うつ・し、うつ・す(その14)
オーディオでの選択は、いわば昂進といえるところがある。
そればかりではないこともわかっていても、そういいたくなる。
オーディオ機器の選択にしても、そうだ。
そうやって構築されたシステムは、自身のなにかを映し出している。
昂進と無縁で、オーディオをやってきた人はいないように思っている。
オーディオでの選択は、いわば昂進といえるところがある。
そればかりではないこともわかっていても、そういいたくなる。
オーディオ機器の選択にしても、そうだ。
そうやって構築されたシステムは、自身のなにかを映し出している。
昂進と無縁で、オーディオをやってきた人はいないように思っている。
マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という結論をもってしまった私にとって、
スピーカーを選ぶということは、
そして、選んだスピーカーをどう鳴らすかということは、
このことに深く関ってくる。
少なくともマリア・カラスによる「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像とはまったく感じさせない(感じられない)スピーカーを選ぶことは、
この先絶対にない、といえる。
そのスピーカーがどれだけこまかな音を再現しようと、
優れた物理特性を誇っていようと、
オーディオ雑誌においてオーディオ評論家全員が絶賛していようと、
ソーシャルメディアにおいて多くのオーディオマニアが最高のスピーカーと騒いでいようと、
欲しい、とは思わない。
結局、スピーカー選びとは、それまでどういう音楽をどう聴いてきたかである。
マリア・カラスは、私だって聴いてきた──、という人であっても、
私と同じ聴き方、同じような聴き方をしてきたのかどうか。
マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像という聴き方をするほうが少数派なのかもしれない。
多くの人はそんな聴き方はしないのかもしれない。
ハイ・フィデリティとは、音楽に誠実であることだ。
ならば選ぶべきモノはおのずとさだまってくる。
そして、さだまる、ということはさだめへとつながっているようにもおもう。
パトリシア・ハイスミスの「ふくろうの叫び」を読んだのは、
三十年前のことだ。
ちょうど文庫として登場したばかりで、そのころ無職に近い状態だったこともあって、
一気に読んでしまった。
読み終ったのは日付がとっくに変っていた。
最後のところで、思わず声を出してしまった。
それほどのめり込んで読んでいた。
それからはパトリシア・ハイスミスの新刊が出れば必ず買って読んでいた。
最初に読んだ作品が「ふくろうの叫び」ということもあるだろうが、
傑作だと、いまも思っている。
「ふくろうの叫び」だけでなく、他のハイスミスの作品もまとめて貸した。
返ってきた。けれど、また別の人に貸した。今度は戻ってこなかった。
いま古本でしか入手できない。
急にパトリシア・ハイスミス、「ふくろうの叫び」を思い出したのは、
今年がハイスミス生誕100年であるからだ。
1921年1月19日が、ハイスミスの誕生日。
五味先生も、今年生誕100年。
イエクリン・フロートのヘッドフォン、Model 1について、
瀬川先生がステレオサウンド別冊「HiFiヘッドフォンのすべて」で書かれている。
*
かける、というより頭に乗せる、という感じで、発音体は耳たぶからわずかだか離れている完全なオープンタイプだ。頭に乗せたところは、まるでヴァイキングの兜のようで、まわりの人たちがゲラゲラ笑い出す。しかしここから聴こえてくる音の良さにはすっかり参ってしまった。ことにクラシック全般に亙って、スピーカーからはおよそ聴くことのできない、コンサートをほうふつさせる音の自然さ、弦や木管の艶めいた倍音の妖しいまでの生々しさ。声帯の湿りを感じさせるような声のなめらかさ。そして、オーケストラのトゥッティで、ついこのあいだ聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの演奏をありありと思い浮べさせるプレゼンスの見事なこと……。おもしろいことにこの基本的なバランスと音色は、ベイヤーDT440の延長線上にあるともいえる。ただ、パーカッションを多用するポップス系には、腰の弱さがやや不満。しかし欲しくなる音だ。
