真空管アンプの存在(その43)
マランツ#7が登場した1958年、マッキントッシュC22が登場した翌59年、真空管全盛時代で、
良質の真空管を大量に調達することは容易なことである。
真空管アンプのSN比は、回路構成、コンストラクションなどだけで決まるものでなく、
同規格の真空管でも製造メーカー、製造時期が異ることでも、SN比は左右される。
真空管に被せるシールドケースの種類によっても、すくなからず、というよりも意外と変わる。
真空管アンプを使う楽しさ(人によってはめんどうなこと)は、真空管の選別にもある。
SN比だけでなく、とうぜん音も、おもしろいように変わる。
モノーラル時代よりもステレオになり、選別の苦労(楽しさ)は増している。
左右チャンネルの同じ箇所に使う真空管は、ブランド、製造時期が揃っているだけでなく、
実際に音を聴いて、音色やノイズの出方が揃っている(似ている)ものを、
ステレオイメージをきちんと再現するためにも、選びたい。
さらにプッシュプルのパワーアンプの出力管の選別は難しくなる。
4本(パラレルプッシュプルだったら8本)、
特性、音、ノイズの質(たち)が揃っているものを選び出すわけだから。
五味先生は、「オーディオ愛好家の五条件」のなかで、真空管選びのたいへんさについて書かれている。
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もちろん、真空管にも泣き所はある。寿命の短いことなどその筆頭だろうと思う。さらに悪いことに、一度、真空管を挿し替えればかならず音は変わるものだ。出力管の場合、とくにこの憾みは深い。どんなに、真空管を替えることで私は泣いてきたか。いま聴いているMC二七五にしても、茄子と私たちが呼んでいるあの真空管──KT88を新品と挿し替えるたびに音は変わっている。したがって、より満足な音を取戻すため──あるいは新しい魅力を引出すために──スペアの茄子を十六本、つぎつぎ挿し替えたことがあった。ヒアリング・テストの場合と同じで、ペアで挿し替えては数枚のレコードをかけなおし、試聴するわけになる。大変な手間である。愚妻など、しまいには呆れ果てて笑っているが、音の美はこういう手間と夥しい時間を私たちから奪うのだ。ついでに無駄も要求する。
挿し替えてようやく気に入った四本を決定したとき、残る十二本の茄子は新品とはいえ、スペアとは名のみのもので二度と使う気にはならない。したがって納屋にほうり込んだままとなる。KT88、今一本、いくらするだろう。
思えば、馬鹿にならない無駄遣いで、恐らくトランジスターならこういうことはない。挿し替えても別に音は変わらないじゃありませんか、などと愚妻はホザいていたが、変わらないのを誰よりも願っているのは当の私だ。
だが違う。
倍音のふくらみが違う。どうかすれば低音がまるで違う。少々神経過敏とは自分でも思いながら、そういう茄子をつぎつぎ挿し替えて耳を澄まし、オーディオの醍醐味とは、ついにこうした倍音の微妙な差意を聴き分ける瞬間にあるのではなかろうかと想い到った。数年前のことである。
以来、そのとき替えた茄子はそのままで鳴っているが、真空管の寿命がおよそどれぐらいか、正確には知らないし、現在使用中のテープデッキやカートリッジが変わればまた、納屋でホコリをかぶっている真空管が必要になるかもしれない。これはわからない。だが、いずれにせよ真空管のよさを愛したことのない人にオーディオの何たるかを語ろうとは、私は思わぬだろう。