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Date: 11月 6th, 2021
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(45真空管アンプ・その1)

AXIOM 80と45。
瀬川先生の文章を読んできた人に説明はいらない。

AXIOM 80を持っているわけではない。
欲しい! とは思い続けている。
復刻版の出来がよければ買おう、とも考えていた。

いつの日か、手に入れて鳴らす日がやってくるかもしれない。
そのために45のシングルアンプを作っておく。

そんなことを考えてもいるわけだが、
現実に目の前にあるスピーカーはタンノイのコーネッタであって、
45のシングルアンプの出力では、どんなに小音量用として考えても、小さすぎる。

といってプッシュプルにして出力を増すぐらいならば、
ほかの真空管でシングルアンプを組みたい──、
そんなことをぼんやりと思っていたわけだが、
今年になって、SAEのMark 2500を手に入れて、少し考えが変った。

Mark 2500と組み合わせるコントロールアンプについて、別項で書いている。
最終的にどのコントロールアンプとの組合せになるのかは、本人にもよくわかっていない。
縁があるコントロールアンプと組み合わせることになるはずだ。

でも、ふと思ったのは、45を使ったラインアンプの製作である。
これには先例がある。

ラジオ技術に新 忠篤氏が発表された、
ウェスターン・エレクトリックの直熱三極管101シリーズを使った単段アンプである。
出力にはトランスがあり、101シリーズの増幅率からすると、
アンプ全体のゲインはほとんどない。いわば真空管バッファー的なアンプである。

このアンプ記事は面白かった。
自分で作ろう、と考えたこともある。
そのころは、まだウェスターン・エレクトリックの101Dも101Fも、まだ安価といえた。
いまはけっこうな値段がついている。

いま私が考えているのは、101Dを45に置き換えたラインアンプである。

これも検索してみると、実際にやっている人がいる。
しかもヤフオク!に出品されている。

それを買うつもりはないけれど、45使用のラインアンプ、
ひとつのバッファーとしてコントロールアンプとパワーアンプのあいだに挿入する。

意外な結果がえられるかもしれない。

Date: 11月 6th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2016年をふりかえって(その9)

2021年の間違いではない。
2016年をふりかえって、である。

今年の7月14日に、「2016年をふりかえって(その8)」を書いている。

五年前の2016年11月6日に、東京デザインウィークで火災が起った。
遺族と東京デザインウィークとの裁判は、まだ続いている、らしい。

11月7日が瀬川先生の命日、
その前日ということもあって、11月6日になるとおもいだす。

Date: 11月 5th, 2021
Cate: 「かたち」

音の姿勢、音の姿静(その2)

「静寂」を、オーディオ関係の記事や広告で、
わりと頻繁にみかけるようになってきたと感じている。

「静寂」をキャッチコピー的に使っている会社や人が、
くり返し使っているから、そう感じているだけなのかもしれないが、
静寂の実現はいいことである。

なので、「静寂」を使っているところ、人に対してあれこれいうつもりはない。
ただ静寂と沈黙は違う──、
ただそう感じているだけである。

Date: 11月 5th, 2021
Cate: ハイエンドオーディオ

FMアコースティックス讚(その1)

FMアコースティックがステレオサウンドの誌面に初めて登場したのは、
1978年夏発売の47号の新製品紹介のページである。
井上先生と山中先生の二人で担当されていた時代である。

輸入元はシュリロトレーディングで、
パワーアンプが二機種、FM600A(500,00円)とFM800A(680,000円)である。

出力はFM600Aが150W+150W、FM800Aが30W+300Wで、
入力端子はXLR端子のみで、RCAによるアンバランス入力はないことからわかるように、
プロフェッショナル用のパワーアンプである。

