Archive for 4月, 2022

Date: 4月 20th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その7)

今日発売のレコード芸術 5月号で、
「新時代の名曲名盤500」はシベリウスからイザイまでをカバーして、
ひとまず終りである。

また数年後、同じ企画は始まるし、
今回の企画を一冊にまとめたムックも出るように思っている。

今回で最後なので、ワーグナーも登場している。
意外だったのは、「ニーベルングの指環」で一位になっているのは、
いずれもショルティの録音だったことだ。

今回の「新時代の名曲名盤500」をじっくり読んできたわけではない。
Kindle Unlimitedでなんとなく眺めていただけなのだが、
それにしても1980年代、私が熱心に読んでいたころ(そのころは300だった)とは、
ずいぶん選ばれている録音が違う曲が、けっこう多くあった。

そんなことがあったのでワーグナーは、ショルティが一位なのがちょっと意外だった。

いまワンダ・ランドフスカの演奏(録音)は、どうなのだろうか。
Kindle Unlimitedではレコード芸術に関しては、数ヵ月前のバックナンバーまでしか読めない。
バッハをとりあげた号は、いまでは読めない。

ランドフスカはどうだったのか。
選ばれていないのではないだろうか。

1980年代後半の「名曲名盤300」でも、
すでにランドフスカは忘れられていたという印象を受けた。

そのランドフスカを、私はいまになって、ようやくいい演奏だと感じている。
このことは、若いころといまとでは認知距離(ディタッチメント)が変ってきた──、
ということなのか。

そんなことを考えていたら、ランドフスカの演奏は「花」なのかも、と思えてきた。
20代のころ、ランドフスカの演奏をそれほどよいとは思えなかったころ、
花にほとんど関心はなかった。

いまだって、それほど強くあるわけではないが、
それでもそのころよりもずっと花をみて美しい、と感ずることが増えている。

だからランドフスカは私にとって「花」なのだろうか。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ

同軸型ユニットの選択(その28・余談)

(その28)へのコメントがfacebookであった。

そこには、妄想ではなく猛走とあった。
いわれてみて、たしかに猛走でもあるな、と思った。

妄想(猛走)アクセラレーターと、今後は書いていこう。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その6)

2006年3月号のラジオ技術の五十嵐一郎氏の文章を、もう少し引用しておきたい。
     *
 風間千寿子女史が、プレイエルのランドフスカ・モデルを持参で帰京し、ある年に、上野の文化会館小ホールでハープシコード・リサイタルを行った。わたくしは風間女史宅で何度か実機を聴いていたし、このリサイタルには、めずらしく西条盤鬼が女史の招待に応じて会場にくりだしていた。
 盤鬼は、戦後の演奏会はコルトー以来だといっていた。盤鬼とわたくしは、小ホールの最後部席で聴いた。このとき、高城重躬先生は、最前列のカブリツキで聴いておられた。
 休けい時間のとき、盤鬼は「レコードとおなじいゝ音だ」とわたくしにいった。高城さんは「レコードとずいぶん違う音じゃないか」とわたくしにいった。
 わたくしには、あのとき以来、耳派、感覚派、物理派とかいうような、一言居士の風潮区分けをケイベツするようになった。
 芸術鑑賞にディタッチメントは必至である。そして、だからといって認知距離は、認知の接近度の問題であり、それはスタンスを開けるという以上のことでもあろう。
     *
認知距離(ディタッチメント)という判断。
こういうところが、
西条卓夫氏に《戦後派の選ばれたオーディオとレコード・ファン》といわしめたのではないのか。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ

同軸型ユニットの選択(その28)

