オーディオとは……(その3)
この時代にフルレンジユニットで音を聴く、
古き良き時代の高能率のナロウレンジのスピーカーシステムで音を聴く、
これらの行為も、私には「確認」でもある。
この時代にフルレンジユニットで音を聴く、
古き良き時代の高能率のナロウレンジのスピーカーシステムで音を聴く、
これらの行為も、私には「確認」でもある。
いいモノの絶対数が増えて、
毎年登場する、多くの新製品の数に対して、
いいモノが占める割合が以前よりもあきらかに高くなっていたとしても、
オーディオに関しては、進歩・進化ということばを使う際に、ためらいを感じてしまう。
スピーカーシステムにしても、昔と今とでは特性ひとつとってみても、ずいぶんと違う。
周波数特性をみても、はっきりと向上しているのがわかる。
これは、もう誰の目にもあきらかなことで、このことを否定する人はいない、と思う。
周波数特性は大型スピーカーが主流だったモノーラル時代からすれば、
低域・高域ともに伸びているし、
昔のスピーカーシステムはナロウレンジだったわけだが、
そのナロウレンジの帯域だけを比較してみても、現代の優れたスピーカーシステムは、
昔のスピーカーの周波数特性のグラフが手描き(それも拙い手描き)だとすれば、
現在の優秀なスピーカーの特性は、少々大袈裟にいえば定規を使ったかのように平坦に仕上っている。
このまま特性が向上していけば、スピーカーシステムの周波数特性は、
いまのアンプの周波数特性並になるのかもしれない──、
そんな予感さえ思うほどに精確な特性へと確実になっている。
ならば、もう古き良き時代のスピーカーシステムなんて用済みであり、
そんな時代のスピーカーシステムを欲しがる者は、懐古趣味の沼にどっぷりはまっているだけのこと。
いまや、スピーカーシステムも、すべてにおいて古き良き時代のスピーカーシステムを上回っている。
私だって、心の底からそういいたい。
だが、現実にはなかなかそうはいえない。
そういえる日が、あと10年くらいで訪れるのだろうか。
最初はラジオだった、その次にラジカセで音楽を聴いてきた。
ラジオもラジカセも、私が子供のころにはモノーラルが当り前だった。
ステレオ仕様のラジカセはあったのか。
あったのかもしれないが、手が出せる価格ではなかっただろう。
とにかく小遣いを貯めて買える価格のラジオ、ラジカセは、どれもモノーラルで、
スピーカーはフルレンジユニットだった。
トゥイーターなんてものは、ついてなかった、そういう時代に音楽を聴き始めている。
そういえばテレビもそうだ。
音声多重放送が始る前からだから、モノーラル。
こちらもスピーカーはフルレンジである。
そんなテレビで歌番組を見て(聴いて)育ってきている。
そのためなのかどうかはなんともいえないが、
とにかくステレオ再生において、音像定位に不安定さを感じてしまうのが、どうしてもいやである。
オーディオには、人それぞれ優先順位といえるものがある。
すべてを完全に満足させられる音が得られるのであれば、
こんな優先樹医的なものはいらなくなるけれど、
現実には、この部分には目をつぶれるけど、こちらの部分はそうはいかない──、
それは人によって違っても、みな持っているはず。
私ももっている。
そのひとつが音像定位の良さの安定感である。
もちろん、これだけではないけれど、
いくつかの項目とともに、このことは絶対に譲れないところである。
いま私はJBLのD130をC40エンクロージュアに入れて聴いている。
内蔵のネットワークN1200とドライバー175DLHを使えば2ウェイとしてもすぐに鳴らせるのだが、
D130をソロで鳴らす魅力に、いまのところぞっこんである。
とはいえ、15インチ(38cm)口径の、このD130をフルレンジユニットの代表として、
誰かにすすめられるかとなると、一般的なフルレンジユニットということでは、
別のユニットをすすめる。
ここでいう別のユニットとは、おもにD130よりも口径の小さなフルレンジユニットという意味合いが強い。
D130もフルレンジユニットとして認識されているけれど、
この項で私が触れたいフルレンジユニットということになると、
その下の12インチ(30cm)でも、まだ大きいと感じる。
ぎりぎり10インチ(25cm)より小さな口径から、一般的な、という意味でのフルレンジユニットになってくる。
つまり、もっと小口径のものもあるのは知っているが、
ここでは4インチ(10cm)、6.5インチ(16cm)、8インチ(20cm)口径のフルレンジユニット、