山中先生は、
《一見アメリカのプロ用アンプとそっくりなコンストラクションで、ヨーロッパ製らしからぬふんいきである》
と書かれている。

モノクロの、それほど大きくなく不鮮明な写真でも、
アメリカ的なプロ用アンプという雰囲気は伝わってきていた。

スイスというイメージは、写真からはまったく感じられなかった。

音はどうか、というと、山中先生はこう評価されていた。
《きわめて充実感のある中域量感たっぷりな低音部はこのアンプ特有のキャラクターで、ユニークなアンプの出現といえよう》
高い評価といえばそうも読めるけれど、
47号の当時、私は高校生、スイス製なのに、アメリカ製のような武骨なパワーアンプを、
特に聴きたいとは思わなかった。

それに47号の特集はベストバイで、FMアコースティックのアンプは登場していない。
新製品だから──が、理由ではないはずだ。

47号の新製品紹介のページに登場していた他社製のアンプは、
いくつかベストバイに選ばれているのだから。

ちなみにFMアコースティックとしているのは、47号の表記はそうなっているからだ。

Date: 11月 5th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その31)

今年は行かないので、ショウ雑感の昨晩ので、今年は終り、と思っていた。
でも、ひとつ気になっていることがあって、また書いている。

今日(11月5日)は、ABBAの「Voyage」の発売日である。
e-onkyoでは、午前0時にflacとMQAで購入できるようになっていた
どちらも96kHz、24ビットだ。

おそらく日本がもっとも早くMQAで聴くことができた国のはずだ。
TIDALでもMQAで聴ける。

TIDALの配信開始が何時ごろだったのかはつかめていないが、
夕方には始まっていた。

何が書きたいかというと、どこのブースで「Voyage」が鳴っていたのかどうか、である。
どこのブースでもかかっていなかった──、そんなことはないように思っているが、
どうだったのだろうか。

Date: 11月 4th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その30)

9月23日の(その27)で、
今年のインターナショナルオーディオショウにアクシスが出展しない、と書いた。
この時点では、アクシスからの発表は何もなかった。

コロナ禍の影響による出展辞退なのだろう、とは想像できたものの、
アクシスからの発表は10月6日に、ウェブサイトにおいて、である。

やはりコロナ禍のせいである。

昨晩、アクシスのサイトを見て、このことを知ったのだが、
予想していたことなのだから、これだけでは書くつもりはなかった。

アクシスのトップページのWhat’s Newのところに、
インターナショナルオーディオショウの出展辞退だけでなく、
いくつかのことが並んでいる。

そこに、FMアコースティックス/価格改定のご案内があった。
FMアコースティックスの価格が上るのは、
恒例であるから、またなのか、ぐらいの受け止めなのだが、
それにしても大変な価格になってしまっている。

FMアコースティックスの音は絶賛するものの、
それでは欲しいのか(つまり買えるのか)ということになると、
私にとっては、ため息も出ない価格になってしまっている。

改定前の価格も、正確には憶えていない。
なのでどの程度の値上げなのかはわからないけれど、とにかく高価なアンプが、
さらに高価なアンプになってしまっている。

そのことをとやかくいう気はない。
FMアコースティックスなのだから仕方ない──、そう受け止めるしかないのだから。

だからこそインターナショナルオーディオショウで、
FMアコースティックスで鳴らすファインオーディオの音は、聴きたいと思うわけで、
アクシスが出展しない今年は、早々と行かないという選択をしていたのは、
まちがってなかったなぁ、と個人的には思っている。

来年のインターナショナルオーディオショウでは、きっと聴けることだろう。

Date: 11月 3rd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その29)

終息というわけではないだろうが、感染者数は激減しているのだから、
インターナショナルオーディオショウの関係者は、一安心だろう。

行く予定の人たちも、そうだろう。

だからといって完全に安心できるようになったわけではないので、
それぞれの注意が求められていることは、これまで通りなのだが、
会場内の雰囲気は、感染者数がさほど減っていないのと、
ここまで減ったのでは大きく違ってくるはずだ。

少しでも明るい雰囲気のなかで、オーディオショウが開催されるのはいいことだ。
とはいえ、各ブースのイベントのスケジュールを眺めていると、
オーディオ評論家の名前が少ないことが目立つ。

