Archive for 12月, 2015

Date: 12月 25th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その4)

さまざまな情報を満載した雑誌の山をみていると、情報の洪水などという言葉が、途端に現実感をもってくる。洪水に押し流されたあげく、興味あるニュースをみのがしてしまう。えっ、あのコンサートは、もう終わってしまったのかとか、へぇ、そんなレコードが出ていたのか、気がつかなかったなとか、情報の消化不良をおこして、いらいらすることもしばしばである。どう贔屓めにみても、これは健康なこととはいいかねる。焦れば、おのずと、夜道の酔っぱらいよろしく足がもつれもする。
情報の洪水が日常茶飯事になったときに威力を発揮するのは、あのレコード、ちょっと気になっているんだけれど……といったような、友人の耳うちである。活字、ないしは電波によった、したがってオーソリティーのものではありえない、友人の、いわばナマの情報は、その背後に商業主義がてぐすをひいているはずもないから、説得力がある。
     *
上に引用したのは、黒田先生がステレオサウンド 78号の「ぼくのディスク日記」で書かれたものだ。
78号は1986年3月に出ている。
ほぼ30年前に、これを書かれている。

ここで書かれている《友人の、いわばナマの情報》こそ、購入後である。

Date: 12月 25th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その20)

桂米朝師匠の米朝アンドロイドのニュースは何かで読んだ記憶がある。
そのときはさほど関心をもてなかった。
石黒浩氏の名前もそのときに目にしているはずだが、記憶していなかった。

11月、12月たてつづけて石黒浩氏の講演をきいて、自らの不明を恥じた。

いまこの項でアンドロイドのことを続けてい書いている。
読まれた人の中には、意味のないことを書いていると思われている人もいるはずだ。
私だって、「再生音とは……」というテーマで書いていて、
石黒浩氏の講演をきいたからこそ、そうなっただけであって、
以前のままであったならば、意味のないことを書いている、と思ってしまうだろう。

これまで私は再生音とは、
スピーカー(もしくはヘッドフォン、イヤフォン)から発せられた音について語ることだと考えていた。
けれど、それだけで考えていては、再生音の正体をはっきりと捉えることはできないように思うようになった。

考えてみれば、最初の再生音はエジソンの蓄音器だとすれば、
その音はいわゆるスピーカーから発せられた音とはいえない。

にも関わらず、再生音をスピーカーから発せられた音という制約を、
いつのまにか自分でつくってしまっていたことに気づいた。

別項で「2015年をふりかえって」というタイトルで書いているところだが、
私にとって2015年でもっとも大きなできごとといえば、
アンドロイドによる再生音について考えるきっかけを得たことだ。

Date: 12月 25th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その28)

つきあいの長い音に必要なのものの中には、器に対する心遣い、気くばりがあるはずだ。

Date: 12月 25th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その27)

つきあいの長い音と器の関係を忘れてはならないと思っている。

Date: 12月 25th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その3)

インターネットとオーディオ雑誌の違いについて考えていて、購入後があることに気づいて、
購入後という視点で捉えた記事・企画が、これまでのオーディオ雑誌にあっただろうか、と振り返ってみた。

はっきりとそういえる記事・企画はないように思う。
あえてさがせば、訪問記事を、購入後として捉えることはできるかな、と思ったわけで、
訪問記事を購入後という視点だけで、これからつくっていけばいいといっているのではない。

訪問記事にはいくつもの側面がある。
人と音が、大きなテーマといえる。
ステレオサウンドがやってきた訪問記事は、まさにそうであった。

これはこれで今後もより磨いていってほしいのだが、
訪問記事にも、購入後という視点で新たな記事とすることもできると感じている。

それから購入後だから、読者のレヴューを載せるのか、と思われた方もいよう。
そんな安直な購入後をやったところで、オーディオ雑誌がインターネットを超えられるとは思わない。

具体的なことはまだ書かない。
購入後という視点で、どういう記事・企画をつくっていくのは、
各オーディオ雑誌の編集部が考えていくことだからだ。

ひとつつけ加えておきたいのは、視点についてである。
これは川崎先生が以前から書かれていたこと、講演で話されていることなのだが、
視点にはeye pointとview pointがある。

これについては川崎先生の書かれたものを読んでいただきたい。
それぞれの編集部のeye pointがあり、view pointがある。

購入後という視点で捉えた、そして捉え直した記事・企画を読みたいと思っている。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: 1年の終りに……

2015年をふりかえって(その4)

