Archive for 11月, 2016

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: 五味康祐

ラフマニノフの〝声〟Vocalise

ラフマニノフの「声」を知ったのも、五味先生の書かれたものによる。
読んでいるうちに聴きたくなった。
けれどすぐにはLPがみつからなかった。
私もラフマニノフは、好まない。
いまもラフマニノフの曲はあまり持っていない。

でも、この「声」だけは聴きたい、と思い続けていた。
CDになったのは、あまり早くはなかった。
廉価盤の二枚組におさめられて、やっとCDになった。

ラフマニノフもあまり聴かないけれど、
オーマンディもあまり聴かない。
だから「声」のためだけに、二枚組のCDを買ったようなものだ。
     *
 ラフマニノフのこの曲は、オーマンディのフィラデルフィアを振った交響曲第三番のB面に、アンコールのように付いている。ごく短い曲である。しらべてみたら管弦楽曲ではなくて、文字通り歌曲らしい。多分オーマンディが管弦楽用にアレンジしたものだろうと思う。だから米コロンビア盤(ML四九六一)でしか聴けないのだが、凡そ甘美という点で、これほど甘美な旋律を他に私は知らない。オーケストラが、こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌いあげられるものだと、初めて聴いたとき私は呆れ、陶然とした。ラフマニノフの交響曲は、第二番を私は好む。第三番はまことに退屈で、つまらぬ曲だ。
 ラフマニノフ家は由緒あるロシアの貴族で、農奴解放運動で、しだいに父親は領地を失ったというが、そうした社会的変革はラフマニノフの音楽——その感性にさして影響は及ぼさなかった。しかしロシア革命は、彼の貴族生活を根底からくつがえし、ソヴィエト政権を嫌った彼は他の多くの白系貴族同様、一九一七年にパリに亡命し、翌年からはアメリカに住んでいる。
 おもしろいのは、彼のいい作品は——第二交響曲、有名な十三の前奏曲、第二ピアノ協奏曲、それにこの〝声〟など、すべてアメリカ永住以前に作られていることで、アメリカに住んでからは第三交響曲に代表されるように、まったく退屈な駄作しか作れなくなったことだ。この辺にセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフの音楽の限界——その長所も欠点もが、あるのだろう。それはともかく〝声〟の甘美さは空前絶後といえるもので、一度でもこの旋律を耳にした人は、忘れないだろうと思う。どうしてこんな甘美な調べが、一般には知られていないのか、不思議である。もしかすればオーマンディの編曲が巧みだったからかも知れないが(原曲の歌を私は聴いたことがない)私の知る限り、〝声〟の甘さに匹敵するのはブラームスのワルツくらいだ。
     *
ほんとうにオーケストラが、
《こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌い》あげる。

今日(正確にはもう昨夜)、
audio sharing例会で、この「声」をかけた。
オーケストラがアメリカ、それもシカゴではなくフィラデルフィアということもあってだろう、
アルテックで鳴らすと朗々と鳴ってくれる。

JBLでは、こんなふうには鳴ってくれない、と思ってしまうほど、
アルテックの昔のスピーカーは、歌ってくれる。

Date: 11月 2nd, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その6)

三人称の音といえば、私が頭に浮べるのはトーキー用スピーカーである。
ウェスターン・エレクトリック、シーメンスといった旧いスピーカーである。
その次に(というか少し範囲をひろげて)アルテック、ヴァイタヴォックスが浮んでくる。

いずれもが劇場用として開発されたスピーカーばかりである。
つまり聴き手はひとりではない、必ず複数、それも多人数を相手にするスピーカーである。

これらははっきりと三人称の音といえる。
アンプに関しては一人称の音に惹かれがちの私なのだが、
スピーカーに関しては、必ずしもそうではなく、むしろ三人称の音に惹かれるがちである。

スピーカーに限らず、
スピーカーと同じトランスデューサーであるカートリッジに関しても、そうだ。
一人称の音と感じられるモノよりも、三人称の音と感じられるモノを選ぶ傾向があることを、
これまでのことをふりかえって気づいている。

私の中では、オルトフォンのSPU、EMTのTSD15といったカートリッジは、
一人称の音のするカートリッジではなく、三人称の音のカートリッジなのである。
どちらも無個性の音がするわけではない。