終息していない状況だから、例年通りの各ブースのスケジュールとは予想していなかったけれど、
ここまでオーディオ評論家が担当する時間が減っているとは思わなかった。

ここ数年、少しずつ減っていく傾向があった。
それまではオーディオ評論家に依頼していた出展社が、
すべて自社のスタッフによる音出しを行うところが出てきた。

それが今年は顕著であるが、今年だけのことで終るのか。
それとも来年以降も、この傾向は維持されるのか。

とにかくコロナ禍は出展社にとって、
オーディオショウに対する捉え方を変えるきっかけになっているように感じている。

Date: 11月 3rd, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その2)

audio wednesdayはちょうど十年続いた。
なので毎月第一水曜日は、audio wednesdayということはそれが日常になっていた。

それが今年はまったくないわけで、
それでも第一水曜日が近くなると、今年もやっていたとしたら、
今月のテーマはこれだな、とひとりおもっていた。

今年はアストル・ピアソラの生誕百年でもあったから、
ピアソラだけの一日もやりたかったし、
ソニー・クラシカル、ソニー・ミュージックのMQAの配信が行われるようになったので、
これもやりたかった。

他にも三つほどやりたかったことはあったが、
オーディオの、こういうことに関しては、音が出せる空間が確保できなければ、
そしてシステムも用意できなければ、やれない。

今日は11月3日で、第一水曜日だ。
もし今日audio wednesdayをやっているとしたら、
SAEのMark 2500を持参して鳴らしていた。
瀬川先生の命日も近いのだから。

Date: 11月 3rd, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その22)

facebookのコメントに、山本浩司氏がHiVi 12月号で、
JBLのSA750とアーカムのSA30の比較記事を書かれるそうだ、とあった。

山本浩司氏がステレオサウンドに書くようになってしばらく経ったころ、
KEFのサブウーファーの紹介記事を書かれていた。

いま出ているモデルではなく、けっこう前のモデルである。
そつのない文章だった。
けれど、読んでいて、そのモデルを聴いてみたい、という気持にはなれなかった。

オーディオ評論家は編集者の経験があったほうがいい、と考えている。
いまはそうでもなくなっているが、
昔はかなりの人が編集経験を経たうえでの評論家活動だった。

とはいえ弊害もある、と考えている。

山本浩司氏のKEFのサブウーファーの記事を読みながら感じていたのは、
編集者として長すぎた経験の弊害であった。
それゆえのそつのない文章だった。

山本浩司氏は、私がステレオサウンドで働いていたころ、
サウンドボーイ、HiViの編集者だった。
それからHiViの編集長になり、評論家に転身されている。

KEFの記事を読んでいると、
これが、あの山本さんが書いた原稿? と思っていた。
そつのない文章と書いたが、つまらない文章を書くなぁ、と思っていた。

個人的なつきあいがあったわけではないが、
どういう人なのかはある程度は知っているわけで、
そのキャラクターとKEFの記事とが一致しなかった。

だから弊害と感じたわけだ。
でも、そのことは書いている本人がいちばん感じていたのではないのか。

山本浩司氏の書かれたものをすべてを読んでいるわけではないし、
熱心に読んでいるわけでもないが、ここ数年、ステレオサウンドでの文章は、
KEFの記事のころとは違って、弊害をうまく自分のなかで消化できたのではないか、
そんなふうに感じるようになってきた。

その山本浩司氏がSA750とSA30の記事を書くのであれば、楽しみだ。

Date: 11月 2nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

BACH UNLIMITED(その2)

クラシックに興味を持ち始めたばかりのころ、
バッハの作品に、イギリス組曲、フランス組曲、
そしてイタリア協奏曲があるのを知った。

いずれも鍵盤楽器の曲なのに、イギリスとフランスは組曲で、
イタリアだけが、なぜ協奏曲? と思った。

いまならばすぐにインターネットで検索して、その理由を知ることができるが、
当時はそんなものはなかったし、まわりにクラシックに詳しい人もおらず、
イタリア協奏曲が、協奏曲の理由がすぐにはわからなかった。

