Archive for 5月, 2022

Date: 5月 13th, 2022
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その32)

黄金の組合せとは、誰が言い始めたことなのだろうか。

瀬川先生は、こう書かれている。
     *
 もう十年ほど昔の話になると思うが、ある時期、本誌で「黄金の組合せ」とも呼ばれたコンポーネント・システムがあった。スピーカーがタンノイIIILZオリジナル。アンプがラックスSQ38F。カートリッジがオルトフォンSPU-GT(E)。
「黄金……」の名づけ親は、たぶん本誌編集長当たりかと思うが、その意味は、唯一最上というよりも、おそらく黄金比、黄金分割……などの、いわば「絶妙の」といった意味合いが濃いと思う。というは、右の組合せはご覧のように決して高価でも大型でもなく、むしろ簡潔で比較的手頃な価格であり、それでいて、少なくとも多くのクラシック音楽の愛好家が求めている音色の、最大公約数をうまく満たしてくれる鳴り方をした。いまでもまだ、この組合せのままレコードを楽しんでおられる愛好家は、決して少なくない筈だ。
     *
この瀬川先生の文章、読んだことがない──、
という人ばかりだろう。

ステレオサウンド 56号に、
「いま、私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」が載っている。
瀬川先生の連載の開始だったのだが、
非常に残念なことに57号は休載、その後も載ることなく、瀬川先生は亡くなられている。

けれど原稿は書かれていた。
完全なかたちの原稿ではないけれど、
57号(もしくは58号)に掲載予定だった原稿の前半と後半が残っている。

その前半は、JBLの4343とロジャースのPM510のことから話は始まり、
黄金の組合せについてへテーマは移っていく。

黄金の組合せ、そして現代の黄金の組合せについて書かれる予定だった。

Date: 5月 13th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その4)

その3)に、コメントがあった。
ホームシアターを仕事にされていて、
audio wednesdayにも何度も来てくださった水岡さんのコメントである。

そこに、こうある。
《ホームシアターの良い所、それは好きなソフトを好きな時に見られる事ですね。
いくらIMAXが凄かろうと、それが自分の見たい物でなければ・・・ですよね?
映画には色々な物があって、私が好きな名画やアニメ作品はIMAXと相性が良いとは思えませんし(笑)
それにホームシアターはライブ物のソフトを楽しむが最高なんですよ!
自分が手塩にかけたスピーカーに映像を組み合わせる!》

水岡さんのいわれる通りである。
IMAX 3Dがどんなに凄かろうと、相性が良いとはいえないどころか、
悪い作品もある。

それはわかったうえで、IMAX 3Dで凄い作品を観てしまうと、
《自分の見たい物》でなくとも観たいと思う気持が私にはあったりする。

それはどこかオーディオマニアが、音楽的内容とはあまり関係ないところで、
音のよい録音を鳴らす気持と通じているのかもしれない。

水岡さんのコメントを読んでいて気づいたのは、
私はあまりライヴものの映像を観ないということである。

私はホームシアターはやっていない。
自宅でどんなシステムで映画を観ているかといえば、
iPadにイヤフォンを接続して観ることが多い。
これでけっこう楽しんでいて満足しているし、
映画館に行きIMAX 3Dで観るということとはまったくの別物だと割り切っているのだろう。

水岡さんのコメントには、こうも書いてある。
《若い人に私が手掛けたシアターを見せた時の反応は結構良いのですが、ネックはやはり経済的な事ですね。》
これもその通りだし、経済的なことがネックとなるわけだが、
ここで本格的なホームシアターを自分のモノとして実現しようと思う人もいれば、
私のようにすっぱり割り切って、程々の大きさのテレビでいいや、という人もいる。

どちらが多いのか私にはわからない。
前者が多ければ、これからもホームシアター業界は安泰だろうし、
後者が多くなってくれば……。

最後水岡さんは、ホームシアターファイルは季刊で残っています、と書かれているが、
音元出版のサイトには、
ホームシアターファイルは休刊誌のところにある。
定期刊行物のところにあるのは、季刊ホームシアターファイルPlusとなっている。

一応、ホームシアターファイルと季刊ホームシアターファイルPlusは別扱いというところなのだろう。

このことは昨晩、(その3)を書く時点で確認していたことなのだが、
今日、これを書きながら、もしかするとHiViもいつの日か、
隔月刊か季刊になってしまうかもしれない──、
そんな日が来たとしたら、ホームシアター業界は斜陽産業といえるだろう。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(コントロールアンプのこと・その23)

