノンのPMA-SX1 LIMITED EDITIONとDCD-SX1 LIMITED EDITIONのタイアップ記事は、
年が明けても続くのか──、と書いた。

まだ続いている。
音元出版のサイト、ステレオサウンドのサイトで、
交互に登場するようにしているのか、と思うほどに、いまもやっている。

facebookでオーディオ協会をフォローしている。
すると、デノンを取り上げた記事が表示され、
それによって一つ一つそれぞれのサイトにアクセスすることなく知ることができる。

こんなあからさまなタイアップ記事を次々に見せられると、
ステレオサウンドも音元出版となんら変わりない──、
そうとしかいえなくなる。

ステレオサウンドのサイト、ステレオサウンド・オンラインの編集部と、
季刊誌ステレオサウンドの編集部とは、どうも別なようである。

それでも、どちらにもステレオサウンドとついている。
会社名がステレオサウンドだから、ということなのだろうが、
この点に関しては、音元出版のほうがよく考えているのではないか。

音元出版は、音元WEBとか、オーディオアクセサリー・オンラインといった名称にはしていない。
新たな名称をつけている。

ステレオサウンドは、どちらにもステレオサウンドとつけている。
季刊誌ステレオサウンドとステレオサウンド・オンライン、
どちらも見ている人のどれだけが、それぞれ別の編集部だということをわかっているのだろうか。

そう思わせるように、あかてしているのだろうか。
だとしたら、ステレオサウンド・オンラインでのデノンのあからさまなタイアップ記事は、
季刊誌ステレオサウンドも、そうなんだろうなぁ……、と読者に思わせてしまう──、
そんなふうに編集部は考えたことがないのか。

Date: 1月 10th, 2020
Cate: 真空管アンプ

Western Electric 300-B(その25)

真空管アンプを設計するにあたって、
固定バイアスにするか自己バイアスにするか──、
どの段階で決めていくのだろうか。

私は早い段階から、どちらのバイアスのかけ方にするかは決める方だ。
ここでの300Bのプッシュプルアンプにおいては、
この項の最初のほうに書いているように、自己バイアスで考えている。

理論的に考えていけば、自己バイアスよりも固定バイアスだろう。
この自己バイアスか固定バイアスかは、
スピーカーユニットでいえば、永久磁石か励磁型かの違いに似ているように感じることもある。

励磁型(フィールド型)こそが、
スピーカーユニットの磁気回路として理想だ、という謳うメーカーや、
そう主張するオーディオマニアは少なくない。

ウェスターン・エレクトリックの初期のスピーカーはすべて励磁型だったことも、
このことは関係しているのだろう。

励磁型の音は聴いている。
確かに惹かれる音を出してくれる。

それでも励磁型のスピーカーを、
スペースや予算のことを考えなくてもいいのだとしても、
自分のリスニングルームに導入するかというと、ちょっと考え込む。

励磁型は、当然のことながら、電磁石ゆえに外部電源が必要になる。
この電源をどうするのか。

定電圧電源を製作すれば、なんの問題もない、というのであれば、
励磁型の導入も、個人的に現実味を帯びてくる。

けれど実際には電源によって、大きく音が変りすぎることを経験している。
励磁型が最高の性能を目指してのモノであるならば、
その性能を最高度までに発揮するには、そうとうに大掛りな電源を必要とする。

Date: 1月 10th, 2020
Cate: 情景

変らないからこそ(その後・その1)

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」というグラシェラ・スサーナのCDがある。
2016年に出ている。

初来日から50年。
50周年コンサートをやっていたのは知っていた。
東京では、日本橋・三越のホールで行われた。
平日の昼だったこともあって、都合がつけられず行けなかった。

「〜Amor…あの瞬間〜50周年コンサート」は、コンサート会場で売られていたようだ。
出ていたのは知っていたけれど、これも手に入れていなかった。
昨年末にやっと手に入れたにもかかわらず、聴かずにそのままだった。