TSD15はかなり個性的ともいえる。
それでもどちらも三人称の音であり、
個性が強いから一人称、個性がないから三人称と感じているわけではない。

Date: 11月 2nd, 2016
Cate: 五味康祐

五味康祐氏とワグナー(名盤・その3)

 いずれにせよ、こうして弦楽四重奏曲から私は一人称のすぐれた文学作品を読んで来た。耳で読んだ。馬の尻っぽが弦をこする重奏がひびき出すと、私は今でも緊張する。オペラや歌曲は、どうかすれば一杯機嫌で聴くこともあるが弦楽曲はそうは参らない。その代りつまらぬクヮルテットは、聴くに耐えぬが、ちか頃はいい作品を聴くと死を考えてしまう。死ぬことを。私ももう五十を過ぎた、いつポックリ逝くかも知れない。そう想えば居ても立ってもいられぬ気持になり、結局、酔生夢死というのは、こんな私のような居ても立ってもいられぬ男を慰めるため、造られた言葉ではなかったか、そんな風にも懐うこともある。人間は何をして何を遺せるのか? 漠然とそんなことを考えているうちに、音楽家は作品で遺書を書いた場合があるのか? ふとそう思うようになった。
 すぐ想い浮んだのはモーツァルトの『レクイエム』である。でもモーツァルトでは桁が違いすぎ、手に負えない。もう少しぼくらの手近かでと見渡したら直ぐ一人見つかった。ブラームスだった。私はヴィトーとエドゥイン・フィッシャーのヴァイオリン・ソナタ第一番(作品七八)を鳴らしてみた。ブラームスの誠実さはこの曲で充分である。ヴィトーはよく弾いている。だがこれは周知の通り、明るい夏の雨の気分を偲ばせるもので、プライベートなその初演にブラームスがピアノを受持ち、ヨアヒムがヴァイオリンを弾いてクララ・シューマン達に聴かせたといわれるように、幸せな頃であろう。遺書をつづる切なさを期待するのは、いかにそれがブラームスでも無理である。といって、最晩年の作がかならずしも遺書を兼ねているとは限らない。死をおもうのは年齢に関わるまい。
 ブッシュ弦楽四重奏団で——私の記憶では——クラリネット五重奏曲(作品一一五)をいれたレコードがある。このロ短調の五重奏曲は、あらためて私が言うまでもなくクラリネット室内楽曲の傑作であるが、実を言うと昭和二十七年にS氏邸で聴かせてもらうまで、ブラームスにこの名品のあるのを私は知らなかった。どうしてか知らないが、聴いている裡に胸が痛くなりボロボロ涙がこぼれた。恐らく当時の貧乏暮しや、将来の見通しの暗さ、他にもかなしいこともあったからだろう。
 ——以来この曲を、なるべく聴かないようにして来たし、レコードも所持しない。したがってブラームスの遺言を聴き出そうにも、記憶の中で耳を傾ける以外にないが、二十年前泣いて聴いた曲からそんなものがきこえてくる道理がない。
(「音楽に在る死」より)
     *
ブラームスのクラリネット五重奏曲(作品一一五)のレコードを買うことは、
五味先生にとって造作もないこと。
なのに、あえて所持されなかった。
聴かないようにしてこられた。

つまらぬ曲だから、では、もちろんない。

このことはとても大事なことだ。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その5)

ラックスのアンプには、根強いファンが昔からいる。
私は、というと、あまりラックスのアンプに惹かれることはなかった。

何度か書いているように、
スペンドールのBCIIと組み合わせた時のLX38の音は、
いまも耳の底に残っていて、もう一度、この「音」を聴きたい、と思うことがあるくらいだ。

LX38よりも少し前に登場したラボラトリーシリーズの5L15、5C50、5M21は、
いま聴いてみると、どうなんだろう、という興味はある。
古くささを感じてしまうのか、それともいま聴いても、いいアンプだな、と思えるのか。

こんな関心の持ち方をしても、私はラックスのアンプのファンではなかった。
いまのラックスのアンプの音については、
きちんと聴く機会がないので、あくまでもここに書くのは、以前のラックスのアンプの音についてだ。

私には、ラックスのアンプの音は、二人称のように感じることがある。
三人称ではない、といえる。
すべてのラックスのアンプを聴いているわけではないが、
それでもラックスを代表するアンプを聴いていて感じることである。
だからこそ、ラックスのアンプのファンは、根強いのかもしれない。