この項を書き始めたときは、
まさかGASのTHAEDRAがやって来るとは、まったく思いもしていなかった。

SAEのMark 2500と組み合わせるコントロールアンプをどうするか。
すでに書いているようにまっさきに候補にあがったのは、
マークレビンソンのLNP2である。

そして次に、一度試してみたいと思っていたのが、
CelloのAudio Suiteである。

Audio SuiteとMark 2500とでは価格的にもアンバランスだし、
大きさもコントロールアンプのAudio Suiteのほうが大きい。

それにAudio Suiteは、いったいどれだけ売れたのだろうか。
Audio Suiteの中古相場はどのくらいなのか、まったく知らない。

今回THAEDRAを三万円ほどで手に入れることができたけれど、
同じようなことがAudio Suiteで起ることはまずない。

それでもコーネッタを鳴らすアンプとして、
Audio Suiteをシステムに組み込んだら──、
そんなことを妄想していたけれど、
さすがに現実味がまったくないから、あえて書かなかった。

なのに、Audio Suiteを貸しましょうか、といってくださる人が現れた。
二つ返事で、ぜひ! と答えたいところだが、迷っている。

聴かないから妄想で、妄想を逞しくすることで愉しめる。
ところが一度聴いてしまったら、
その妄想は幻想でしかなかった──、という心配をしているわけではなく、
その反対で、Audio Suiteの音に魅惑されてしまうであろうから、
そうなったら返したくなってしまうからだ。

そう思いながらも、Audio Suiteの音を聴いて、
THAEDRAのブラッシュアップの方向性を定めることもできるはず──、
そんなことを自分に言い聞かせてもいる。

こういう悩ましい時間も、実は楽しかったりする。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 映画
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Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その3)

IMAX 3Dの凄さを味わった人、
それも若い人たちは、ホームシアターを趣味とするのだろうか。

趣味としてもらわないと困る──、
と言うのはホームシアター業界の人たちだろう。

メーカー、輸入元、雑誌関係の人たち、ホームシアター評論家。
これらの人たちは劇場でIMAX 3Dを体験して、どう思っているのだろうか。

脅威と感じているのどうか。
私だったら、そう感じる。
けれど私はホームシアター業界の者ではないし、
ホームシアター業界の内情についてもまったくといっていいほど知らない。

けれど音元出版は数年前にホームシアターファイルを休刊している。
HiViにしても、ひところはほとんどの書店で平積み扱いだったが、
最近はそうではなくなっている。

遠い将来か近い将来、どちらなのかはわからないが、
いつの日か、IMAX 3Dのクォリティをホームシアターでも実現できるようになるだろう。

でもそのころには劇場のクォリティ(次元)は、さらに先をいっていることだろう。
このこと自体はとてもいいことである。

劇場のクォリティ(次元)がきわめて高くなることに全面的に賛成だし、
いつまでもそういう場であってほしい、と、
老朽化した劇場で映画を観てきた世代の私は、そう思う。

けれど、そのことがホームシアターという趣味を広く定着させていくかは疑問である。

ホームシアター業界は、すでに斜陽産業なのかもしれない、
とIMAX 3Dで映画を観るたびに思うようになっている。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その2)

私がいちばん映画を観ていたのは、20代のころである。
1980年代である。

あのころは休日ともなれば映画館をはしごしていた。
主に新宿の映画館を、一日で三館はしごしていた。

紀伊國屋書店の裏にあった映画の前売り券のみを扱っていたチケット店で、
上映されている作品の開始時間と終了時間を確認して、観る映画を決めていた。

このころはシネマコンプレックス(シネコン)は、まだなかった。
さすがは映画館! といいたくなる劇場もあったけれど、
老朽化している劇場も、まだまだ残っていた時代だ。

とにかく、この時代、邦画は敬遠していた。
なぜかといえば、音の悪い劇場が少なくなく、
セリフ(日本語)がひどく聞き取りにくいことがままあったからだ。

そして1980年代はAV(オーディオ・ヴィジュアル)時代の幕開けでもあった。
ステレオサウンドの姉妹誌であったサウンドボーイはHiViへと変っていった。

このころのハイエンドのホームシアターの実力は、
老朽化した劇場のクォリティを上廻っていた。

AVは、いつのころからかホームシアターと呼ばれるようになって、
さらにクォリティは向上していっている。

それでも──、といまは思う。
シネコンでIMAX 3Dで、きっちりとつくりこまれた作品を観ていると、
このクォリティは、ホームシアターでは無理だろう、と思ってしまう。

