Archive for 9月, 2018

Date: 9月 2nd, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(ULTRA DACを聴く・余談)

今井商事から始まったメリディアンの輸入元は、
その後ハーマンインターナショナル、アクシスになり、
現在のハイレス・ミュージックである。

ハイレス・ミュージック株式会社の英語表記はHi-Res Music Limitedである。
Hi-Resは、一般的にはハイレゾと呼ばれているが、決して語感のいい略語ではない。

別項「Hi-Resについて(その2)」で書いているが、
High Fidelity(ハイ・フィデリティ)の略語、Hi-Fiを、
誰もハイフィとはいわない。

略語の場合は、ハイファイである。
英語の専門家ではないけれど、Hi-Resをハイレゾと呼ぶのには違和感がある。
High Resolution(ハイレゾリューション)の略だから、ハイレゾは安直すぎるように感じていた。

Hi-Res Music(ハイレス・ミュージック)に、
ハイレゾに慣れてしまった人は違和感を感じるのかもしれないが、
私はハイレスのほうが、すっきりと受け入れられる。

Date: 9月 2nd, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(ULTRA DACを聴く)

まず訂正をしておきたい。

メリディアンの207を用意できる、と書いていたが、
207を貸してくださる方から勘違いだった、という連絡があった。
207ではなく206である。

207は、ジャンルとしてはCDプレーヤーということに一応はなるが、
そこに留まらない、当時としては意欲的なコンセプト、
ただ人によっては、余計な機能を……、と捉えていた、と思う。

形式としてはセパレート型CDプレーヤーとなるが、
一般的なセパレート型ではなかった。
トランスポートとD/AコンバーターはSPDIFで接続されるのではなく、
多芯ケーブルとコネクターによるもので、
D/Aコンバーターユニットには、アナログ入力端子を備えていた。

別売のフォノモジュールも搭載可能だった。
TAPE OUTももち、CDプレーヤーとしての出力は固定と可変があった。

CDプレーヤーに簡易的コントロールアンプの機能をもたせた、ともいえるし、
1970年代以前は、チューナー付きコントロールアンプが、数社から出ていた。
このチューナーをCDプレーヤーに置き換えた、ともいえよう。

206は、この207からコントロール機能を取り除いたCDプレーヤーである。
CDプレーヤーとしての性能、音は207と同等のはずだ。

9月5日のaudio wednesdayには、
メリディアンの輸入元ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎氏も来てくださる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 9月 2nd, 2018
Cate: Jazz Spirit

二度目のナルシス(その2)

ナルシスが今の場所(東京都新宿区歌舞伎町1-13-6 YOビル2F)に移ったのは1978年(らしい)。
40年である。

行けばわかる、古い建物の二階にナルシスはある。
トレイは和式だし、床はタイル張り。
店内にはピンクの公衆電話があった。
Free Wi-Fiなんてものはない。

どっぷり昭和である。
だから、いい、といいたいのではない。

金曜日の別れ際に野上眞宏さんが「ナルシス、最高!」といわれた。
そうだろうとおもう。

ナルシスは堅苦しいジャズ喫茶ではない。
ジャズがかかっていても、おしゃべりしてもいい。

ナルシスにいるときに野上さんは、
「(時代的には)ヒッピーの前のビートニクだね」といわれた。

こういう感覚、捉え方は私にはなかった。

ナルシスは一人で行っても楽しいだろう。
でも、誰かと一緒に行くと、より楽しいはずだ。

前回のナルシスは四年前。
その後、一人でナルシスに何度か通っていたとしても、
「ヒッピーの前のビートニクだね」とは感じなかった、とおもうからだ。

Date: 9月 1st, 2018
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その6)

左ききのエレン」というマンガがある。

「左利きのエレン」のリメイク版だそうだ。
元の「左利きのエレン」は読んでいないし、知らなかった。

インターネットで土曜日に一話ずつ公開される。
土曜日になった瞬間(つまり午前0時)に更新され公開される。
20ページ程度のマンガなのだが、楽しみである。

43話が公開されている。
ここにも自画像ということばが登場する。

主人公の山岸エレンは、圧倒的な才能をもつ絵描きである。
そのエレンが、43話以前の数話で、岸あかりというモデルと出逢う。

43話の一ページ目には、
 似ているモノが
 2つ並べば
 似ている所より
 違う所が
 目につくものだ
というモノローグがある。

オーディオでも、同じだな、と思いながら、読んでいた。
43話の終り、山岸エレンが岸あかりにいう。

 私と
 お前は
 似ている……

 でも
 まるで違う
 その違いを知りたい

 ずっと避けていたけど……
 お前を通じてなら
 ちゃんと
 描ける気が
 したんだ

 自画像

「左ききのエレン」の43話の山岸エレンのセリフは、
私にとって「音による自画像」についての答だと思った。

そうか、そういうことだったか、と思うと同時に、
これもまた、次の瞬間に問いへとなっている。

Date: 9月 1st, 2018
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その5)