グラシェラ・スサーナのコンサートは2007年に行ったのが最後だ。
この時のことは、「変らないからこそ」に書いている。

そのコンサートからほぼ十年。
この十年の変化は、大きい。

2007年の時は二十年ぶりぐらいだった。
グラシェラ・スサーナの容姿も変っていた。

それでも、ほとんど変らぬ歌が聴けたことに驚いたし、新鮮にも感じた。

50周年コンサートに無理してでも……、と思わなかった理由でもある。
2007年のコンサートとほとんど同じだろうな、と勝手に思っていた。

けれど、実際は大きく違っていた。
聴きなじんだ曲ばかりなのに、ずいぶん違う。

黙って聴かされたら、グラシェラ・スサーナとわかっただろうか……、と思うほどに、
声も変っていた。歌い方もそうだった。

もちろん聴いていくうちに、グラシェラ・スサーナらしいところに気づく。
それでも……、と思いながら聴いていた。

Date: 1月 9th, 2020
Cate: High Resolution

MQAのこと、MQA-CDのこと(その6)

その5)で、MQAでも、e-onkyoでの配信、MQA-CD、
それからユニバーサルミュージックのサンプラー盤で、
サンプリング周波数が違う場合がある、と書いた。

不思議だったのは、同じユニバーサルミュージックのMQA-CDでも、
サンプラー盤の方がサンプリング周波数が高い場恣意があるのか、ということだった。

サンプラー盤には、352.8kHz/24ビットとある。
なのにいくつかのMQA-CDのアルバムでは、176.4kHz/24ビットとある。

メリディアンの218は、MQA再生時にはフロントパネルのLEDが点灯する。
けれどディスプレイをもたない218では、サンプリング周波数を表示することはできない。

けれどiPhone用のIP Controlを使えば、サンプリング周波数が表示される。
なんとういことはない、サンプラー盤だけでなく、それぞれのアルバムも352.8kHz/24ビットである。

どうも帯を制作時点では176.4kHz/24ビットだったらしいのだが、
352.8kHz/24ビットに音質的優位性を認めて変更になった、らしい。

とにかく聴き手にとってはうれしい仕様変更である。

けれどe-onkyoとMQA-CDではサンプリング周波数が違うアルバムは少なからずある。

Date: 1月 9th, 2020
Cate: 音の良さ

完璧な音(その5)

具体的に考えてみる。
たとえばスタインウェイのピアノによる演奏があった、とする。
その演奏を録音する。

いかなる装置で、いかなる音で聴かれるのかは制作側にはわからない。
それでも、どんな装置、どんな音であっても、
その録音はスタインウェイのピアノだ、ということが聴き手に伝われば、
完璧な音の最低条件は満たされた、といえるのか。

ただし、ここでの完璧な音とは、完璧な録音、ということになる。
完璧な録音というものが、もしあるとすれば、そういうことではないのか。
どんな装置で、どんな音でかけられても、
スタインウェイのピアノが、ヤマハのピアノやベーゼンドルファーのピアノに聴こえたりしたら、
それはどんなにいい音で録音されていたとしても、完璧な音(録音)とはいえない。

ここでもう一つ考えなければならないのは、聴き手のことだ。
世の中にはさまざまな装置、音があるように、
聴き手もまったく同じである。

聴き手が違えば、同じ音を同じ時に聴いても、印象が違うことは誰だって経験していよう。
つまりは、どんな装置、どんな音でかけられても、
さらにどんな聴き手がスピーカーの前にいようと、
その聴き手に、スタインウェイのピアノだ、ということを認識させられる音が、
完璧な音(録音)ということになる。

そんな録音があるのだろうか。
装置によっては、グランドピアノがアップライトピアノに聴こえることだってある。
スタインウェイのピアノが、ヤマハのピアノに聴こえたり、
さらにはメーカー不明のピアノの音に聴こえたりすることだってある。

そういえば、菅野先生はオーディオラボでベーゼンドルファーの録音も残されている。
菅野先生によれば、本来のピアノの音よりも、
大きめの音量で鳴らした時にベーゼンドルファーらしく鳴るようにしている──、
そんな話を聞いたことがある。

Date: 1月 8th, 2020
Cate: 所有と存在

所有と存在(その17)