それも最初に書いたように同軸型構造ではなく、シングルコーンであってもダブルコーンであっても、
ボイスコイルがひとつ(シングルボイスコイル)のモノのことである。
シングルボイスコイルのフルレンジユニットの魅力は、
人によって異ってくるところもあれば共通するところもある。
私がフルレンジユニットの音を聴いて、改めて感じるのは音像定位の良さ、
というよりも、その安定感の良さである。
しかも、この安定感の良さは、口径が小さくなるほどに増してくるところを感じる。
口径が小さくなるにつれて、音のスケールは小さくなっていく傾向にあっても、
こと音像定位の安定感の良さとなると、小口径フルレンジユニットの魅力は増していく。
別項「素朴な音、素朴な組合せ」で書いていることと重なることにもなるが、
フルレンジユニット(シングルボイスコイルのユニット)のことについて、いくつか書きたいことがある。
2013年のいま、フルレンジユニットの存在・価値を認めるか、認めないか、
これは、その人のオーディオに対する考え、概念、そして姿勢を現すことにもなる──、私はそう考えている。
ここでいうフルレンジユニットは、
一般的なコーン型のフルレンジユニットのことである。
ユニットの口径は8cm程度から38cmまで、いくつもサイズがある。
そういうユニットについてのことだ。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニット、マンガーのBWTユニット、コンデンサー型スピーカーなどは、
あえてここではフルレンジユニットには含めていない。
コーン型の、昔からある、
それこそ世界ではじめてつくられたライスとケロッグによるユニットから、ということになると、
百年弱の歴史をもつ、もっとも見慣れたユニットのことである。
小口径のものだと金属製の振動板も使われているが、
昔から現在にいたるまで、コーン型ユニットの振動板は、まず紙である。
この紙をコーン(円錐)状にし剛性を確保した振動板をもつ、この手のユニットは、
現代のスピーカーシステムの中におけば、周波数特性、歪率、リニアリティ、指向特性など、
測定できるすべての項目において、限界がそれほど高いところにあるわけではない。
五、六年前のことだ。
あえて詳細はぼかして書くのは、このことで個人攻撃・否定をしたいわけではないからだ。
ある会話の中で、ある録音エンジニアの名前が出た。
仮にA氏としておく。
「A氏の録音を聴いたことがあるか」ときかれた。
オーディオに関心のある人、録音に関心のある人ならば、
いちどは聞いたことのある名前だった。
A氏の録音の話になった。
そこでの結論は、A氏の録音は「毒にも薬にもならない」ということだった。
そのときからも、そしていまも、A氏の録音は優秀録音という世評を得ている。
音にこだわった録音ということでもある。
たしかに、聴けば、よく録れている、と誰もが感じる。
私もそう感じるし、その時A氏の録音についてきいてきた人(私よりも年上)も、同感だった。
よく録れているから、いわゆるキズのある録音ではないし、ケチのつけられる録音ということでもない。
でも、どこまでも、そこまで止りなのである。
それ以上のもの、それこそsomethingが感じられない。
そんな意味も含めての「毒にも薬にもならない」録音だ、という結論になったのだった。
五味先生も「バルトーク」の中で書かれている。
《およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。》
そうだと思う。多くの人がそう思っていることだろう。
なのに聴き手に何かを自白させる──精神的な拷問──ために音楽をかける、
それも自白を要求する者と自白を強要される者とが、ここでは同じである。
こんな理不尽な音楽の聴き方は、本来の音楽の聴き方とはいえない──、
そう思う人のほうが多いだろうけれど、ほんとうにそうだろうか。
自分自身に精神的拷問をかける──、
ここにオーディオを介して音楽を聴く行為の、もうひとつの姿が隠れている。
そのことに気づかず、音楽を聴いて浄化された、などと軽々しく口にはできない。
忘れてしまいたい、目を背けたい、そういったことを己の裡からえぐり出してくる。
それには痛み・苦しみ・気持悪さなどがともなう。
つまり、バルトークの、ジュリアード弦楽四重素団による演奏盤は、
五味先生によって、「毒」でもあったのかもしれない。
こんな音楽との接し方・聴き方は、やりたくなければやらずにすむのがオーディオである。
毒など、強要されてもイヤだ、まして自らすすんで……など、どこか頭のおかしい人のやる行為だ、