しばらくして二段鍵盤楽器のための曲ということを知り納得したわけだが、
だからといって、イタリア協奏曲とおもえる演奏は、そう多くはない。

私が聴いたイタリア協奏曲は、グールドの演奏が最初だった。
グールドは右手と左手の音色を変えている。
グールドの演奏で聴けば、協奏曲だと理解できるし、納得できる。

では、市販されているイタリア協奏曲の録音がすべてそうなわけではない。
達者に弾いていても、協奏曲とは感じられない演奏もある。

リーズ・ドゥ・ラ・サール(Lise de la Salle)の“BACH UNLIMITED”、
ここにおさめられているイタリア協奏曲は、たしかに協奏曲である。

Date: 11月 1st, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その1)

今日から11月。
去年は、11月8日から「2020年をふりかえって」を書き始めた。

思いついたことを書いていくことになるので、
残り二ヵ月、ぽつぽつと書いていくつもり。

今年は、昨年までとは違ったことがある。
カレンダーのある生活を送っている。

東京で暮すようになってカレンダーのある暮しは、今年が初めてである。
壁に飾る大きなカレンダーではない。
卓上カレンダーだ。

赤塚不二夫カレンダーである。
赤塚りえ子さんに昨年暮にいただいたものだ。

気づかれている方もいると思うが、
赤塚りえ子さんのお父さんが赤塚不二夫氏だ。

カレンダーのない暮しが長すぎたため、カレンダーをめくる習慣がまったくないことに気づいた。
月の終り近くになって、あっ、カレンダーめくってなかった、ということが、
二度ほどあった。

今日は帰宅後すぐにめくった。
やっと慣れてきたと思ったら、今年は、残り二枚(二ヵ月)。

今年はaudio wednesdayのなかった(やらなかった)一年だった。

Date: 11月 1st, 2021
Cate: 四季

さくら餅(その5)

三週間ほど前に、ひさしぶりにすやの栗きんとんを食べた。
その3)で触れているすやの栗きんとんである。

すやの栗きんとんを最初に食べたのはハタチのころだった。
20代のころは、よく買っていた。
日本橋の高島屋、銀座の松屋の全国銘菓コーナーで行けば、すんなり買えていた。
夕方遅くだと売り切れていることもあったけれど、買うのに苦労したことはまずなかった。

それがいつのころからか、よく似た栗きんとんが出回るようになった。
すやの栗きんとんよりも安かったり、高かったりしていた。
そのいくつかを試しに買ってみたけれど、すやのがいちばんだった。

いま、それらはどうなったのだろうか。
すやの栗きんとんは残っている。

けれど、人気なために、いまでは予約しない買えないようになってしまっている。
そのためずいぶんながいこと食べていなかった。

先日食べたのは、二十年ぶりぐらいである。
変らぬ美味しさだった。

食べ終って、すやの栗きんとんには装飾がいっさいないことに気づいた。
装飾がない、というよりも、装飾を求めていない。
拒否している、ともいってだろう。

伊藤先生の真贋物語、
ステレオサウンド 43号掲載の真贋物語に、プリンのことが出てくる。
     *
 カスタード・プッディングはキャラメル・ソースがかかっているだけのが本来なのに、当節何処の喫茶店へ行っても、真面(まとも)なものがない。アラモードなどという形容詞がついて生クリームが被せてあって、その上に罐詰のみかんやチェリーが載っていたりして、いや賑やかなことである。何のことはないプッディングは土台につかっての基礎工事なのである。味は混然一体となって何の味であるかわからないように作ってある。幼児はそれを目にして喜ぶかも知れないが成人がこれを得得として食べている。
 カスタード・プッディングは繊細な味を尊ぶ菓子であるだけに悪い材料といい加減な調理では、それが簡単なだけにごまかしが効かない。一見生クリーム風の脂くさい白い泡とまぜて、ブリキの臭いのする果物のかけらと食えば折角のキャラメル・ソースの香りは消え失せて何を食っているのか理解に苦しむ。しかしこうした使い方をされるプッディングは概ね単体でもまずいものであろう。
 価格は単体でなく擬装をして手間をかけてまずくしてあるから単体よりも倍も高い。長く席を占領されて一品一回のサーヴ料金を上げなければならないから止むを得ぬ商策であろうが、困った現象である。
     *
カスタード・プッディングは装飾されがちである。
装飾されていないカスタード・プッディングも、もちろんある。