*
瀬川先生はModel 1を、試聴が終るとともに買い求められている。
《頭に乗せたところは、まるでヴァイキングの兜のようで、まわりの人たちがゲラゲラ笑い出す》、
そんな形のヘッドフォンであっても、
工業デザイナーを目指されたことがあるにもかかわらず、Model 1を自分のモノとされている。
トリオのコントロールアンプL07Cのデザインをボロクソに貶された瀬川先生が、である。
頭にのせた姿は鏡を見なければ、自分には見えない。
音を聴いている時も、ヘッドフォンは目に入ってこない。
だからなのだろうか。
カッコいいと思えるヘッドフォンが欲しい、という気持はある。
誰にだってあるだろう。
それでもヘッドフォンで音楽を聴いている時は、
かけ心地は気になることはあっても、ヘッドフォンは目に入ってこないから、
音がイエクリン・フロートのように、ほんとうに美しければ、忘れてしまえる。
けれど、ヘッドフォンをファッション・アイテムのひとつとして捉えている人は、
そうはいかないはずだ。
どんなに音がよくても、イエクリン・フロートのようなヘッドフォンは、
絶対にイヤだ、ということになるはずだ。
誰かにみられることを意識してのヘッドフォン選びと、
音楽を聴く時は一人きりで、誰にも見られることはないのだから、という選び方。
いまはどちらもある。
「HiFiヘッドフォンのすべて」が出たころは、そうではなかった。
五味先生が、「オーディオ愛好家の五条件」で、こう書かれている。
*
むかしとちがい、今なら、出費さえ厭わねば最高級のパーツを取り揃えるのは容易である。金に糸目をつけず、そうした一流品を取り揃えて応接間に飾りつけ、悦に入っている男を現に私は知っている。だが何と、その豪奢な応接間に鳴っている音の空々しさよ。彼のレコード・コレクションの貧弱さよ。
枚数だけは千枚ちかく揃えているが、これはという名盤がない。第一、どんな演奏をよしとするかを彼自身は聴き分けることが出来ない。レコード評で「名演」とあればヤミクモに買い揃えているだけである。ハイドンのクワルテット全八十二曲を彼を持っている、交響曲百四曲のうち、当時録音されていた七十余曲を揃えて彼は得意だった。私が〝受難〟をきかせてくれと言うと、「熱情? ベートーヴェンのか? ハイドンにそんな曲があるのか?」と反問する。そういう人である。ハイドンとモーツァルトの関係が第四十九番のこのシンフォニーで解明されるかも知れないなどとは、夢、彼は考えもしないらしい。
*
ハイドンの交響曲第49番は、La passioneであり、受難である。
なのに、「音痴のためのレコード鑑賞法」では、「情熱」(交響曲四九番)となっている。
「音痴のためのレコード鑑賞法」を入力したのは三十年近く前のことだ。
その時も気になっていた。
五味先生が、間違えるはずはない、と。
今回、引用する際も、やはり気になった。
「情熱」を「受難」と訂正しておこうか、とも考えたが、
引用なので、そのまま「情熱」とした。
ここを読まれている方のなかには、気づかれる人もいると思っていた。
気づいても、何もいわない人もいるし、コメントかメールしてくる人もいるはず。
そう思いながら公開した。
昨晩、ある方からメールがあった。
タイトルには、「ハイドンの交響曲四九番について」とあった。
情熱と受難についての指摘だろう、と思いつつ読んでみると、果たしてそうだった。
その方は、「オーディオ愛好家の五条件」のくだりも記憶されていた。
「オーディオ愛好家の五条件」を読んでいない人でも、
クラシックを聴いている人ならば、「情熱」ではないことに気づく。
気づいた方からのメール、
しかも五味先生の文章をしっかりと読まれている方からのメールは、
もらって嬉しいものである。
「音痴のためのレコード鑑賞法」がおさぬられている「いい音いい音楽」は、
読売新聞社から出ている。
五味先生が受難を情念とされるはずはない、と信じているので、
編集者のミスなのだろう、と私は思っている。
そうやってオーディオ評論家になった人は、
オーディオ評論家(職能家)を目指していたのではないはずだ。
その人が目指していたのは、オーディオ評論家(商売屋)のはずだ。