ヘッドフォン、イヤフォン関係では、シュアーの初のコンデンサー型であるKSE1500だ。
そしてベイヤーのT1 2nd Generation

私だけの印象なのかもしれないが、
同じドイツのヘッドフォンメーカーであっても、
ゼンハイザーよりもベイヤーの存在は、日本では地味な位置づけにあるように感じている。

私はベイヤーのヘッドフォンには好感をもっている。
だから少々残念な気がしていたし、
ベイヤーのフラッグシップモデルのT1の後継機がそろそろ出てもいいころなのに思っていたから、
T1 2nd Generationは、やっと出た! ということで挙げておきたい。

ただ、どちらのモデルもまだ聴いていない。
どちらもヘッドフォン祭で聴こうと思えば聴けたのだが、
なんとなくあそこの会場で試聴するという気にはなかなかなれず、聴かずじまいである。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その19)

オーディオは2チャンネルのシステムが基本になっている。
録音も再生も、基本的には2チャンネルであり、
ステレオといえば2チャンネルによる録音再生システムということになる。

2チャンネルシステムは、聴き手の錯覚を利用している(錯覚に頼っている)ものである。

この錯覚があるからこそ、家庭という限られたスペースで、
ときにはナマをこえているのではないだろうか、と思える音で音楽を聴けることもある。

人間は錯覚をする動物なのだろう。
グレン・グールドそっくりのアンドロイドのピアニストが、
ステージにあらわれピアノを弾く──、
そういうコンサート(コンサートと呼べるのかどうかは便宜上省く)を聴いている(観ている)人たちには、
どういう錯覚が起っているのだろうか。

錯覚は起っていない、とは私は思わない。
錯覚の科学については専門家ではないから、詳しいことは何も書けないが、
なんらかの錯覚は、この場合でも起るような気がしている。

KK塾三回目の講師、石黒浩氏によると、
桂米朝師匠の米朝アンドロイドによる寄席のチケットは、約一時間ほどで毎回売切れになるとのこと。
落語の人気がそれほどあると思えない。

それはやはり米朝アンドロイド見たさに来る人が多いからなのだろうが、
それでも米朝アンドロイドによる落語が始まると、皆聞き入っている、とのこと。

来る人は皆、米朝アンドロイドによる落語だということはわかっている。
それでもそういう状態になるということは、ほぼすべての人が錯覚を起している、ということなのだろう。

この錯覚はいったいどういうものなのか。
2チャンネルのシステムで起る錯覚と、どこまでが同じで、どこからが違うのか。
素人頭で考えている。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その2)

オーディオマニアの訪問記事は、
オーディオ雑誌には昔から載っている。

ステレオサウンドにもある。
以前は特集で、訪問記事がつくられていた。
例えば15号。1970年6月に出ている。

15号の特集は「人とオーディオ──再生装置をめぐって」だった。
26号(1973年3月発売)もそうだった。
「音の美食家をめぐる」という特集だった。

それから1980年代にはいり、菅野先生によるベストオーディオファイルが始まった。
このベストオーディオファイル訪問が、のちのレコード演奏家訪問となっていく。

五味先生のオーディオ巡礼も訪問記事といえば、そういえる。

ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌にも訪問記事はたびたび登場する。
いわば訪問記事は定番といえるものだった。

その訪問記事を、昔は訪問記事として捉えていた。
購入後という視点で捉えたことはなかった。

おそらく訪問記事をつくっている編集者も、
訪問記事を購入後という新しいカテゴリーとして捉えた上でつくっている人はいないようにも思う。

ここ数年毎年いわれていることに、出版不況がある。
今年は本の取次ぎの最大手である日本出版販売が、本業で初の赤字になったというニュースがあった。
雑誌が売れない、ともきく。
書店の数も減っているようだ。

私が住んでいる国立も今年、駅前にあった書店が閉店した。
隣駅の立川には、多摩地区では大手の書店が新しい店舗をオープンしている。
だから書店の数の増減ははっきりとは私にはわからないけれど、少なくとも個人書店は減っている。

その理由として、いくつかのことがいわれている。
それらのことを検証するつもりはない。

ただインターネットの普及が大きく関係していることは確かである。
そのインターネットには、雑誌にはない(無理な)点がいくつもある。

そのひとつが、購入後である。

けれど、この購入後は、雑誌でもやっていけることである。
そして、インターネットには、基本的に編集者が購入後には存在しない。

雑誌には編集者が、そこにいる。
ならばインターネットの購入後とは違う、雑誌ならではの購入後の展開が可能なはずである。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(購入後という視点・その1)