アルテックの604-8Gを中心としてワイドレンジ化をねらったシステム。
システムの規模をまったく考慮しないのであれば──、と考えたプランもある。

604-8Gは15インチ口径の同軸型ユニットだから、
その下にもってくるウーファーのサイズとなると、
同じ15インチのダブルではつり合わない。

私の感覚では18インチのダブルか、その上の24インチ口径となる。
ハートレーのウーファーがある。
224HSが24インチ口径で、ぴったりである。

224HSは、マーク・レヴィンソンがHQDシステムに採用していた。
西海岸のアルテック、東海岸のハートレー、
組合せとしてうまくいくのかどうかはやってみないことにはわからないのだが、
クラシックを聴きたい私にとっては、決して悪くない結果を生むだろう、という期待はある。

けれど、このシステムの規模は私には大きすぎる。
ならば、どんなシステムを構想できるのか。

604-8Gをさほど大きくない平面バッフルに取り付けて、ということであれば、
まず私の頭に浮んだのは、ダリのSkyline 2000である。

このころのダリは、いまのダリとはずいぶん違うスピーカーシステムをつくっていた。
スピーカーシステムの完成度としては、いまのダリの製品のほうが上だろうが、
スピーカーシステムの魅力は、Skyline 2000の方が私にとってはずっと上である。

こんなふうに書いていると、ダリは少しばかりB&Wに似ているのかもしれない。
B&Wはずっと以前は、いろんなタイプのスピーカーシステムを手がけていた。

あのころといまのB&Wとでは、完成度の高いシステムを実現しているのは、
いまのB&Wである。誰もがそういうはずだ。

でも完成度の高さばかりがスピーカーの魅力なわけではない。
このことに触れはじめると、大きく脱線していくのではこのへんにしておくが、
ダリのSkyline 2000後面開放型のエンクロージュアのスピーカーシステムだった。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その5)

ラジオ技術 2006年3月号の連載で、
五十嵐一郎(金井稔)氏が、ランドフスカの復刻CDについて書かれている。

見開きの記事の左ページの半分くらいが囲み記事になっている。
そこは、「M夫人と聖ワンダ・ランドフスカ」とある。

松村様
 ごぶさたしております。

という書き出しで始まるこの文章は、五十嵐一郎氏が松村夫人にあてた私信である。
そこに、こうある。
     *
小生は“復刻CDをきいたら、LPをぜひ聴きたまえ”と書いたのです。
 本当は、“LPでとどまらず、何としてでもランドフスカは78s(SP盤)まで戻りなさい”といいたいのです。
     *
そういうものなのだろう。
私は、まだSP盤でランドフスカを聴いていない。

Date: 4月 19th, 2022
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(余談・その22)

十数年前だったか、中学のころ使っていたラジカセの型番を調べようとしたことがある。
その時は、検索ワードを変えてみたりしても、求める結果に行き着けなかった。

それがいまや昔のラジカセが小さなブームになっていることもあってか、
すんなりわかった。

内部写真も見つかった。
使っていたとき、内部を見たことはなかった。
今回、インターネットで見つけた写真をみて、
スピーカーユニットがアルニコマグネットだったことを知る。

ダイヤトーンのP610のような磁気回路のフルレンジユニットで、
ダブルコーン仕様である。

さっきまでフェライトマグネットのシングルコーンのフルレンジだと思い込んでいた。
コバルトの世界的不足で、JBL、アルテック、タンノイなどが、
アルニコマグネットからフェライトに移行したのは、この数年後である。

このラジカセで、グラシェラ・スサーナのミュージックテープを聴いていた。

Date: 4月 18th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その4)

「新版 名曲この一枚」を読んでいると、
ワンダ・ランドフスカの演奏を聴いてみたくなる。

ランドフスカの演奏(録音)は、もちろん以前から聴いていた。
けれど、そのころは20代前半ということもあってか、
それほど素晴らしい演奏とは感じなかった。

それに録音も古い。そのことが相俟って、古い演奏と感じてしまった。
ランドフスカと同年代に録音された他の演奏家の録音は、
けっこう聴くことがあるのに、なぜだかランドフスカを遠ざけてしまっていた。