すやの栗きんとんは、おそらくこれから先、何十年経っても、
装飾されることはないはずだ。

Date: 10月 31st, 2021
Cate: Kathleen Ferrier, ディスク/ブック

KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL” を聴いて、
もう三十年以上が過ぎている。

1985年にCDで初めて聴いたその日から、
“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は愛聴盤である。

EMI録音のフェリアーはMQAで聴けるけれど、
デッカ録音の“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、MQAではいまのところ聴けない。
聴ける日がはやく来てほしい。

三日前に、バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”を、ひさしぶりに聴いた。
いいアルバムだと感じたので、そのことを書いている。

ながいことレコード(録音物)で音楽を聴いていると、こういうことはあるものだ。
“Negro Spirituals”の例がある一方で、
一時期、熱心に聴いていたのに、いまはもうさっぱり聴かなくなってしまった──、
ということだってある。

そういうものである。

“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”も、
もしかする、聴いても何も感じなくなる日がやってくるのかもしれない。

絶対に来ない、とはいいきれない。

そんな日が来たら、私は「人」として終ってしまった──、そうおもう。
そんな日が来たら、もう自死しか選択肢は残っていない──、
私にとって“KATHLEEN FERRIER SINGS BACH & HANDEL”は、そういう愛聴盤だ。

Date: 10月 30th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その6)

「いま、いい音のアンプがほしい」では、最後のところも思い出す。
瀬川先生は、こう書かれていた。
     *
私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
     *
《音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わい》、
これは、はっきりと「色」である。

アンプ・エンジニアのなかには、この「色」を極端に拒否する姿勢の人もいる。
それを間違っているとはいえない。

《全き完成》に近づけることこそ、アンプの正しいあり方であり、進歩である。
でも、それだけで、レコード(録音物)を再生して、
ゾクゾク、ワクワクできる魅力が味わえるだろうか──、と思ってしまうのだ。

瀬川先生が書かれている。
《ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある》、
そうなのだが、これはどこまでいっても理屈だとおもう。

理屈で人は感動しない。昂奮もしない。

だから、別項で書いている「音情」のことをおもうわけだ。

Date: 10月 29th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ROOTS: MY LIFE, MY SONG

バーバラ・ヘンドリックスの“Negro Spirituals”をきいた私は、
そういえばジェシー・ノーマンも黒人霊歌集を録音していたはず、とTIDALを検索していた。

あった。
その他にキャスリーン・バトルとのライヴ盤もあった。

もう一枚、気になるジャケットがあった。
それが“ROOTS: MY LIFE, MY SONG”である。

こちらもライヴ録音で、二枚組。
どんな歌が謳われているか(収録されているか)は、検索してほしい。

ジェシー・ノーマンは好きになれない歌手の一人だった。
嫌いなわけではない。
でも、のめり込んで聴くことのなかった歌手だった。

それでもカラヤンとのワーグナーの一枚は、いまでもときおり聴いている。
なのでソニー・クラシカルから、こんなディスクが出ていたことを、昨晩まで知らなかった。

私は、ジェシー・ノーマンという歌い手を少し誤解していたようだ。
そのことに気づかせてくれた一枚である。

出逢うべくディスクとは、いつか必ず出逢えるものなのだろう。