Archive for 3月, 2022

Date: 3月 16th, 2022
Cate: ディスク/ブック

きみの朝

昨晩、e-onkyoのサイトを眺めていたら、
邦楽のシングルランキングに、岸田智史の「きみの朝」が入っていた。

「きみの朝」が流行っていたころは高校生だった。
いまはテレビのない生活を送っているけれど、当時は実家暮らしでテレビもあった。

「きみの朝」はテレビの音楽番組から流れてくるのを何度か聴いている。
でもシングル盤を買って聴こうとは思わなかった。
それでもe-onkyoでランキングに入っているのを見て、ひさしぶりに聴きたくなった。

「きみの朝」は、だから昨晩ほぼ四十年ぶりに聴いた。
TIDALにあったからだ。
MQA Studio(44.1kHz)で聴ける。

懐しいなぁ、という思いから聴いたわけなのだが、
音がよくて、ちょっと驚いてしまった。

最初、最近録音しなおしたのか、新しい録音なのか、と思ったほど、
いい感じで鳴ってくれる。

「きみの朝」が収録されているのは“Morning”というアルバムなのだから、
流行っていた当時の録音である。

きっかけはどうであれ、「きみの朝」を聴いてよかった。

Date: 3月 15th, 2022
Cate: 録音
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録音は未来/recoding = studio product(その7)

金田明彦氏と同じコンセプトを謳う録音は、市販されているもののなかにもある。
できるかぎりシンプルな信号経路と、
そうやって録音したマスターを、まったくいじることなく出荷する。

そういうコンセプトのレーベルは、いくつかある。
つまりマスターの音そのままを、できるかぎり聴き手のところに届ける、というわけだ。

そうすることで、鮮度の高い音を届けることができる──。
でも、これはstudio productといえるだろうか。

実演のコピーにしかすぎない。
私はそう考える。

もちろん人によって、このところの受け止め方、捉え方は違ってくる。

いまはデジタル時代だから、
マスターに記録されたデジタルデータそのままを、
自分のところに届けてくれれば、それこそが最高である──、
そういう捉え方はできる。

こう考える人たちは、マイクロフォンが捉えた空気の振動を、
できるだけそのままに届けてほしい、という人たちなのだろう。

いまはそれが可能になりつつある時代でもある。

そういう録音に、まったく興味がないのかと問われれば、
興味はある、とこたえるし、最新の、そういう録音を聴いてみたい、とも思っている。

けれど、それは興味本位のところが、私の場合は、強い。
私が求めているのは、実演のコピーではなく、どこまでいってもstudio productである。

studio productであるからこそ、再生側のわれわれは音量ひとつとっても、
自由に設定できるということを、
実演のコピーを求めている人たちは、忘れているのか、見落しているのか。

Date: 3月 14th, 2022
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その10)

別項で紹介している「リバーエンド・カフェ」を読んで思ったことは、
オーディオ雑誌は、川のような存在だということ。

川の終りは海への入口である──、
そんなセリフが「リバーエンド・カフェ」の中に出てくる。

海に出て行くため、
つまりオーディオという海へ導くため、
そして海を冒険していくのに必要なことを伝えるため、
オーディオ雑誌に限らず、趣味の雑誌というものはそういうものだと思った。

海に出るために、どの川を通ってくるのか。
それは人によって違う。

海に出ることができたら、冒険していけばいい。
冒険することで、オーディオという趣味の広さ、深さを知ることができる。

なのに、いまのステレオサウンドは川の終り(海への入口)に港をつくっている。
ステレオサウンド港といいたくなる。

そこに川を下ってきた人を留めておくためにだ。

Date: 3月 14th, 2022
Cate: 「オーディオ」考

オーディオにおける「かっこいい」とは(その6)

facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」。

岩崎先生の試聴風景の写真とか、その他を頻繁に更新していたころ、
「昔のオーディオ評論家はかっこよかった」というツイートがもらったことがある。

私と同世代の男性からだった。

(その5)へのTadanoさんのコメント。
     *
私が思うカッコイイはこれですと見せてくれたのは宮崎さんの管理するfacebookの岩崎千明のページでした。彼女自身の言うところ、「この時代はイケメンぞろい。というかイケメンしかいない。私が言いたいのは生き様を含めてのカッコイイ。その道に打ち込んでいたり、情熱を感じる、そういう目に見えない大切な心の部分が、滲み出しているかということ。これは求めていないけれど、茶道や剣道などと同じように、音の道を行く人であれば更になお。」
     *
世代も性別も違っても、やはり岩崎先生をいまもかっこいいと思う人たちがいる。
私の友人もそう思っているし、
あの時代、岩崎先生と一緒に仕事をしてきたオーディオ関係者の人たちも、
岩崎先生のことをそう思っている。

岩崎先生だけではない。
あの時代、みんなそうだった。

いまはどうだろう……。
こんなこと書きたくないのだが、
ステレオサウンド 221号のステレオサウンド・グランプリの選考委員の集合写真、
オーディオアクセサリー 184号の特集で掲載されている写真、
それからステレオサウンドの最近の試聴風景の写真、
かっこいいとは到底思えない。

オーディオ雑誌だけではない。
オーディオマニアのなかには、自身のことをオーディオオタクという人もいる。
さらには略して、オーオタ(オーヲタ)という人までいる。

オーディオをかっこいいと思っていないからなのだろう。
それにしても、である。

なぜ、自信をもってオーディオマニア、レコード演奏家、オーディオファイル、
そういえないのだろうか。

Date: 3月 13th, 2022
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→玄音)

玄音──、弦音ではなく玄音。

玄を辞書で引くと、
(1)黒い色。黒。
(2)天。「黄に満ち──に満てり/三教指帰」
(3)老荘思想の根本概念。万物の根源としての道。
(4)奥深くて微妙なこと。深遠な道理。「──を談じ理を折(ヒラ)く/太平記 1」
とある。

こんな「げんおん」の当て字もあっていいように思う。

Date: 3月 13th, 2022
Cate: 「オーディオ」考
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オーディオにおける「かっこいい」とは(その5)

別項「情景」(その10)」に、Tadanoさんのコメントがあった。

そこに、この項に関係してくることがある。
    *
 一般の芸能ファンの女性に「このステレオで聴けば、君の大好きな西条クンの塗れた唇が、すぐそこに現れてくるよ。」「ほらほらほら見てごらん。わー、すごい・・・、光る汗が見えるようだね。」「あー、すごい!ツイーターとツイーターを結ぶこの中央の位置で聞いてごらん、あふれ出す煮汁のように西条クンの汗が噴き出して見えるよ」などとそそのかして聞かせたとしても、それはそれは煙たがられるわけです(笑)。
 私のパートナーに言わせると「菅野沖彦くらい色男が言うのならば許されるが、クリープなマニアたちに言われたらぞっとする」のだそうです。彼女はZ世代のまったく新しいオーディオ・ファイルですが、21世紀のオーディオ・ファイルに一番言いたいことは「たのむからカッコつけて」ということでした。また、こうも言います。「ライダーマンのマシンが何キロ出るとか、どのジェダイが一番強いのかと論じている男の子は確かにかわいい。だけど、私たち(女性)はそこに着目しない。そうではなく、なぜライダーマンは半分人間なのか、ルークはどんな悲しみを背負っているのかという話が聞きたい。」
     *
Z世代とは、1990年代中盤から2010年代序盤までに生れた世代のことだから、
Tadanoさんのパートナーは、若い女性だ。

そのTadanoさんのパートナーが「たのむからカッコつけて」と、
21世紀のオーディオファイルにいいたい、とある。

オーディオがカッコいい、とは思っていないというオーディオマニアもいる。
意外と多いようにも感じている。

その3)で書いているように、
オーディオの普及のためには、
オーディオを何も知らない人がみて、かっこいい、と思われないとダメだ──、
そんなことをソーシャルメディアに投稿している人もいる。

