2020年のaudio wednesdayの予定
12月4日のaudio wednesdayは、趣向をかえて、
写真家の野上眞宏さんのDJによる四時間だった。
聴いているわれわれもDJの野上さんも楽しかった一夜だった。
またやりましょう、ということになる。
2020年は、数回、誰かにDJをやってもらう予定でいる。
野上さんにはまたお願いするし、ほかの方にもお願いするつもりでいる。
野上さんの選曲を聴きながら、
「オーディオと偏愛」について、何か書いていこうかな、とも考えていた。
12月4日のaudio wednesdayは、趣向をかえて、
写真家の野上眞宏さんのDJによる四時間だった。
聴いているわれわれもDJの野上さんも楽しかった一夜だった。
またやりましょう、ということになる。
2020年は、数回、誰かにDJをやってもらう予定でいる。
野上さんにはまたお願いするし、ほかの方にもお願いするつもりでいる。
野上さんの選曲を聴きながら、
「オーディオと偏愛」について、何か書いていこうかな、とも考えていた。
令和初日(5月1日)が、ちょうどaudio wednesdayの100回目だった。
例話最初の元日が、108回目になる。
1月1日が次回の開催日である。
しかも108回、一般的にいわれる煩悩の数とぴったりの回が元日と重なっている。
テーマはまだ決めていないし、
1月1日に来る人もかなり少ないだろうが、音を鳴らしていく。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
12月4日、audio wednesdayでの、野上眞宏さんによるプレイリスト。
(基本的に表記はShazamに従っている)
ボエーム/カラヤン、ベルリンフィルハーモニー、パヴァロッティ、フレーニ
Purple Haze/クロノスカルテット
フォクシー・レディ/The Jimi Hendrix Experience
マヨネーズ/スマッシング・パンプキンズ
Rid Of Me/PJハーヴェイ
Young Blood/リッキー・リー・ジョーンズ
Maggie May/ロッド・スチュワート
かくれんぼ(ライヴ)/はっぴいえんど
かくれんぼ/はっぴいえんど
おもい/大滝詠一
指切り/大滝詠一
びんぼう/大滝詠一
あつさのせい/大滝詠一
In My Room/宇多田ヒカル
Final/Wolfgang Capek
Love/メアリー・J.ブライジ
りんどう峠/島倉千代子
僕は泣いちっち/守屋浩
悲しき口笛/美空ひばり
リンゴ追分/美空ひばり
4つの最後の歌/エリザベート・シュヴァルツコップ
バラの騎士/カルロス・クライバー(1974年ライヴ)
歌に生き、恋に生き(トスカ)/マリア・カラス
歌に生き、恋に生き(トスカ)/レナータ・テバルディ
私のお父さん(ジャンニ・スキッキ)/レナータ・テバルディ
The Thrill Is Good/チェット・ベイカー
Time After Time/チェット・ベイカー
クライ・ミー・ア・リヴァー/ジュリー・ロンドン
I Should Care/ジュリー・ロンドン
Can’t Help Lovin’ Dat Man/ジュリー・ロンドン
Make Love To Me/ジューン・クリスティ
Something Cool/ジューン・クリスティ
Born To Die/ラナ・デル・レイ
Seventeen/Ladytron
Riot In Lagos/坂本龍一
マッドメン/Y.M.O.
シムーン/Y.M.O.
