「音による自画像」(その5)
「音による自画像」は、「天の聲」のなかにも出てくる。
「音による自画像」という文章が「天の聲」に収められている。
つまり「音による自画像」を少し手直しされたものが、「五味オーディオ教室」に載っているわけだ。
古くからの五味先生の読者であれば「音による自画像」を先に読まれているだろうし、
「音による自画像」だけを読まれているかもしれない。
私は「五味オーディオ教室」を先に読んで、それから数年後に「音による自画像」という順だった。
「音による自画像」は、こう終っている。
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音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、時には倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりになるだろう。音譜が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。ほかでもない私自身の顔を知りたいからである。
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「五味オーディオ教室」でも、このところはほぼそっくりある。
けれど、少し違うところもある。
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音楽は、言うまでもなくメタフィジカルなジャンルに包括されるべき芸術であって、ときには倫理学書を繙くに似た感銘を与えられねばならない。そういうメタフィジカルなものに作者の肖像を要求するのは、無理にきまっている。でもトランペットの嫌いな作曲家が、どんなところでこの音を吹かせるかを知ることは、地顔を知る手がかりにはなろう。音譜が描き分けるそういう自画像を、私はたずねてみようと思う。
あきもせず同じ曲を毎年くり返し録音することも、そういった作曲家の自画像の探求を通じて、ほかでもない、私自身の顔を残してくれるかも知れない、鏡に写すようにそんな自分の顔が、テープには収まっているかも……とまあそんな屁理屈をいって、結局、死ぬまで私は年末にはバイロイト音楽祭を録音しているだろう、と思う。業のようなものである。
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《鏡に写すようにそんな自分の顔が、テープには収まっているかも……とまあそんな屁理屈》とある。
「五味オーディオ教室」のほうが後に書かれている。
「音による自画像」は、屁理屈なのかもしれない。
それでも「音による自画像」は、いまも私にとっては問いである。