20代のころは、とにかく一本でも多くの映画を観たい──、
ということで映画館に行っていた。それはそれで楽しかった。

いまは、というと、IMAX 3Dでの映画を観るのがとても楽しい、と感じている。
それは私だけでなく、多くの人がそう感じているようだ。

20代のころは、スマートフォンはなかった。
映画を観るためのチケット購入は、劇場窓口かチケット店しかなかった。
いまはスマートフォンから買えるし、座席指定でもある。

私もそうやって買っているわけだが、
話題の作品の購入状況を見ると、IMAX 3Dのほうが人気があるようだ。
IMAX 3Dは通常料金に800円か900円が追加になる。

高いと感じるか安いと感じるか。
私はけっこう安いと感じている。
もちろん作品の出来が優れているという条件つきではあるが、
IMAX 3Dは新しい体験であるからだ。

そして思うのは、
ホームシアターで劇場でのIMAX 3Dと同じクォリティで観られるようになるのだろうか。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その12)

変換効率の高いスピーカーと変換効率の低いスピーカー。
以前書いているように、
現在と昔とでは、この高い(低い)の値が変化している。

私がオーディオに興味をもったころ(1970年代後半)は、
90dB/W/m前半の出力音圧レベルは、どちらかというと低いという感覚だった。

95dB/W/mあたりを超えたころから高い、というよりも低くない、という感じであって、
高いというのは最低でも98dB/W/m、100dB/W/mを超えると文句無しに高い──、
そういうものだった。

それがいまでは10dBほど低いところで、高い低いが語られている。
85dB/W/m程度で、高いといわれる。

しかも私より上の世代のオーディオ評論家が、
そんな感覚で、高い(低い)といっているのをみると、
この人たちの感覚も世の中の変化につれて変ってきていて、
そのことを自覚しているのだろうか、とつい思ってしまう。

別項「Mark Levinsonというブランドの特異性(その56)」で触れているFさんは、
いまから十年ほど前に、マーク・レヴィンソンとメールのやりとりをされていたそうだ。

レヴィンソンからのメールに、こうあった、とのこと。
     *
Personally, I have gotten tired of systems based on very inefficient speakers which need big power amps.
     *
訳す必要はないだろう。
レヴィンソンも、齢を重ねて、そうなったか。
マーク・レヴィンソンが主宰するダニエル・ヘルツのスピーカーのM1の変換効率は、
確かに高い。カタログには100dB/W/mとある。

マーク・レヴィンソンも、いわゆるダルな音にうんざりしているのだろうか。

Date: 5月 12th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ファトマ・サイードの“Imagine”

ファトマ・サイードが“Imagine”を歌っている。
今日、歌っていることを知って、聴いていたところだ。

一曲のみだから、ストリーミングでのみ聴くことができる。
私はTIDALで聴いた。
MQA Studio(44.1kHz)で聴いた。

CD、SACDといったパッケージメディアにこだわりたい、という気持は、
マニアならば誰にでもあることだろう。

それをディスク愛と表現して、特集のテーマとすることもできよう。

でも、そこにこだわりすぎてしまっては、
ストリーミングで音楽を聴くなんて──、と拒否したままでは、
聴けない曲が出てくることになってしまう。

それでもいい、というのか。
そこまでこだわるのか。
こだわるべき対象はパッケージメディアなのか、音楽なのか。

ファトマ・サイードの“Imagine”を聴いて、そのことをおもっていた。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その56)

このブログは、2023年1月29日で終りなのだが、
いまのペースで書いていると、この項に関しても結論を書かずになってしまうそうである。

ちょっとペースをあげないと──、と思っていたところに、
今日未明に、Fさんという方からのメールが届いていた。

以前、何度かやりとりをしたことがある人で、
マークレビンソン、Celloの製品を愛用されてきた人である。

今回のメールには、Fさんのコントロールアンプ遍歴が綴られていた。
そこには、CelloのAudio Suiteこそが、
マーク・レヴィンソンの究極なのだろうと感じた、とある。