Zombie Land/FLXXX
Blue/ジョニ・ミッチェル
Woodstock/ジョニ・ミッチェル
All Is Full Of Love/ビョーク
Serious/ダフィー
ピープル/バーブラ・ストライサンド
追憶/バーブラ・ストライサンド
Eleanor Rigby/ビートルズ
チェロ協奏曲(エルガー)/ジャクリーヌ・デュ=プレ
昨晩のaudio wednesdayは、野上眞宏さんによるDJ一夜だった
MQAで始まり、MQAで終った。
始まりの曲は、カラヤンによるボエーム。
終りの曲は、ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲だった。
ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーは、いわば愛聴盤である。
愛聴盤といっても、ほかの愛聴盤とは、どうしても思い入れが違うところがある。
だから、愛聴盤と誰かにいうのに、すなおにそういえないところを感じてしまう。
これまでジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーを、
喫茶茶会記で鳴らそうとおもったことはなかった。
理由は、うまく鳴ってくれそうにないからである。
アルテックのスピーカー(音色)で、
ジャクリーヌ・デュ=プレのチマロがうまく鳴ってくれるとは思っていない、
そういうところが私にはある。
そうであれば、うまく鳴るようにしろ、といわれそうだが、
ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーは、そんなふうには鳴らしたくないだけである。
昨晩の野上さんの選曲だった。
MQA-CDをリッピングしての再生だった。
D/Aコンバーターはメリディアンの218である。
前回からさらにちょっと手を加えている218である。
うまく鳴りそうになければ聴かないという選択肢もあった。
けれど、うまく鳴ってくれそうな予感はあったし、そのとおりだった。
二楽章で終えずに、三楽章も聴いて、四楽章、最後まで聴いた。
(その3)で、中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」から引用した。
《デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だった》とあった。
昨晩の音は、そんな音とはまるで違っていた。
だからこそ最後まで聴いた。
情報量ということでいえば、
オーディオの世界だけでなく、社会全体で増えていっていることだけは確かである。
電車に乗れば、周りの人のほとんど、といっていいほどに多くの人が、
スマートフォンで何かしら見ている。
ドアの上部には液晶画面がついていて、なんからの映像が常に流れている。
目的地につけば、自動改札機にも広告が貼られていることが増えている。
いろんなところにいろんな情報が氾濫している。
情報の波(渦)に、大都市になればなるほど晒されている、といっていい。
それからテレビにしても、従来の走査線とは比較にならないほど増しているということは、
それだけ情報量が増えているということである。
新聞の写真にしても、昔はモノクロの粗いものでしかなかったのが、
カラーになり粗さも減っている。
こんなふうにいろんなところで情報量は確実に増していっている。
オーディオの世界では、ハイレゾリューションの登場がまさにそうである。
その一方で、カセットテープのブームもある。
カセットテープの音を聴くと、ほっとする、という記事も複数みかけている。
この、ほっとするは、もしかすると情報量が適度に少ないからなのではないのか。
情報量の多さに、知らず知らずのうちに疲弊しているのかもしれない。
そこに昔馴染んでいたころの適度な情報量で、
音楽を聴けるのがカセットテープという捉え方もできる。
18のときに、SMEの3012-R Specialを買った。
何度も書いているようにステレオサウンド 58号での瀬川先生の文章を読んでから、
このトーンアームが、私が望む音を出すためには絶対に必要なモノという思い込みがあった。
しかも当時の広告には、限定とあった。
どうにかして手に入れなければならない。
当時の価格は、88,000円だった。
それでも18の私には高価だった。
16の時に、サンスイのAU-D907 Limitedを買っている。
約二倍ほどの価格だったが、修学旅行に行かずに積立金と、
新聞配達で貯めたお金をあわせて、一括払いで買った。