黒田先生の「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話がでてくる。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章、
ほぼ50年前に、フィリップス・インターナショナルの副社長は、こういっている。

サブスクリプション(subscription)を、よく目にする時代になった。
音楽関係においても、頻繁に目にするようになってきた。

○○解禁、というふうに、サブスクリプションについて語られる。
○○には、日本人のミュージシャンの名前、グループ名が入る。

フィリップス・インターナショナルの副社長の発言からほぼ50年経って、
「ディスクという物を売る会社」ではなく「音楽を売る会社」へとなりつつある、ともいえる。

当時のフィリップス・インターナショナルの副社長は、いまも存命なのだろうか。
ようやく、そういう時代が訪れたな、と思っているのだろうか。

黒田先生の「なるほどなあ」は、いまならば、どういうおもいがこめられただろうか。

Date: 1月 8th, 2020
Cate: 書く

毎日書くということ(10,000本をこえて)

10,000本以上書いてきて思うのは、
どれだけ問う力を身につけた、高められたか、ということ。

なぜだか、ここで「自恃」ということばが浮んできた。
中原中也の「山羊の歌」が浮んできた。
     *
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない
     *
脈絡ないことを書いているのはわかっている。
それでも浮んできて頭から離れないから書いている。

Date: 1月 7th, 2020
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その14)

その13)で、二つの映画のことに少しだけ触れた。
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、とのこと。

この映画のテーマ曲が世界で初めて披露されたコンサートが、昨年末、熊本で開催されている。

Date: 1月 7th, 2020
Cate: BBCモニター

BBCモニター、復権か(音の品位・その9)

大辞林には、教養とは次のように記してある。
(1)おしえそだてること。「父は其子を—するの勤労を免かれ/民約論(徳)」
(2)社会人として必要な広い文化的な知識。また,それによって養われた品位。「—を身につける」
(3)〔英 culture; (ドイツ) Bildung〕
単なる知識ではなく,人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。

教養ある音の「教養」とは、三番目か。
単なる知識ではなく、とある。
スピーカーの音にあてはめれば、単なる情報量ではなく、ということになろうか。

情報量ということでは、
1970年代から1980年代にかけてのBBCモニターよりも、
同クラスの現代のスピーカーシステムのほうが、上であるモノが多い、といえよう。
それに情報量の多さだけでなく、精度の高さでも、上といえよう。

古いスピーカー(に限らず古いオーディオ)をまったく認めない人たちからすれば、
私が教養ある音といっている音を出してくれるスピーカーは、
情報量の少なさを、
教養ある音、という、ひじょうに曖昧な、正体不明の音でごまかしているだけではないか──、
そんな声が挙ってもこよう。

現代の優れたスピーカーの視点からすれば、
足りないところもあったといえるのは、事実である。

1970年代に登場したBBCモニターとその系列のイギリスのスピーカーシステムは、
現在のスピーカーからすれば、制約もいくつかあった。

四十年間に、スピーカーの技術は進歩している。
けれど、音、それも音の品位ということではどうだろうか。

《人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる》音といえるだろうか。

Date: 1月 6th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その17)

人は、自分のことも、誰かのことも、断片でしか、
いくつかの断片でしか捉えていない(知ることができない)。

断片がいくつかあるのかすらわかっていないように思う。
だから、自分のことであっても、いくつもある断片のなかのいくつかだけしか見ていない、
誰かに対しても同じであろう。

つきあいのながい人、そうでない人であっても、
その人のことをどれだけ知っているかというと、やはりいくつかの断片でしかなくて、
しかも、この人、いつもと少し違う──、と感じている時には、
いつもと違う断片のいくつかを、勝手に取捨選択してみているのかもしれない。

だからこそ「音は人なり」なのかと最近おもうようになってきた。
音は、その人のすべてが統合されて鳴ってきているのではないのか──、
そう考えるようになってきた。

もちろん、ここでも手前勝手に聴いている可能性はある。
それでも音を聴くことのほうが、単なる断片のいくつかとしてではなく、
いびつなかたちであっても、統合されているのではないか。