だから、その人が誰なのか知っているし、
その出版社がどこなのかは知っているが、固有名詞をここで明かしたりはしない。
けれど、ここでこのことを書いているのは、
その出版社は、その人に続く人に対しても同じ手段をとるかもしれないからだ。
そんなことがまかりとおる業界になってしまうと、
才能ある人が、オーディオ評論家(職能家)を目指して、
この世界に入ってくることがなくなってくる、と思うからだ。
以前別項で書いてるように、これからは専業のオーディオ評論家、
それもオーディオ評論家(職能家)が必要だ。
実力勝負の世界のはずなのに、実際は違っている。
これをいまのうちに是正しておかないことには、
どんどんオーディオの世界は悪くなっていくようにおもえてくる。
自分が生きているうちだけ稼げればいい──、
そんなふうに思っている輩ばかりになってしまっては、困る。
オーディオ雑誌の編集者が会社を辞めて、オーディオ評論家となる。
これまでにもけっこうあったことだろう。
会社を辞めた編集者は、オーディオメーカー、輸入元など、
オーディオ関係のところに挨拶に行くであろう。
昔は、それが当り前だった。
時代は変ってきた、と感じたのは、
ある編集者が退職してオーディオ評論家になったときの話を聞いたからだ。
その編集者がやめたとき、その会社のトップが、
オーディオ関係各所に、
○○が独立してオーディオ評論家になるから、よろしく頼む──、
そういった内容の文書を送り付けていた。
話を聞いただけでなく、その文書も見せてもらったことがある。
間接的な圧力といえる。
こんな内容のものが届いたら、
その人に対しての態度は決まってしまう。
その人を悪し様に扱ったら、
その人がいた会社のオーディオ雑誌での扱いがどうなるか……、
そんなふうに捉える人がいてもおかしくない。
後ろ盾、それも強力な後ろ盾を武器にオーディオ評論家になる。
時代が時代だから、仕方ない、と考えることもできなくはない。
オーディオが吸いたいしている時代に、オーディオ評論家になる、という人がいたら、
会社でバックアップしましょう、ということなのだろう。
それに未確認なのだが、最初のうちは、
その出版社がある程度の収入を保証する、ということでもあったらしい。
俄には信じ難いが、あり得るのかもしれない。
けれど、そんなことをやろうものなら、必ず、どこからはその件は漏れてしまう。
漏れたことは、誰かの耳に入り、拡がっていく。
しかもソーシャルメディアがこれほど普及した時代では、悪手でしかない。
オーディオショウでは、出展社のブースで、
オーディオ評論家が一時間ほど担当することが、当り前になっている。
ここ数年、オーディオ評論家に頼らずに、自社のスタッフだけで行っている会社も増えてきたが、
それでもオーディオ評論家を使うところは、まだ多い。
オーディオ評論家にとっても、オーディオショウは稼ぎ時である。
あちこちのブースから呼ばれているオーディオ評論家は、
いちおうは売れっ子ということなのだろう。
客が呼べるオーディオ評論家ということなのだろう。
そういう人は、一日いくつものブース(出展社)をまわる。
それたけ実入りが増える。
オーディオショウが昨年のようにほとんど行われないということは、
その分、収入が減る、ということである。
オーディオショウだけがなくなったわけではない。
オーディオ店に呼ばれることも、そうとうに減っているはずだ。
人が集まるところに呼ばれなくなる、
そういう機会がもとからなくなってしまっている。
昨年、オーディオマニアの友人と、
「オーディオ評論家も大変な一年だったね」という話をした。
今年もそうなりそうな気配が濃い。
オーディオ評論家は、いわば自由業と呼ばれる職種だ。
こういう状況がこれからも続いたり、
数年後に再び起ったりするのであれば、
オーディオ評論家を目指す人は、どれだけ現れるだろうか。
オーディオ雑誌の編集者から、オーディオ評論家に転身する人も、
予定を変更したり、あきらめたりしているのかもしれない。
五味先生が、「音痴のためのレコード鑑賞法」で、こんなことを書かれている。
*