といってもまったく聴いてこなかったわけではないが、
数えるほどしか聴いていない。

それでも西条卓夫氏の文章にふれていると、
もう一度ランドフスカを聴いてみよう、という気持がわいてくる。

幸いなことに、TIDALではMQAで聴ける。
それほど多いわけではないが、平均律クラヴィーアの第一集がある。

以前、平均律クラヴィーアは、
グールドとグルダ、リヒテルの三組のレコード(録音物)があるから、
それで満足している、と書いた。

なのに、こうやってランドフスカのチェンバロによる平均律クラヴィーアを聴きはじめたら、
若いころは聴き続けるのにしんどさを感じていたのに、
すんなりとこちらの耳に入ってくる。

なので、ここ数日はランドフスカをまとめて聴いていた。
西条卓夫氏のような境地で聴いているとは思っていないし、
そこまでたどりつけるないだろうけれど、とにかくいまランドフスカを聴いている。

古めかしさを感じることがなくなっていることに気づく。

Date: 4月 17th, 2022
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その11)

安部公房の「他人の顔」が発表されたのは1964年。

バルトークは1945年に亡くなっている。
「他人の顔」の時代は、バルトークは現代音楽だったのか。

死後二十年ほど経っているのだから、もう現代音楽ではないんじゃないか──、
そういう受け止め方があるのはわかっているが、
「他人の顔」の〈ぼく〉は、レコード(録音物)で音楽を聴いている。

1963年に、ジュリアード弦楽四重奏団がバルトークの弦楽四重奏曲を録音している。
ジュリアード弦楽四重奏団は、その十八年後の1981年も録音している。

ジュリアード弦楽四重奏団の二つのバルトークを聴きくらべると、
そこから感じとれる気迫がずいぶん違って聴こえる。

1981年の録音は、1963年の録音よりも気迫が薄くなっている。
1963年のジュリアード弦楽四重奏団の演奏を聴いていると、
この時代、バルトークはまだ現代音楽だった、というふうに感じとってしまう。

同じ気迫を、私はアバドとポリーニによるバルトークのピアノ協奏曲にも感じる。
1977年の録音なのにもかかわらずだ。

そんなバルトークの聴き手である私は、〈ぼく〉の時代のころ、
バルトークは現代音楽であった、と思うわけだ。

Date: 4月 17th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その3・追補)

(その3)で引用している西条卓夫氏の文章に登場するM・Kは、
ラジオ技術の金井稔氏である、とある方から指摘があった。

金井稔氏なのかも、と思っていたけれど確証がなかっただけにありがたい。

Date: 4月 16th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その3)