オーディオ機器を買う際に、雑誌とインターネットの違いについて考えていた。
スピーカーが欲しい、としよう。

予算は決まっている。
その範囲内でいいモノを手にしたい。
そのために情報収集をする。
オーディオ雑誌を買ったり、インターネットでの個々のサイトを見たりする。

候補をいくつかに絞れば、実際にオーディオ店に行き試聴する。
そして決定する。

必ずしも、こうではないだろうが、
情報収集、比較検討、最終決定という過程はある。

ここで雑誌の場合、その役目を終える、といえるところがある。
ところがインターネットには、購入後がある。

たとえばamazon。
amazonが扱っている商品には、レヴューがついている。
購入した人のレヴューが読めるようになっているし、レヴューを投稿することもできる。

これが購入後であり、
インターネットの普及により、購入後という新しいカテゴリーが生れてきた。

オーディオ雑誌には、購入後はあまりなかったといえる。
あるのは、読者訪問である。
これは一種の購入後という見方はできよう。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その26)

つきあいの長い音の条件のひとつは、静寂に調和できる音かもしれない。

Date: 12月 24th, 2015
Cate: きく

音を聴くということ(その3)

ステレオサウンドにいたころ、菅野先生から聞いた話がある。
菅野先生ご自身の話である。

ある時期、音というものがわからなくなった。
それでラジカセを買いに行かれたそうだ。

オーディオ評論家として顔も名も知られているから、デパートに行って買ってきたよ、
と笑いながら話されていた。

そのときも、さすがだな、と思っていたけれど、
いまのほうが、もっとそう思っている。

菅野先生も、いうまでもなくご自身の耳を信じられている。
それでも、信じ込まれているのではないように思っている。

信じることと信じ込むことには、微妙な違いがあり、
こと音を聴くうえでは、信じ込んでしまっては、音の罠のようなところに陥ってしまうこともある。

自分の耳は絶対だ、と信じ込める人は、
音がわからなくなった、という経験はされていないであろう。

私は自分の耳を信じている。
最終的には自分の耳で聴くしかない。
それでも信じ込まないようにはしている。

つねに自問自答が、耳には必要であり、
それを怠ったとき、知らぬ間に音の罠にどっぷりとはまってしまう。

そんな気がしている。
だからこそ、菅野先生のラジカセを話を思い出して書いた。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その19)

まだまだ書きたいことはある。
書くほどに書いておきたいことが出てくる。

でも、いったんこのへんにしておく。
(その16)に書いているように、山口孝氏がどう思われているのか、感じられているのかを知った上で、
書きたいからだ。

なので、町田秀夫氏には再度お願いしたい。
山口孝氏がどう思われているのかを確認していただきたい。

でも、これだけは書いておく。
町田秀夫氏は、こう書かれている。
     *
宮﨑氏が編集部に連絡した時点で、すべてが終わってしまったのだ。ステレオサウンド誌からは山口氏の記事が消え、また別の出版社は山口氏の新刊本の準備を終えていたにも関わらず、この騒動を契機に出版を取り止めている。
     *
私が原田勲氏に連絡したのは、すでに書いたように2012年8月である。
私の見落しでなければ、山口孝氏は179号(2011年6月発売)に書かれた後は、
183号(2012年6月発売)まで、なにひとつ記事は書かれていなかった。

私がオーディストの件で連絡したから、山口孝氏の記事が消えてしまったわけではない可能性もある。
それとも184号から連載がはじまる予定があったのだろうか。
それが、私が連絡したために消えてしまったのだろうか。

そのへんのはっきりしたことは、私にはわからない。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その18)

ステレオサウンドは、誰のためのものか。
そう問われれば、読者のためのもの、とも答えるし、
クライアント(オーディオメーカー、輸入商社)のためのもの、とも、
筆者のためのもの、とも答える。

けれど、ステレオサウンドは誰のもの。
そう問われれば、原田勲氏の本だと即座に答える。

私は、このオーディストの件も含めて、
ステレオサウンドに対して批判的なことを書いている。
私が書いているものを読んで、
遠慮も配慮もないやつだな、と思われる人がいても不思議ではない。

それでもあえていうが、侵してはならない領域があるのはわかっている。
「オーディスト」はその領域に入りこんでくる。

私はステレオサウンド(原田勲氏の本)には、感謝している。
ステレオサウンドが、原田勲氏以外の人によって創刊されていたら、
まったく別のオーディオ雑誌になっていたし、私のオーディオ人生も違ったものになっていたかもしれない。

原田勲氏の五味先生に対するおもいがあったからこそ、ステレオサウンドはステレオサウンドたりえていた。

今日町田秀夫氏は、こう書かれている。
     *
五味氏は補聴器を用いていたが、自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろうし、むしろ卓越した聴取能力を誇っていた。音を聴き取ることは、耳の能力だけでは語れないことは、以前から申し上げているとおりだ。
     *
これを読んで、がっかりした。
町田秀夫氏は五味先生の書かれたものを読まれていないのだ、とはっきりとわかったからだ。