ハイドン(一七三二—一八〇九)もバッハにおとらず沢山の作品がある。ことに交響曲と弦楽四重奏曲はモーツァルト、ベートーヴェンなどに多くの教化を与えたもので、秀作も多い。だが、初心者には交響曲を聴くことをすすめる。一般には「軍隊」や「時計」「驚愕」「玩具」など標題つきのものが知られているが、もし私が、百五曲のハイドンの交響曲で何をえらぶかと問われれば、躊躇なく「情熱」(交響曲四九番)と第九五番のシンフォニー(ハ短調)を挙げるだろう。この二曲には、ハイドンの長所がすべて出ているからで、初心者にも分りやすい。
「ハイドンは朝きく音楽だ」
と言った人があるほど、出勤前などの、爽快な朝の気分にまことにふさわしい音楽である。そしてあえて言えば、ハイドンは男性の聴く音楽である。
*
無人島に流されることになったら、ハイドンに関しては、
私は交響曲も弦楽四重奏もいらない。
グレン・グールドのハイドンがあればいい。
「ハイドンは朝きく音楽だ」はそのとおりだ、と思う。
けれど、ここでの「朝」は毎日訪れる朝だけでなく、
別の意味の「朝」もあるように、入院している時に感じていた。
退院間近になって、治り始めていることを実感できるようになったときに、
グレン・グールドのハイドンを口ずさんでいた、ということが、そうなのだろう。
五味先生の「いいヘッドフォンを選ぼう」。
*
なまなかなスピーカーで鳴らすより、いまや良質のヘッドフォンで聴くほうが、よっぽど、音楽的にも快美な音を楽しめることは、心あるオーディオ愛好家ならとっくに知っているだろうが、こんど二十日間ばかり入院を余儀なくされ、病室にデカい再生装置を持ちこむわけにも参らぬので、もっぱらFMの収録テープをヘッドフォンで聴いた。デッキはルボックスA700。ヘッドフォンは西独ゼンハイザーとオーストリアのAKGを併用したが、凝り性の私のことだから他にも国産品を二、三取り寄せて聴きくらべてみた。いろいろなことがわかった。ヘッドフォンにもデッキとの相性があること、かならずしも周波数特性の伸びは、高低域の美しさを約束しない——いいかえれば測定値の優秀さはそれだけでは音楽美に結びつかぬサムシングが、まだ音響芸術の分野にはあるという、以前からわかりきっていたことを、あらためて再確認したわけだ。
国産のヘッドフォンは、明らかにAKGなどと比較して高域はのびている。だが、そのピアノはスタインウェイやベーゼンドルファーの高音の艶っぽさをもっていない。おもちゃのピアノで、キンキラ鳴るだけである。ヴァイオリンのユニゾンも、どうかすれば砂をふくんだザラついた音になり、あの飴色をしたヴァイオリンの胴が響かせる美音ではない。ソース自体はFM放送だが、こんなにもFMの高域は美しいのかと、ゼンハイザーやAKGでは思わずうっとり聴きほれてしまうのだから、国産ヘッドフォンメーカーは猛反省してもらわねばなるまい。
きみが国産で聴いているなら、だまされたと思ってAKGかゼンハイザーのHD424、あるいはHD400の試聴をすすめる。HD400など九千八百円(一九七八年八月現在)という信じ難い安さで、しかも聴き心地は満点。
*
このころのヘッドフォンの数といまとでは、ずいぶん違ってきている。
しかも価格帯の幅も、いまのほうが広い。
ここで五味先生が書かれていることを読んで、
私も、一つヘッドフォンを──、と思っても、
ふところに余裕がある人ほど、どれを買おうか、と迷うことだろう。
ふところに余裕がなければ、買える価格帯がおのずと決ってしまうから、
選択肢は限られてくる。
ふところに余裕がある人でも、ヘッドフォンに出せる金額はこれくらいまで、
と上限をきちんと決められるのであれば、選択肢は絞られてくる。
とにかく自分で買える範囲で、いい音のヘッドフォンを選ぶ──、
それが当然のことだと、ずっと思っていた。
もちろん音がいいだけではなく、ヘッドフォンではかけ心地もひじょうに重要になる。
それを含めて選ぶわけなのだが、
あくまでも私のヘッドフォン選びは、屋内での使用である。
けれど外出時こそヘッドフォンが必要という人にとっては、
そしておしゃれに関心の高い人は、ヘッドフォンのファッション姓が重要だ、という。
音がよくてかけ心地もいい。
値段も手頃なヘッドフォンがあったとしても、
好みのファッションとの相性が悪ければ、選択肢に入らない、そうだ。
帰宅時間が遅くなると、
食事のできる店がすべて閉まっている。
遅くなった日ほど外食したい、と思うわけだが、