松村夫人のことは、瀬川先生も、
ステレオサウンド 7号掲載「音は人なり」の中で触れられている。
     *
「音は人なり」という名言があるが、こと再生装置にかぎらず、精巧な機械になるほど、その持主の心を、あるいはそ置かれる環境を、素直に写し出すもののようである。
 この名言とともに、何かつけて思い出されるのは、福岡にお住まいのM夫人のクレデンザーの音である。
 夫人は、彼を「久礼夫さん」と呼んでおられた。この一事からも、並ならぬ可愛がりかたであったと想像頂けよう。金色のサウンドボックスも、HMV製のあの独特の白い竹針も、最上のコンディションで保存されていた。静かにハンドルをまわし、ピカピカのHMV盤に針を乗せる夫人のうしろ姿は凛として気品があった。それは恰かも、名器に向かう名演奏家の姿であった。
 こういう形で器機に接することのできる人は、女性にはまれなこと、と言ったら失礼な言い方になるかもしれないが、男にだってそうザラに居るわけではない。最初の一音を聴いただけで、クレデンザーが機械蓄音器の最高の名品といわれた所以に合点がいった。
 バイオリンでも、名人が奏きこむに従ってだんだんに音が良くなるそうだ。逆に、せっかく良く鳴っていた楽器でも、素人の手に渡ると一週間で鳴りが悪くなってくるという。M夫人の元で、ティボォ、コルトオ、ランドフスカの、しかも手入れのよいHMV本盤で鳴らしこまれたクレデンザーが、なみの器械の及ばない音で鳴っていたとしても不思議ではない。
 たとえ世界最高といわれた器械でも、たかが手捲蓄音器何ほどのことあるらんと、三極管パラPPのアンプに3ウェイのSPをひっさげて出かけた、十二年前のわたくしの高慢心は、クレデンザーの一音で砕け散った。単に音量感だけとっても、クレデンザーの方が格段に上だった。機械蓄音器から、ああいうたっぷりした音量が流れ出るものであることを、不覚にもそのとき初めて思い知らされた。しかしその後いくつかのクレデンザーを聴いたが、あの音量感、あの音質は別のクレデンザーには無いものだった。やはり奏き手も名人だったのである。今になってわたくしは確信する。あれは紛れもなくM夫人の音だったのだと。
     *
M夫人が、松村夫人である。
《クレデンザーの一音で砕け散った》とある。
この時、瀬川先生が松村夫人の元に持ち込まれたのが、
ラジオ技術 1957年10月号に発表されている
「30年来のレコード愛好家のために、バリスロープ・イコライザつき6F6パラPP・LP再生装置をつくる」
という記事に登場する装置である。

この記事は、こういう書き出しで始まっている。
     *
 本誌のレコード評に毎月健筆をふるっておられる西条卓夫氏から、氏の旧い盤友である松村夫人のために、LP装置を作るようにとのご依頼を受けたのは、まだ北風の残っている季節でした。お話を聴いて、私は少々ためらいました。夫人は遠く福岡にお住いですが、その感覚の鋭さ、耳の良さには、〝盤鬼〟をもって自他ともに許す西条氏でさえ、一目おいておられるのだそうで、LPの貧弱な演奏に耐えきれず未だに戦前のHMVの名盤を、クレデンザーで愛聴しておられるというのです。〝懐古趣味〟と笑ってはいけません。同じレコードを愛する私には、そのお気持が良く判るのでした。
 とにかく、限られた予算と、短かい期日の中で、全力を尽してみようと思いました。
     *
瀬川先生は、松村夫人のクレデンザを聴かれている。
西条卓夫氏はランドフスカの項では、瀬川先生のことも触れられている。
     *
 だが、録音されたランドフスカのクラヴサンの音は、SPの方がより良い味を持っている。最高級のアクースティック蓄音機でイギリス・プレスのSPを聴く際のあえかな美しさは、とても筆舌に尽くし難い。戦後派の選ばれたオーディオとレコード・ファンのM・KやI・Oの両君も、その法外な魅力には脱帽している。
     *
I・Oとは、大村一郎の頭文字で、瀬川先生の本名である。

Date: 4月 16th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その2)

