40年目の4343(その4)
理解していない、理解しようともしない。
このことはオーディオ評論家にとっても、オーディオ雑誌の編集者にとっても致命的なことである。
理解しようともせずに、オーディオ機器の記事を書いている、つくっている、と告白しているのと同じである。
そのことに、なぜ彼らは気づかないのか。
彼らは、目の前にある4343もどきのスピーカーをどうすればよかったのか。
ハンマーで敲きこわす。
これだけである。
4343を理解していない人には、怒りはなかったのだろう。
そうとしか考えられない。
そして思い出す。
五味先生の文章を思い出す。
*
とはいえ、これは事実なので、コンクリート・ホーンから響いてくるオルガンのたっぷりした、風の吹きぬけるような抵抗感や共振のまったくない、澄みとおった音色は、こたえられんものである。私の聴いていたのは無論モノーラル時代だが、ヘンデルのオルガン協奏曲全集をくり返し聴き、伸びやかなその低音にうっとりする快感は格別なものだった。だが、ぼくらの聴くレコードはオルガン曲ばかりではないんである。ひとたび弦楽四重奏曲を掛けると、ヴァイオリン独奏曲を鳴らすと、音そのものはいいにせよ、まるで音像に定位のない、どうかするとヴィオラがセロにきこえるような独活の大木的鳴り方は我慢ならなかった。ついに腹が立ってハンマーで我が家のコンクリート・ホーンを敲き毀した。
以来、どうにもオルガン曲は聴く気になれない。以前にも言ったことだが、ぼくらは、自家の再生装置でうまく鳴るレコードを好んで聴くようになるものである。聴きたい楽器の音をうまく響かせてくれるオーディオをはじめは望み、そのような意図でアンプやスピーカー・エンクロージァを吟味して再生装置を購入しているはずなのだが、そのうち、いちばんうまく鳴る種類のレコードをつとめて買い揃え聴くようになってゆくものだ。コレクションのイニシァティヴは当然、聴く本人の趣味性にあるべきはずが、いつの間にやら機械にふり回されている。再生装置がイニシァティヴを取ってしまう。ここらがオーディオ愛好家の泣き所だろうか。
そんな傾向に我ながら腹を立ててハンマーを揮ったのだが、痛かった。手のしびれる痛さのほかに心に痛みがはしったものだ。
(フランク《オルガン六曲集》より)
*
もちろん、このときの五味先生がおかれていた状況と、
4343もどきのスピーカーを前にした状況は決して同じではない。
けれど、どちらにも怒りがある。
何に起因する怒りなのかの違いはある。
けれど怒りは怒りであり、その怒りがハンマーをふりおろす。
こんなことを書いていると、またバカなことを……、と思う人はいてもいい。
そういう人は4343というスピーカーシステムを理解していない人なのだから、
そんな人になんといわれようと、気にしない、どうでもいいことだ。
「名作4343を現代に甦らせる」の連載の最後にふさわしいのは、
ほんとうはなんだったのだろうか。
そのことを考えないで、オーディオについて語ることはできない。