そうもいかず足早に帰宅して自炊することになる。
夜の早い東京になっている。
なんとなく懐しい気持にもなっている。
東京で暮すようになって、今年の春で丸四十年。
そのころの田舎は、こんな感じだった。
食事のできる店は、たいてい夜八時には閉まっていた。
田舎では大きな、宴会もできる洋食の店が九時までやっていたのが遅いほどで、
田舎の夜は、早かった。
そういう状況だから、今年のオーディオショウはどうなるのか。
なんとか開催できるようになったとしても、マスク着用が求められるはずだ。
多くの人が気づいているはずだが、マスクをして音を聴いていると、
いつもと違って聴こえる。
このことについて、誰もいわないけれど、こちらから話をふると、
みな、やっぱりそうでしょう、ということになる。
ふだん口を開けて聴いているわけではないから、
マスクをしているしていないの違いは、鼻がマスクで覆われているかどうか、である。
マスクをしていても、鼻を出せば違う。
今年のオーディオショウの開催は、マスク着用でみな聴くことになる可能性が高い。
開催する・出展する側としては、それでも音を聴いてほしい、と考えるのか、
それともマスクを着用せずにすむような状況になってからの開催を望むのか。
なにかが欠けていたり、足りなかったりするからこそ、
モノは、そして音は完結するのかもしれない。
完成を目指し、足りない、欠けていたりするのを足していく。
いつまで経っても完結しない。
それを理想を目指して、ということはできるし、
それも男の趣味だと思う。
それでもどこまでいっても、なにかが欠けていたり、足りなかったりするものだ。
オーディオは男の趣味だからこそ、そこで潔さが求められる。
1月10日に、ヤフオク!にスチューダーのA68が出ているのを見つけた。
A68については何度か書いている。
それでも もう一度書きたい。
A68は、私がステレオサウンドで働き始めたころ、
1982年1月に、試聴室隣の倉庫に置かれていた。
瀬川先生の遺品だった。
他にマークレビンソンのLNP2とKEFのLS5/1Aがあった。
すべて自分のモノにしたい、と思ったけれど、
そんなお金はどうやっても工面できなかった。
この時ほど、お金が欲しい、と思ったことはない。
しばらくして、それらのオーディオ機器は去ってしまった。
LNP2は、その後も聴く機会はあった。
LS5/1Aは、LS5/1を自分のモノとして鳴らしたこともある。
A68だけが、その後、何の接点もない。
それもあってか、いまではA68がいちばん欲しい、と思うようになった。
そのA68が、久々にヤフオク!に出ている。
私が見逃していただけで、出品されていたのかもしれないが、
私の目に留まったのは、ほんとうにひさしぶりである。
程度は良さそうである。
天板に小さなキズがあるものの、四十年以上前のアンプであるわけだから、
その程度のことは気にならない。
欲しい! とあらためて思った。
しかも、今回は瀬川先生の誕生日にA68が、ヤフオク!に表示された。
何かの縁なのかもしれないが、
その縁をたぐり寄せることはできない。
一年前だったら、即購入していた(できていた)。
けれど、今年は厳しいだけに、数少ない機会をまた見逃すことになる。
コーネッタをA68で鳴らして、
バッハの無伴奏チェロ組曲を聴ける日が訪れるのだろうか。
SA750の紹介記事は、
オーディオ関係のウェブサイト以外にもある。
GIZMODOというサイトにも、SA750の紹介記事がある。
《タイムマシンが持ってきてくれたJBLの60’sデザインアンプ》
というタイトルの記事だ。
おそらく同じ資料を見て書かれたものだろうが、
オーディオ関係のサイトの紹介記事とは、違うといえば違う。
武者良太という人が書いている。
オーディオマニアではないのだろうか。
ソーシャルメディアに見られるオーディオマニアの反応とも違う。
デザインについての反応も、ずいぶん違う。
武者良太という人は、SA600に憧れはないのだろう。
記事の最後のほうに、こうある。
*
JBL(Harman)を率いるSamsung(サムスン)だからこそ、世界的におうち時間が長いこの時代に合わせて、ゆったりと音楽が楽しめるアンプを作ったのではないかと思えてきます。
*
こういう捉え方も、ずいぶん違うな、と感じたところ。