グレン・グールドの二度目のゴールドベルグ変奏曲が出た時、
ラジオ技術の連載で、西条卓夫氏はそれほど高く評価はされてなかった──、
と記憶している。

ゴールドベルグ変奏曲はワンダ・ランドフスカの演奏にかぎる──、
的なことも書かれてあってと記憶している。

西条卓夫氏はランドフスカに熱をあげられていたことは、よく知られていた。

名曲この一枚」にも、ランドフスカのレコードは登場する。

ゴールドベルグ変奏曲のところで、こう書かれている。
     *
その一つにこの「ゴルトベルク」のSPがある。何しろ、ランドフスカが入れた大もののしかも稀代の名曲の初登場というので、知る限りの同好の士を招き、息づまるような雰囲気の中で聴いた。果然、そこには私たちのバッハ、本当の音楽が見出された。エネスコのバッハと同じく、最も好ましい。
 盤友のH・M氏夫人などは、これを聴いて命拾いまでしている。そのあらましはこうだ。
 三十年近くも前のこと、彼女は外科手術の予後が悪く、敗血症をひき起こした。早速Q大病院に入って加療に努めたが、とうとう危篤状態に陥ってしまった。特効薬のペニシリンやズルフォン剤がなかった当時のこととて、万やむを得ない成り行きだったといえよう。
 彼女は、主治医から「翌朝までは持つまい」といわれた当夜、日ごろ最も愛聴していたこのSPを、今生の思い出に病室でかけてもらった。開曲の「ありあ」が静かに流れ出すと、彼女の瞳は和やかな色を見せ、唇には微笑みさえ浮かべられた。そして、「第十一変奏曲」に入るころ、安らかな眠りに落ちて行った。枕許の人たちは、そとの清らかな臨終の姿に、思わず涙を新しくしたという。
 だが、一夜明けると、不思議にも病状は急反転して快方に向かい、間もなく本復してしまった。病院をあげて、これには全く唖然とするほかなかった。
 ランドフスカも、戦後私からの知らせで、非常に感動していた。バッハとランドフスカが生んだ現代の奇蹟として、特筆に値しよう。
     *
ここに出てくるQ大病院とは九大病院のことであり、
H・M氏夫人とは、松村夫人のことである。

ステレオサウンド 62号、「音を描く詩人の死」の中に松村夫人のことが触れられている。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: 世代

世代とオーディオ(実際の購入・続々ヤフオク!)

facebookに、
“SAE Scientific Audio Electronics Fans & Collectors Group”というグループがある。

SAEのファン・グループである。
私も参加している。
日本のオーディオのグループには参加していない私も、
海外のオーディオのグループのいくつかには参加している。

このSAEのファン・グループの参加者の一人で、
SAEの製品のメインテナンスを積極的にやっている人がいる。

けっこうな写真とともに、今回は、この製品をメインテナンスした、
という投稿がある。

この人は徹底的にメインテナンスをやる人だ。
この人だったら、安心してまかせられる。
日本からの依頼もあった、という投稿がつい最近あった。

そうだろうな、と思う。
私は自分でやることも楽しみとして、
昨年SAEのMark 2500を落札した。今年はGASのTHAEDRAを落札している。

ふところに余裕があれば、私もこの人にまかせたい、と思っている。
そして、この人と同じレベルでメインテナンスされているのであれば、
メインテナンス済み、オーバーホール済みと堂々と謳っていい。

ヤフオク!に限らないのだが、
中古を取り扱うオーディオ店も含めて、
完全メインテナンス済みとあったりする。

実際に、そういっているだけであって、確かめようはない。

私はMark 2500、THAEDRAの落札金額を、ここに書いているのは、
ほんとうの意味(レベル)でメインテナンスされていない数十年前のオーディオ機器は、
手に入れてから時間もお金もかかるし、
メインテナンス済みということがあやしい中古品の相場が高いと感じているからだ。

SAEのファン・グループの人と同じレベルのメインテナンスか施されたモノであれば、
それそうとうの価格がついていても当然なのだが、
くり返すがどうにもあやしいメインテナンス済みが少なくないように感じている。

Date: 4月 15th, 2022
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その14)

(その13)に、facebookにコメントがあった。

そこに妄想アクセラレーターとあった。
十年ほど前に、何度か使っている。

今回のセレッションのDitton 15のユニットたちは、
まさにこの妄想アクセラレーターをONにした。

妄想アクセラレーターは、ちょっとしたきっかけがあれば、
わりと簡単にONになってしまう。
場合によっては、そのままON状態がずーっと維持されることもあるけれど、
妄想をどこまでも細かくあれこれ考えていると、それで落ち着くことがある。

今回はDitton 15のネットワークの写真が、
妄想アクセラレーターをONにした、といえる。

そのDitton 15のスピーカーユニット群は、誰かが落札していた。
私は入札しなかったので、惜しいとか、そういう感情はわいてこない。

あれこれ妄想するだけで何が楽しいのか、と思われるかもしれないが、
実際にDitton 15のスピーカーユニットを手に入れたとして、
どうやってスピーカーシステムとしてまとめて仕上げるのか。