でもSMEの時には、そういう手はなかった。
分割払いで買うしかない。
初めての分割払いである。
頭金は五千円くらいしか払えなかった。
それでもなんとか買うしかない、と意気込みだけはあった。
東京で、はじめてのオーディオ店で、見つけた。
これを買うしかない、これを逃したら……、
とにかく店員に声をかける。
もうこれだけでどきどきしながらの行動だった。
確か12回払いで買った。
秋葉原から、当時住んでいた三鷹まで電車で持って帰る。
袋に入っているから、周りの人には何を持っているのかはわからないが、
それでも、「今日からSMEオーナーだ」と誇らしい気持になっていた。
そういう買い方から、東京でのオーディオが始まった。
当時は、こういう買い方しかできなかった。
いまはどうだろうか。
さらにいえば、買うことも体験である。
近所コンビニエンスストアやスーパーでの買物ではなく、
分不相応と周りからいわれるモノを買うのは、一つの体験である。
高額品ではなく、きちんとした高級品、一級品のモノを買うのであれば、
高級店、一流店と評判の店で買う──、
これは体験と感じない人はいない、と思うのだが。
高額なモノだけを扱っているだけの店、
一流店とはいえない店で買うのも体験といえばそうなるのだが、
ここでの「体験」とは違ってくる。
オーディオも、東京ではトロフィーオーディオ屋としかいえない店もある。
そういう店かきちんとした店なのか、それを見極めることも含めて体験である。
1995年にロードバイク(自転車)を買う時が、私にとってはそうだった。
初めてのロードバイクである。
いい店で買いたいから、東京の自転車店だけでなく、神奈川、埼玉の店もいくつも行った。
そうやって店を決めた。
これでよかった、といまでも思っている。
きちんとした店で買うことによって、そこでの人との出会いがきちんとあるからだ。
明日(4日)のaudio wednesdayは、急遽予定変更して、
写真家の野上眞宏(マイク野上)さんにDJをやっていただくことになりました。
昨晩、野上さんたちと会っていて「DJ、やりたいな」という話になり、
こういうことは早めにやったほうがいいと思い、明日やることになりました。
野上さんのDJで進行しますが、あいまあいまに主値になったCDもかけていきます。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
数日前、ハタチぐらいの若者数人による座談会が、
インターネットの記事になっていた。
テーマは「若者のお金の使い方」についてだった。
ほぼ全員、いわゆるモノを買うのには、あまり興味がない、
モノより体験にお金を使う、とあった。
体験とは、スポーツ観戦だったり、音楽のライヴも含まれるし、
映画館に行くのも、テーマパークに行くのもそうであろう。
この若者たちに、司会者は訊ねなかったのか、と思うことがある。
クルマは確かにモノである。
高価なモノである。
けれどクルマは買ってオシマイ、というモノではない。
クルマを運転するという体験ができる、
運転して、どこかに行ける、ということも体験である。
オーディオもそうだ。
この座談会に登場したハタチぐらいの人たちにとっては、
われわれが購入するようなオーディオ機器は、高価過ぎるということになろう。
しかも高価過ぎるモノでしかないのだろう。
われわれはオーディオ機器というモノを買っているが、
けれどオーディオで音楽を聴く、ということは体験である。
音楽ライヴでは、一度きりの体験である。
オーディオでの音楽は、くり返し体験できるからこその発見がある。
クルマやオーディオは高価だけど、たとえばTシャツでもいい。
Tシャツのいちばんいいのが、どれだけするのかしらないが、
数千円出せば、いいTシャツが買えるはずだ。
ユニクロのTシャツも悪くはないが、
たとえば五千円ほどするTシャツを着れば、
その着心地の良さは驚くのではないのか。
これも体験である。
良質のモノは、すべて体験へとつながっていく。
今年最後のaudio wednesdayは、4日。
使用機材は前回とほぼ同じ。
メリディアンの218は、喫茶茶会記の218ではなく、
11月のaudio wednesdayで鳴らした218を使う。
前回と違うのは、218用の電源コードを新たにもっていくこと。
喫茶茶会記のスペースは、電源コンセントが少ない。
なので、アンプは音を出す部屋にあるコンセントからとっているが、
CDプレーヤーは、奥の部屋のコンセントからとっている。