かっこいい、と思われないとダメだ、という人が思っているかっこいいと、
Tadanoさんのパートナーが感じるかっこいいとは同じではないように思う。

それに──、いくつかの例をあげようと思ったけれど、ばっさり省いてしまった。

いくつものズレを感じてしまう。

Date: 3月 13th, 2022
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その15)

昨年12月、「2021年をふりかえって(その17)」を書いた。

オーディオマニアがオーディオ機器を購入する。
そのオーディオ機器が自宅に届くことを、着弾と表現するのは、
違和感をおぼえることでしかなかった。
そのことを書いている。

昨年は着弾を目にすることが多かった。
私がソーシャルメディアでフォローしている人もだが、
そのフォローしている人がリツイートしている投稿でも、何度も見かけた。

今年は、それが増えていくことだろう……、と昨年末は思っていた。

いまのところ、あまり見かけていないどころか、
2月24日以降、まったく見かけていない。

私が眺めている範囲においてではあるのだが、着弾という表現を使う人はいない。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その28)

いまあなたの目の前にあって、音を鳴らしているスピーカーは、
あなたにとって良友なのか、それとも悪友なのか。

悪友といえるスピーカーを鳴らしてきた人と、
悪友といえるスピーカーとは無縁のオーディオを送ってきた人。

どちらがしあわせなのだろうか。
いや、どちらが不幸なのだろうか。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景
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情景(その10)

グラシェラ・スサーナの歌が、私に情景を見せてくれる。
だからといって、他の人もそうだとは思っていない。

人それぞれだから、グラシェラ・スサーナではなくて、別の歌手だったりするし、
その歌で描かれている情景なんて浮ばない──、という人もいて当然だし、
情景が浮ぶことが音楽の聴き手として優れているとも思っていない。

ただ私にはグラシェラ・スサーナは、そういう存在であった、
そしてメリディアンのULTRA DACでMQA再生によって、
いまもそういう存在である、といえる──、それだけのことだ。

私は昨年から、心に近い音についてしばしば書いているのは、
このことがあってのことだ。

音を追求してきて、グラシェラ・スサーナの歌から情景を失ってしまった。
そのことに気づき、ULTRA DACとMQAとの出逢いがあった。

他の人はどうだか、私はわからないが、
すくなくとも私に限っては、耳に近い音を追求した結果、
情景を失ってしまった、といえる。

心に近い音といっても、なかなかに理解しがたいかもしれないが、
私にとってのグラシェラ・スサーナのように、
その歌が描いている情景を見せてくれる歌手をもつ聴き手ならば、
心に近い音がどういう音なのか、いつかわかると思う。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その9)

グラシェラ・スサーナの歌が、
ハイ・フィデリティ再生になるほど──、といったことを書いているが、
ここでのハイ・フィデリティ再生とは、情感たっぷりに歌ってくれることでもある。

私の目の前でグラシェラ・スサーナ本人が歌っているかのような、
しかも情感豊かな歌を聴かせてくれようとも、
情景が浮んでこない、という状況をどう受けとったらいいのだろうか。

結局、ラジカセでミュージッテープを聴いていたときの情景は、
私が勝手につくりあげた妄想、もしくは錯覚だったのか。

そのことを確認したい、という気持があって、
ヤフオク!でグラシェラ・スサーナのミュージックテープ、
それも中学生のころ聴いていたミュージックテープが安価で出品されていたら、
入札しては手に入れていた。

五本ほど集まった。
でもラジカセを買うまでにはいたらなかった。
買おうかな、と思って、量販店のラジカセのコーナーを何度か見てまわったことはある。

まったく食指が動かなかった。
だからといって昔のラジカセを探し出してまで買おう、という気もなかったのは、
もしかすると情景が浮ばなくなったのは、こちら側のせいなのか。
ようするに老化してしまったからなのか……。

けれどそうでないことを確認できた。
2018年9月8日、audio wednesdayで、
グラシェラ・スサーナのMQA-CDを.メリディアンのULTRA DACで聴いて、
そうでないことを確認できた。

情景がふたたび浮んできた。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その7)