そのことを自分の製作の力量の範囲内でどうやるのか、
予算はどの程度にするのか、
自分の力量、予算も無視するとしたら、どこまでやれるのか、
そんなふうにいくつものパターンで妄想していく。

実際の工程ももちろん細かなことまで妄想していく。
そうすることで勉強になることは、意外に多い。

いまはiPhoneがあれば、あれこれ、いろんなことをすぐに検索していける。
エンクロージュアの作り方にしてもそうだ。
実際の木工をどうやるのか。

そのことに関しても、インターネットの検索結果が妄想をさらにふくらましていく。
それで数時間。充分におなかいっぱいになる。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: Maria Callas

マリア・カラスは「古典」になってしまったのか(その4)

4月になってからTIDALで集中的に聴いているのは、
ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手である。

手あたり次第とまではいかないものの、それに近い感じで、
とにかくどこかで名前を目にした歌手を検索しては聴いているところだ。

前々から気になっていたことなのだが、
最近では大手のレコード会社からレコード(録音物)を出しているからといって、
必ずしも実力が伴っているとはいい難い。

ソプラノ、メゾ・ソプラノ歌手でも、そう感じた、というよりも、
ピアニスト、ヴァイオリニストなどもよりも、より強くそう感じた。

なぜ、この歌手が大手のレコード会社からデヴューできているのに、
この歌手はそうでないのか──、そう感じる。

大手のレコード会社から華々しく登場した歌手のほうが、
あきらかに実力不足の感が否めなかったりする。

勘ぐった見方をすれば、その歌手の出身国で売りたいからなのだろう。
そういう売り方(レコードの制作)を否定はしない。

クラシックにおいて、売れるモノがあるからこそ、
売行きは見込めないけれど──、という企画が実現できたりするからだ。

そういった歌手が誰なのかは、はっきりと書かないけれど、
最近のドイツ・グラモフォンは、ややあからさまのように感じている。

今回、集中的に聴いてあらためて、その歌のうまさに凄さを感じるのは、
サビーヌ・ドゥヴィエルだ。

カテリーナ(カタリーナ)・ペルジケ (Katharina Persicke)もいい。
TIDALでは二枚のアルバムしか聴けないが、
どちらを聴いても、どこにも無理を感じさせない歌唱は将来が楽しみである。

他にも何人か注目したい歌手が見つかった。
その人たちについて書きたいのではなく、
ここでのタイトルである、
マリア・カラスは「古典」になってしまったのか、についてである。

Date: 4月 15th, 2022
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その11)

黒田先生は、「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
GASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところでも、
その10)で引用したことと関係する発言をされている。
     *
黒田 ぼくは非常にほしくなったアンプです。まず、瀬川さんはこのアンプの音を男性的とおっしゃったけれども、それに関連したことから申し上げます。これはぼくだけの偏見かもしれないけれど、音楽というのは男のものだという感じがするんです。少しでもナヨッとされることをぼくは許せない。そういう意味では、このシャキッとした、確かに立派な音といわれた表現がピッタリの音で、音楽を聴かせてもらったことにぼくは満足しました。
     *
今の時代、誤解される発言となるかもしれない。
今の時代の風潮に敏感であろうとすることだけに汲々としている編集者ならば、
24号に書かれたこと、
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言、
どちらにも訂正をいれてくるだろう。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での発言だけでは、
そうなるかもしれないが、24号での文章もあわせて読んでほしい。

そこには、こう書いてある。
《もし音楽においても男の感性の支配ということがあるとしたら、これはその裸形の提示といえよう》
ここはほんとうに大事なことである。

そして《その裸形の提示》においての鮮度ということが、再生音にはある。