なので、ここも自作の延長コードを使っている。
CDプレーヤーのMCD350用には、今年7mほどの長いコードを作り、
延長コードを介さずに、奥の部屋のコンセントから直接とるようにした。
218だけが延長コードを介していた。
今回は218用に長いコードを用意して、MCD350と同じで奥の部屋のコンセントから直接とるようにする。
MCD350のときも、このことによる音の変化は大きかった。
218でも同じ傾向の音の変化になるであろう。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
facebookでコメントがあり、
カッティングマシンを中心としたブログのURLがあった。
YAMADAN DISK RECORDINGS BLOGで、
2016年の「レコードカッティングマシンのこと(国産)」へのリンクであった。
このブログに掲載されている機種のなかで、ディスクルが、
私の記憶の中にあるモノとよく似ている。
たぶん、これであろう。
ソノシート用ではなかったが、モノーラル専用である。
価格もわかった。
そうなのだ、当時としてはかなり高額だった。
高校生には、ちょっと無理な価格だった。
上記ブログは、ディスクル以外のモデルも紹介されている。
Phonocutという機械が、SNSで話題になっている。
WIREDが『アナログ盤を自作できるマシンが、まったく新しい「レコードの時代」の到来を告げる』
という記事を公開している。
記事には、こうある。
《「Phonocut」は、家庭用としては初のアナログレコードのカッティングマシンだ》
WIREDの記事を書いている人は、私よりもかなり若い世代なのだろうか。
記事の内容そのものについての批判ではなく、
ただ上に引用した箇所について、ちょっと補足したいだけである。
Phonocutが家庭用としては初のカッティングマシンではない、ということだ。
私が高校生のころに、すでにあった。
オーディオメーカーから出ていたわけではなかった。
全国紙の広告に載っていた。
メーカー名は、もう40年ほど前のことで忘れてしまった。
Phonocutは10インチ盤だが、私が新聞広告で見た機械は、シングル盤専用だったと記憶している。
当時の新聞のモノクロの広告だから、写真も鮮明ではなかった。
技術的な説明がきちんと載っていたわけでもなかった。
ソノシート用だったのかもしれないが、
少なくともカッティングマシン、それも家庭用のそれであったことは間違いない。
これが家庭用として初のカッティングマシンだったのかどうかもわからない。
40年ほど前に、すでにそういう機械は日本にはあった、という事実だ。
ここでのテーマである「うつ・し、うつ・す」について考えていると、
音質と描写力の違いについて考えていることに気づく。
別項「富士山は見飽きないのか」で考えていることの一つと同じである。
小学生、高校生のころ、つまり10代のころは、
優れた写真の方が、優れた絵画よりも、
実際の風景に近い、と思い込んでいた。
それがいつしか変化していっていた。
世の中に、写真さながらの絵を描く人が登場し始めたことも関係している。
絵画のテクニックは、写実性ということでは、
おそろしく進歩しているのではないのか。
絵画の、そのへんの変遷について詳しいわけではないが、
SNSで、ときおり話題になる人の絵画のテクニックは、素直にすごい、と思う。
だから絵画よりも写真の方が……の意識が変ってきたわけではない。
むしろ風景の見方、というよりも見え方の変化が、私自身に生じてきたからである。
20代の終りごろ、ふと空を見て、絵画のようだ、と感じた。
その日以来、そう感じることが徐々に増えてきた。
こうなってくると、もう写真の方が……、とはおもえないようにもなってくる。
いまはiPhoneでも、写真の素人の私でも失敗することなく、
人に見せても恥ずかしくないレベルの写真は撮れるようになっている。
カメラの画素数の向上、それだけでなくソフトウェア的な処理の進歩などによって、
画質ははっきりと良くなっている。
良くなっているだけに感じるのは、描写力について、である。
iPhoneのカメラだと、
素人の私と、ほんとうにプロフェッショナルな写真家との腕の差は縮まるのか──、
そんなことはないように思う。
失敗することのあった以前のカメラとは、いまは違う。
それでも埋まらない何かとは、描写力なのか、と思うようになった。
そして写真よりも、名画といわれる絵画のほうが、
より実際の風景に近いと感じるのも、この描写力ということのはずだ。