「音は人なり」を、いまいちど考える(その12)
別項「変化・進化・純化」で自己模倣と書いた。
古い知人の出していた音を、私は自己模倣と書いた。
自己模倣も「音は人なり」となるのだろう。
さらに「自己模倣という純化の沼」とも書いた。
自己模倣という純化の沼にどっぷり浸っているのが、
いちばん楽なのかもしれない。
しかも周りにはオーディオという泥沼にどっぷりに浸かっていまして……、
そんなことを自虐的に、そして自慢気に話す。
マニアとしてのプライドも保てるのかもしれない。
けれど自己模倣という純化の沼に浸かっていては、
人間的成長からは遠くなっていく。
自己模倣であっても、音は変っていく。
変らないということはない。
けれど、自己模倣はどこまでいっても自己模倣でしかない。
そこでの音の変化も、自己模倣の領域内でのことである。