この一点こそが、この項でのいわば結論である。
私もAudio Suiteこそが、
マーク・レヴィンソンという男の、全き個性の完成形と感じている。

FさんはマークレビンソンのLNP2、ML6、
CelloのEncore 1MΩという遍歴の末のAudio Suiteである。

だからこそ、わかるなぁ、とひとりごちた。

Fさんのメールを読みながら、Audio Suiteを初めて聴いた日のことを思い出していた。
ステレオサウンドの試聴室で聴いている。

Audio Suiteの、コントロールアンプとしての完成度に関しては、
いくつか注文をつけたくなることがある。

でも、そんなことは音を聴いてしまうと、一瞬のうちに霧散してしまう。
魅力的ではなく、魅惑的に響く。
音楽が魅惑的に鳴り響くのである。

Date: 5月 10th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その15)

カラヤンをお好きだった瀬川先生と黒田先生。
お二人ともJBLの4343でレコード(録音物)を聴かれていた。

瀬川先生は、ステレオサウンド 53号での4343研究で、
オール・レビンソン、
しかもウーファーに関してはML2をブリッジ接続してのバイアンプ駆動、
つまり六台のML2を用意しての4343を極限まで鳴らそうという企画をやられている。

この時の音は、この時代における精緻主義の極致であっただろう。

この時、誌面に登場する試聴レコードは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

カラヤンのディスクはなかった。
53号を読んだ当時は、そのことに気づかなかった。
そういえばカラヤンのディスクがなかったな、と気づいたのは、
ずっとあとのことである。

気づいた後で、
ステレオサウンド 56号掲載のトーレンスのリファレンスの新製品紹介記事、
58号でのSMEの3012R-Specialの新製品紹介記事、
もちろん両方とも瀬川先生が担当されているわけで、
この二つの瀬川先生の文章を読み返すと、
精妙主義ということに、少なくとも私のなかではつながっていく。

同じことは黒田先生についてもいえる。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 書く

続・audio identity (designing)を終りにする理由

小林秀雄が、中原中也のことを書いている。
《彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。》

どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

そうなのだ、来年はじめる新しいブログでは、そうありたい。
どこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。

オーディオについて書くのは難しいようでいて、
逃げ道が、そこらにある、と感じている。

理智に逃げる、
心理に逃げる、
感覚に逃げる。

逃げられるからこそ書いてこれた、とも言えるのだから、
どこにも逃げずに書いていくというのは、しんどいだろうなぁ、とは思っている。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その14)

精妙と精緻は近いようでいて、同じではない。
カラヤンは精妙主義の指揮者であり、
別項で触れているマーラーの第一番をシカゴ交響楽団と録音したころのアバドは、
精緻主義の指揮者である。

カラヤンの精妙主義がもっともいかされていると私が感じるのは、
ワーグナーにおいて、である。

「パルジファル」がもっとも優れたカラヤンの精妙主義を聴くことができるが、
「ニーベルングの指環」もそうだと感じている。

室内楽的、といわれたのは黒田先生である。
たしかにカラヤンの「ニーベルングの指環」は室内楽的な印象を受ける。

五味先生はカラヤンを嫌われていた。
初期のカラヤンの演奏は高く評価されていたけれど、
フルトヴェングラーが亡くなって以降のカラヤンに関しては、
堕落した、とまでいわれている。

カラヤンの「ニーベルングの指環」は、
その五味先生のレコードコレクションの中にある。

いまでこそけっこうな数の「ニーベルングの指環」の録音はある。
けれど五味先生が生きておられた時代、
ショルティの「ニーベルングの指環」がまずあった。

それ以外の「ニーベルングの指環」となると、
いかな五味先生でもカラヤンの「ニーベルングの指環」を無視できなかったのだろう。

Date: 5月 9th, 2022
Cate: バランス

Xというオーディオの本質(その8)

Xという文字を両天秤として捉えていると、
Xを描く線の一本は音の姿勢であり、
交叉するもう一本は音の姿静である──、
というのはいまの私の予感である。

Date: 5月 8th, 2022
Cate: 映画

Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を観てきた。
IMAX 3Dでの映画鑑賞は久しぶりである。