世の中の趨勢としては、はっきりとそうだと感じている。
そして増えてきているのが「毒にも薬にもならない」──、
そんなものである。
このブログ、audio identity (designing) をはじめたのは、2008年9月3日。
まる5年が経過して、今日から6年目がはじまる。
始めたときは、1年に1000本は記事を書いていこう、と思っていた。
1年は365日あるわけだから、1000を365で割れば、1日あたり3本ほど書けばいい計算になる。
でもそうはうまくいかないものので、すらすらと何本も書ける日もあれば、ぎりぎり1本だけの日もある。
これで、やっと3684本である。
本来ならば5000本に達していなければならなかったけど、1000本以上足りない。
今年はなんとか1年で1000本書けそうな感じである。
オーディオ機器は、基本工業製品である。
工業製品の質は、技術の向上にともない本来良くなっていくものである。
ステレオサウンドは1966年に創刊されている。
あと三年で創刊50年となる。
そんなステレオサウンドが創刊された当時は、
工業製品であるオーディオ機器は、まずいい製品を選ぶことから始まる、といわれていた。
ステレオサウンドが測定をやるようになったのも、
実はカタログ掲載のスペックがほんとうなのかどうかを確認する意味合いもあったし、
通り一遍の測定ではなく、
回を重ねるごとに独自の測定方法を考え出しもしていた。
そういう時代を経て、工業製品であるオーディオ機器はよくなっていった、といえるかもしれない。
こんな曖昧な表現をしたくなるのは、
ひどい製品、悪い製品がほとんどなくなったことは確固たる事実であるけれど、
ほんとうに優れたオーディオ機器、いいモノが少なくなっているように感じるからである。
ほんとうに優れたオーディオ機器、いいモノの絶対数は、
実のところ昔も今も、そう違ってきているわけではないのかもしれない。
この数に関しては、私のイメージの中での数でしかない。
でも、少なくなってきている、と感じてしまうのは、
毎年、新製品として登場するオーディオ機器の数が、昔と今ではかなり違ってきている。
たとえいいモノの絶対数が同じだとしても、
全体に占める割合は母数が大きいほど少なく感じしまう。
映画やドラマでの拷問のシーンは、
たいていがなんらかの情報を得るため、だとか、自白を強要するときに、肉体的苦痛を与えるものとして描かれる。
肉体的苦痛を与えるだけの行為は、拷問とはいわないようである。
拷問がそういうものだとすれば、
音楽をきいての、精神的な拷問とは、聴き手になんらかの自白を強要するものということになる。
何を聴き手に自白させるのか。
旧い記憶を辿っていくと、
冷水器の使い方は、幼いころ、誰か大人に、ここにコップを当てて押すんだよ、と教わっていた、と記憶している。
コップをレバーに押し当てれば、コップに冷たい水が注がれる。
必要な量がコップに注がれたらレバーからコップをはなせば、水は止る。
片手で行える。
水道の蛇口をひねってコップに(冷水ではない)水を注ぐとき、
水を無駄にしたくなければ片手でコップをもち、反対の手で蛇口をひねる。
冷たい水を飲むためのモノとして、冷水器は優れている、といえなくもない。
コップが紙製や透明の薄いプラスチック製の使い捨てが登場してから、
冷水器のレバーはボタンに変っていったものがある。
レバーに紙コップを押し当ててもコップの方が変形してしまい冷水を注げないからだ。
ボタンに変っていったことで、冷水器は冷水だけを提供するモノではなくなっていった。
冷水の他にお湯、それにお茶も一台の器械で提供可能になった。
つまり機能が増えていった。
機能が増えていったことで、昔のレバー式の冷水器のようには扱えなくなった。
すくなくとも何を飲みたいのか、
その飲みたいものをコップに注ぐには、どのボタンを押したらいいのかを視覚的に確認してから、
という動作が加わる。
今月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。
テーマは、フルレンジ型のスピーカーユニットについて、話そうと考えています。
ここでのフルレンジ型ユニットは、タンノイ、アルテックといった同軸型ユニットではなく、
シングルコーン、ダブルコーンを含めて、いわゆるシングルボイスコイルのスピーカーユニットのことです。
先日、ボーズ博士が亡くなられたことも、
今回のテーマにフルレンジ型ユニットを選んだことと関係しています。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