では、一人称の音かといえば、なにか違う気がする。
なにが違うのか、はっきりといえないところにもどかしさを感じてしまうが、
私の耳(感性)には、一人称の音としては聴こえてこない要素が、
ラックスのアンプにはあるようだ。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その8)

ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur掲載の五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」。
ここでの写真は、いままで見たことのなかったデコラの姿を伝えてくれる。

カラー写真だけではない、モノクロでも、正面からのカットは二枚並んである。
正面からのカットも似まいある、後からのカットも二枚あり、
どちらもグリル、カバーを装着した状態と外した状態のカットである。

その他にも、コントロールアンプ、チューナー、パワーアンプ、電源部、
スピーカーユニット、ネットワークなどのカットもある。

それらの写真の中で、220ページと221ページの見開きのカットを見て、気づいたことがある。
このカットは両サイドのグリルだけでなく、各部の扉を全開にしている。

デコラ右側のスピーカー上部の扉をあけるとコントロールアンプ、
左側の扉をあけるとチューナーがある。
そして中央の両開きの扉をあけると、レコード収納のためのスペースがある。

アクースティック蓄音器と電気式蓄音器の違いはいくつかあるが、
このレコード収納のスペースの有無も、そうである。

アクースティック蓄音器にはSPを収納するスペースは設けられていない。
大型のアクースティック蓄音器であってもそうだ。

電蓄と呼ばれるようになって、蓄音器は音量の調整ができるようになり、
チューナーも付属するようになったりしたが、レコードの収納のスペースも設けられるようになった。

デコラにも、それがある。
扉を閉じた写真をみているだけでは、そのことに気づかなかった。
あって当然のことなのだが、なかなか気づかないことはある。

デコラにある収納スペースを見て、(その1)に書いているS氏のことが結びついた。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: plain sounding high thinking
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一人称の音(その4)

ステレオサウンド 54号の特集の座談会での瀬川先生の発言。
     *
 あるメーカーのエンジニアにその話をしたことがあるのです。「あなたがこのスピーカーの特性はいくらフラットだと言われても、データを見せられても、私にはこう聴こえる」と言ったら、そのエンジニアがびっくりして「実は、このスピーカーをヨーロッパへ持っていくと同じことを言われる」というのです。「それじゃ、私の耳はヨーロッパ人の耳だ」と笑ったのですが、しかし冗談でなくて、その後ヨーロッパ向けにヨーロッパ人が納得のゆく音に仕上げたもの──見た目は全く同じで、ネットワークだけを変えたものだそうです──を聴かせてくれたのです。
 満点とはいえないまでも、日本向けの製品に感じられた癖がわりあいないのです。ではなぜ、日本向けにはそういう音にするのかというと、実は店頭などで、艶歌、ポップス、ニューミュージックなどの歌中心のレコードをかけた時に、ユーザーがテレビやラジカセなど町にはんらんしているあらゆるスピーカーを通して聴いてイメージアップしている歌手の声に近づけるためには、中域をはらさなければダメなのだというわけです。つまり商策だということになりますね。
     *
このメーカーのスピーカーの音は、一人称の音、
それとも二人称の音、三人称の音なのだろうか。

あるメーカーとは、もちろん日本のメーカーである。
この日本のメーカーがヨーロッパ向けのモノは、ヨーロッパ人に音を仕上げさせる。
国内流通分は日本人のエンジニアが音を仕上げる。

同じ外観のスピーカー、ユニットも同じであっても、ネットワークだけが違っている。
おそらくサイン波による周波数特性を測定してみたところで、
はっきりとした違いは認められないかもしれないが、
ヨーロッパ人がヨーロッパ向けに仕上げたモノは、
日本向けのモノに感じられた癖が少ない、ということ。

しかもその癖は、商策から生じるものである。
ということは、このメーカーが日本向けとして販売しているスピーカーは、
一人称の音ではない、二人称の音でもない、つまりは三人称の音なのだろうか。

でもここでも疑問がわく。
ほんとうに三人称なのたろうか。実のところ、三人称でもないのではないか。

54号よりも少し前、
若者向けの音、ということもオーディオ雑誌でときおり目にしていた。
この若者向けの音に仕上げられた場合、三人称の音なのだろうか。

日本向けが想定している日本人、
若者向けが想定している若者は、ほんとうにいるのだろうか。