こんなふうに書くと、読んでいると反論が来るだろう。
でも、ほんとうに読まれているのだろうか。
字面を追いかけただけの読むではなく、
五味先生の「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」をほんとうの意味で読まれたのか。

読んでいる人ならば、《自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろう》とは間違っても書けない。
その後に続くことは、私も同感であるが、この部分に関しては、
町田秀夫氏にがっかりした、ひどくがっかりした。
なぜ、読まずにこんなことを書かれるのか、と。
読んでいなければ書かなければいいだけなのに……。

何度も出てくる。
オーディオマニアとして、音楽愛好家として、
そして女性を愛する男として、聴覚に障碍のあることを悩まれていた、苦しまれていたことを、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」を読んだ人ならば知っている。
五味先生が独白されているのを、知っている。

私は五味先生には会えなかった。
文章のうえだけで知っているだけだ。

原田勲氏は違う。
五味先生のそういう姿を、傍らで見ておられたはずだ。

だから、私はオーディストの件で、原田勲氏にメールしたのだ。
五味先生の文章に、何度もなみだをこぼした者として。
そして、ステレオサウンドの存在に感謝している者として。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その17)

オーディストに関する今回のことは、議論にはならないと私は思っているし、
町田秀夫氏は山口孝氏、私は五味先生のところから発言している。

私はニュートラルな立場から書いているわけではない。
そして私は町田秀夫氏が書かれていることも、
町田秀夫氏がニュートラルな立場から書かれているものとは思っていない。

私はこれでいいと思っている(町田秀夫氏がどう思われているのかわからないが)。

今日、町田秀夫氏は「幻聴日記」で、
私がオーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡した、と書かれている。
私はステレオサウンド編集部には、連絡していない。

町田秀夫氏は、こんな簡単な事実確認をなぜされないのだろうか。
ステレオサウンド編集部に問い合せられるか、私にメールされればきちんと答える。
なにひとつ確認されずに、そう書かれている。

オーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡しても、私は無意味だと考えた。
オーディストが載ったのは、ステレオサウンド 179号。
2011年3月11日のあと、最初に出たステレオサウンドであり、
特集は、それまでの特集記事とは当然違う内容のものだった。

そこにオーディストはあらわれた。
なぜ、よりもよって、この号に「オーディスト」を、何の説明もなしに載せてしまったのか、
とオーディストの意味を知って、そう思った。

そういう編集部に対して、オーディストの件でメールしても、無視されるだけだと思った。
それに私はステレオサウンド編集部の方たちのメールアドレスをまったく知らない。
だから出しようもなかった。

私が、オーディストの件でメールを出したのは、ステレオサウンドの原田勲会長である。

この違いは、町田秀夫氏にとっては些細な違いかもしれないが、
私にとっては大きな違いであり、だから原田勲氏宛にメールを出した。

メールの内容は、オーディストの意味について書いただけの、ごく短いものである。
出したのは179号の約一年後の2012年8月である。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その16)

結局、また書くことになってしまった。
(その12)に書いているようにしばらく、この件については黙っているつもりでいた。
けれど、町田秀夫氏が、ご自身の「幻聴日記」にまた書かれているので、また書くことにした。

おそらくこれから書くことを読まれて、町田秀夫氏はまだ明日、何か書かれるかもしれない。
そうなると私もまた明日書くことになるだろう。

そうなったらとことん書いていこうと思っているが、
これだけは町田秀夫氏にお願いして確認してほしいことがある。

それは山口孝氏は、こういうことになるのを望まれているのか、
それとももう書かないでほしい、と思われているのか、である。

私は山口孝氏とは面識がない。
だから町田秀夫氏にお願いするしかない。

それから、これも先に書いておくが、山口孝氏が私に直接、
この項で書いていることは私(山口孝氏)への人格攻撃だといわれれば、
直接お会いして謝罪しよう。

そして、その時に、山口孝氏から直にオーディストについての考えをききたい。
これはくり返すが、町田秀夫氏にお願いするしかない。

これもくり返しになるが、私自身は、山口孝氏を糾弾しているつもりはまったくない。
けれど、知らず知らずのうちに人を傷つけていることはある。

これは理屈ではなく、今回の件では山口孝氏がそう感じられていたら、謝罪するが、
それでも町田秀夫氏が書かれていることに納得したわけではない。
これだけははっきりしておく。