自ら進んで拷問を受けようという人はいない。
肉体的な拷問であれ、精神的な拷問であれ、誰も一度体験してみたい、という人はいない。
前から拷問が迫ってきたら、なんとか回避したい、とするのが人間だろう。
なのに、五味先生は「バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵」されていた。
その理由について書かれているし、この項ですでに引用している。
ジュリアードの演奏盤を秘蔵されているけれど、
この演奏盤は五味先生にとって愛聴盤とはいえないものだった、と思う。
愛聴盤であるはずがない。
けれど、秘蔵されている。
キレイなもの、キレイどこのみで世の中が成り立っていて、世の中をわたっていけるのであれば、
ジュリアードの演奏盤を秘蔵しておく必要はない。
けれど世の中にはバルトークの弦楽四重奏曲がすでに存在しており、
ジュリアード弦楽四重奏団による1963年の演奏盤も存在しているということが物語っている、
世の中は、決してそういうものではない、ということを。
だから五味先生はジュリアードの演奏盤を秘蔵されていた。
「オーディオA級ライセンス」に「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」ではなく、
「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と長岡鉄男氏が書かれていたのであれば、
ここにこういうことを書いたりはしていない。
最重要と重要とでは、ずいぶん重みが違ってくる。
文章は時として勢いで書いてしまうことがある。
書いてしまったことを読みなおさずにそのまま出してしまえば、
それが活字になるし、インターネットではすぐさま公開となる。
未熟な書き手であれば、つい勢いで「最重要」と書いてしまうことはある、だろう。
だが長岡鉄男氏は書き手としてはベテランである。
そんな長岡鉄男氏が、意図せずに「最重要」と書かれるとは考えにくい。
最重要と重要の重みの違いもわかったうえで、
「オーディオA級ライセンス」では最重要のほうを使われたとみるべきだろう。
そうだとすると、どこで、いつ、なぜ、
長岡鉄男氏は「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と書かれるようになったのか。
ここで混同してはならないのは、
長岡鉄男氏は「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれてはいるが、
「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と考えられていたのかについては、はっきりとしないことだ。
ほんとうは「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と考えていて、
トータルバランスの重要性を考えながらも、
「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれたのではないのか──。
1993年のことだと記憶している。
知人とふたりで、彼の家の近くにある中華屋さんに食事に行った。
老夫婦がふたりでやっている、ちいさな店で、特に有名な店でもなく、
地元の人のための、その店は路地を入ったところにあった。
夕食の時間帯ということもあって、満員ではなかったものの混んでいた。
老夫婦ふたりでの店だから、そういう時には、水がすぐには出てこない。
なので冷水器のところに行き、コップを取り冷水を注いだ。
私たちのすぐ後に入ってきた人も、
そんな私たちを見て、自分も、と思われたのだろう、
冷水器のところに行きコップを手にされた。
ここの冷水器は昔からあるタイプで、
コップをレバーに押し当てれば冷水が出てくる。
いわば冷水器としては、もっとも多いタイプだと思う。
ほとんどの人は使い方をあらためて考えることなく,コップをレバーに押し当てる。
けれど私たちのすぐ後に入ってきた人は、
おそらく70過ぎくらいの女性の方だった。
コップをとってみたものの、それから先、どうしたらいいのか迷われていた。
立ち上って冷水器のところに行こうとしたら、店の人が気づいた。
70も過ぎれば視力もかなり落ちてくるだろう。
そういう人にとって、冷水器のレバーは目につきやすいのだろうか、とまず思った。
そしてレバーにコップを当てる動作は、はじめて冷水器を使う人にとって、
当り前の行為となり得るのだろうか、とも思った。