その4)で、マンガ「リバーエンド・カフェ」について書いた。
1月3日の時点では、全九巻中四巻までがKindle Unlimitedが読むことができていた。

昨晩、ふと見たら九巻までKindle Unlimitedで読めるようになっている。
いつからそうなったのかはわからない。
昨日からなのか、もう少し前からだったのか。

「リバーエンド・カフェ」は2010年3月11日から始まる物語だ。
だからなのかもしれない。

Date: 3月 11th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その8)

ラジカセからコンポーネントになり、
モノーラルからステレオになり、音はよくなっていく。

唇の動きが、舌の動きまでわかるようだ、という表現がある。
音がよくなっていくと、そういう感じが現出してくるようになる。

歌っている表情すら目に浮かぶような感じにもなっていく。
これらは音がよくなっていっていることの確かな手応えである。

けれど、これらはすべてグラシェラ・スサーナがスタジオで歌っているシーンを、
できるだけハイ・フィデリティに再生(再現)しようとする方向である。

間違っているわけではない。
グラシェラ・スサーナはライヴ録音以外はスタジオで録音しているのだから、
それらの録音がそういうふうに鳴ってくれるということに、
何の文句をいうことがあろうか。

けれど、そんなふうにグラシェラ・スサーナの歌がなってしまうとともに、
いまふり返ると、聴く時間が減ってきた。

ハイ・フィデリティ再生になればなるほど、
情景が浮ばなくなってくる。

このことは音に関係しているのか。
ラジカセので聴いてきた時に、そう感じていたのは、
聴き手である私の勝手な妄想にすぎない──、そうともいえることはわかっている。

けれど確かに、あのころは情景が浮んでいた。

Date: 3月 10th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合)

20世紀の場合、
ベルリンの壁の崩壊の約一ヵ月後の1989年12月25日に、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮した。

21世紀の場合を考えてしまう。
オクサーナ・リーニフ指揮の「第九」がそうなってほしい。

オクサーナ・リーニフは、2021年、バイロイト音楽祭で「さまよえるオランダ人」を指揮している。
バイロイト音楽祭初の女性指揮者である。

オクサーナ・リーニフはウクライナの女性。
リーニフ指揮の「第九」がウクライナで響き渡る日。

私は、そんな21世紀の「第九」を聴きたい。
そういう日がくることを祈っている。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その7)

いわゆるコンポーネントステレオで、LPで、
グラシェラ・スサーナを聴くようになって、
確かにステレオになったし、ラジカセとは比較にならない音で聴けるようになった。

さらにカートリッジを買い替えたり、ケーブルを交換したり、
スピーカーのセッティングをあれこれ試してみたりしながら、
音は少しずつ良くなってくる。

それにともないグラシェラ・スサーナの歌(声)もよく聴こえるようになる。
そのことが嬉しかった。

ステレオサウンドで働くようになってからは、
使えるお金も学生時代とは比較ならぬほど増えるわけで、
システムも高校生のころとは、まったく違う。

音は良くなってきた。
スタジオで歌っている感じの再現は、ラジカセ時代では無理だった。
つまりラジカセよりも、ハイ・フィデリティになってきているわけだ。

なのにグラシェラ・スサーナを聴くことが減っていった。
聴く音楽の範囲が拡がっていくのにともない、聴く時間は限りがあるわけだから、
それも自然なことと、当時は思っていた。

けれどステレオサウンドをやめて、それからいろいろあってシステムをすべて手離した。
そのあたりから気づいたことがある。

グラシェラ・スサーナの歌から、情景が消えていたことに気づいた。
ラジカセで聴いていたころに、あれだけ浮んでいた情景を、
どこかでなくしてしまったようである。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 書く

毎日書くということ(たがやす・その3)

このブログを終りにすると決めてから、
これまでどれだけたがやしてきたのだろうか、とふと考える。

同時に、新しいブログを始めるということは、
たがやすという視点ではどういうことなのだろうか、とも考える。

たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

(その1)、(その2)で書いたことをまたくり返している。

audio identity (designing)を始めるときには、たがやす、という考えはなかった。
五年ほど書いてきて、たがやすということに気づいた。

新しいブログは、最初から、そのことを意識してのスタートとなる。