「音による自画像」は、「天の聲」のなかにも出てくる。
「音による自画像」という文章が「天の聲」に収められている。

つまり「音による自画像」を少し手直しされたものが、「五味オーディオ教室」に載っているわけだ。
古くからの五味先生の読者であれば「音による自画像」を先に読まれているだろうし、
「音による自画像」だけを読まれているかもしれない。

私は「五味オーディオ教室」を先に読んで、それから数年後に「音による自画像」という順だった。
「音による自画像」は、こう終っている。
     *
 音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、時には倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりになるだろう。音譜が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。ほかでもない私自身の顔を知りたいからである。
     *
「五味オーディオ教室」でも、このところはほぼそっくりある。
けれど、少し違うところもある。
     *
 音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、ときには倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうメタフィジカルなものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりにはなろう。音譜が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。
 あきもせず同じ曲を毎年くり返し録音することも、そういった作曲家の自画像の探求を通じて、ほかでもない、私自身の顔を残してくれるかも知れない、鏡に写すようにそんな自分の顔が、テープには収まっているかも……とまあそんな屁理屈をいって、結局、死ぬまで私は年末にはバイロイト音楽祭を録音しているだろう、と思う。業のようなものである。
     *
《鏡に写すようにそんな自分の顔が、テープには収まっているかも……とまあそんな屁理屈》とある。
「五味オーディオ教室」のほうが後に書かれている。

「音による自画像」は、屁理屈なのかもしれない。
それでも「音による自画像」は、いまも私にとっては問いである。

Date: 9月 1st, 2018
Cate: 五味康祐

「音による自画像」(その4)

またか……、と思われようが、しつこいくらいにくり返すが、
私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっている。