昨年はIMAX 3Dで一本も映画を観ていない。
上映している映画も少なかったと記憶している。

以前なら、この種の映画ならIMAX 3Dでの上映があるのに──、
そう思える作品でもなかったりしていた。

「ドクター・ストレンジ」本編については何も書かない。
今日驚いたのは、本編が始まる前に流れた「アバター」の予告編についてである。

「Avatar: The Way of Water」は「アバター」の続編で12月公開予定である。
その予告編も、IMAX 3Dだった。

映像のクォリティに驚いた。
この予告編をIMAX 3Dで観られただけでも、
今日映画館に足を運んでよかった、と思えるくらいの出来なのだ。

公開まであと七ヵ月もあるのだから、公開時にはさらにクォリティは向上しているかもしれない。
公開が待ち遠しいと思っているのだが、
世の中には、この種の映画を蔑視する人たちがいる。

CGだけが売りで、内容的には……、と、そんなことをいって否定する。
内容的に……、といいたくなる映画もあるといえばあるけれど、
それにしても、こんなことをいう人は、
IMAX 3Dで上映される作品における情報量を処理できずにいるのではないのだろうか。

スクリーンに映し出される情報量は、IMAX 3Dともなると多い。
それに動きの早いシーンによっては目が追いつかない、と感じたりもする。

私はCGでしっかり作り込まれた映画をIMAX 3Dで観るのは、
スポーツのようなものだと受け止めている。
頭のスポーツである。

ふだんあまり動かしていない(と感じている)頭の部位を、
この種の優れた映画を観ると、鍛えられるような感じがする。

人は、処理し切れない情報量の場合、単純化(省略化)してしまう──、
という説を以前読んだことがある。
脳のオーバーヒートをおこさないようにするため、らしい。

三年ほど前にも、別項で同じようなことを書いているけれど、
「アバター」の予告編を観て、またさらに頭が鍛えられそうな、
つまり情報の処理能力が鍛えられそうな映画登場してくる、
そんなふうにも受け止めていた。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その23)

井上先生の
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
ここにある井上先生の問いかけに関連して思い出すのは、
五味先生の、この文章である。
     *
ベートーヴェンのやさしさは、再生音を優美にしないと断じてわからぬ性質のものだと今は言える。以前にも多少そんな感じは抱いたが、更めて知った。ベートーヴェンに飽きが来るならそれは再生装置が至らぬからだ。ベートーヴェンはシューベルトなんかよりずっと、かなしい位やさしい人である。後期の作品はそうである。ゲーテの言う、粗暴で荒々しいベートーヴェンしか聴こえて来ないなら、断言する、演奏か、装置がわるい。
(「エリートのための音楽」より)
     *
《粗暴で荒々しいベートーヴェン》でなくとも、
見通しよく整然と聴こえてきたベートーヴェンであったとしても、
ベートーヴェンのやさしさが聴こえてこないのならば、
ベートーヴェンに飽きがくるのであれば、
それは優れたオーディオ機器であろうか。

ここでの、装置が悪い、いい、というのは、
オーディオ雑誌における評価とは関係のないところでのいい、悪いである。

Date: 5月 7th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(THAEDRAとJC-2・その4)

THAEDRAと組み合わせた時の音について別項でも触れているから、
ここでは省くけれど、THAEDRAも、どうしても欲しい、という人がいて、
結局、その人に譲ってしまった。

JC2とTHAEDRA。
これら以外のコントロールアンプも使ってきたけれど、
ふり返って思い出すのは、この二機種である。

使ったことがない、
つまり自分のシステムに組み込んだことがないモデルのなかでは、
マークレビンソンのLNP2は、いまでもいつかは──、というおもいがあるけれど、
使ったモデルに限定すれば、JC2とTHAEDRAということになる。

いま目の前に、この二つのコントロールアンプがあって、
どちら片方だけ選べといわれたら(もちろんどちらも同じ価格だとして)、
やはりTHAEDRAを選ぶ(資産価値で選ぶ人はJC2のはず)。

実際のところ、中古市場ではJC2のほうが高価である。
それでも、私がとるのはTHAEDRAであり、ここにおける選択は、
音があってのことであっても、別の理由もある。

別項で「オーディオ・システムのデザインの中心」を書いてる。
結論までにはもう少し書いていく予定なのだが、
私は、オーディオ・システムのデザインの中心はコントロールアンプだ、と考えている。

つまりJC2よりもTHAEDRAということは、
コーネッタをスピーカーに据えるシステムにおいて、
THAEDRAを、システムのデザインの中心に置く(選んだ)ことである。