何度も何度も読み返していた。
学校へも持っていってた。
休み時間に、読んでいた。

いくつもの印象に残るところがある。
そのひとつが、これである。
少々長くなるが、引用しておく。
     *
 毎年、周知のようにバイロイト音楽祭の録音テープが年末にNHKからFMステレオで放送される。これをわが家で収録するのが年来の習慣になっている。毎年、チューナーかテープデッキかアンプが変わっているし、テープスピードも曲によって違う。むろん出演者の顔ぶれも違い、『ニーベルンゲンの指輪』を例にとれば、同じ歌手が違う指揮者のタクトで歌っている場合も多い。つまり指揮者が変われば同一歌手はどんなふうに変わるものか、それを知るのも私の録音するもっともらしい口実となっている。だが心底は、『ニーベルンゲンの指輪』自家版をよりよい音で収録したい一心からであって、これはもう音キチの貪欲さとしか言いようのないものだ。
 私の場合、ユーザーが入手し得る最高のチューナーを使用し、七素子の特製のアンテナを、指向性をおもんぱかってモーター動力で回転させ、その感度のもっともいい位置を捉え、三十八センチ倍速の2トラックにプロ用テレコで収録する。うまく録れたときの音質は、自賛するわけではないが、市販の4トラ・テープでは望めぬ迫力と、ダイナミックなスケール、奥行きをそなえ、バイロイト祝祭劇場にあたかも臨んだ思いがする。一度この味をしめたらやめられるものではなく、またこの愉悦は音キチにしかわかるまい。
 白状するが、私は毎年こうした喜悦に歳末のあわただしい数日をつぶしてきた。出費もかさんだ。家内は文句を言った。テープ代そのものより時間が惜しい、と言うのである。レコードがあるではありませんか、とも言う。たしかに『ワルキューレ』(楽劇『ニーベルンゲンの指輪』の第二部)なら、フルトヴェングラー、ラインスドルフ、ショルティ、カラヤン、ベーム指揮と五組のアルバムがわが家にはある。それよりも同じ『指輪』の中の『神々の黄昏』の場合でいえば、放送時間が(解説抜きで)約五時間半。収録したものは当然、編集しなければならぬし、どの程度うまく録れたか聴き直さなければならない。聴けば前年度のとチューナーや、アンプ、テレコを変えているから音色を聴き比べたくなるのがマニアの心情で、さらにソリストの出来ばえを比較する。そうなればレコードのそれとも比べたくなる。午後一時に放送が開始されて、こちらがアンプのスイッチを切るのは、真夜中の二時、三時ということになる。くたくたである。
 歳末には新春用の原稿の約束を果たさねばならないのだが、何も手につかない。翌日は、正午頃には起きてその日放送される分のエア・チェックの準備にかからねばならず、結局、仕事に手のつかぬ歳暮を私は過ごすことになる。原稿を放ったらかすのが一番、妻の気がかりなのはわかっているだけに、時には自分でも一体なんのためにテープをこうして切ったり継いだりするのかと、省みることはある。どれほどいい音で収録しようと、演奏そのものはフルトヴェングラーの域をとうてい出ないことをよく私は知っている。音だけを楽しむならすでに前年分があるではないか、放送で今それを聴いてしまっているではないか、何を改めて録音するか。そんな声が耳もとで幾度もきこえた。よくわかる、お前の言う通りさと私は自分に言うが、やっぱりテープをつなぎ合わせ、《今年のバイロイトの音》を聴き直して、いろいろなことを考える。
 こうして私家版の、つまりはスピーカーの番をするのは並大抵のことじゃない、と思い、ワグナーは神々の音楽を創ったのではない、そこから強引にそれを奪い取ったのだ、奪われたものはいずれは神話の中へ還って行くのをワグナーは知っていたろう、してみれば、今、私の聴いているのはワグナーという個性から出て神々のもとへ戻ってゆく音ではないか。他人から出て神に帰るものを、どうしてテープに記録できるか、そんなことも考えるのだ。
 そのくせ、次の日『神々の黄昏』を録っていて、ストーリーの支離滅裂なのに腹を立てながらも、やっぱり、これは蛇足ではない、収録に値する音楽である、去年のは第二幕(約二時間)でテープが足りず尻切れとんぼになったが、こんどはうまく録ってやるぞ、などとリールを睨んでいる。二時間ぶっ通しでは、途中でテープを交換しなければならない、交換すればその操作のあいだの音楽は抜けてしまうので、抜かさぬために二台のテレコが必要となり、従前の、ティアックのコンソール型R三一三にテレフンケンM28を加えた。さらには、ルボックスA七〇〇を加えた。したがって、テレフンケンとルボックスとティアックと、まったく同じ条件下で収録した音色をさらに聴き比べるという、余計な、多分にマニアックな時間が後で加わる。
 とにかくこうして、またまたその夜も深夜までこれにかかりきり、さてやり終えてふと気づいたことは、一体、このテープはなんだという疑問だった。少なくとも、普通に愛好家が録音するのはワグナーのそれが優れた音楽だからだろう。レコードを所持しないので録音する人もいるだろう。だが私の場合、すでにそれは録音してある。何年か前はロリン・マゼールの指揮で、マゼールを好きになれなんだから翌年のホルスト・シュタインに私は期待し、この新進の指揮にたいへん満足した。その同じ指揮者で、四年間、同じワグナーが演奏されたのである。心なしか、はじめのころよりうまくはなったが清新さと、精彩はなくなったように思え、主役歌手も前のほうがよかった。それだけに、ではなぜそんなものを録音するかと私は自問したわけだ。そして気がついた。
 私が一本のテープに心をこめて録音したものは、バイロイト音楽祭の演奏だ。ワグナーの芸術だ。しかし同じ『ニーベルンゲンの指輪』を、逐年、録音していればもはや音楽とは言えない。単なる、年度別の《記録》にすぎない。私は記録マニアではないし、バイロイト音楽祭の年度別のライブラリイを作るつもりは毛頭ない。私のほしいのはただ一巻の、市販のレコードやテープでは入手の望めぬ音色と演奏による『指輪』なのである。元来それが目的で録音を思い立った。なら、気に食わぬマゼールを残しておく必要があるか、なぜ消さないのか、レコード音楽を鑑賞するにはいい演奏が一つあれば充分のはずで、残すのはお前の未練か? 私はそう自問した。
 答はすぐ返ってきた。たいへん明確な返答だった。間違いなしに私はオーディオ・マニアだが、テープを残すのは、恐らく来年も同じ『指輪』を録音するのは、バイロイト音楽祭だからではない、音楽祭に託してじつは私自身を録音している、こう言っていいなら、オーディオ愛好家たる私の自画像がテープに記録されている、と。我ながら意外なほど、この答えは即座に胸内に興った。自画像、うまい言葉だが、音による自画像とは私のいったい何なのか。
     *
音による自画像、
「五味オーディオ教室」のなかでも、最も印象に残っているものだ。

五味先生は《答はすぐ返ってきた。たいへん明確な返答だった》と書かれている。
確かにそうだろう。
バイロイト音楽祭の録音テープを残すのは──、という自問に対しての明確な答ではある。

けれど、中学二年の私にとっては、それはいまも続いている問いである。
五味先生にとっても、音による自画像は、すぐ返ってきた明確な返答であったろうが、
次の瞬間からは、音による自画像は問いになっていたのではないのか。